泥と星一点の光もない、暗闇の中にオレは居た。
ここはどこなのかと思い周囲を探ろうとしたが、ずぶずぶと泥のような感覚に足を取られて、歩くこともままならない。あたりは血と臓物の臭気に満ちており、抜け出そうともがけばもがくほど体が沈んでゆく。
正体の知れぬ、無明の中。
ふと、足に触れるものがあった。
硬くて軽い感触が体を這いのぼり、腰や腕にまとわりついていく。
がしゃがしゃと擦れあうそれは、骨の音だった。
「オォ……オオォォ……」
「ハドラー……さまぁ……」
そんな声が囁くなか、ハァ、と耳元に息が吐きかけられる。生気の感じられないそれは、浴びるだけで背中が泡立ち、肝が冷えるような思いがした。
「……失せろっ!」
振り払うと、骨の砕ける乾いた音が周囲に響いた。
その反動でぬかるみに足を取られ、膝が崩れる。
ふたたび這いのぼってきた亡者たちに手をつかまれ、ずぶずぶと身が沈んでいく。まるで、戻れないどこかに堕ちていくような、そんな底の知れない感覚。
むせかえるような血と臓物の臭いが鼻先に迫り、顔が埋もれそうになった、その時。
天から、一筋の光が差し込んだ。
それは金色の帯となってオレの体をすっぽり包み、あたりを煌々と照らす。
呪文ではない、それはオレのよく知る太陽の光だった。そのあまりの眩さに、群がっていた亡者たちは逃げるように散っていく。
「……お前は」
なぜか、差し込む光の向こうに誰かを感じ、手を伸ばした。
もう決して届かない、まみえることも叶わない、天上のそれは――
「……さま、ハドラーさま」
慣れ親しんだ声に引き戻され、気がつけば藁の床に就いていた。
近くに聞こえる滝の音と、目の前の薄暗い岩壁でしばし混乱し、頭を整理し、ようやく思い出す。
ただ利用されていた己を知り、大魔王へ叛意を示し、部下をふたり失い、それから――
「すみません。魘されておいででしたから」
生き残った部下のひとり、アルビナス。その整った面が、沈痛な表情でこちらをうかがっている。
「……あれから、どれだけ経った」
「ここに身を潜めて半日。じきに朝になります」
いつも冴えた調子の声が、この時ばかりは温かく穏やかなものに聞こえた。
「ひどい汗です、お待ちを」
あの夢は、未来の暗示だろうか。
多くの者を殺しこそすれ、誰ひとり救ったことのないオレが行き着く先は、きっとあんな所だろう。
「前を、失礼します」
絞った布を手にした銀が、視界をさえぎった。
額、首、胸元をぬぐわれる、その献身を見るでもなしに見る。こんな状況になっても変わらず尽くすこのアルビナスとて、オレと死を共にする運命にある。そんなことは創り出した時からわかっていた。
思い出す。
黒の核晶が爆発するあの瞬間、わが子を守ろうと盾になる男の背中を。
すさまじい光と熱に包まれ、次に目を覚ました時すでにあの父子の姿はなかったものの、その後の行く末についてはおおよそ察しがついた。それは、あの場に居合わせた者の直感としかいいようがない。
目を刺す光の向こうにいる、男の姿に既視感があった。オレにはけして届かない、はるか遠く、まるで太陽のような。
始まりは、いつだっただろう。
あの大魔王の采配で顔繋ぎをすることになったあの日、確か真昼の頃だった。
初めて見る、人間のような姿をしながら、威圧に満ちた異形のたたずまいに息を呑んだ。
あまり語らぬ重い口に、確かな裏打ちのある自信に満ちた態度、そして、どこか厭世的な影の表情。
どれもオレには得難い、遠い境地。それに焦がれたのだと、今なら素直に認められる。
「お初にお目にかかる」
差し出された手と、感情の読めない顔を見比べ、ためらいながら握り返す。その手から伝わる、殺意とも敵意ともとれぬ闘志に、背筋に冷たいものが走った。
「貴殿には、期待している」
目元の装飾品が窓からの陽を受け、男からのまなざしのように目を刺した。
あの時、オレは答えなかった。
応えなかった。
眩しかったのだと、伝える機会はないだろう。