新しい献立「があああああ………!」
夜明け前、まだ薄暗いベッドの上でバランは身をよじり、悶えていた。
身に着けているのはシャツ一枚だけで、下半身は何も着けていない。その尻からは、赤子の頭ほどの「何か」が、今まさにひり出されようとしている。
その隣でオレは、目の前で展開される状況を前にどうしていいかわからず、ただ成り行きを見守っていた。まごついたところをふいにつかまれ、爪がめりこむほど握られた手を、ただ握り返す。できることといえば、それくらいしかなかった。
「くっ……あ、ああぁぁ…!」
長い苦悶の声ののち、大きく丸いものが、ごろりと布団の上に転がる。表面に生々しい光沢を残したそれは、ため息のように、温かそうな湯気を上げている。薄く溶いたような青に、雫の形をしたその姿は、まるで空が落とした涙のようにも見える――卵だった。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
唖然としているオレの隣で、バランは肩で息をしながら突っ伏している。
夜、まだ眠りも深かったところをバランのうめき声で目を覚まし、それから断続的に聞こえる苦悶の声に、どうしたのだと声をかけても要領を得ない返事ばかりの中、気が付けば目の前の卵が産まれるまで見守ることになり、その間およそ数時間は経っただろうか。
それほどの時間、苦痛と闘っていたのだから疲労もするだろう。その無防備なところを、なんとなく後ろからのぞきこんでみれば、裂けそうなほど広がっていた尻穴は急速にしぼみ、呼吸に合わせてひくついている。
「バラン、これはいったい……」
かろうじて出た声に対し、バランは伏したまま顔だけを上げてこちらを向いた。
「……お前は、卵を知らんのか」
「オレが聞きたいのは、お前の体のことだ」
「竜の騎士は聖母竜の卵から生まれる、いわば竜の仔。だから私もその体質を継いでいる。それだけのことだ」
取り乱したところを見られてばつが悪いのか、オレの動揺するさまが気に障ったのか、バランは無愛想に答えた。
卵を産むということは、子を宿せるということだ。ならば、その卵の中身はオレの子ということになる。
これまで考えもしなかった可能性におののき、掛ける言葉に悩んでいると、バランは起き上がって卵を抱き寄せた。大事そうに両手で卵を持ち、目を伏せる、その額には竜の紋章が煌々と輝いている。
まるで祈るような短い時間のあと、バランは立ち上がり、ベッドから離れた。その卵をどこに持っていくのかと見守っていたら、おもむろに戸棚から金槌を取り出し、卵めがけて振り下ろした。
がん、と砕ける音。
ぱらぱらと殻が散ったあとには、かろうじて破けずに残った卵の薄皮が痛々しく残っている。
「バラン!?……お前……なにを!」
「……これは命を結ばない、そういう卵だ」
叫ぶオレに対し、バランは動じずに語った。
確かに、鳥や蛇の雌も、交わりの有無に関わらず卵を産むのが習性だ。もし仮に交わりがあったとしても、卵に命が宿るかどうかは、産んで時を経なければわからない。
さきほど額の紋章が光っていたのは、それを調べていたのか。つくづく、言葉の足りない男だと思ったが、そんなことは今更だ。
「少し早いが朝食にする。お前も手伝え」
いつの間にか、窓から朝日が差していた。
◇
じゅうじゅうと、こうばしい香りが漂っていた。
割った卵の中身をボウルに開け、フライパンでバターを熱する。ほどよく広がったところで溶いた卵を流し入れ、火が通るようにかきまぜ、くるくると木べらで形を整える。これまで何度もしてきたと思われるバランの一連の動きは手馴れており、オレはただ隣でその手際のよさに見とれていた。
「できたぞ、運べ」
気が付けば二人分の皿を運ばされ、オレはうながされるままテーブルに掛けていた。目の前では形よく作られたオムレツが、行儀よく盛り付けられている。
これは、オレも食べろということか。
鶏の卵よりも濃い黄色をしたそれは、バターの照りもあいまって鮮やかに見えた。皿を動かせばわずかに揺れる、絶妙な熱加減は、本来なら食欲をそそられることだろう。
その完璧さの前に、オレはスプーンを手にしたまま動けずにいた。
確かに命を結ばない以上、捨ててしまうのももったいない。
だが、かつて強くなるためにと石すら口にしてきたオレでさえ、連れ合いの体から出たものだと思うと、ためらわれるものがあった。
そんなオレの内心を知ってか知らずか、バランはこともなげにスプーンを口に運んでいる。一口、二口と食べ進め、はたとオレの手が止まっているのに気付いたバランは、食器を置いた。
「……ハドラー。お前は、子が欲しいのか」
「なぜだ」
「さきほど卵を割る時、動揺していただろう」
「……わからん。ただ、生を受けるものを捨てることはない、そう思った」
なぜか、居心地の悪い思いがした。
正体のわからない苛つきに任せ、しゃくり取ったオムレツを口に運ぶ。が、目の前にこれを産んだ相手がいるのだと思うと、妙な気分に襲われて味わうこともままならない。
何も考えないようにただ咀嚼し、飲み下す。
「オレにばかり聞くな。お前はどうなんだ」
「……そもそも、私は子を授からぬ身。ダイは奇跡的な例外だ」
また一口、すくって口に運ぶ。ほとんど飲むように、柔らかい感触が喉をすべり落ちていく。
「仮に、また奇跡が起きたらどうする」
「授かれば孵して育てる。お前の子だ」
間を置かず返ってきた言葉に、手が止まる。
特に何も約束をしてこなかった関係だが、そうか、そうなのか。
なんのてらいもない答えに、先程まであった、反駁したい思いが溶けるように消えていく。
「……さぞ、強い子になるだろうな」
「どうだろうな。お前に似るかもしれんぞ」
そう言い小さく笑うバランに対し、遅れてこちらも苦笑する。
バランの手が水差しを取り、空いた杯に注ぎ足した。一口飲み、ひと息ついてからまた続ける。
「私よりも、ハドラー。お前は子を成さぬのか」
「なに?」
思わず、手が止まった。
「その体は、あらゆる生物の長所を寄せ集めたものだろう。ならば、孕むことはないのか」
「……ない、とは言い切れん」
体の改造をしたのはザボエラだが、あの男は既に死んでおり内容の些細は確かめるすべがない。戦いに無用な機能は備えてないと思うが、あの男のことだ。酔狂で妙なことをしていたとしても不思議ではない。
「兆しがあれば教えろ。支度することもあるだろう」
思いもせぬ可能性、及ばぬ考えを前にオレは、わかった、と小さく返すことしかできなかった。
気がつけば、バランはすでに半分ほど食べ進めている。
止まっていた手を動かし、目の前の料理を改めて口に運んだオレは、ようやく初めてそれを「うまい」と思った。
「……うまいな」
感じるままこぼれた言葉に、ふ、とバランが笑う。
しばらく、食器のぶつかる音だけが部屋に響いた。そしてバランが皿を空けようかという頃、忘れないうちに聞いておこうと慌てて口の中身を飲み込んだ。
「バラン、次の産卵はいつになる」
「……卵はいつも、月に一度生まれる。月が痩せ細り、完全に見えなくなった頃が目安だ」
「わかった。その頃には欠かさず来よう」
「そんなに、この味が気に入ったか」
ああ、と返事をすると、バランは空いた食器を下げに行った。その背中に、言葉にはせず心の中で本音を告げる。
……また、立ち会ってやりたい。
理由はただそれだけだった。