「⋯⋯」
ミチル・フローレスは、しがみついた両腕にギュッと力を込めた。華奢な腕がぶるぶると震えているのは、純粋に恐怖だからだ。
「ちょっと、何です。邪魔しないでくださいよ」
気だるげな声がミチルの小さい頭の上から降ってくる。
目下、ミチルは北の魔法使いミスラの身体にしがみついているのだ。ハァ、と短いため息をついた後、ミスラはミチルの首根っこを掴んでヒョイと片手で持ち上げた。仔猫のように持ち上げられたミチルは、両腕をだらんと下ろし困ったように眉を下げている。
そんな二人の隣には、ミスラという魔法使いの象徴ともいえる扉がドンとそびえ立っている。
「⋯⋯だって、ミスラさん、これからどこへ行こうとしているんですか?」
「はあ、どこって」
ミスラはそっとミチルを地面に下ろした。さっきよりも長めのため息を吐き、それからミチルを見下ろしながら、当たり前みたいに言った。
「天国ですけど」
1
事の発端のそのまた元凶は、オズとミスラの喧嘩(殺し合い)だった。いつも通りミスラがオズに仕掛け、いつも通りオズが反撃し、いつも通り賢者や魔法使いが制止に入り(今回の制止役はスノウとカインだった)、いつも通りの決着がついた。
ただ、いつもと違ったのはルチルが不在ということだった。たいてい怪我を負ったミスラを手当てしてやったり、嗜めたり、慰めたり、その世話焼きっぷりをミスラ本人に鬱陶しがられたりする役目はルチルが自主的に引き受けていた。しかし今日はカナリアの買い出しに付き沿うために街へと出ていたのだ。
オズの雷撃を浴びて中庭に大の字に寝転んでいるミスラは、スン、と空気の匂いをかいで「一雨くるな」と空に向かって呟いた。そんなミスラを人影が覆う。ミスラは目玉だけをギョロと動かしてその人影の主を見た。
「なんだ、弟の方ですか」
その物言いにミチルはムっと口を曲げた。私闘で怪我を負うなんて自業自得だ。怪我なんかすぐに治るし損ねた機嫌だって勝手に直る。北の魔法使いなど放っておけば良いのだ。と、ミチルは思う。しかし思うだけでその場から去ることができないのがミチルという南の国の魔法使いだった。
「兄様みたいに上手に手当てできないかもしれませんけど」
「別にあの人も特別手当てが上手いわけではないですよ。終わった後になんだかかゆいときがありますもん」
「もう、そんなこと言って。本当に大変なとき助けてもらえませんよ」
「はは、その言い方兄の方にそっくりですね」
ミスラは寝転んだまま乾いた笑い声を上げた。ミチルはミスラの患部に手を添えてそっと呪文を唱える。
「どうですか?」
「まあ、かゆくはないですね。どうして俺を治療したりするんです。兄の真似ですか?その割に不服そうですね」
「母さまなら⋯⋯天国の母さまならきっとそうしなさいって言うだろうから。怪我をしている人がいたらどんな人だって助けてあげなさいって」
死体のように横たわっていたミスラはガバ、と身を起こし、その高い鼻っ面をミチルに近づけた。あまりに突然のことにミチルは「ヒ」と短い悲鳴を上げることしかできなかった。
「天国?天国ってどこですか?どんな場所ですか?そこにチレッタはいるんですか?」
「天国はその、死ん⋯⋯いなくなった人が行くところです。きれいで、美味しいものがあって、美しい音楽が流れて⋯⋯きっとそんな場所です」
「はあ、まあ退屈そうなところですが美味しいものがあるのはいいですね」
はは、と笑った直後、ミスラは《アルシム》と呪文を唱えた。するとすっかり見慣れた扉が二人の前に現れた。
──その瞬間賢いミチルは全てを察し、ギュッとミスラの胴体にしがみついたのだった。
2
「天国に行くって言ったって、ミスラさんまだ死んでないじゃないですか!」
「はあ、まあ俺くらいの男になれば天国なんて生きてたって行けますよ」
ついさっきまでそれが何かも知らなかった男が、謎の余裕ぶりを見せつけてくる姿にミチルは絶句した。
「ミスラさ、」
ミチルが伸ばした手は届くはずもなく、重い音を立てて扉が閉まった。
扉の向こうは、存外ミスラに目新しさを感じさせる場所ではなかった。景色全体がぼんやりと乳白色がかっており、暑くも寒くもないが風はある。道のようなものがどこまでも続いており空との境界線と溶け合っているように見える。名前も知らない花が咲いており、全くの静寂かと思えば遠くで歌のような音が聴こえる気もする。
「変な場所」
低く呟いたその声はどこまでも広いその空間に吸い込まれた。南の弟の言葉をまるまる信じていたわけでもない。とりあえず観光でもしようかと一歩踏み出そうとしたその時、
「ミスラ?」
声がした。
ずっと遠い昔に聴こえなくなったようで、つい最近まで聴いていた気もする女の声。
ミスラが振り返ろうとすると、それより先に声の主が彼の体躯に飛びついた。
緩やかな浅瀬のように波打つ金髪が揺れる。薬草と花と朝陽、そして氷の混ざったような香りが鼻を掠める。
女はミスラの首を軸にしてぐるんと一周廻ったのち、音もなく地面に足をつけた。長い金髪を首元からかきあげ、何も怖いものなんてないとでも言いたげな笑みを目と唇に浮かべる。
「天国へようこそ、ミスラ」
大魔女チレッタ。
もう二度とその姿を見ることはないと思っていたその女が、ミスラの目の前で笑っている。
3
ミスラが口を開くより先に、「ていうか!」という魔女の叱咤が響いた。ツカツカとミスラに歩み寄り、問い詰めるようにミスラの顔に向かって指をさす。
「なんでアンタがこんなとこ来てんのよ!?待って、ちょっと、とうとうあんたあのオズにやられたの!?」
ミスラがやっとのことで「あ」の形に口を開いたところでチレッタは続ける。
「いくらなんでも早すぎよ。せめて相打ちでしょ!私こんなに弱くあんたを育てた覚えないんだけど?」
ねぇ!?と胸を人差し指で突かれてミスラはぐらりと後ろに倒れた。尻餅をついたミスラは、腕組みをしながら自分を見下ろす魔女をまじまじと見つめる。世界は自分のものだと言わんばかりの顔も、太陽の光を集めたみたいな髪も、よく動く赤い唇もどこまでも響く声も身体も全てミスラの記憶の中にあるチレッタそのものだった。
「⋯⋯チレッタ?」
「何?」
チレッタは手を伸ばす。ミスラはその手に頼らず起き上がる。
「寝ぼけたことを。俺がオズごときにやられるわけないじゃないですか」
「じゃあなぜここへ来たの。まさかオズ以外の魔法使いに」
「そもそも石になってませんから、俺」
「そう、当然よ」
「あなたの息子が、あなたは天国にいると言ったので」
大魔女と呼ばれた女が小さく息を呑む音がした。それからもチレッタが黙っているのでミスラは面倒くさそうに首を横に曲げた。チレッタは鹿みたいに大きな瞳をさらに大きくしてミスラを見ていた。その目に飲み込まれる前にミスラはそっと目を逸らす。
「息子って、ルチル⋯⋯?」
「いいえ、小さい方の」
ミチル、とチレッタはそっと赤い唇を動かした。それからギュウと目を瞑り、祈るように額の前で指を組んだ。何か覚悟を決めたようにチレッタは勢いよく顔を上げた。その瞳には怯えの色が浮かんでいる。生きている間はこんな顔をしなかった。死ぬとそうなるのかなとミスラはぼんやりと思う。
「ミスラ」
「はい」
「今、その⋯⋯私の住んでいた国はどうなってる?」
ミスラは「はあ、」と普段と同じ気のない相槌をうつ。
「どうも何も、なんにもないですよ」
隣の魔女がよろめく気配を感じてミスラは咄嗟に腕を伸ばした。ミスラの腕の中でチレッタは目を伏せて唇を噛んでいた。なんだ、とミスラは怪訝な顔をする。あれだけくるくると変わる表情にまだ新しい種類があることに純粋に驚いていた。
「そう、そうなのね。ああ⋯⋯」
「ええ。あなたが生きていた時と何も変わりませんよ。人より多い羊と緑と風。それだけしかない国です」
ミスラののんびりとした声に、呆然としていたチレッタは顔を上げる。
「は⋯⋯?」
「え?なんですか」
「南、の国、ちゃんとまだあるの?」
「はあ?あなたという魔女の加護を失ったからって10年そこらで滅びると思ってたんですか?はは、尊大な女⋯⋯」
チレッタはそれに答えなかった。よろよろとミスラの腕から離れ、椅子に座り込んだ。気づかないうちに二人のそばには白いクロスがかかったテーブルと椅子があった。テーブルの上には一輪の薔薇が細い花瓶に活けてあり、チレッタはぼんやりとその花を眺めていた。ミスラも彼女に倣って向かい側の椅子に座り脚を組む。
「何か飲む?」
「ミルクに砂糖となにかのお酒入れたものが飲みたいです」
「そんな物を飲むようになったの」
「ネロがたまに作ってくれます」
「ネロ」
「東の料理人です」
「あんたが?東の魔法使いに?料理を?」
いつのまにかミスラの目の前には湯気をたてるマグが置いてあった。ほのかにブランデーが香る。チレッタは両肘をつき顎の下で指を組んで笑っている。
「約束、守ってくれているのね。当然だけどありがとう。それで今は南の国に住んでるの?まさかあの子達を北に連れてったりはしてないわよね?」
あなたと交わした約束については、つい最近思い出しました、なんてことを言えばどんな目に遭うかくらいミスラには予想がつく。そのため平然と言葉を続ける。
「今は中央の国にいますよ。賢者の魔法使いに選ばれたんで。俺も、あなたの息子たちも」
チレッタの長い髪がぶわりと浮き上がる。
「本当に?あの子たちが月に選ばれたの?」
「でもあの人たち弱すぎますよ。兄に至ってはマナ石を口にすることさえ嫌がる始末です。あんなんじゃ大いなる厄災が来るまでに石になります」
「そのための約束よ」
「その約束で、」
その約束のせいで俺が魔力を失うことになってもいいんですか。その問いの答えは分かりきっている。チレッタはそういう女だった。そういう魔女だった。だからミスラは長い時を彼女と共にいたのだ。
ミスラは出かかった言葉をため息に変えてマグカップに口をつけた。トン、とマグを置くと同時に薔薇の花びらが一枚、音もなく落ちた。
4
チレッタはよく喋る女だ。テーブルに音もなく現れるワイングラスを煽りながら、手を叩きながら、目を大きく開いたり、細めたりしながら。とにかくミスラがひとつ話すことについて、その3倍のリアクションをした。
「ふうん、まだあの双子は賢者の魔法使いをやってるのね」
「オーエン?知らない子。でもケルベロスを飼ってるなんて趣味がいいのね。会って話をしてみたいわ」
「はあ!?オズが中央の魔法使いに?なんで!?あいつ生粋の北の男じゃない!ああ悔しい!!今すぐ問い詰めに行きたい!」
「あの小さかったアーサーが⋯⋯ああそう。なるほどね。オズったら本当にどうしようもない男」
「あら、シャイロック?私あの人好きよ。ね、いいわよね。あの顎、一度爪先で蹴り上げてみたかった⋯⋯え?何?」
「花嫁を探して旅してるなんて素敵な人ね。は?鳥に変えて鳥籠に?やっぱり西の魔法使いっておちゃめでイカれてて最っ高ね!絶対結婚したくない」
「ファウストって、あの英雄ファウスト?え?じゃあどのファウストよ。私がいたずらであんたを狼に変えて襲わせたあの北の男?それとも私が魔女に変えたあんたにプロポーズしてきた東の男?どれよ!?」
「フィガロ?フィガロまでいるの?なんなの?ちょっとねぇ本当に大丈夫なの?私の息子たち」
ミスラによる偏見が入り混じった魔法使いたちの紹介はフィガロによって締められた。最後の最後で出てきた名前を聞いたチレッタは露骨に顔をしかめる。
「まあ、毎日どこかしらで殺し合いは起きていますが大丈夫ですよ。俺がいるんで。フィガロもよく分かりませんがあの兄弟のことは大事にしている気がします」
「そう。フィガロはそうね、結局優しいのよね。相当難儀な男だけど。あの子たちを大切にしてくれるならそれでいいわ。でもミチルとルチルに何か悪さをした時は殺してね」
チレッタのグラスの中身はワインからシャンパンに変わっていた。俺も酒が飲みたいなと思った瞬間ミスラの目の前に同じグラスが現れる。
「ルチルとミチルの話をして」
「はあ、兄の方はやたらと世話焼きです。口うるさいし、お節介だし、若い魔法使いと一緒に俺にはよく分からないことで楽しそうに笑ってますよ」
「そう。いい子ね」
「そうですか?弟の方はまあ、俺たちみたいな魔法使いにビクビクしてますがたまに⋯⋯なんだろうな、こちらにすごく興味がある目で見てきます。あと同じくらい小さい魔法使いとよく一緒います」
「そう。ミチル、お友達ができたのね」
片手で顔を覆ったチレッタは目を閉じていた。
声が微かに震えていて、泣いているのかなとミスラは思う。そっと頭を振ってチレッタは顔を上げた。笑っていた。
「ミスラ。私、あの子達が生きていてくれたら、それでいいの。ちゃんと笑って、泣いて、怒って、まっすぐに生きていってくれたら、ねぇ、それだけでいいのよ」
それきりチレッタは何も言わなかった。ミスラは「そうですか」も「そうですね」も選べずに口を閉じ「ここは、いつもこんな感じなんですか」とだけ言った。気まずさを紛らわせるためとりあえず天気のことを話す人間みたいに。
「そうよ。晴れてもないけど明るくて、あたたかくて涼しくて、どこからか知らないけど風が吹いてるの。雨は降ったことないわ。これから先も降るか知らない」
やわらかい風が吹き、薔薇が揺れる。
真っ白なテーブルに落ちた2枚目の花びらを見ながらミスラは呟く。
「昔、よく雨が降る街へあなたと旅をしたことがありましたね。そういう街だと知っていたのにあなた、何日も止まないからってついにキレて、あの街に降る雨を全部飴玉に変えましたよね」
「あは、あったあった。やったわ。子どもたちには大ウケだったけど、なんか偉い人にすっごい怒られてあの街追い出されたのよね」
先程まで神妙な顔をしていたチレッタは過去の悪行を懐かしんで笑った。ミスラも珍しく目を細め、それからそっと遠くを見た。
「あなたはもう、いたずらに降らせた飴の中で笑ったり、きまぐれで俺を狼に変えたりしない」
どこへ続いているのかわからない道の先に目をやってミスラが呟く。チレッタは何も言わない。
「俺はもう、あなたの夢を見ることもない」
3枚目の花弁が落ちる。
同時に、ミスラの手にチレッタが指を寄せた。慎重に、何かを確かめるように、その指はミスラの手の甲をなぞる。
「ミスラ。ここはいいところよ」
「でしょうね。天国って、生きている人が"そうあれ"と願った場所なのだから当然でしょう」
「天国」
喉の奥でチレッタは笑う。まだミスラの手を握ったまま離さない。
「天国、天国にいると思ってくれているのね。でもね、ミスラ。もしそうだとしたら、ここにいるはずの人がいないのよ」
「あなたの」
「ええ、モーリスがいないの。あの優しい人が。誰もいないの。私だけ、私だけがここにいるのよ」
チレッタはミスラの指に自分の指を滑り込ませた。
「ミスラ、ここにいてよ。ここにいようよ。あんたの好きな物どれだけだって食べられるし、あんたの疎むオズもいない。ここではあんたと私が最強。前みたいにふたりでいようよ」
ねぇ、と柔らかく力を込められた手を、こちらを見上げる大きな瞳を、風に揺れる髪をミスラは順番に目で追った。最後の薔薇の花びらが落ちたと同時にミスラはテーブルを真上に向かって蹴り上げた。
風に靡いて消え去るテーブルクロスの向こう側で笑う女を見据える。
「あなた、誰です?」
「私?チレッタよ。あんたがいちばんよく知っている女でしょう」
「あなたのような女、俺は知らない。俺がここにいたらあの兄弟は1ヶ月としないうちにでも死ぬでしょう。そんなこと、あの魔女が望むはずがないんです。息子の命と自分の人生を天秤にかけることすらせず、悠久の孤独を選んだチレッタが!」
ミスラは水晶の髑髏を手の上に出現させた。女は腰に左手を当てた立ち姿のまま、形のよい眉をあげる。
「馬鹿ね、ミスラ。でも私あんたのそういうところ好きよ」
「そうですか。死んでください」
《アルシム》と呟くと同時に、ミスラは後方へ吹き飛ばされた。「は?」と状況整理をする間もなく、ミスラは地に伏していた。そんな彼を、かつて大魔女と呼ばれた女がジッと見下ろしていた。その手の中にはミスラの魔道具がある。ミスラは目を見開いて歯を剥き出した。
「こ、の⋯⋯性悪女!それは俺に譲ってくれた物でしょう!?今更使用権を自分に引き戻すなんてずるです!ずるですよ!」
その剣幕に女は大きく瞬き、それから天を仰いで笑った。
笑って、笑って、ついには涙まで出たようで最後には目元を指先で拭っていた。そして突如、かつて世界に恐怖と幸福を与えた呪文を口にする。「あ」とミスラが思った時にはもうチレッタの行動は終わっていた。
ミスラの背後には扉があった。チレッタはミスラの胸元に水晶の髑髏を押し付け、思い切り押した。そのままミスラは水晶を抱えて扉の向こうへと落ちていく。
扉が閉まる瞬間、ミスラは笑っている魔女の顔を見た。
「やっぱりあんたに頼んで正解!」
チレッタ、と囁くようにミスラは彼女の名を呼ぶ。
手を伸ばした先にあったはずの扉はもう消えていた。
5
「ミスラさん!」
ハッと、海から引き上げられたようにミスラは大きく息をした。目を瞬かせると、ミチルが泣きそうな顔で自分を覗き込んでいるのがぼんやりと視界に映った。
ミスラは身体を起こしてのろのろとした動作で周りを見渡す。そこは魔法舎の中庭だった。
「俺、何を⋯⋯」
「ミスラさん、急に天国に行くとか言い出して、扉をくぐったらそのまま扉の向こうから出てきて倒れちゃったんですよ!」
「え?そうなんですか。おかしいな俺、ちゃんと行けましたけど」
ミスラの言葉にミチルが身体を硬くする。
「て、天国へ?」
「ええ、まあ、はい。チレッタもいましたし」
ミチルは目を見開いた。驚いた時のこの目、チレッタにそっくりだなと初めてミスラは思う。
「母さまが⋯⋯母さまに会えたんですか?」
「はい。相変わらず小根の悪い魔女でしたよ。俺を試そうだなんて」
「母さまはよい魔女です!」
はあ、とミスラは気のない返事をする。それから、ぽんとミチルの小さい頭の上に手のひらを乗せた。ミチルはびっくりしてまた目を大きくする。
「あなたたち兄弟が生きていてくれたらそれだけでいいと、確かそんなことを言ってました。魔女のくせに甘い女ですよ」
ミスラの言葉を聞いたミチルの瞳に、潤んだ膜が張る。ミチルは俯き、ギュッと目を閉じる。ミスラはその様子を見つめながらそっと手を離す。
「かあさま、」
静寂の中庭に、ポツと空から雨が落ちてきた。
地面を濡らす雫を見てミチルは慌てて目元を拭う。
「あ、そうだミスラさん、見ててください」
《オルトニク・セアルシスピルチェ》
落ち着いて呪文を唱えたミチルは空を指差す。
ポツポツと二人の上に降る雨粒が、いくつか飴玉に変わって落ちてきた。
「物質変化の魔法を練習してるんです。初めて成功しました!」
五月のよく晴れた日みたいな顔をして笑うミチルの顔を見ながら、ミスラは眩しそうに目を細める。
「あなたの母親はもっと上手くやりましたよ」
そう言おうとして口を閉じ、
「あなたの母親も、同じことをしていました」
と告げた。その言葉を聞いたミチルはパッとミスラを振り返る。
大魔女チレッタが護りたかったものがここにある。
自分が守ると約束したものがここにいる。
ミスラは飴玉をいくつか拾い上げ、そのまま雨の中へと歩き去った。
ミチルは兄が傘を持ってやってくるまで、その背中をずっと見つめていた。