ライブスタジオの扉を閉めると長いため息が出た。プライベートで着る久しぶりのスーツはなんだか窮屈に感じて、早く脱いでしまいたくてぷつりぷつりとボタンを外しながらクローゼットへ向かった。
「……疲れた」
ぼそりと呟いた言葉は誰もいない部屋に響くのは充分で、その言葉を口にしたことで疲労度は更に増した。俺はクローゼットから取り出したハンガーにスーツを掛けて、一瞬考えた後で衣類用の消臭剤を吹きかける。
「お酌にまわってたご婦人、香水キツかったな。まあすぐにクリーニングに出すんだけど。一応……」
他の物に匂い移ると嫌だし。クリーニングにはいつ持って行けるだろうか。そんなことを考えながらバスルームへ向かう。
匂いというのは案外記憶と強く結びついているもので、匂いを嗅ぐことで懐かしい記憶や当時の感情が蘇る現象をプルースト効果なんて呼ぶのも有名な話だったりする。それを認知症とか記憶喪失に応用できないかと研究されているなんて言う話はいまはどうでも良いことなのだけれど……なんて、矢継ぎ早に言葉が脳内を駆け巡るのは職業病なのか、ただ疲れているだけなのか。
そんな意味を持たない思考ごとシャワーで洗い流して、濡れた髪をタオルで拭いながらバスルームを出た。部屋の中にはさっき振りかけた消臭剤の匂いが微かに残っている。うちの匂いだ。これで思考はリセットされる。そのはずだった。
ふわりと甘い花の香りがした。
染みついた香水の匂いが消えたことで、やっと少し姿を現わした。そんな控えめで微かな香りの元は、帰宅と同時に部屋の隅に放り投げた紙袋の中に入った小さなブーケだった。
新郎新婦の友人にはもう未婚女性が少なかったらしく、いわゆるブーケトスというものは行われなかった。その代わりに友人数名が呼ばれ、小さめのブーケがメッセージと共に二人から手渡された。呼ばれたのは当然女性達だ。……俺以外は。
「翔には二人ともめちゃくちゃ世話になったからさ。ありがとうな。でもそろそろお前も良い相手見つけろよ~」
主役の二人にそう言われてしまっては、受け取らないわけにもいかなくて、「ばーか。俺には歌があるから良いんだよ」なんて言いながらも笑顔で受け取った。
二人は相変わらずだと顔を見合わせて幸せそうに笑った。
このままずっと、この二人が笑顔でいられるといいなと心から思った。
チクリと胸が痛んだ。
花びらに一つ、ぽつりと水滴が落ちた。
それに気が付いて、俺はがしがしと掻きむしるように濡れた髪を拭う。
うちに花器なんてないけれど、とりあえず洗面台に水を張ってつけておこう。こんなに綺麗なのに、すぐに枯れたらもったいないから。いつかは枯れてしまうけれど、香りは記憶に残るから。痛みも笑って思い出せるように。
その時まではと。