或る二匹の鬼の話進捗.
ザンザンザンザンザンザンザンザン
「や~すっごい雨だな。まいったまいった」
けぶる夕闇の景色に、狐のまとう衣の紅だけが鮮やかに色づく。
土足のまま広縁に上がり込んできた足は、土砂降りであるにもかかわらずまるで濡れていない。肩に担いでいたソレをぞんざいな所作で板敷の上に降ろした。ごとりと、頭蓋の重みを感じさせる鈍い音が響いた。
「コレ、カラ松からお前にって」
おそ松はそこに横たわる骸を見下ろした。
「───ってこれカラ松? え? どゆこと?」
ザンザンザンザンザンザンザンザン……
青行燈
赤々と燃える篝火が、盃を干したカラ松の穏やかな横顔を照らしている。ぱちぱちと木のはぜる音が静かな石室に響く。
「……美しいねぇ」
胡座に肘をついて見守っていたオソ松は思わず口から漏らした。
カラ松の躰は仄青く発光しはじめている。それはその身から僅かずつ放出されてゆく霊気、いずれ絶える命の光そのものだ。
「この躰、抱けなくなると思うと惜しいな〜」
未練がましい狐にカラ松は一瞥を投げ、
「オレはもう〈青松〉じゃないからな」
と口角を上げる。
「それよりも約束は守ってくれよ? 信じてるからな」
言葉とは裏腹に念を押す口調だ。
「わかってるわかってる、約束はちゃあんと守るって。その躰をアイツに渡せばいいんだろ? 狐は嘘つかねえから安心しろよ」
「嘘はつかなくても騙すのが狐だろ」
「んふへへ。ど〜だろねぇ」
オソ松狐は歯を見せて笑うが、すっと真顔になってカラ松の手から盃を取り上げる。
「もう後戻りはできないけど後悔してないな?」
カラ松は頷く。
「もちろんだ。……この魂魄はお前様に捧げたぜ」
*
ひと月前。
この石室でカラ松は言った。
「おそ松と過ごした日々の記憶こそが今のオレだ。それを失うのならこの自我に未練はないな。魂魄に戻って彼の世とやらに還るさ」
けれども。
「なあカラ松。奴に新月を見せてやりたくない?」
老獪な狐は囁いた。
「お前が男たちと床を共にする時、誰を想っていたか知ってるよ。だのに一度たりとも情を交わせないなんて可哀想にな」
「いや。オレは……」
「むしろ哀れなのはあの鬼だ。堪え続けたお前とのただ一度のまぐわいがコレだなんてね。その果てにお前は流転の中に還り、その自我をもって邂逅することは二度と叶わない。アイツは永遠に救われないだろうな」
オソ松を見返したカラ松のまなざしが揺れた。
「カラ松。おれがお前に霊気を注ぎ尽くせば力を取り戻すのにおよそひと月かかる。次の新月を見るその時まで、最後の逢瀬を叶えてやってもいいけど?」
「───」
カラ松の首が縦に振られることを分かっていたように狐は笑った。
ところが新月の夜が明けた今日、迎えに来たオソ松にカラ松が開口一番告げたのは「軀をおそ松に返したい」。
はああっ? オソ松は当惑した声を出した。
「いや、つか、軀から魂魄抜いたらその自我は消滅するんだからな?」
「構わない。前にも言ったとおり、おそ松の記憶を失った自我に未練なんてないんだ」
「え〜、でもなぁ……」
「新しく軀を与えてくれるなら瓢箪でも獣でもいい。いや、魂魄のままでもいい。この軀はおそ松の血で成ったものだ。アイツに返すのが筋だろ? 頼む……!」
承諾するまで引き下がりそうもなかった。
オソ松はまいったなと頭を掻いた。
「まさかそうくるとはなぁ……おれはさあ、お前であればそれでいいわけ。これでも神だったわけだし、自我なんていうちっぽけなもんに固執はないのよ。でも最初の約束は今のお前を軀も込みでってことだし、それを反故にするなら見返りは相応のものをいただくことになるけど、いいの?」
「言ってくれ」
「お前の魂そのもの、ぜんぶ。お前は輪廻の流転から外れて永遠におれのものになるってこと」
カラ松が一切の迷いなく頷くと、狐は呆れた顔をしたのだった。
*
軀がカクンと後ろに傾いだ。オソ松の腕が慌てて受け止める。
「すまない、力が抜けて……」
「そりゃ妖気をぜんぶ放出しようってんだからな。出し尽くす前に頭打ったりしてウッカリ彼の世に還るんじゃねえぞ?」
後ろからカラ松の躰を寄りかからせて支える。
「なんでこの躰をアイツにやろうと思った ……なんて訊くまでもないか。あの淵に行って『アレ』に触れたんだろ?」
狐はなんでも見通しているかのようだ。カラ松は頷いた。
「おそ松はアレを入れるつもりでオレに受肉させたんだ。このオレに情が移って諦めたらしいけどな。当初の目的を果たしてくれたらいいと思ってる」
「その代わりにお前が払う代償はでかいよ。なんでそこまでするんだ?」
「───夢を見たんだ。夢の中でオレは人間のこどもで、〈おそまつ〉だった」
おそ松と抱き合った最初の晩に見た夢。夢と思えないほど生々しかった。あれは実際に起きた出来事に違いなく、そして今もなお、おそ松が見ている夢だ。
おそ松は今もまだあの夜明け前の鬼岩にいて〈からまつ〉を待ち続けている。
オレ、分かったんだ。儚く青く躰を光らせてカラ松は言う。
「アイツを千年の孤独から救うことができるのは〈からまつ〉だけだ」