ぼくの宝石は食いしんぼ ———『味わう、ということは、どんなささやかな事でも宝石に変えてしまう不思議な体験です』。
「ノーツさん。そろそろかぼちゃが煮えたのでお鍋下げますね」
「あっ、ありがとうございます。火傷に気を付けてください」
「はい。……ふふ、ノーツさんは心配性ですね」
今日は3月14日。世間でいうホワイトデーにあたる日だ。少しずつ長くなってきた日が暮れようかという頃、僕とグラウさんは二人でキッチンに立っていた。
片手鍋を手に、朗らかに笑いかけるグラウさん。揃いのエプロンを身につけた愛しい彼女を横目に、僕はこうなるまでの経緯を思い返していた。
◆
「グラウさん、明日の夜は予定を空けておいてください」
「? はい、わかりました。何かあるんですか?」
「ふふ、特別な何かではないんですが……僕が晩ごはんを作ろうかなと思ってまして」
「本当ですか!?嬉しい……ふふ、今から楽しみです!」
時は昨日まで遡る。バレンタインデーのささやかなお礼を兼ねて、僕は夕食を振舞う事に決めていた。
何日も前からメニューを考案し、レシピを下調べする。元々、特別料理が得意という訳でもないが、持ち前の几帳面さを生かして大体の事はそつなくこなす事ができる。何より、こういう事をするのは嫌いじゃないしむしろ好きである。
今回も僕の計画に穴はなく、仕事から帰宅したグラウさんへフルコースを振舞って、驚きながらも喜ぶ彼女を堪能する、はず、だったのだが———
「ただいま帰りました~!」
「わっ!? お、おかえりなさい! い、いつもより早いご帰宅ですね!」
「ふふふ……ノーツさんの手料理、楽しみすぎて早く帰ってきちゃいました」
想定外、その1。グラウさんが予定よりも早く帰宅してしまった。流石に支度を終えるまでにあと1時間以上かかる見通しだったので、ニコニコするグラウさんに頭を下げ、リビングに押し込めて仕込みを再開する。
「すみません。少し待っててくださいね。完成したらお呼びしますから」
「わ、わかりました……なにか手伝う事はありますか?」
「はは、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
さて、と腕まくりをし、仕込みを再開する。今日のメニューはかぼちゃのポタージュに白身魚のムニエル、炊き込みピラフに温野菜サラダ、デザートにはチーズケーキ。どれもホワイトデーに相応しい、グラウさんの大好物で固めた完璧な献立である。
いずれも下拵えには多少の時間を要するが、日頃たくさん尽くしてくれる彼女への贈り物だ。感謝の気持ちと胸いっぱいの愛情をもってすればどうということもない。
そう、全くどうということもない、のだけれど。
「あの……グラウさん? どうかしましたか?」
それはあくまでも後ろから腰に回された手と背中に感じる温かくて柔らかな感触を抜きにすれば、の話だ。
「ノーツさん……その……さみしいです……」
想定外その2。普段、滅多にわがままを言わないグラウさんが拗ねている。
いつになく忙しくしている僕に、放置されていると寂しくなったグラウさんが構われようとちょっかいをかけに来たようだった。
てっきり彼女がリビングでテレビでも見て時間を潰しているだろうと思っていたので、背中から聞こえるしょんぼりした声にはっとなる。
「僕としたことがすみません! 大丈夫ですよ。もう少しでご飯の時間ですから……」
「よ、よかったら……わたしも一緒に手伝いたいです」
その控えめで可愛らしいお願いを聞いてあげない理由もなく、ダメですか……?と控えめに尋ねるグラウさんに仕方なく僕は然諾したのであった。
◆
「さて、チーズケーキはもう冷やしてあるので……あとはムニエルのソースが出来上がるのを待つだけですね」
「とってもいい香りです!」
「腕によりをかけて作りましたよ。それじゃあグラウさん、平たいお皿を取ってくれますか?」
「はい!」
カリカリのきつね色に焼けた魚を取り出したフライパンに、刻んだガーリックを落とす。そこに塩とバターを投入し白ワインを注ぐと、アルコールと水分が蒸発する音とともに、食欲をそそる深みのある香りがキッチンいっぱいに広がった。しばらく待ってから、温野菜を盛りつけた真っ白な皿に金色のソースを垂らし、その上に魚を載せた。
わあ、と感嘆の声を上げるグラウさんを見やって、思わず口許がゆるんだ。予想外の事はあれどこんなに楽しそうな彼女を見る事ができたからまあ悪くはないかな、という心持ちになる。
「わがままを言ってごめんなさい。だけど、すっごく豪華で感動しちゃいました!」
「いえいえ。こちらこそ手伝ってもらってしまって……でも、おかげでとっても美味しそうにできましたよ」
食卓に並ぶ料理の数々を見て、グラウさんが目を輝かせる。
いただきます、と手を合わせてからどの皿に手を付けようか迷いに迷っている彼女を見て、ああ、僕はこのひとのこういうところが好きなんだな……と柄にもなく浸ってしまう。
「お、美味しいです……! ノーツさん、本当にありがとうございます……!」
あれもこれも、と一つずつ味わいながら、幸せそうに瞳を潤ませながら彼女が言う。
「いえいえ、半分はグラウさんのお手柄ですよ」
言いながら、昔読んだ本に『味わう、ということは、どんなささやかな事でも宝石に変えてしまう不思議な体験です』という言葉があったのを思い出していた。ただの食事でも、大切に『味わう』事で美しく価値のある体験となる。
今夜僕が考えたメニューは、一つ一つを取ればなんて事のない一品に過ぎない。けれど、大切な人が幸せそうに一口一口を噛み締めて味わってくれる、そうして初めてこの食事が価値のあるものとなり、幸せな思い出に変わっていくのだ。
「喜んでもらえて嬉しいです。たくさん食べてくださいね」
「はい!」
僕の可愛い年上の恋人は、本当にご飯を美味しそうに食べる。普段淑やかで控えめな彼女に似つかわしくない食べっぷりを前にして、ああ、このひとと囲む食卓が、これからもずっと幸せなものであるようにと願わずにはいられなかった。
◆
「ごちそうさまでした……!」
「ふふ、たくさん食べましたね! 無理をしていませんか?」
「全然! デザートもぺろっといけちゃいます」
かなりの量の食事を終始変わらぬペースで平らげた彼女が、両拳をむんっと握って笑った。グラウさんは普段から食いしん坊だけれど、僕はそんな彼女が美味しそうにご飯を食べている所を見るのが実に幸せで堪らないのだ。
ただ、ホワイトデーはデザートを食べて終わり、という訳でもなく。
「ノーツさん……?」
「プレゼントです。よかったら身につけてもらいたいなと思って……」
「わ、……い、いいんですか? っひゃ……」
箱から取り出したのは、小ぶりなアメジストがあしらわれたネックレス。日常使いできるように、チェーンの細い華奢なデザインを選んだものだ。グラウさんの首にかけると、不意に近づいた顔に彼女の顔が真っ赤になる。その反応が可愛くて、思わずキスをしそうになるのを堪えながら身体を離すと、彼女の首元でそれが控えめに、そして淑やかに輝いた。
「綺麗……」
「とてもお似合いですよ」
「ノーツさん……ありがとうございます」
宝石言葉は、真実の愛。何気ない食卓、何気ない毎日が、そう、彼女のおかげでまるで宝石のように輝き出した。僕の、僕だけの輝きが、隣でずっと変わらずきらきらと瞬いてくれるように願いながら。
「さて、たくさん食べた分は今夜しっかり消費しましょうね」
「消費……? 消費って、……! ……っ、も、もうっ……」
ふざける僕に、さっきよりもグラウさんの顔が赤くなる。何やら言いたげな彼女へ笑みを向けてから、チーズケーキを取りに背を向けた。