浴室と蠅―阿久根燐童、お前を逮捕する。
―融通の利く駒ができた。
―お前は邪魔なんだ。
待て、いままでお前たちの思い通りに動いてきただろう、こんな仕打ちを受ける道理なんて……!
「!……ここは、あぁ。」
繰り返し見る最悪の夢、ある種のフラッシュバックから解放されると視界は灰色に埋め尽くされる。
見慣れない打ちっぱなしの壁に、場の状況を掴めず一瞬混乱したが、思い出した。
長い間テナントが入っていないようで自然に朽ちるのを待っているかのような廃ビル。
満月なのだろうか、窓から差し込む月明りで、室内はぼんやりと照らされている。
追手を避けながら見つけた、新しい拠点。ベッドなどあるはずもなく今にも崩れ落ちそうな応接用ソファで燐童は体を横たえていた。
交代で見張りを請け負いながらの休息はもう何日目か。当初はモダモダ揉めながら決めていた見張りの順番も、今では特に話し合わずとも固定化されつつある。
向かいのソファでは谷ケ崎が長い身体をはみ出させながら眠っており、時空院は唯一の出入り口であるドアの近くでうなだれるように腰かけている。彼は横になるように言っても頑なにそうしようとはしなかった。寝ているのかも怪しいほどだ。
今の見張り役は有馬。スマホの時計を確認するとそろそろ交代の時間のようだ。
時空院の横を通り過ぎ外に出る。
埃っぽい匂いが一変し、鼻を衝く冷気。
燐童の読み通り今夜は満月、いつもより一回り大きい月がこちらを見下ろす。
フロア前の階段に座り、壁にもたれかかる姿。長い前髪は頬にかかりこちらからその表情を伺うことはできない。
そして聞こえる薄い唇から紡がれる音。
気怠さを感じるが伸びの良い甘い声が薫り、しばらく聴き入る。
「それ、前も歌ってましたよね。」
「……あ?前?」
前。手駒の看守をどかした先、懲罰房で聞こえたメロディー。
――ジッポの油とクリーム あんたの台詞が香った 云ったでしょ?――
――あたしが完全に溶けたらすぐきちんと――
保護された野良犬のように、床を見つめるその目には何も映ってはいなかったが。
『有馬正弦さん、ですよね。』
『……あ?誰?』
「ガキの頃、この歌手の曲よく流れてたんだよ。」
あんだけ聴いてれば耳馴染みもよくなって、覚えてた。
物置のような雑然とした部屋に閉じ込められて、ただ、扉の向こうから聴こえてくるそのメロディーを口ずさんだ少年時代の有馬。
「ガキの自分には歌詞の意味までは分からなかったが、ありゃヤってんよな。」
曖昧な言葉が連なる中見え隠れする猟奇的思考、官能的な雰囲気。
しかし、俺を殺して。召し上がれ。なんて。どこまでも絡み合いたい、一つになりたいと。官能のピンクというより血の赤。燐童には、生死を超越した盲目的な、重たい愛を感じさせた。
「ふふふ、確かに。でも歌詞の内容なんて関係なく好きになる曲ってありますよね。」
「僕にもありますよ、好きな曲。『五月の蠅』っていうんですけど。」
「へぇ、聴かせろよ。」
――悲しみや憂いの影の一つも宿さず
可愛いと謂れ慣れて醜く腐ったその表情――
燐童の、朗らかで楽しげな声音に乗せられた先ほどの曲よりもっと、強烈で攻撃的な言葉たち。
――己が醜さ恥じて 髑髏を垂れ
名前より先にごめんなさいを口癖に今日まで――
「……くははっ、お前も大概だな!」
しかもお前、ガキの俺だったとしてもこの歌詞の意図くらい分かるわ、と笑いながら燐童の肩を叩く有馬。
こんなに穏やかに笑える男だったのか。
「2番はもっと酷くて良いんですよ。」
燐童も笑い返す。
俺を駒として使い、あっさり捨てた女共へ、愛を込めて。
静かで寂れた景観に似つかわしくない曲たちとともに、夜は更けていく。