学パロウィスマナ【邂逅の庭】 ◆プロローグ
「今日は転校生がいる。――入れ」
担任のヴェイルの声に、教卓側の扉が開く。生徒たちが少しだけざわめくのを、ウィストは窓の外を眺めながら聞いてた。どんよりとした雪雲に覆われた空はいつ見ても同じだ。雪がちらつくのも。
「寮に住むことになるから、寮生は良くしてやってくれ。席は空いてるところに好きなように……教材がまだ揃ってないから、なるべく見せてもらえよ。じゃ、昨日の続きから」
教科書を開くように、と合図がかかってウィストはようやく前を向いた。そうだ、転校生。頭の片隅で聞いていた話題を今さら思い出したが、すでにどこかの席へ紛れてしまったようで見当たらない。
……まあいいか、そのうち何処かで見かけるだろうし。教科書とノートを開いてペンを手に取りながら、ウィストは再び窓の外へと目を向けた。
◆Ⅰ
ウィストが転校生に会ったのは、それから三日後だった。
周囲への関心の少ない彼は、つるむ相手といっても寮のルームメイトであるラジくらいのもので、授業を受ける以外はほとんどを学園内にある植物園で過ごしている。
その日も、授業を全て終えると真っすぐに植物園へと向かった。相手は、先客としてそこにいた。
「やあ」
「……誰だ」
雪の映えそうな金の髪に、ラピスラズリの青い瞳。まだ新しいローブに包まれた体は、どこから脚なんだと問いたくなるほどに長い。
「初めまして。と言っても、何度も同じ教室で過ごしているのだけれど」
こんなに顔の整った同級生なんていただろうかと首を捻ったウィストは、すぐにその存在を思い出し「転校生の」と呟いた。嬉しそうに相手が頷く。
「僕はクラブ。改めて、三日前から君と同じオネキスの生徒になった」
「ウィストだ。すまない、あの日はぼんやりとしていて挨拶を聞いていなかったんだ」
「そうじゃないかと思っていたよ」
くす、と笑ったクラブは何も気にした様子はなく、のんびりとした口調で「ここは暖かいね」と周囲を見渡した。
オネキスはニーゼの中央にある巨大な学園都市である。多くの学生が日々勉学に励む学園内には、様々な施設が備わっている。日用品から雑貨、服、本など生活に必要なものは学園内で全て入手でき、飲食店も豊富だ。学生のほとんどは寮暮らしだが、教師陣など学園関係者とその家族も周辺で暮らしている。雪に囲われた、小さな一つの街である。
「ウィストはいつもここにいるのかい」
「そうだな。むしろ僕くらいしか出入りする者はいない」
言いながら、ウィストは植物たちの手入れを始めた。芽や葉の調子を確かめて、雑草は取り除く。その手際の良さからしても、彼がこの植物園に入り浸ているのは本当らしい。
「この辺りに植えられているのは、見たところ野菜のようだが」
「ほとんどが、だよ。こんな寒いだけの国で花なんてまず咲かない。植物園なんて名前だけでただの野菜畑さ」
あとは上で薬草を育ててるくらいだ、とウィストが中二階を指した。
なるほど、言われてみれば確かに。
目に優しい緑と土の色ばかりで、花弁の一枚さえ見当たらないことにクラブもようやく気付いた。こんなに立派な温室地だというのに。
「植物に興味があるのか」
「うーん……というよりは、君に興味があるかな」
「は」
顔をしかめたウィストがどういう意味か尋ねようとした瞬間、外気を遮断していた扉が開いた。冷えた空気と一緒に、ぞろぞろと四、五人の男たちが入って来る。その先頭、ひと際背の高い長髪の男が「ようウィスト」と親し気に名を呼べば、ウィストは先ほどよりももっと表情を曇らせて「なんの用だ」と冷たい声で返した。
「警備隊への誘いなら、何度も断ってる」
「そうか、じゃあもう一度誘おう。警備隊に入らないか?」
「断る!」
ぶちっ、とウィストの手元で雑草が無惨に引っこ抜かれた。男はひとつもダメージなど受けていない様子で、「それは何の草だ?」「美味そうだな」とウィストに話し続けていたが、ウィストはウィストで黙々と草を抜くだけ。取り巻きのようについて来た男たちも「もう諦めましょう」「どうせ今日も無駄ですよ、ドルトさん」とすでに退屈そうだ。
ドルトと呼ばれた男の視線が、不意にクラブへと向く。クラブがにこやかに微笑めば、ドルトは「見ない顔だな」とまるで面白いものでも見つけたようにこちらへ近づいて来た。
「ウィストの友達か?」
「はい」
「転校生だ、さっき初めて会った」
「ほう。……なあ、警備隊に興味は、」
「もういいだろう! そろそろ戻らないと、定例会議の時間じゃないのか?」
遮るように発せられたウィストの言葉に、周囲の男たちもうんうんと頷く。ドルトは仕方がないとため息を吐くと、「また来る」と言い残して取り巻きたちと共に去っていった。
「彼らは……」
「警備隊だ。知ってるだろ、学園都市の秩序を守っている」
「そうか、あれが。警備隊というのは優秀な学生しか入れないと聞いたけど、誘われているのかい?」
すごいじゃないか、と感心したように言うクラブに、ウィストは小さな声で「そんなんじゃない」と呟く。まるで幼い子供が拗ねているかのようだ。
「兄が警備隊長だから、それだけだ。優秀でもないし、学園都市のことにだって興味ない」
この植物園だけなら守ってやってもいいけど、と冗談を口にすればクラブが「どうして?」と青い瞳で訊ねた。
「やればいいじゃないか」
「いや、警備隊なんて面倒なだけだし、僕の柄じゃないから」
何度もそう言っているじゃないか。段々と苛立ちを積もらせていくウィストに気付いているのかいないのか、クラブは声色ひとつ変えずに言い放つ。
「理由は本当にそれだけ?」
「え?」
「今のこの学園には、君の『守りたいもの』がいない。だから警備隊なんて入っても意味がないと思っているんじゃないのかい?」
「何言って……?」
守りたいもの。クラブは一体、何の話をしているのだろう。
タイミング良く鐘の音が響く。帰寮の合図だ。校舎と関係施設は施錠され、警備隊以外の一般生徒は寮に戻らなくてはいけない。諦めて片付けを始めるウィストの様子を、クラブは手伝いもせずに眺めていた。
「ウィスト、あの一画だけ何も植えられていないのは何故だ?」
「何処だ」
「あの、奥の。何か収穫したばかりなのかい」
一番端の一画は、クラブの言うとおり何の芽も生えていない。やわらかそうな土が静かにそこにいるだけ。
「ああ、あれは……」
ウィストの瞳がどこか遠くを見つめる。まるで、此処ではない何処かへ思いを馳せるように。
「花が咲けばいいと思ったんだ」
何一つ、咲かなかったけど。
「ドルトとクラブのせいで、今日はほとんど何も出来なかったな」
薄暗い廊下を進みながら、明日は授業の前に植物園へ寄ろうと計画を立てる。
いっそサボったって構わないけど、これ以上はラジにも迷惑がかかるだろうか。
寮暮らしというのは煩わしい。何かあると、すぐに連帯責任だと言われルームメイトと共に減点や罰を受けることになる。ややサボリ癖のあるウィストは、それでラジに幾度と責められている。寝坊はラジの方が多いけれど。
「ん?」
部屋の前まで来たウィストは、自室の扉を開けようとして手を止めた。その視線が、隣の部屋へと向けられる。扉の隙間から、細く灯りが漏れていた。おかしい、この部屋は上の学年が退寮してからしばらく空室のはずなのに。誰か勝手に入っているのか? それとも次の生徒が来たのか。もしやクラブじゃないだろうな。
彼の不可解な言動を思い出して、ウィストは渋い顔をした。特別騒がしいだとか、そういう人間ではない。むしろ穏やかで、接しやすそうではある。ただなんとなく、読めないところがあるだけで。
「……一応、確認しておこう」
万が一、たまり場にでもされていたら迷惑である。ウィストは決心したように扉を叩いてしばらく返事を待ったが、物音ひとつさえ聞こえない。数回叩いても同じことで、これはもういないだろうと確信を持つとドアノブに手をかけた。
「失礼する――……え?」
部屋の灯りが廊下に伸びる――いや、そこは部屋ではなかった。
見たこともないような眩しい草原に、嘘みたいな青い空。廊下に伸びる灯りの正体は太陽で、甘い香りがウィストを包む。甘く、けれどしつこくない爽やかな香り。この酷く懐かしい香りをウィストはよく知っていた。
そう、これは花の香りだ。色鮮やかに咲き誇る花々、その象徴のように漂う香り。とても懐かしい、花の世話をしていたのは誰だっけ――……。
ウィストの意識はそこで途切れた。
◆Ⅱ
意識の外、何処か遠くで鐘の音が響く。
日の差し込む温室地は、その温かさとは裏腹に建物ごと古びてほとんどの植物が枯れ果てている。雑草だらけの土に割れたプランタがいくつも並んでいて、ほとんど人も寄り付かない。
錆びたベンチに身を預けうたたねをしていた少年は、もうあと少しで鐘の余韻さえも消えてしまうというところで目を覚ました。
「ん……」
眠たげな瞼が持ち上がると、柔らかなオレンジの瞳が煌めく。くぁ、と欠伸をこぼして周囲を見渡すと、次第に脳が覚醒してマナは「大変っ」と叫んで温室地を飛び出した。
「あ、おーいマナ!」
ランチトレーを手に学生食堂の大広間をきょろきょろとしていたマナは、その声に反応して窓際のテーブルへと急いだ。トレーの上のスープがちゃぷちゃぷと小さな波を立てる。
「ごめんね、もう二人とも食べてる?」
「見ての通り」
応えたチシャの皿はもう半分ほどが空になっており、その向かいのアサツキも食べかけのパンを手にしていた。
「イシ先生の説教、段々長くなってないか?」
「仕方ないよ、マナってば遅刻ばっかだもん」
「う……あんまり言わないで」
チシャの隣へ腰を下ろしたマナは苦しそうに溢しながらも手を合わせて「いただきます」と呟くとスプーンを握った。コンソメの香りが胃袋を刺激する。ひと匙舐めればほっと体から力が抜けて、思いのほか緊張していたことを知らせた。説経など、何度受けても慣れるはずがない。
「またビニールハウスで寝てたわけ?」
「植物園、ね」
「あそこの植物なんてほとんど枯れてるんだろ」
「そんなことないよ、ちゃんと花が咲いてるもん」
「マナが勝手に植えてるだけじゃん」
「……ちゃんとお水あげてるし」
むぅっと不機嫌そうに答えるマナに、チシャは水のコップを傾けながら「ふぅん?」と興味なさげに返す。二人の正面で、アサツキだけがのんびりとパンを齧っていた。
「マナの育ててる花、綺麗だよね」
「でしょう? 他の場所は土がもう乾いてるけど、あの一画だけは水はけのいい土が残っててすごく植物を育てやすいんだよ!」
「そうなんだ」
「うん! 今は少し荒れちゃってるけど、きっと、誰かが丁寧に整備してたんだと思う……!」
先ほどまでの態度はスープと一緒に飲み込んでしまったとばかりに、マナは瞳を輝かせながらうっとりと語った。この学園で植物に興味を持つ者は少ない。わざわざ温室地など使わずとも、暖かなヨイノの土地ではほとんど勝手に花も野菜も育つ。
校舎から離れたところにぽつりと立つ植物園も、もう何年もほったらかしにされているのは明らかだった。一年前、中等部に上がったばかりのマナが偶然そこへ足を踏み入れてからは多少マシになったものの、それでも手をかけてやれているのはほんの一画に過ぎない。
「確かに植物は勝手にでも咲くよ。でも全ての花をちゃんと元気に咲かせるには、水も土も肥料も大切なんだよ!」
植物って奥が深い。そりゃそうだ、彼らだって生きているもの。
スプーンを握り締めて熱っぽく語っていたマナは、友人たちが目を丸くして自分を見ていることに気がついてハッとした。恥ずかしそうに咳をして誤魔化し、食事の続きに戻る。
またやっちゃったなぁ……。
最近、花や植物のことになると我を忘れる自分がいる。友人に熱く語るのはうんとマシで、酷いのは、植物園での作業に没頭するあまり授業への遅刻が続いていることだった。今日に至っては、遂にそのまま居眠りをしてしまった。
ちゃんと寝てるのに……変なの。
「そもそも、なんであんなビニールハウス……」
「植物園」
「……植物園に出入りするようになったわけ?」
「そういえば……前は植物なんて興味なかったよね」
二人の問いに、マナは「えーっと」と記憶を巡らせる。アサツキの言うように、中等部に上がるまで植物になんてまるで興味がなかった。花の名前もほとんど知らなかったし、知ろうともしなかった。
「なんでだっけ」
「忘れたのかよ!」
「えへへ……」
何かきっかけがあったのは間違いないだろうが、どうにも思い出せない。確かなのは、温室地へ通い花を育てることが、今、マナが学園へ来る最大の理由であるということ。
「マナってほんとにマイペースだよね」
「アサツキが言うかよ」
「えー?」
ヨイノ学園はシンヨーの中心にある巨大な学園都市である。多くの学生が日々勉学に励む学園内には、様々な施設が備わっている。日用品から雑貨、服、本など生活に必要なものは学園内で全て入手でき、飲食店も豊富だ。学生のほとんどは寮暮らしだが、教師陣など学園関係者とその家族も周辺で暮らしている。暖かな気候に囲われた、小さな一つの街である。
「アサツキ、今日は当番?」
午後の授業を終えると、生徒たちはそれぞれ倶楽部に向かう準備や帰寮の仕度を始める。マナが声をかけると、図書委員であるアサツキは「そうだけど」と頷いた。
「図書館に用事? 珍しいね、植物のこと?」
「実はイシ先生に特別課題出されちゃって」
「えっ、大変だね」
「うん……でも、それで今回の遅刻は無しにしてくれるからって」
一回だけでも取り消しにしてもらえるなら、有難い。何回の遅刻で単位を落とすだとか、留年だとか、そういったシステムはマナたち中等部にはないものの、成績には当然影響する。おまけに、成績表も彼らの親元へと直接届けられてしまうのだ。長期休みでの帰省を思うとマナはすでに憂鬱だった。
掃除当番のチシャに挨拶をし、二人で図書館へ向かう。図書館は校舎とは別の建物になっており、温室地にも近い、中庭の一画にあった。
「どんな課題なの?」
「学園の歴史についてだって」
「ふーん。なんだか授業と関係ない内容だね」
「え、そうなの?」
「うん。今日の授業だって、マナが遅れて来る直前まで歴史は歴史でも古語の話だったし」
「えーなにそれ!」
てっきり授業に関係すると思ったのに。いや、もしかしてこれから扱う話なのかも。予習を兼ねて出されたなら納得できる。それでも面倒だけど。
図書館に入ると、アサツキは館内図の前に立って二階を指差した。
「学園史なら、この辺りに関連書物があるはずだよ。貸出は出来ないと思うから、閲覧だけだけど」
「ありがとう」
「途中で様子見に行くね。居眠りしちゃダメだよ?」
「しないって! アサツキも、受付当番頑張ってね」
「うん」
アサツキと分かれ、マナはさっそく二階へと向かった。図書館自体、滅多に訪れることはない。二階に上がるのなんて初めてではないだろうか。階段に足をかけると木の板がギィギィと音を立てる。学園創立当時から変わらないという木造の建物は、本を守るにはあまり相応しくないとアサツキはぼやいていたが、歴史ある学園の図書館としては趣があってマナは好きだった。外から眺めて、の話であるが。
「学園史……このあたりかなぁ」
分類の案内板を頼りに本棚の間をそろそろと歩く。他の利用者もいなくて静かだと思っていた矢先、最奥の本棚の間を曲がっていく人影が見えてマナは足を止めた。美しい金髪の頭が、壁と本棚との間に吸い込まれていく。
――一瞬しか見えなかったけど、なんだかすごい綺麗な人だったな。高等部の人かな?
図書館の利用には、もちろん学年も関係ない。マナはその生徒の後を追うように再びふらふらと歩きだし、同じ角を曲がったところで「あれ」と声を上げた。
「いない」
行き止まりのはずのそこには、誰の姿もなかった。
「なんで? 確かにここで曲がったのに」
自分の戸惑う声だけが響いて、年季の入った書物に吸い込まれていく。妙な気配を感じて引き返そうとしたマナの視界が、ふと一冊の本を捉えたのはそのときだった。
真っ赤な装丁の本には背表紙がなく、五百頁は優に超えていそうなほどにぶ厚い。手に取って見れば、ざらりとした手触りをしていた。
「なんだろう、この絵。不思議……物語なのかな」
四方を守るようにそびえる四人の人物と、その背景には植物や月、空、動物の姿が描かれている。その絵の上、金色に文字で綴られているこれは、題名だろうか。
「LINK RING WIND……?」
指先で文字をなぞるのに合わせて、マナの声がそのタイトルを唱えた。その瞬間。箔押しされていた金色の文字が眩しい光を放つ。稲妻が走ったように辺りが明るくなり、窓も開いていないのに突風が吹きつけて本の頁をバラバラと捲った。
「え、なに……!?」
風は随分と冷たい。初めて体験する、凍てつくような冷たさ。ひんやりとした空気と辺りの眩しさに顔を覆ったマナの手から、本が落ちて――。
「マナー? マナ、いないのー?」
二階へと上がって来たアサツキはきょろきょろと辺りを見回しながら本棚の間を歩く。
「おかしいな、鞄はあったのに……」
最奥まで来ると、行き止まりとなっている棚の前に一冊の本が落ちていた。アサツキはそれを拾い、傷みがないか軽く確認して本棚に戻す。おかしなところは何処にもない。いつもと変わらぬ、通い慣れた図書館。
トイレか、それとも植物園に逃げたのか。きっと何処かにはいるだろう。そう思いながら、アサツキはもう一度本棚を振り返る。
「マナ……?」
友人の姿は何処にもなかった。
◆Ⅲ
「あれ、ここ……保健室?」
むくりとベッドから体を起こし、マナは辺りを見渡した。薬品の香りに、カーテン付のベッドがいくつか並んでいる。
「オレ、どうしたんだっけ。確か図書館で……」
はっきり思い出せない。うーん、なんだかすっごく眩しくて、風がとても冷たかったような。
記憶を呼び起こそうと唸る声は、飛び込んできた大声にすぐにかき消されてしまった。
「あ! 起きてる!」
「へ?」
声のした方を見れば、見知らぬ学生が廊下に向かって「せんせー! シャニせんせー!」と叫び、それから保健室に入ってくる。そのままマナのベッドへと駆け寄って来るのを呆気にとられながら見つめていた。
くりくりとしたクセのある髪に、同じ様にくりっと大きな瞳。マナより少し歳が上の雰囲気がして、なんとなく高等部だろうと察する。
「気分どう?」
「あ、え、大丈夫です」
「ほんと? ならよかった!」
にこ! と八重歯を見せて笑う姿が眩しい……。
「えっと、オレ一体……」
「図書館で倒れていたそうですよ。それを、彼が見つけて運んで来たんです」
続いてゆっくりと保健室に入って来たのは、白衣を纏った男性だった。優しそうな笑みに、カフェモカのような色合いの髪がさらりと揺れる。
――あれ、保健室の先生ってこんな人だったっけ。
数えるほどでしかないが、保健室にはお世話になったことがある。違和感を抱きつつもマナは目の前の生徒へとお礼を告げた。
「ありがとうございます。えっと……」
「ラジだよ。高等部一年!」
「あ、オレは中等部二年のマナです」
「マナね」
「はい」
明るくて賑やかそうな人だ。友人にはいないタイプで、マナの緊張が増すばかりである。
「ちなみに、クラスは?」
「ああ。えっと」
横から声を掛けて来たのは例の保険医だった。必要な情報だろうとすぐに察して、マナは自身のクラス名も伝えた。……その瞬間、ほんの一瞬だけ空気が変わる。それまで穏やかな空気を放っていた二人が、互いに視線を交わらせた。
「ラジ」
「……うん」
「えっと……?」
なんだろう、オレ、おかしなこと言ったかな?
異様な雰囲気にどきどきとしていれば、保険医が一歩踏み出して距離を詰めてくる。
「マナ。俺は校医のシャニ。俺のことは知ってる?」
「ごめんなさい、わからないです」
「そうだよね。マナ、ちなみに此処は学園都市オネキスの保健室なんだけど……オネキスはわかる?」
「へ……?」
オレンジの瞳が見開かれ、目の前の二人を交互に見た。さらりと告げられた学園名。それは、マナにとっては一切馴染みが無いもの。
ふざけている様子はない、真剣な表情のシャニと不安げなラジの様子にマナはふるふると首を横に振った。
学園都市オネキス。見たことも、聞いたこともない。
「ヨイノ、じゃないの……?」
「ヨイノ。それが君のいたところ?」
「あ、はい……え…?」
何を確認されているのかさえマナは理解ができず、「ここはどこ……?」と訊ねてしまう。
「学校、学校……だよね? オネキスって? どこの学校のこと? オレ、オレはヨイノ学園の生徒で……図書館で、放課後に調べ物をしてて、それで」
「マナ、落ち着いて」
「そうだ、アサツキ……友達もいたんです、知りませんか?」
「倒れていたのはマナだけだよ。……多分、お友達はそのヨイノ学園にいるままだと思う」
「ええ……?」
ラジの言葉に戸惑い続けていれば、その手がマナの手を握った。あたたかい。そういえば、この部屋は随分と寒い。ベッドの中にいるおかげで多少はマシだが、半袖のシャツから伸びるマナの腕はうっすらと鳥肌を立てていた。
「マナ、落ち着いて聞いてくれる? ……これから言うことは、ボクらが知る限り、全て本当のことなんだけど」
意味深な言い回しだった。けれど、ラジの声は穏やかで、マナを落ち着かせようと一生懸命なことが伝わってくる。聞くのがこわい。あまりにも唐突だ。それでもマナはこくりと頷いた。――続けられた言葉はとても信じられないものだった。
「君は多分、別の世界から来たのだと思う。ボクと同じように」
「違う、世界……?」
ラジと同じように?
なにそれ、なにそれ。どういう意味?
もしかすると、すぐにでも廊下からチシャとアサツキが「なんちゃって!」「びっくりした?」なんて言いながら楽しそうに出てくるかもしれない。そんなことを期待してマナは少し黙って待っていたが、何秒経っても、廊下も保健室も静まり返ったまま。友人たちは姿を見せない。俯いてしまったマナに視線を合わせるように、床へとしゃがみこんだラジが下からマナを見上げる。
「半年くらい前に、ボクもここで目を覚ました。校舎の廊下で倒れてたのをシャニ先生に見つけてもらって」
「ラジ、も……」
「うん……ボクは本当は、マーレっていう国の学生なんだけど。マーレ知ってる?」
「知らない……」
「マナのいた、ヨイノ学園はなんていう国にあるの?」
「シンヨー、です」
ついさっきまでいたのに、何故か今は酷く懐かしく感じる故郷の名前。
「……先生」
シャニが首を横に振るのがやけにゆっくり見えた。
「だよね……ボクも、残念ながら聞いたことがない。あのねマナ。今、この学園ではボクらみたいな人間がたくさんいるんだ」
「他の世界から、来た人?」
「そう。そして、行方不明になっている学生も」
にわかには信じられない、信じたくない話だ。だが、ここまで言われればラジが何を言いたいかは理解できた。
ヨイノ、オネキス、そしてラジのいたマーレの学園。それぞれ別の世界の学園へと、生徒たちが入れ替わりを起こしている。
ずきりと頭が痛くなって、ベッドに座ったままマナの体が傾いた。慌てる二人に断って、「ごめんなさい、少し眠ってもいい?」と小さく訊ねる。
「わかんないことだらけで……でも、これが夢でも冗談でもないのは、なんとなくわかるよ」
だからひとまず、少しだけ休ませてほしい。
「もちろん。起きたらもう一度話をしよう。大丈夫、何か危険があるような場所ではないから」
「うん……そうだ、ひとつだけ」
「なに?」
「ここは、なんていう国なの?」
ああ、と頷くラジが少しだけ得意げに笑う。チシャが窓へと近づくと、クリーム色のカーテンを掴んだ。
「きっと驚くよ」
ラジの囁きはカーテンが開く音にかき消される。窓の外へと広がる初めて見る世界に、マナはその瞬間だけ、もうシンヨーには戻れないのか、友人たちに会えないのか、自分がいなければ誰も花の世話なんてしないのに、と抱えていたいくつもの不安を忘れて「わぁ……!」と感嘆の声を上げた。
「ニーゼへようこそ、マナ」
微笑むシャニの背後。ガラスの向こうは白銀の雪景色だった。
◆Ⅳ
学園中に鳴り響く鐘の音に顔を上げると、ウィストは作業用の手袋を外してベンチへと腰掛けた。そろそろ彼らが来る頃だろう。そう思った瞬間、植物園の古びた扉が音を立てた。
「ウィストー、いるー?」
「お昼持ってきたよ!」
「ありがとう、二人とも」
ウィストがにこやかに迎え入れたのはチシャとアサツキだった。
「あ、この辺りもだいぶ綺麗になったね」
「ほんとだ。あんなに乾いた土だったのに」
「裏庭の花壇の土を分けてもらったんだ。環境は悪くないから、土さえ良ければすぐに花が咲くよ」
そう言って、ウィストは以前よりも整備された屋内を見渡した。
ここは本当に温かい。花だけでなく、野菜も立派に育つ。なんてすばらしいんだろう――……。
「すっかり馴染んでるよな、まだ一週間しか経ってないのに」
「うんうん」
感心したように言う彼らに他意はない。そう理解していても、現実に引き戻されたような気になったウィストは気まずさを隠すように返すしかできなかった。
「もう一週間さ」
一週間前、オネキスの学生寮で謎の光に包まれ意識を失ったウィストは、目が覚めると彼にとっては見知らぬ世界……シンヨーのヨイノ学園にいた。校舎の廊下で倒れているウィストを見つけたのはアサツキで、目を覚ます様子のない彼を寮住まいのチシャの部屋へと二人掛かりで運んだ。そこまではよかったのだが、目覚めたウィストはヨイノはもちろんシンヨーなど聞いたこともないと言い、チシャとアサツキもニーゼ、オネキスという単語に首を捻るばかり。混乱に混乱を重ねながらも三人が得た結論は「とにかくウィストは学園の外から来た人間で、元の場所へ戻る手段もわからない状態である」ということ。そこでひとまずチシャとアサツキの二人でウィストの面倒を見ることとなり――今に至る。
「やっぱり、そろそろ先生とかに相談した方がいいのかな。マナのこともあるし」
「……マナはまだ見つからないのか」
ウィストがアサツキに拾われる少し前。放課後の図書館から忽然と姿を消したマナのことは、ウィストもすぐに聞かされた。チシャとアサツキの親友で、この植物園で唯一花を育てていた生徒。
「実家にも何の連絡もないらしいよ。マジで何してるんだか」
呆れたように言うチシャが、毎晩遅くまで手がかりとなるものを探していることをウィストは知っていた。
マナとチシャは学生寮の同室で、ウィストはいなくなったマナの机やベッドを借りて生活しているのだ。ヨイノ学園の学生寮は門限こそあるものの消灯が無く、また点呼もない。外部の人間が成り代わって生活していても、現状、バレる気配はなかった。
オネキスとは大違いだ。あちらでは、学園都市に暮らす人間の管理は厳しい。部外者がいればすぐに警備隊に保護される。身分証を持たない人間を匿いでもすれば、学生だって罰を受ける。
ウィストは黙っていたが、彼の中にはすでにマナが自分の代わりにオネキスへと飛ばされた可能性が立っていた。ほとんど同じタイミングで行方知れずになった学生と、見ず知らずの世界へやって来た自分。これが長い夢か盛大なサプライズでもなければ、有り得ない話ではないだろう。
……無事だといいけれど。
「あのさ、おれ変な噂聞いちゃって」
ハッとして見れば、ベンチに腰掛けたアサツキがすでに昼食を広げていた。慌てて隣へ腰かける。
「高等部の先輩たちにも消えちゃった人が何人かいて、生徒会がいろいろ調べてるって」
「えっ、マジかよ」
「うん……ほら、マナがいなくなったあとも話聞かれたでしょ。副会長のリョウブ先輩と、書記のカイドウ先輩に」
「なんで高等部の生徒会がと思ったら、そういうことだったのか」
「ヨイノの生徒会は、高等部と中等部でわかれているのか」
「一応ね。実際は高等部の生徒会が権力を持ってるけど」
「ウィストんとこは違うのか?」
「オネキス……僕の学校では、学生警備隊がそういう役割をしているかな。成績優秀者であれば、中高関係なく入隊できるし大学部の学生もいるよ」
そう説明しながら、ウィストはチシャたちが持って来てくれた昼食に齧りついた。見たことのない料理だ、とやや警戒するような目つきだった瞳に光が宿る。
「なんだこれは……美味い……!」
新鮮な野菜と味わいのある肉が、小麦の香る薄い生地でクレープ状に包まれている。その香ばしい生地とシャキシャキの野菜の歯ごたえもさることながら、少し辛みの効いたソースが、甘みのあるごまだれを合わさって後を引く。ひとたび齧れば、二口目、三口目と止まらない。
「気に入った? 春餅ていうんだよ」
「ああ、美味しい。小麦もニーゼでは貴重だからな……特別なときにしか食べないんだが、合わせる具材でこうも変わるのか」
思いがけない反応に、面倒見のよいチシャが「もっと人の少ない時間帯なら、食堂にも連れて行ってやれるんだけどな」とぼやく。購買の春餅は確かに美味しいが、学生食堂で食べられるできたてのランチも絶品なのだ。
「人の多いときの方が目立たなくていいんじゃない?」
「確かに。なら明日の昼は食堂だな! 楽しみにしてなよ、ウィスト……ってもう全部食ってるし」
ウィストは最後のひと口を飲み込んで「最高だった」と頷く。生活しやすい暖かな気候の元では育つ食物も遥かに豊かだ。ウィストからすれば、まさに理想の学園だった。その瞳が、ふいに植物園の奥へと向けられる。
半分以上は荒れ果てたままの土の向こう、その一画だけに色鮮やかに咲き誇る花々。
「……不思議だ、此処は」
揺れる花の名前をウィストは知らない。満開の花など見たことがない。けれど、その花のためにひと際整えられた一画には覚えがあった。
「国も、学園も、人も。何もかも違うのに、この植物園だけは僕が守っていたあの場所によく似てる……形と空気だけは、むしろそのままだ」
この植物園について調べれば、何かわかるんじゃないだろうか。オネキスに戻る手がかりも、行方不明のマナの居場所も。
「此処の手入れをして、あの花を育てていたのはマナだと言っていたな」
「そーだけど」
「チシャ。君は毎晩、マナが残した日記を読んでいるよな」
「……そーだけど」
それがなんだ、とゴールドの瞳が少し不満げにウィストを見る。その正面に立つと、ウィストは深々と頭を下げた。
「頼む、僕にもその日記を読ませてくれ」
「ハァ!? 何言ってんだよ、人のプライバシーだぞ!」
「えー? チシャだって勝手に読んでるのに」
「俺は元からときどき見せられてたからいいんだよ!」
日記なんて人に見せるかな、と不思議そうなアサツキを無視し、チシャはこの際だと言わんばかりの勢いで目の前の正体不明な男に詰め寄った。
「だいたい、オマエのことだってまだ何もわかってないんだ! アサツキが放っておけないって言うから部屋に置いてやってるけど、オネキスなんて誰も知らないし、図書館で調べても出てこない! 雪の降る世界から来たなんて、相手が相手なら病院にでも連れていかれてる……わかってんのかよ!」
「わかっている。二人には本当に助けられているよ」
部屋を貸してもらい、こうして食事も用意してもらっている。人に会う可能性が極めて低いからと、植物園を紹介してくれたのもウィストにとっては最大の幸運だった。だからこそ、だ。
「だからこそ、マナを見つける手伝いをしたい。マナの行方を探すことは、僕が帰る方法を見つけることに繋がっていると思うんだ」
「あ、それおれも思ってた! もしかして、マナとウィストは入れ替わっちゃったんじゃないの、って」
気がついていたのか。小さく驚くウィストに、アサツキは深紅の瞳を穏やかに細めた。そのまま、親友へと語り掛ける。
「生徒会の人たちがまた来て、もしマナの日記を持って行かれたらおれたちで出来ることはなくなっちゃうよ。ほかにもいなくなった人たちがいるなら、そっちを優先してマナは後回しにされちゃう可能性だってある……そんなの、おれも嫌だよ」
「オレだって……」
言い淀むチシャの脳裏には、ウィストの知らないもう一人の親友の姿が浮かんでいるのだろう。
オネキスで、今、同じように自分を想ってくれている人はいるだろうか。そんなことがふと頭を過った。
「僕も植物を育てている。マナが花の世話に熱心だったなら、何か気づけることがあるかもしれない」
マナの行方が知れない今、この学園にウィスト以外に植物に興味のある人物はいないだろう。迷うように顔をしかめていたチシャは、最後には深く息を吐くと「全部は見せないからな」と観念するように言った。
「ありがとう」
ほっと安心して微笑んだウィストの頭上で、再び鐘が鳴り響く。
「予鈴だ」
「午後の教室は……げ、向こうの塔じゃん」
「片づけは僕がするから、二人とも行ってくれ」
「助かる」
「ごめんねウィスト」
春餅を包んでいた包み紙を受け取れば、チシャとアサツキは授業の荷物を抱えて植物園を出て行った。二人を見送り、ウィストの視線は再び花へ戻る。屋内には、彼ひとりきり。
マナ。
もしかすると、僕の故郷にいるかもしれない行方不明の男の子。
僕が願った場所に、本当に花を咲かせてくれた君。
「……話がしてみたいな」
どうして花に、植物に興味があるのか。どんな花が好きなのか。これから、どんな花を咲かせたいか。
問えば応えてくれるだろうか。
マナを探す目的に、何か別の理由が混ざり始めていることにウィストは気がついていなかった。
◆Ⅴ
「マーナっ!」
「わっ……ラジ!」
渡り廊下の途中、背後から背を叩かれて足を止めたマナはその相手がラジだと気づくと安心したように笑みを浮かべた。
「どう? 学園には慣れた?」
「うん。警備隊の人たちのおかげで、寮もクラスもなんとかやれてるよ」
ウィストの心配とは裏腹に、オネキスでは警備隊主導の元、身元不明の学生の受け入れが積極的に行われていた。留学生という扱いで授業に参加させ、警備隊と同室で学生寮にも住まわせる。もちろん監視の役割もあるが、雪国での暮らしを何一つ知らないマナにとっては有難い限りだった。
「オネキスってすごいね。生徒同士で何かあっても、まずは自分たちで解決しようとしてる。先生より先に警備隊が助けてくれるから、みんなも素直に聞いてるみたい」
「ね、僕も最初は驚いたよ。学園の方針って聞いて納得したけど」
「そうなの?」
「うん。寒さの厳しい国だからこそ、互いに手を取り合って生きていけるように……とかなんとか」
だからこそ、なるべく教師や大人は介入しないのだという。もちろん、いつでも頼れるようにも体制は整えられているが。
マナは感心したように「だからみんなしっかりしてるんだ」と頷いた。
「オレがお世話になってる警備隊のね、ツェルっていうんだけど、すっごく頭がよくって」
「ああ、最年少で警備隊に入ったっていう」
「らしいね! 本当に頭がいいし、でも、その努力もしてる人なんだよ。寮でも毎晩その日の復習と予習をちゃんとやっててびっくりしちゃった」
「ひぇ~っ、そんなのマーレでもやったことないや」
「ふふ、オレも!」
ケラケラと笑い合ったあと、マナはふと「そういえばラジの同室の……」と呟いた。「ウィスト?」と返って来た名前にこくりと頷く。
「ラジ【留学生】の同室なら、ウィストも警備隊の人だったの? 」
「ううん。むしろウィストは入隊を迫られて断ってた側」
「えっ、どうして?」
すごいことなのに。不思議そうなマナに、ラジは少しだけ困ったような表情を浮かべた。その唇が「うーん」と小さく唸ってから、まあいいかと口を開く。
「ウィストって、オネキスの学園長の息子なんだよ。で、警備隊の今の隊長はウィストのお兄さんなの」
「え」
「だからまぁ、いろいろ思うことがあったんじゃないかな」
学園長の息子で、警備隊長の弟。ヨイノで考えるなら、高等部生徒会会長・オウレンの弟として生徒会に入れと言われるようなものかと、マナは頭に思い浮かべてみた。頭脳明晰、容姿端麗、運動神経もよく、人望も厚い。教師、生徒からの評判は抜群で、実質、高等部以下の学生をまとめているのは高等部生徒会と言ってもよかった。ウィストの兄がオウレンと同じような人間とは限らないが、隊長を務めるくらいだ、優秀であることは間違いないだろう。そんな人の弟なんて、と考えるとマナでさえ想像は容易だった。
「そっか。それでノートにもあんなこと書いてたんだ」
「ノート?」
今度はラジが首を傾げる。マナは抱えていた教科書類の中から、薄水色のノートを取り出した。使い込まれた形跡のあるそれは、ページの角がうっすら茶色く染まっている。
「あ、これウィストが温室に置いてたやつだ」
「うん。中、見たことある? 植物の育て方がね、すっごくわかりやすく書いてあるんだよ」
言いながら、マナはパラパラ適当に中を捲って見せた。
オネキスの生徒として過ごすようになって、マナはすぐに花を育てられる場所を探した。不安な気持ちを少しでも軽くしたくて、日常と同じことがしたかったのだ。案内された温室地はヨイノにあるそれよりも遥かに新しく、きっちりと整備されていて感動を覚えた。不思議なことに、どことなくその形状や広さはヨイノの植物園に似ていたが、温室地なんてどこもこんなものなのだろうと飲み込んだ。
そもそもニーゼでは花を咲かせることは難しい。それを聞いたときは少しだけ落胆したものの、屋内に置かれていたウィストのノートを見つけると、マナはすぐに野菜の栽培育成に夢中になった。見よう見まねで花の世話をしていたので、土の違いも、水やりの頻度も、まともに気にしたことが無かったのだ。
「オレにとっては魔法のノートみたいで、毎日読んでるんだ。でもね、ところどころに……これ、きっとウィストの本音なんだと思う」
クスッと笑みを溢したマナが、「ほら」とあるページを開いてラジに向ける。渡り廊下の端っこ、足を止めて話し込む二人を気にする生徒はいない。向けられたページを眺め、ラジも「なにこれ」と口角を上げた。
『テスト面倒』
『警備隊も鬱陶しい。暇なのか?』
『花も咲かないし』
『花は僕のものになってくれない』
『あの花の名前は?』
『花の笑顔を近くで見たい』
『でも、枯れる姿は見たくないんだ』
あちこちのページに、断片的に書かれた走り書きたち。マナはその文字の上を指でなぞった。
「どういう意味なんだろうって考えてたんだけど、事情聞いたら、なんとなくわかってきた気がするよ」
「そ、そう?」
後半ほとんどポエムみたいだけど、という思いは黙ったまま、ラジは「まあそういうことなんだよ」と曖昧に言って誤魔化した。ラジ自身、ニーゼへ来たのはおよそ一年前。ウィストとの付き合いもその程度で、同室とはいえ互いに何もかもを曝け出していたわけではない。
「多分、ボクがウィストと同室になったのはウィストを警備隊に入れるためのきっかけにしようとしたんだと思う」
一年前、ラジがニーゼにやって来た頃はまだ「入れ替わり」の生徒はほとんどいなかった。突然現れたよそ者の御守り、程度の役目をウィストへ与え、そこから警備隊に引き込もうという考えだったのではないかとラジが語る。
「警備隊の人たち……ウィストのお兄さんは、どうしてそうまでしてウィストを警備隊に入れたいの?」
「さぁ……でもまぁ、将来のためなんじゃない? 家はお兄さん……レイス隊長が継ぐにしても、補佐的な仕事を任されるのは間違いないだろうし」
「ま、そういうのが窮屈だから野菜作りに逃げてたんだろうけどね」。ラジが付け足した言葉を聞きながら、マナはもう一度ノートを眺めた。縦に細いクセのある字。その字でわかりやすく綴られた、植物の接し方。マナにとっての魔法のノート。
何処に向かえばいいのか、何をすればいいのか、いつもわからなくて迷ってしまうマナの、道しるべ。
「いいなぁ」
「え?」
「オレ、将来のこととか何も考えてないから。何がしたいとか、何が得意とか、そういうの一切ないし……ずっとなんとなくで過ごしてるから。いっそ、誰かがオレの行く先を決めてくれたらいいのにってよく思うんだ」
だからウィストが少し羨ましい。もちろん、本人にとっては羨まれることなんて一つもないだろうけれど。
「花はね、唯一、オレが自分で手を伸ばしたものなんだ。ヨイノの学園だとほかに花を気にする人なんて誰もいないから、自分のものだけって感じがして……少しだけ、自信が持てる」
やりたいことを何一つ見つけられていない、まだまだ幼い自分にとって、花の存在だけが上に引っ張り上げてくれるような。とにかく花の手入れをして、世話をしてやる。それだけがマナの役目で、退屈な学園に通う理由だった。
「マナはどうして花に興味を持ったの?」
「どうして? どうしてって……」
数秒黙ってから、マナの口からこぼれたのは「あれ、どうしてだっけ」と少し焦ったような声だった。
「なんだ、忘れちゃったの?」
そんなに大切なことなのに、と笑うラジに合わせてマナも笑みを浮かべた。そういえば、どうしてだろう。チシャやアサツキにも聞かれたことがある、どうしてわざわざ花なのかと。きっと何か特別な理由やきっかけがあったに違いない。それなのに、思い出そうとするとマナは何一つ思い出せないのだ。まるで、そこの記憶だけがすっぽりと抜け落ちているかのように。
「思い出せないけど……でも、もしも会えたら、ウィストにも聞いてみたいな」
どうして花を咲かせたいの? それは、オレとは違う理由?
ウィスト。
極寒の地で、花を咲かせようと奮闘している人。
魔法のノートの持ち主の君。
「……会ってみたいな」
マナのぽつりと呟いた声を耳で拾いながら、ラジはふと後ろを振り返って――そこにいた人物に驚いて、大声をあげた。
「っ、レイス隊長!?」
「え?」
見上げるほどの高身長に、それを包む闇夜のコート。まろやかな茶色の髪の下、物腰のやわらかそうな顏が微笑んだ。
「花が咲く国からやって来た……君がマナだね」
金色の猫目が細められる。緊張に心臓を震えさせながら、マナはこくりと頷いた。
◆Ⅵ
着いてきて、って言われたけどどこに連れて行かれるんだろう。
不安そうな表情を浮かべたまま、マナは数歩先を歩く背中を見つめていた。
学園都市オネキスの平和と秩序を守る、警備隊。その隊長・レイス。編入に関する手続きや案内は他の隊員から受けていたので、マナは初対面だった。
体格いいな、男らしい感じする。脚も長い……。顔立ちも、大人っぽくてかっこいい。後ろからじろじろとレイスを眺めては、ウィストもこんな感じなのかなぁと考えてみる。でもなんとなく、ウィストはあんまり似てない気がする。不思議、ウィストのこと、なんにも知らないのに……。
そうこうしている間に、二人は古い洋館のような建物の前へと辿り着いた。
「えっと」
「南校舎だ。老朽化が進んで、今は使われていない」
石造りの壁は、確かに今にも崩れそうな箇所がいくつもあって、はっきり言って不気味な雰囲気だった。
「凍ってる……」
「人も出入りしないからな」
両開きの扉には鎖が巻かれていたが、その鎖ごと氷に覆われている。触れたら痛そうだと、マナはコートの裾をぎゅっと握った。
「あの、そろそろ聞いてもいいですか」
自分に何の用事があるのか。意を決して訊ねたマナに頷くと、レイスは「この南校舎には不思議な話があってね」と呟いた。
「精霊が住んでいるという伝説があるんだ」
「精霊……?」
繰り返すと、ふわりと小さな風が吹いた気がした。
「君の学園にはないかい、そういう伝説は」
「学園、というか国なのかな。シンヨー……オレのいた国では、物の位置がいつの間にか変わっていたり、残していたはずの食べ物が消えたりすると精霊の仕業だって言うときがあります」
「興味深いな。君の世界では、精霊はもっと身近なんだね」
もちろん、本当に精霊を見たことがある人間がいるわけではない。不思議な出来事が起こったとき、不用意に誰かを責めることがないよう、精霊の仕業として寛容に受けとめるための方便に過ぎない。
『あれ。オレのお菓子、ひとつ減ってる……?』
『精霊の仕業じゃないの』
『チシャがさっき食べてたよ』
『あっこらアサツキ!』
『もーっ普通に言ったらあげたのに!』
懐かしいやりとりを思い浮かべながら、マナは「ここの精霊さんは、どんな存在なんですか?」と訊ねた。
シンヨーとは違って、あまり身近な存在ではないということなのか。
「この南校舎の精霊は、願いを叶えてくれると言われている」
「えっ」
「……ただし、花を咲かせることが出来れば」
凍りつき閉ざされた扉を見つめ、レイスはぽつりと言った。
「『南校舎には学園を守る精霊が住んでいる。花を供え、学園の平和と共に願いを祈ればどんな願いでも精霊が叶えてくれる』――……この学園に古くからある伝説。まあ、現役の学生で知っている者は少ないだろうが」
「え、だって、ニーゼで花を咲かせることはほとんど出来ないって」
「その通り。だからこれは誰もが伝説だと信じて、言い伝えられることが減った。私だって、誰に聞いたかも覚えていないほど昔に聞いて、すっかり忘れていた。こんな事態になるまでは」
レイスがマナを見下ろす。その双眸が訴えるものを察して、すぐに「む、無理ですよ!」と小さな手をぷるぷると振った。
行方不明者の続出。入れ替わるように現れた異世界の人々。そのうちの一人、花の咲き誇る国からやって来たマナ。そして、花を必要とする精霊の伝承。
「オレ以外にも、他の世界でだって花くらい咲いてるでしょう? ほら、ラジも暖かい国にいたって、」
「マーレはむしろ年中気温が高く、花が咲いても長くはもたないらしい」
そうなんだ、と驚きつつ他の返しを探す。けれど、ニーゼに来たばかりのマナには友人も少なく、ほかの留学生たちとの接点もラジ以外なかった。
「えーっと、じゃあ……えーっと」
「……」
「うーん……」
「頼む、この通りだ」
「ひぃっ」
ついにレイスがその場に片膝を着いた。遥か頭上にあった彼の後頭部が眼下に来て、マナが「や、やめてください!」と慌てふためく。学園総長の息子かつ警備隊隊長を跪かせているところなど、誰に見られてもマズイ状況だ。
「レイス隊長っ」
「レイスでいい」
「よくない~っ」
「君だけなんだ」
レイスの芯の強い声が、降り積もった雪に落ちる。ちらちらと新たに舞う雪が伏せたままの頭に雪化粧を施し始めていた。
「この学園で、花に、植物に自ら興味を持ってあの温室地に出入りしているのは君だけなんだ」
――弟をのぞけば。
後に続いた言葉に、マナは喉を詰まらせた。胸元で小さく拳を握る。
レイスはきっと、全ての留学生の顏と名前、そしてどんな世界からやって来たのかを記憶しているのだろう。行方不明の学生のことも細かく把握しているに違いない。そうでなくては、信憑性の低い古い言い伝えに縋り、やって来たばかりの幾つも年下の学生に頭まで下げない。
それほどまでにこの学園を愛し、学生の、弟の身を案じているのだ。
「オレだって咲かせられるなら咲かせたいです。シンヨーに帰りたいし、ラジのことも返してあげたい、ほかの人たちだって……」
応えたい。こんな自分にもできるというなら。けれど。
「でも、ここには花の種すら……」
ニーゼで花を咲かせられない理由のひとつ。花の咲かない世界には、そもそも花の種は存在しない。そう訴えかけたマナがぎゅうっと拳を握り直し――そこに違和感を覚えた。
何か、ある。手の中に。何か。
「……なん、で」
恐る恐る開いた手の上で、ころり、と小さな種が転がった。
「それは」
「……種です。フィソステギアっていう、花の」
覚えがある。ヨイノの植物園で育てていた花のひとつだ。けれど、種なんてどこにも持っていなかったはずなのに。まるで魔法のように手の中に現れたのは、どうして――。
「君ならその花を咲かせられると精霊が言っているみたいだな」
強く意思を持った瞳は穏やかな目つきでマナに語り掛ける。
「少なくとも、私はそう信じるよ」
もう一度手の中の種を見つめる。何の変哲もない、マナにとってはよく知る花の種だ。けれど、ここでは願いを叶えるための唯一の手掛かり。
扉の前の数段の階段を上る。もちろん、薄く積もった雪の下に土があるわけではない。ただ不思議なことに、この種の発芽にはそんなことは関係ないとわかっていた。マナが雪の中に種を植える。生まれ育った故郷で、通い慣れた学園で、暖かな陽の下でそうしてきたように。
「……綺麗に咲きますように」
お願いします。どうか、どうかオレを元の世界へ……シンヨーに還してください。それから、ウィストも。彼を待ってる人がここにはちゃんといます。ラジも、ほかの人たちも。みんなを元の世界へ。オレが咲かせるこの花で、どうか願いを叶えてください。
――そういえば、ウィストはどうして花を咲かせたかったんだろう。ウィストにも、何か願いがあったのかな。ウィスト……一度でいいから、会ってみたかったなぁ……。
『その願い、聞き入れた』
「……え?」
見知らぬ声が響くと同時に、辺りが光に包まれていく。冷たい風が吹雪いて、視界が光と雪とで白く染まってよく見えない。
「マナ!」
「っ、レイ、ス、さま……」
こちらに向かって手を伸ばしてくれるレイスの姿もなんだかやけに小さく映る。
狭まる世界の、その最後にマナの目に届いたのは優しいピンクに色づいて揺れるフィソステギアの花だった。
◆Ⅶ
手掛かり無し、か。
ため息を吐いて、ウィストは貸出禁止の本を閉じた。その脇にはヨイノの学園やシンヨーに纏わる歴史の本が積み重なっているが、そのどれもが行方不明者を探す手掛かりにはなり得ていなかった。
「過去に似たような事例がないのかとも思ったが。……こんなこと、そう何度もあっても困るか」
そもそも、誰でも閲覧できるものの中にヒントがあるなら教師や生徒会の人間がとっくに見つけている。
有効そうなのはむしろこっちか、と本とは別の紙を手に取った。
それはマナの日記のコピーだった。チシャによって「見せてやってもいい」と定められた範囲だけがウィストの手元にも渡って来たのだ。どれもありふれた日常で、試験へのぼやきや友人たちと遊んだときの思い出、たまに花の記録が綴られたそれもやはり直接的に解決へと導くものではなかったが、原本である日記帳は不思議な使い方がされていた。
『白紙のページがいくつもあったんだよ。破ったとか、消したとかの跡はないのに、本当にまっさらなページがところどころに何か所も。……マナのやつ、そんな変な使い方してなかったはずなんだけど』
日記は必ずしも毎日つけられたものではなかったが、日が空いても連続したページで書かれている箇所があれば、連日のことなのに白紙のページを挟んで記されていることもあった。チシャやアサツキ曰くマナが普段のノートもそんな使い方をしていたなんてことはなく、そうでなくても、わざわざページの無駄使いをする人間はまずいないだろう。
「見られてはいけない、ここに残っていてはいけない、何か不都合な内容でもあったのだろうか」
そうだとして、それは誰にとっての? 消したなら誰が? どうやってこんな綺麗に? 何の前触れもなく消えたと思われていたマナが、実は自分で行ったのだろうか。
「う……何もわからない……!」
「なあ、アンタ」
「ん?」
見れば一人の学生がすぐそこに立っていた。黒のベレー帽を被る頭はチシャよりも少し明るいくらいの水色をしていて、気崩された服装はあまり図書館には似合わない。ゴテゴテとした指輪を嵌めた指が机の上を指す。
「その本、もう見ないなら貸してくんない?」
「あ、ああ。すまない」
慌てて学園史の資料本を差し出す。「あんがと」と頷いて相手が立ち去っていくと同時に、数名の女子生徒がバタバタと図書館へ入って来た。閲覧室をぐるりと見渡して視界に入ったであろうウィストをすんなりと無視し、先ほどの彼を見つけて「あ!」と声を上げる。
「アンズ先輩!」
「こんなことにいた~っ」
「みんなでお昼食べましょうよぉ」
「今日はお勉強するからダメー」
「えー? なんの勉強?」
「ちょっと調べ物があんの!」
……なんだ、あれは。あっという間に、アンズと呼ばれた男子学生が女子生徒に囲まれる。似たような光景をオネキスでも幾度と見てきた。あちらなら、輪の中心にいたのはドルトだったか。
「どこの世界でも女性の好みというのはあまり変わらないのか」
ふうん、と呟きつつ席を立つ。試験前でもなければ図書館の利用者は少ないからそうバレないと言われたものの、人が増えては何かと面倒だ。わざわざ学園史や国の歴史を調べている人間も珍しいだろうし。数冊の本を抱えて本棚の間を歩く。そういえば、マナが姿を消したのもこの図書館の二階だと聞いたな。
そんなことを思いながら本棚の奥へ目を向けたウィストが、その視界の端で見覚えのある「色」を捉える。この世界では、まだ見たことのない色。角を曲がっていくそれを追いかけて、ウィストは弾かれたように駆け出した。
「――っクラブ!」
埃っぽい室内にウィストの声とその名が響く。行き止まりとなった書庫の奥、二人の背よりも高い本棚の前でクラブが振り返った。金色の髪を揺らして。
「やあウィスト」
ラピスラズリの青い瞳が自身の名を呼んだことに、ウィストは改めて言葉を失った。目の前の人物は、正真正銘クラブなのだ。この事態が起こる数日前に、学園都市オネキスへ、ウィストのクラスへと転校してきた、あの。
「どうして君がシンヨーに」
「さて、何故かな」
「なんだその言い方は……まさか、クラブの仕業なのか?」
やけに含みを持たせた言い方は、思えばウィストの姿を見た瞬間もさほど驚いた様子はなかった。むしろ見つかってしまったかとでも言うような余裕さえあって、はっきり言って怪しげだ。
今もそうだ。お前の仕業かと訊ねられたくせに、何に対してなのかは聞かない。ただ美しい顏で微笑んでそこに立っている。……そして、薄く笑みを浮かべて「どうかな」と呟いた。
「おまえ……!」
「何をそんなに怒っているんだい? 君はニーゼに帰りたいのか。帰っても、あの世界では花は咲かないよ」
「そういう問題じゃない!」
確かに、このままシンヨーにいれば好きなだけ花を咲かせられる。ヨイノの植物園はもっと手入れをすれば他の植物だって立派に世話ができるし、警備隊に入れと迫られることもなければ、兄や家のことを噂されることもない。
この暖かく穏やかな場所にいれば、ウィストは間違いなく自由に生きていけるだろう。
でも、それじゃあ意味がないんだ。だって僕が花を咲かせたかったのは。
美しい花を見せてやりたいと、その笑顔を近くで見て、守りたいと願ったのは。
思わず掴みかかれば、クラブの背が本棚にぶつかって大きく揺れた。古びた本棚はガタガタと揺れて、そこから一冊の本が落ちる。真っ赤なカバーにウィストが一瞬だけ気を逸らせば、それを合図にでもしたかのように窓枠までもがカタカタと音を立て始めた。何処からともなく吹く風が、二人の足元へ落ちた本をパラパラと捲って、やがて風は冷たさを帯びていく。
「な、なんだ!?」
「どうやら、マナは無事に咲かせたみたいだね」
「は……?」
何一つ理解できないままのウィストの眼前で、やはりクラブは満足そうに笑っている。
「どうして、マナが――……」
唸るほどの風は二人の体だけを攫い、やがて書庫は静寂に包まれた。
◆Ⅷ
閉じた瞼越しでも感じる眩しさ。少し湿った土の香り。肌に触れる、やわらかなぬくもり。
「ん……あれ、僕は――……」
ほんの一瞬前まで図書室にいたはずの体は、見慣れた植物園にいた。見上げた天井は少し遠いガラス越しの空。そこに、ひょっこりと一人の少年が顔を出す。オレンジの瞳がウィストの顏を覗き込んで安心したように笑った。
「あ、起きた?」
「え」
「ねぇ、君がウィスト? そうだよね?」
きらきらと輝く瞳でこちらの返事を待つ彼に、ウィストはわけもわからず頷いた。「やっぱり!」興奮したように相手がはしゃげばウィストの頭もぐらぐらと揺れる。いや待て、もしかしてこの体勢って。
「あ、ごめんなさい! 暴れちゃった……起きられる?」
「あ、ああ…平気だ。えっと、ありがとう」
眩しい瞳は直視できないまま、ウィストが柔らかな枕から身を起こす。少年――マナは、待ちきれないとでも言うように膝が軽くなった瞬間に口を開いた。
「あの!」
飛び出た声は思っていた以上に上擦っていて、緊張してるんだ、なんてマナは自分でも驚いた。そうしてレンズ越しの瞳と目が合って、一瞬、言葉を失う。グレーのような少し色の暗い瞳はあまり目付きがいいとは言えない。レイスにはあまりに似ていないのかも。でも、骨格は近い。雰囲気も、なんとなくだけど。
「えっと……?」
「あっ、ごめんなさい、あの、……オレ、マナです」
って言って、伝わるのかな? 不安げに、けれど期待するように少年は告げる。
「ウィスト……オレ、君に会ってみたかったんだ」
会えて嬉しい。どんな人なのかなって、ずっとずっと、考えていたから。
「マナ……」
「うん」
「シンヨーの、チシャとアサツキが探していた、」
「うん……えっ、二人を知ってるの!?」
「あ、ああ。すごく世話になっていて……マナ、どうして君は僕の名前を? やっぱり君はニーゼに?」
「! そう、そうです……! オレ、オネキスに飛ばされて、そこであの、花をね! 花を、あっなんでか種が手の中にあって、それを使ったら花が咲いて、精霊さんが願い事を……!」
「せ、精霊……?」
興奮気味に、とにかくここまでの出来事を伝えようと必死なマナの言葉をウィストもどうにか汲もうとするが、要領を得ない。ぐるぐると渦巻く瞳で、懸命に、とにかくウィストに伝えねば。
「えっと、だからつまりオレはウィストに会いたかったってことで……」
「話を遮ってすまない。そろそろ僕も交ぜてもらっていいかな」
「――クラブ」
揺れる金髪に青い瞳。優雅にこちらへと歩いてくる姿は、腕の中に何かを抱いている。ウィストは咄嗟にマナを庇うように前へと出た。
「ウィストの知り合い?」
「知っているだけだ、何者かまでかはわからない。……味方なのかさえ」
すっと背筋を伸ばすと切れ長の瞳で相手を見据える。
「きちんと説明してくれるんだろうな、クラブ」
「もちろん、そのつもりさ。ただ、もう少し静かにしてくれないかい。彼女が起きてしまう」
「彼女? なんのこと…だ……」
二人の前で立ち止まったクラブが、優しい手つきでその腕に抱いていたのは――生後数か月程度の赤ん坊だった。
「わ、かわいい!」
「ちょ、マナ……! 不用意に近づいたら、」
「君たちに危害を加えるつもりはないよ」
「ないって! それよりウィスト、すっごくかわいいよ!」
「……確かにかわいらしいが」
ウィストにしてみれば、見知らぬ赤ん坊よりも今はマナのことを優先してやりたいのだが、当の本人は警戒心一つ持たずに赤ん坊の様子にはしゃいでいる。仕方がないとため息を吐いて「それでこの子は? お前の子か?」とそのやわらかな命を見下ろした。
「それでこの子は? お前の子か?」
「ふふ、違うよ。彼女は白風。見ての通り、生後間もない精霊さ」
「ふーん精霊……精霊?」
「え、精霊の赤ちゃん!?」
クラブがニコニコと頷けば、赤ん坊こと白風も眠ったまま薄っすらと笑みを浮かべる。わーかわいい……って、そうじゃない!
「また精霊……なんなんだ、何の話なんだこれは」
「精霊、精霊って? じゃあこの子がオレの願いを叶えてくれたの?」
「まあ落ち着いて。まずはこの世界の仕組みから話をしよう。二人とも、此処がどこかは知っているね?」
クラブの言葉に揃って頷く。シンヨーにもニーゼにも存在する、それぞれに通い慣れた温室地、植物園だ。
「あそこをご覧」
白く細長い指がその園内の奥、とある一画を指し示すとウィストとマナはほとんど同時に「あ!」と声をあげた。
「花が咲いてる……!? 周りも……野菜だけじゃない、あちこちに花が……」
「あれ、全部綺麗に整備されてる! すごい、あんなに荒れてたのに……」
まるで、と二人の声が揃う。その先にそれぞれ「シンヨーみたいだ」「ニーゼみたい」と続けて二人は顔を見合わせた。
「どういうこと……?」
「見た通り。此処はシンヨーでもニーゼでもある。君たちが過ごす学園都市オネキスとヨイノ学園は、元々同じ、ひとつの大きな学園だったのさ」
世界は常に精霊によって支配されている。複数の精霊が自分の望む世界を作り、千年を区切りに持ち回っている。異なる性格を持つ精霊たちは自身の支配する世界が一番であると信じ、人々はそんなわがままな精霊の意思の下で生きていく。
「君たちは同じ世界に生まれたんだ。白風の支配する、この世界にね。けれど見ての通り彼女はまだ幼い。数百年と経ったところで、精霊の意思が揺らいで暴走してしまった」
植物園の中を歩きながらクラブが語る。あちこちにウィストやマナの知らない植物が咲き誇り、そこかしこが花の香りに満ちていた。頭がくらくらとするのは充満する芳香のせいか。
「数百年? その赤ん坊は生後間もないんじゃなかったのか」
「精霊の成長スピードが人間と同じなはずがないだろう? 精霊にしてみれば見ての通りの赤子。人間にしてみれば三百歳といったくらいだよ」
「……続けてくれ」
考えるのはあとだ、と息を吐くウィストにクラブは言われた通り話を続ける。
「オネキス、ヨイノ、カメル、そしてアリヤ。学園にはこの四つの寮があり、世界には四つの季節があった。幼い精霊の暴走により、この寮と季節とが分断されたんだ。そして世界を元に戻すため、混乱を避けるためにも、他の精霊たちが人々の記憶を改ざんした。急なことで、こうしてあちこちに綻びが出てしまったけどね」
人間は自分たちが生まれ育った世界はそれぞれにあると思い込んでいた。
実際は、全て同じ世界、同じ学園の学生だったのに。
「それはいつの話なんだ」
黙って話を聞いていたウィストが口を開く。
「この精霊が暴走したのは、僕らが生まれるよりも遥か昔の、百年以上前のことだったりするのか」
「いいや。分断されたのはほんの二、三年前のことだよ」
「……やはり、か」
「ウィスト……?」
「ウィストは心当たりがるみたいだね」
一体何を確認しているのか、ひとり理解出来ずにいるマナが「そうなの?」とその顔を見上げれば、ウィストは少々悩みながらも「これは僕の願望もあるけど」と前置いた。
願望もあるけど、でもきっと、間違ってはいないだろう。
「僕らはずっと前から出会っていたかもしれないってことだよ、マナ」
今ならわかる。マナの日記の、不自然に飛ばされた白紙のページ。ひとつだったはずの世界のことを自分たちは誰も覚えていない。記憶も記録も消えてしまっていたことを、あの日記は示していたのだ。
「出会ってた? オレと、ウィストが?」
「ああ。そうだろう、クラブ」
全てを知るはずの人物は、ここまで話しておきながら「さぁ」と肩をすくめる。仕方がないと無視をして、ウィストは「例えばマナ、何かどうしても思い出せない記憶はないかい」と訊ねた。
「僕はあるんだ。僕が、花を咲かせたかった理由……美しく咲く花を見せたいと思う人がいて、僕は必死になっていた。でも、それが誰かは思い出せない」
「あ、それオレも聞きたかったの! ウィストは花を咲かせたがってたってオネキスのみんなに聞いてね、あんな雪の国でどうしてなんだろうって、思って……」
マナの視線が、オネキスの制服に身を包んだウィストをなぞる。知っている気がした。初めてじゃない、一度や二度でもない。もう何度も、遠くから見つめていた姿だ。目の前にいるずっと会いたかった相手と、マナの記憶の中の「憧れ」の人物が重なっていく。震える声が「オレ、オレはね」と唱えた。
「中等部に上がるとき、初めて入った植物園ですごく真剣に植物を観察している人がいたんだ。そんなふうに植物のお世話をする人なんて、オレ、初めて見て……なんだか、すごく気になって」
胸の前で組んだ手が、かたかたと小さく震える。緊張と興奮。どうしてか今の今まで思い出せずにいた、植物に、花に、興味を持った理由。それが一気に溢れてきて、もしかして、の想いが先走りそうになる。
「その人は、植物の研究をしてるって、でも、そこにはひとつも花が咲いてなくて」
「――ああ、あそこは薬草ばかりで、鑑賞用の植物なんて何も植えていなかったから」
「うん、だからオレ、つい言っちゃったんだ。『素敵な場所だから、花が咲いたらきっと綺麗だね』って」
「そんなこと、僕は人に言われるまで考えたこともなかった」
「咲いたら嬉しいか、見たいかって、聞かれて、っ、オレ、」
「……あんまり素直に、無邪気に頷くから、僕もつい言ってしまった。『じゃあ植えるよ』『君のために、花を咲かせるよ』――おかしな話だ。花の世話なんて、全くしたことがなかったのに」
大粒の涙がマナの頬を伝う。ぐず、と擦った鼻先は極寒の雪の中にいたときみたいに赤くなっていて、ニーゼで、幻の故郷で過ごしていた君もそんな顏だったのかいとウィストは心の中で問いかけた。
互いの失っていた記憶が、パズルのピースを嵌めるみたいにぴったりと合わさっていく。植物だらけの、けれど花の咲いていない温室地。そこに咲く花が見たいと強請った彼と、ならば咲かせようと誓った彼の、二人だけの約束。
「ねぇウィスト。オレたち、ずっと前から会ってたんだね」
「ああ。君のために、僕は花を咲かせたかったんだ――マナ」
二人の足元で、色をつけた花々が揺れる。ああ、やっと、この景色を一緒に見ることが出来た。
なんて美しい景色だろう。
「マナの言うとおり、花に囲まれたこの場所はとても綺麗だ」
「へへ、そうでしょ? もったいないって思ってたんだよ!」
――微笑み合う二人を穏やかに見守り、クラブが白風の頭を撫でる。それから小さく息を吸うと、顔つきを変えて「本題はここからだ」と声を発した。
「端的に言おう。世界を元の一つの状態へ戻すには、どうやら精霊だけではなく人間の力も必要らしい。ニーゼとシンヨー……いや、オネキスとヨイノと言うべきかな。この二つの世界を知った、君たちの『記憶』が」
深い青が二人を見上げた。そこにはつい先ほどまでの悠然とした様子は欠片も無く、淡々と、感情を殺したような色だけが滲んでいる。
「記憶、って。失くしていた記憶のことか? 今、僕らがやっと取り戻した記憶か?」
「ウィスト……」
「それはまた元に戻るんだろう。だったら、僕は協力できるが……」
もし、元には戻らないと言うなら――。そんなはずないだろう、と伺うウィストに青い瞳は目を合わせない。
「……どの記憶がどれだけ必要になるかはわからない。精霊にも、僕にも。何せ初めてのことだから」
「! そんな曖昧なこと……ここまで巻き込んでおいで…っ」
「ウィスト!」
マナが慌てて止めれば、大声と張りつめた空気を察知してか、白風の精霊も目を覚まして泣き出してしまった。「ふぎゃぁぁぁ」と赤ん坊の泣き声が植物園に響く。
「すまない、起こしてしまったね……ああ、こうなると長いんだ」
はあ、とため息をつくクラブに、ウィストが気まずげに目を伏せる。凍り付く空気の中で動いたのはマナで、「いい?」とクラブの前に出るとその腕から赤ん坊を抱きあげた。まだ幼い精霊の赤子。見た目は言葉も話せない赤ん坊そのもので、けれど、腕の中のぬくもりは心臓のある生き物と何も変わらない。
「ごめんね。君を驚かせるつもりはなかったんだ」
「綺麗な目だね」ぱっちりと開いた瞳は少し赤みがかった茶色をしていて、マナの顏を見ると涙を止めてきゃっきゃと嬉しそうに笑った。
「うー」
「気になる? いてて、あんまり引っ張らないで」
「あー!」
「ふふ」
耳飾りを気にして手を伸ばしてくる白風に、「懐かしいな。親戚にもこれくらいの子がいてね」とマナは呟いた。
――ああ、そうか。このままの世界では、次に誰が迷子になるかわからないんだ。自分だけじゃない。友人も、家族も、愛しい人も。みんな、二度と逢えないのかもしれない。
だったら。
「ねえクラブ。――オレの記憶、あげてもいいよ」
マナの言葉にびくりと反応したのはウィストだった。
「マナ……? 何を言って……わかってるのか、何もかも忘れてしまうのかもしれないんだぞ」
「うん。わかってるよ」
「っ、友人のことも、家族のことも、全て消えるかも……!」
「わかってる」
「……本当に」
杏の頭がこくりと頷く。それはもう揺るがない決心で、ウィストがその肩を掴んで詰め寄っても決して首を横には振らなかった。
どうして。だって、やっと思い出せたのに。君にまた会えたのに。
無理だ、とウィストがうわごとのように呟く。
「マナのことをまた忘れるなんて、そんなこと。僕は無理だ」
「ウィスト……」
「っ、君の気持ちが理解できないわけじゃない。このままでいいはずがないよ、もちろんだ――でもっ、僕には君だけなんだ!」
それが元の世界でも、ニセモノの記憶の世界でも。ウィストの兄が優秀で、何かと周囲から比べられ、毎日その重圧から逃げるように学園生活を送っていたことは変わらない。そこに差した一筋の光を、逃避以外にこの植物園に通う意味を、どうしてもう一度手放せると言えるのか。
――僕には無理だ。
「オレだって、ずっとウィストのこと覚えていたいよ」
聞きたくない、と耳を塞ぐウィストに、マナは構わず語り掛け続ける。
「だってすごいことだよ。オレたち、お互いのこと忘れてたのに……それでも会ってみたいなって思ってた、どんな人だろう、きっと素敵な人だろうなって!」
知らない世界でこれからどうなるのか、何もわからない中で。あなたの存在は希望だった。顔を知らなくても、名前しかわからなくても、いつか会いたい。会ってみたい。どんな人なんだろう? どうして花に興味があるんだろう? ノートに綴られた言葉の意味は? 全部全部、直接聞いてみたい。
そうやっていつか会える日のことを思うだけで、不安な心が軽くなって、多少ぎこちなくたって、笑って過ごすことができたんだ。
「これってきっと、運命だよ」
「運命……?」
怯えていた瞳がゆっくりと顔を上げる。その冷たい頬に手を添えて、マナは「うん」と頷いた。
「オレは、そう信じる。願いを叶えてくれる精霊も、世界を支配する精霊もいるんだから。運命だって絶対にあるよ!」
そしてそれは、自分たちのことだとマナは言う。
「運命だから、きっと、また会えるって信じてる」
「マナ……」
「大丈夫だよ、ウィスト。君は自分が思っているより、ちゃんと周りの人に想われてる。こわがらなくていいんだよ」
「そんなこと、」
「あるよ! オレ、ウィストのお兄さんに会ったんだ。ウィストのこと、すごく心配してた」
「兄さんが……?」
「そう! だから、ちゃんと会わなきゃ……ね」
信じて、と微笑むマナの顏をしばらく見つめて、ウィストは観念したように小さく息を吐いた。ぐすりと鼻が鳴って、みっともない姿を見せたと後から恥ずかしくなる。マナはそんな心さえも理解しているかのように「大丈夫だから」と繰り返す。
「お願い、クラブ」
「……頼んだ」
腕の中の白風をクラブに返すと、三人は黙って頷き合った。
「君たちを巻き込んだこと、私も申し訳ないと思っている。精霊の持つ力は強大で、暴走すると厄介なんだ。今回は悪意がなかっただけよかったが」
「……この答えだけはもらってないが、結局おまえは何者なんだ」
腕の中の幼い精霊を揺らしながら、血色のいい唇は「ただの人間だよ」と歌うように言う。それ以上でも、それ以下でもない。
「いや答えになってないんだが……」
「面白い人だなぁ」
「マナ?」
「さあ、そろそろお別れの時間だ」クラブが長い指を鳴らす。ふわりと風が吹いて、園内の植物たちがさわさわと音を立てた。
咲き誇る花の香りに、かと思えば潮の香りが冷たい風にのって鼻孔をくすぐる。ガラス越しに見上げた太陽はいつの間にか夕暮れの色をしていた。
「なんだかいろんな世界が混ざっているみたい」
「元に戻ろうとしているんだよ。元の、一つの世界にね」
暖かな陽気に花が満開となる季節。じりじりと太陽の照りつける季節。涼しい風に木々が色を変える季節。白い雪の降り積もる季節。
次に目を覚ましたとき、自分たちはどの季節にいるのだろうか。
――どの季節でなら、君にまた出会えるだろうか。
「マナ」
「うん?」
「僕も信じるよ。僕らは、必ずまた会えるって」
「……そうだよ、オレたち運命なんだから!」
「ああ、運命だ」
どちらともなく手が触れて、互いの指を、その存在を確かめるように絡み合わせる。今ここで、隣で、間違いなく二人で同じ花を見ていたのだと。
「次に会うときは、オレが育てた花をウィストに見て欲しいな」
「そうだな……そしたら、育て方を教えてくれ。僕の力では結局花は咲かせられなかったから」
「二人で育てよう? 約束!」
「約束だな」
じゃあ、また。
うん、また。
必ず会おう。
必ず、絶対に。
それまでさようなら、運命の人。
◆Ⅸ エピローグ
「ツェル~! 明日の小テストの範囲ってどこだっけ!?」
「さっき言われてたのに、聞いてなかったのかチシャ」
「聞いてたけど確認。オマエなら絶対に漏らさず聞いてるじゃん?」
「……六十四ページから八十二ページ」
「え、多っ」
*
「あ、ドルト先輩! アンズ先輩見ませんでしたか?」
「アンズ? 見たか、カイドウ」
「いや、知らな……あそこで女子に囲まれてるのがそうじゃないのか」
「ほんとだ……アンズ先輩~!」
「おまえらどけろって……あ、おせーぞラジ! てか先輩呼びやめろって!」
*
「レイス、いいかな?」
「やあオウレン。どうした?」
「ヴェイル先生から伝言。今夜の寮長会議の時間なんだけど……」
*
「君、図書委員でしたよね。イシ先生に個人的に借りた本なのですが、預けてもいいですか?」
「あ、はい!」
「ありがとう」
ふ、と微笑んで去っていくリョウブの姿を、アサツキがぼーっと見つめる。
「生徒会の先輩と話しちゃった……ん?」
「十八ページなんてほとんど二十ページじゃん! 多いっての!」
「だから要点を絞ったら大したこと……あ、アサツキ」
廊下の向こうからやってきた賑やかな二人がそれぞれに友人であると気づくと、アサツキは紅の瞳をにこっと細めて「何の話?」と駆け寄った。すかさずチシャが「小テスト! 範囲、超多いの!」と大声をあげる。
「勘弁してほしいよ、これ合格点いかなかったら次の授業で名前書かれるやつだろ?」
「書かれないようにすればいいだろう」
その通り。でも、それが出来たら苦労はしないのだ。じとっとツェルを睨むチシャを、アサツキが「まあまあ」と宥める。そのまま三人で廊下を歩いていれば、後ろから「君たち」と呼び止められた。
「シャニ先生」
「マナを知らない? 保健室に飾る新しい花を頼みたいんだけど」
仲良かったよね、と確認されて三人とも何となく「まあ……」と曖昧に頷く。
「そういえば、授業が終わってすぐに消えちゃったね」
「どうせまた植物園だろ……あ、今日あれだ。ナントカって先輩が、空いてるところで薬草を育てさせて欲しいって言ってたやつ」
「言ってたねー。薬の研究してるっていう高等部の人でしょ」
「ああ、ではうちの寮の先輩かもしらない。警備隊長の弟で……」
ツェルの説明に、チシャとアサツキは「へー!」と感心したように声をあげる。
「いい人だといいね」
「なんで?」
「少なくとも悪い人ではないが……少し不真面目なところがあるだけで」
そうなんだ、とクスクスと笑って、アサツキは「だってほら」と続ける。
「マナ、初めて植物仲間が出来るかもって喜んでたから」
学園の片隅、使われていない古い校舎の更に奥。ひっそりと佇む植物園を訊ねる生徒は、初等部から高等部、大学生まで含めても極めて少ない。巨大なこの学園都市ではあちらこちらに植物が植えられており、花壇では四季折々の花が咲く。わざわざ植物園など訊ねなくても、学園内の好きなところで花を愛でられるのだ。
それでも、毎日のようにその温室地へと通う生徒がただひとり。植物たちへ水を遣って回るマナは、鼻歌を口ずさんでいる。
「そろそろかな」
落ち着きなく時計を見上げたそのとき、キィと音を立てて植物園の扉が開かれた。
「失礼する、約束をしていた者だが……」
「あ、お待ちしてました!」
まんまるのオレンジの瞳と、眼鏡のレンズの奥のグレーの瞳が交差する。互いの顏を見て、マナとウィストは息を呑んだ。開いたままの扉から風が吹き込み、どこか懐かしい空気と共に春の陽気が二人を包む。
それは瞬きをする間の出来事だった。ほんの一瞬、刹那的に呼び起こされる記憶。知るはずのない相手の笑顔に、満開の花と真っ白な雪。脳裏を焦がすようにじりりと蘇った思い出は、すぐに泡と消える。
「――あ、どうぞ奥に。えっと。荷物はここに置いてもらって……」
「あ、ああ。ありがとう、では失礼して……」
ぎこちない二人の様子を、クラブは植物園の中二階からひっそりと見守っていた。その脳内に複数の声が響き渡る。
(結局、あの二人はお互いについての記憶だけが戻らなかったんだな)(みたいだな、騒動以前に互いに意識していたことすら忘れてしまって)(かわいそうにのう……)(こればかりは我らとて、どうしようもない。――それでもお主は助けたかったのだろう、クラブ)
「ええ。……どうにも、あの二人の顏には弱くて」
古い友人を思い出したのか、クラブは苦笑しながら傍らにいる少女の頭を撫でた。精霊の成長速度は人間とはまるで比べ物にならない。白風の精霊も、その見た目はすでに人間の四、五歳程度にまで成長を遂げていた。髪色と同じクリーム色のワンピースに、胸元で赤いリボンがゆらりと揺れる。
「しかし、まだまだ油断はできませんからね、新たな精霊【この子】の力が安定するまでは、今後もこの世界は全員の意思で守るという事で」
よろしいですねとクラブが呼びかければ、その脳内で精霊たちはそれぞれにため息を吐きながらも了承した。
(面倒なことだ)(仕方あるまい)(まあ、数百年もすれば一人前になるじゃろう)(そうだな。数百年など、我らにとってはほんのひととき)
――けれど、人間にとっては遥かに長い永遠のような時間。
「さあ、往こうか」
白風の小さな背を押して促し、クラブは最後にもう一度だけ二人を振り返ると白い光の中へとその姿を消した。
「あ、自己紹介がまだだったね!」
マナの言葉に、ウィストもそういえばと向き直る。
「はじめまして、オレはマナ」
「はじめまして、マナ。僕はウィストだ」
「ウィスト?」
「ああ」
「ウィスト……」
何かを確かめるようにその名を転がす。口に馴染む、甘い響きだった。
「よろしくね、ウィスト」
「よろしく、マナ」
遠く、校舎の向こうからチャイムが響く。色とりどりの花に囲われた小さな庭園で、それはまるで運命の再会を祝う祝福の鐘のようだった。