良い花は後から いつか、うんときれいな花が咲いたら。
君に見せに行くから。
そのときまで会えないかもしれないけど。
必ず、必ず、会いに行くから。また、会えるから。
「ウィスト、この草は抜いていいものか?」
「……抜いてから聞かないでくれ、ドルト」
ウィストがため息を吐くと、農作業用の手袋を嵌めたドルトが「駄目なやつか」と呟いて鷲掴みにしていた草の根を土中へと戻した。土をかけ、ぺたぺた、ぱんぱん、と押し固める。一度外に出された草はやや元気を失ってへにゃりと頭をもたげていたが、水をやって陽の光を浴びせればすぐに背筋を伸ばすだろう。
「それにしても、少し畑を広げ過ぎじゃないか。研究が進んでいるのはいいことだが、管理が大変だろ」
「まあ……学園〈ここ〉の温室は集落の倍以上だから、確かにやることも増えたけど。シャニやヴェイルもよく手伝いに来てくれているし、ツェルや……こうして、ドルトも手を貸してくれている。有難いくらいだ」
学園の空き地に温室が出来たのは数か月前のことである。精霊の一件を経て、学園に復学したウィストは真面目に授業にも出るようになった。元々勉強が苦手だったわけではないため、試験の成績はあっという間にツェルと並ぶほどになり、おかげであまり良く思っていない学生も何も言えずにいる。その筆頭格であったはずのツェルがウィストの研究の手伝いをしているのだから、余計に。
温室が設立されたのは彼が総長の息子であることも関係はしているが、それだけではないということをオネキスの誰もが知っていた。
「それこそツェルに言われてだよ。最近自分が行けてないから、代わりに行ってくれって」
「そうだったのか……前から思っていたのだけど、僕はツェルに嫌われていた気がするんだが、思い違いだったのかな」
「どうだろうな? あいつは素直じゃないから」
「……答えになっていないな」
まあいいか、と作業を再開させたウィストを盗み見て、ドルトが小さく笑う。ツェルがウィストを嫌っていたのはその通りだ。だが、それはウィストが本当は「やればできる」人間であるのに、何かと逃げては集落の温室に閉じ籠ってばかりだったからである。研究に――それも、レイスを助けるための新薬開発に打ち込みその能力を遺憾なく発揮する姿は、きっとツェルが憧れる男に似ているのだろう。
わからなくもない。ドルト自身、こうして苦悩しつつも毎日せっせと勉学と研究に励むウィストは学生時代のレイスを思い起こさせる。
だからこそ、気にかかることもあるのだが。
「ところでウィスト、お前、ちゃんと休んでいるのか」
「え?」
「いくら集落の人間や俺たちが手伝ってるって言っても毎日じゃないだろう。授業と違って、植物の世話は休みがない。毎日この広さの畑の世話をして、観察して、薬の研究して……その上、授業の課題もある。あんまり寝てないんじゃないのか」
「……僕は、長い間授業にも出ず、随分と時間を無駄にしてしまったから」
子供のような言い訳だと自分でも思った。案の定、大きなため息が聞こえてびくりと体を強張らせた。
「手の空いてる警備隊員を呼んでくる。指示だけくれ、あとは俺たちがやるからお前は今日は休んでろ」
「でも」
「お前がいつも言ってる、『異世界の恩人』」
「っ」
「そいつは、ウィストが無茶をすればなんて言うんだろうな?」
脳裏に、あの眩しい太陽のような色が浮かぶ。視線だけを動かして作業台の上をちらりと見た。土汚れが付いたままのノートは、とっくに全ページを使い切っている。内容も全てウィストの頭の中にあって、世話の手順や手入れのコツは人々に共有するために綺麗に書き写している。処分しても構わないというのに、ウィストはそれを毎日持ち歩いていた。まるで、お守りのように。
ウィストは何か新たな言い訳を吐こうとして、すぐに諦めたように頷いた。
「任せる」
「ああ。ツェルや、レイスも心配していたからな」
「兄さんも?」
「そりゃあそうだろう、お前の兄貴なんだから」
パラ、と紙を捲る音が温室に響く。汚い字だ。走り書きのような文字ばかりで綴られたメモは、土を触りながら書いたせいもあって自分ですら読みにくい。ドルトが言った、ウィストの『異世界の恩人』――マナは、このノートのことを嬉しそうに話してくれた。シンヨーとニーゼでは言語が微妙に異なることを、ウィストは知っている。シンヨーにいた間、ウィストもマナの残していた日誌には目を通していたが、彼の字はウィストと違って丁寧で読みやすかった。ただ、花係は退屈でつまらない、もっとやりがいのある仕事がしたいと、ウィストとは真逆の本音が綴られていたけど。
今はどうだろう。
少しはマナも、花の世話を楽しく思っていればいいけれど。
「元気だろうか」
その答えを、直接聞くことはできない。
「ん、あそこの土……少し乱れているな。ドルトが触っていたところか」
手伝いが有難いのは本当だが、いまいち雑なところもある男だ。仕方ない、と腰掛けていたコンテナから立ち上がった。そのときだった。
「っ!」
視界が反転する。頭を殴られたみたいに脳がぐらついて、足元がおぼつかない。咄嗟に伸ばした手は宙を掴んでバランスを崩し、靴底がじゃり、と土に滑って音を立てた。なんだ、これ。あっという間に膝が折れる。冷たい土の上に正面から倒れ込むと、土埃で咳込んだ。ああしまった、ドルトの言う通りだ。確かに、ここ数週間まともな休息を取っていなかった。後悔してもきっと遅いのだろう、自覚した途端に体が熱くなる。なのに酷く寒くて――。
「戻ったぞー。喜べウィスト、そこでちょうどツェルも捕まえて……ウィスト?」
「別に、任務が早く終わっただけで……え、ウィスト先輩?」
ああ、戻って来たのか……それに、ツェルも一緒? はは、僕はまた怒られるのだろうな。どうしよう、兄さんにも心配をかけてしまう。でも、もう意識が……。
「ウィスト、おい、ウィスト!」
「ウィスト先輩、返事して先輩っ、先輩!」
温室地には不釣り合いな叫びを聞きながら、ウィストは意識を手放した。
ストーブの上に置かれたケトルが白い息を吐きながらしゅんしゅんと音を立てる。ツェルが火を弱めつつケトルをテーブルに移すと、一人分のカップに煮え立った湯を注いだ。
「寝不足による過労、ちょっと熱もあるね。大したことないよ」
「本当か?」
「本当、本当。寝たら治るよ」
解熱剤だけあげようね、と年老いた医者はのんびりした口調で言った。付き添いの看護師がいくつかの錠剤を缶に移してドルトに差し出す。ちっ、と小さく舌打ちをこぼすと奪い取るようにその缶を受け取った。
「信用できるのか、あの医者。やっぱりレイスの担当医を呼んだ方がよかったんじゃ」
医者と看護師が出て行った扉を、険しい目つきで睨みつけながらレイスが言う。
「こんなことで国の名誉医師を呼べないよ」
「そうですよ、そもそもウィスト先輩がきちんと休息を取っていれば起こり得ない事態だったんですから。はい、どうぞ」
「あ、ありがとうツェル……なあ、やっぱり僕は嫌われているんじゃないか?」
「俺も今はお前に腹を立ててるぞ」
「うっすまない」
「何か言いました?」
「いや、何も!」
ツェルから受け取った白湯入りのカップへふうふうと息を吹きかける。そーっと口をつけると、同じ様にドルトに手渡された解熱剤を飲み込んだ。これですぐに回復するといいけれど。
「全く、あなたは本当に極端な人ですね。学校に出るようになったと思ったら、畑仕事も研究もノンストップで全部やり続ける。何のために私たちが手伝いを申し出たと思っているんですか?」
「本当にすまない……だが、ツェルたちだって警備隊の仕事が忙しいだろう? あまり僕の我儘に付き合わせるのも、」
「そう思うなら自己管理はきちんと行ってください。この時間で三人いればどれだけ作業が進められたと思ってるんですか。そういうところが適当なんですよあなたは」
「ああ、はい……」
一言えば十返ってくる。ウィストは反論するのを諦めてカップの中身を飲み干した。怒りの治まる様子の無いツェルは、先ほどまでストーブの上で音を立てていたケトルのようだ。冷静に小言を並べていたかと思えば、次第に熱を高めていく。こんなことを本人に言ったら噴き溢して大惨事になるだろう。
「ツェル、お前沸騰したケトルみたいだぞ」
「お湯ぶっかけてあげましょうか」
二杯目が注がれる音を聞きながら、ゆっくりとウィストが船を漕ぎ始めた。疲れは勿論、薬の副作用もあるだろう。小さくあくびをこぼすと、それを合図にドルトとツェルも部屋を出ていった。きちんと眠るようにと釘を刺され、一緒に運ばれてきたノートもベッドからでは手の届かないテーブルに置かれた。わざわざベッドから出てまで読み返す必要はないし、まあいいかと大人しく瞼を閉じる。
確かにそこに在る。その事実だけで、ノートはやはりウィストの心を落ち着かせた。
薬のおかげでぐっすりと眠っていたウィストは、不意に誰かの気配を感じて瞳を開けた。ぼやけた視界には見慣れた自室の天井が映る。寒気は感じない。熱はだいぶ下がったのだろう。体はまだ重たいけど、さっきよりずっとマシだ。そんなことを思いながら僅かに身じろぐと、テーブルの前に誰かが座っているのが見えた。
ツェル、ドルト? それとも、兄さん? それにしては随分小柄な……それに、あの眩しい色は、懐かしいような。
「ま、な……?」
小さく小さく、その二つの音を口にした。いるはずのない、会えるはずのない人の名前を。
声に反応した人影が、ゆっくりと振り返る。
「ごめん、起こしちゃった?」
振り返ったマナは、例のノートを手に懐かしい微笑みを湛えていた。
「まな……ど、して、ニーゼに……」
「ウィストが心配で」
ああ、夢だ。これは。
都合のいい夢だ。
だって、マナは別の世界に生きる人。会うことは叶わない人。
「しん、ぱい……心配、そうか……僕は、君にめいわくを……」
悔しい、情けない。もしも次にマナに会うことができたなら、そのときは元気な姿で、それまでの研究の成果とニーゼで育てた立派な植物を見せるのだと決めていたのに。例え夢の中だとしても、こんな状況で再会したくはなかった。下唇を嚙みながらゆっくりと起き上がろうとするのを、マナが慌てて止める。
「迷惑なんて言わないで。オレが勝手に来たんだから」
心配そうな顏が、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「オレが、ウィストに元気でいてほしくて、できるなら笑顔でいてほしくて……会いたくなって、来ちゃったんだよ」
「マナ……」
「うん」
「……眼鏡を、取ってくれないか。そこのテーブルにある……」
「ああ、はい」
「ありがとう」
ベッドに寝たまま、受け取った眼鏡をかける。視界がはっきりとして、マナの姿もよく見えた。懐かしい、本当に懐かしい姿だ。
「服……シンヨーの?」
「え? ああ、そう。着替える時間なくて……あんまり長居も出来ないし」
「そうか。寒くはないか?」
聞いてから、おかしな話だと思った。とてもリアルなやりとりだが、夢の中だから寒さなんて関係ないはずなのに。
「平気だよ、ありがとうウィスト」
「いや……初めて見たが、よく似合ってるな」
「えっ」
「マナ?」
「あ、ううん! えへへ……」
何かおかしなことでも言っただろうか。意識がまだ朦朧としているせいで、あまり頭が回っていないような気もする。夢とはいえ、失礼なことは言わないように気を付けなくては。ぐるぐると思考を巡らせるウィストは思い出したように「そうだお茶を」と言いかけたが、マナは「いいって! すぐに帰るから!」と首を振った。もてなし一つ出来ないなんて、本当に情けない。
「せめて、花を見せてやれたら」
「花?」
「ああ……最近、新たに咲いた花だ。品種改良と栽培の設備を整えたおかげで、こちらでもだいぶ安定して花が咲くようになったんだ」
「本当に? すごい……すごい、すごいねウィスト!」
「あ、ああ」
すごいすごいと繰り返して瞳を輝かせるマナこそ、花のように華やかで可憐だ。解熱剤のおかげで下がったはずの体温が再び上昇するのを感じる。
「ウィスト、顏赤いね。やっぱりしんどい?」
「えっ、いやこれは……大丈夫だ、多分」
「本当に? 何かオレに出来ることはない?」
「いや、本当に大丈夫だから…あまり見つめないでくれ、なんだか心臓が……」
「心臓? 痛いの? どうしよう、お医者様呼んで、」
「いい、いい! 本当にいい! 治ったから!」
治るわけあるか。どくどくとドラムを打ち続ける鼓動を誤魔化す。マナは先ほどまで咲き誇らせていた笑みを萎ませ、不安げな眼差しを浮かべていた。彼が表情に出やすい人間であることは短い付き合いだが知っている。自分たちの世界に帰るにはと思案していたときと同じその表情に、やっぱり、心臓がつきつきと痛んだ。
「ごめん、オレ、自分がウィストに会いたいからって……ちゃんと元気なときに会いに来ればよかった」
ごめんなさい、と繰り返して震える肩を抱いてやれないことがこんなにももどかしい。そんな権利が自分にはなくても。
「……手を」
「手?」
「ああ……握っていてくれないか」
マナが顔を上げる。その視界に映るように、ウィストが左腕を持ち上げた。
「作業をしていたから、少し土っぽいかもしれないが」
「ふふ……平気、オレも同じだよ」
大きさの違う手を重ねると、ウィストの方が僅かに肌が白い。シンヨーとニーゼの気候の違いだろう。いつも太陽の下で過ごすマナの方が、よく日に焼けている。
「あったかいね」
「ああ、落ち着くよ。――マナは、最近どうなんだ? 花係の仕事は順調?」
「とっても。ウィストやヴェイルたちに教わったおかげで、前よりも綺麗に花が咲くようになったんだ。こないだは、神官様たちにも褒められちゃった」
「そうか。それはよかった」
「うん……そうだ、あのノート」
マナがテーブルを振り返る。
「懐かしいね。オレ、あのノートでウィストのことを知ったんだよ」
「ああ、言っていたな」
「うん。すごくたくさん、植物のことが書いてあって……ウィストの本音も書いてあって、どんな人なんだろう、会えたらいいなって思ってたんだ」
だから、また会えてすごく嬉しい。
大きな瞳をにっこりと細め、マナは再会してからいちばんの笑顔を見せた。よかった、マナも前に向かって進んでいる。花の世話を楽しんで、こんなにも素敵に笑っている。これが都合のいい自分の妄想だとしても、もう大丈夫だと、心から思えた。
「よかったら貰ってくれないか」
「へ?」
「ノート」
「えっダメだよ! 大事なノートでしょ!」
「もう中身は覚えているから。君に持っていて欲しいんだ」
「ウィスト……」
「ああでも、歪みになってしまうのか」
「あ、そうか……」
うーん、と小さく呻いてから、マナは「あとで聞いてみるよ」と呟いた。小さな声はウィストの耳にははっきり届かず、「え?」と聞き返したものの、マナはそれ以上は何も言わずに首を振った。大切にするね、と再び笑みを返されて、何度目かわからない胸の高鳴りが全身に響く。ウィストもほっとしたように頷き返した。
そこに在るだけで安心すると思える、お守りのようなノート。本当なら誰かに譲渡なんて出来るはずもなかったが、マナが持っていてくれると思うと、不思議なことに自分の手元にあるよりも落ち着く気がした。
繋いだ指先も、心までも、穏やかなぬくもりで包まれていく。
ずっとこのまま、このあたたかな場所にいたい。そんな、夢のような願いがふわふわとウィストの脳裏に浮かぶ。
「……あのさ、ウィスト。本当は、いちばん綺麗な花が咲くまでニーゼ〈こっち〉には来ないって決めてたんだ。オレがいちばん綺麗だと思える、どこへ出しても恥ずかしくないくらいの花が咲いたら、そのときになったら、ウィストに見せに……会いに来ようって。っでも、ウィストが倒れたって聞いたら、もう、居ても立っても居られなくなって」
ぽつり、ぽつりとマナが言葉を続ける。紡がれていく音は、二人の手が置かれたベッドに落ちていく。緊張した様子のマナが、それでも、と繋いだ手をぎゅっと握り直した。
「そう思うくらい、オレにとってウィストは大切な人なんだ。それくらい、オレ、っウィストのことが――……ウィスト?」
ぱっと顔を上げたマナの目に映ったのは、穏やかなウィストの寝顔だった。眼鏡をかけたまま、すぴすぴと寝息を立てている。
緊張が解けて、マナの頬が薔薇のようにカーッと色を差す。へなへなとその場にしゃがみ込むと、涙目でベッドに横たわる顔を睨んだ。
「ウィストのバカ……」
こんなタイミングで寝ちゃうなんて。
もう、と悪態を付きながら、名残惜し気にその手を解く。起こさないようにと眼鏡を外して元あった場所に返してやると、ぬくもりの残る手で例のノートを手に取った。土に汚れた表紙を愛し気に撫でる。知らない言語であったはずが、はっきりと読めるようになった彼の名前。その名の上を何度も何度も、満足するまで指先でなぞると、しばらくしてマナは徐に天井を見上げた。
「クラブ! クラブ、いるんでしょう? もういいよ!」
なんとなく天井の四隅に向かって控えめに呼びかけると、壁に備え付けられた大きな姿見からオーロラ色の光を放った。あ、そういえばそっちだった。マナが駆け寄れば、鏡の中から金髪の青年が姿を現す。
「もういいのかい?」
クラブにとっても懐かしい世界であるが、様々な次元を渡り歩き、時折ニーゼやシンヨーの様子もひっそりと見守っているので感動は薄い。あっけらかんとした様子で「起きるくらいまでならいられると思うよ」などとマナへ声をかけた。
「いい。誰か来ても大変だし」
「足止めくらいならできる。それに、彼はきっと君との再会を夢だと思ってるようだけど」
本当にいいの? と繰り返すクラブに、マナはふるふると首を横へ振る。夢だと思っているなら、それはむしろ好都合だった。
「本当は会っちゃダメだもん、まだ」
オレンジの瞳の奥、そこに宿る意志を汲み取って、クラブも穏やかに頷いた。
「君の意思を尊重する。それじゃあ行こうか」
「あ、クラブ、ひとつだけ……これ……」
件のノートをおずおずと差し出した。ニーゼで作られ、ニーゼで使用されていたノートだ。このままシンヨーに持ち込んでは、歪みを生みかねない。
伺いを立てるように見上げるマナに、クラブは唇に指を当てて少し考えると、「まあ大丈夫だろう」と答えた。
「え、いいの?」
てっきり、諦めろと言われると思っていた。そちらの覚悟も決めていたのですっかりと拍子抜けしたが、精霊と契約を交わしたにも関わらず、こうしてマナをニーゼへ連れてきてくれたクラブがいいと言うなら問題はないのだろう。
「歪みも随分修繕されたし、そもそも君をウィストに会わせろと言ってきたのは精霊……花風だからね。このくらいの融通は利くだろう。あちらからの『お見舞い』もあるし、きっと平気さ」
やや適当に聞こえなくもない見解だが、まあいいかとマナも深く考えるのはやめた。悩み過ぎるとなかなかそのループから抜け出せなくなる性分であることを、いい加減、自覚もしている。
「花風様って、どうしてそんなに良くしてくれるの?」
「君がかわいいんだよ」
「え? あっ、あはは、ありがとう」
宝石のような碧眼でぱっちりとウィンクを決めたが、マナはちょっぴり苦笑いを浮かべただけで、顔色一つ変えなかった。
「ふむ、やはり想い人には敵わないか」
「なに?」
「いやいや……さ、シンヨーへと繋ぎ直したよ。ウィストにお別れを言っておいで」
「……うん」
短いやり取りを終え、クラブが姿見を指し示す。オーロラの光の向こうから微かに花と果実の甘い香りがしていた。
こっくりと頷いたマナは再びウィストの枕元に近づくと、変わらない寝顔に優しく触れる。勝手に触ってごめんね、でも、これは夢だから。夢の出来事だから、許してください。
「ウィスト。必ずまた来るから……次に会うときは、もっと立派に咲いた花をウィストに見せるね」
頬をなぞり、少し迷ってからその額に唇を落とす。えへへ、と小さく笑って背を向けると、マナはそのまま眩しく輝く鏡へと飛び込んだ。
コンコン、と響いたノックにウィストの意識はすんなりと浮上した。カーテンの締め切られた部屋では時刻も何もわからず咄嗟に寝過ごしたかと慌てたが、体調を崩して寝込んでいたことを思い出す。「どうぞ」と返事をすれば、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「やあ。具合はどうだ?」
「兄さん!」
姿を見せたレイスは軽快な足取りで室内へと入ってくる。最近では調子のいい日も続いているが、それにしてもどこか上機嫌だ。
「なんだか嬉しそうだな」
「いやすまない、いつもは見舞われる側だから、弟のお見舞いができるなんて滅多になくて」
「呑気だな……僕はツェルやドルトに怒られたって言うのに」
上半身を起こすと、もうすっかりと体も軽くなっていた。思考もはっきりしている。睡眠に叶う栄養剤はないな。なんだか、とてもいい夢を見た気もするし。
レイスはベッドサイドに椅子を運びながら「私もよく叱られるよ」と穏やかな口調で返す。
「無理をしてしまいがちだから。お前が倒れたのを見て、きっと私に重ねたんだろう」
「あ……」
そんなに大げさにならずとも、と構えていたことが途端に恥ずかしくなった。彼らにとって、目の前で人が倒れる光景は嫌な思い出としてきっと何度も刷り込まれている。その弟とあれば、最悪の事態がいくつも浮かんだことだろう。
「回復したら、みんなにもう一度謝りに行くよ。それと、お礼も」
「そうするといい……あれ、他にも誰かお見舞いに来ていたのか?」
「見舞い? いや、ツェルとドルト以外は、別に……」
言いかけていた言葉が、ハッと止まる。椅子に腰かけようとしたレイスは、その腰を浮かせたままウィストの足元へ手を伸ばした。シーツの上、小さな白い花束が置かれている。レイスがそれを手に取ると、オレンジ色のリボンがひらひらと揺れた。まるで、誰かの耳元で揺れる耳飾りのように。
「マナ……?」
だって、あれは夢のはず。
慌ててテーブルの上に目を向けると、そこには一人分のカップが置かれているだけ。床の上にノートが落ちている、なんてこともない。鼓動がどくどくと早くなる。夢のはず。あれは、だって。
会えるなんて。
会いに来てくれるなんて。
「ウィスト?」
様子のおかしな弟を、レイスが怪訝そうに見る。ウィストは思い出したように自分の左手を見つめた。あたたかいと呟いて、それから、そっと額に触れる。
もし、夢じゃないとしたら。マナが本当に、ここへ会いに来てくれて、あのノートを持ち帰って、代わりに見舞いの花束を置いていったとして。
どこまでが、現実?
「それにしても綺麗な花だな。模造じゃない……生花? 驚いたな、こんな花までもう咲くようになったのか」
「あ、いやそれは……」
ニーゼの花ではない、と言いかけて、記憶の奥底で響く声を思い返す。もし、あの夢のような再会が何一つ夢でなかったとして。二度目の別れの、その最後の瞬間まで、全て、本当だったとしたら。
「……まだ、ニーゼでは咲いていない花なんだ」
嬉しそうに花の香りまで楽しんでいたレイスが「まだ?」と首を捻る。
「ああ、まだ。でも、いつか必ず咲かせるよ」
この雪の国でも、必ず咲かせてみせる。
同じくらいに、いや、これ以上に立派に、美しく咲き誇らせるから。
そのときは、きっと僕から会いに行くよ。
必ず。また、会いに行くよ。