sc16受「待って」萩景 オレの「待って」はいつも遅い。
歩幅の違う兄を必死に追いかけて、でも追いつけなくて、白く冷たい雪で壁が出来てから何とか口を開いた。でも寒くて少ししか開かなくて、結局声どころかただの音さえほとんど出なかった。兄が気付いてくれなかったらきっと吹きすさぶ雪に埋もれてしまっていたかもしれない。
オムライスを掬っていた手を取られて、母に扉の中へ押し込まれた時だって、喉からでるものは言葉にならなくて、ただ無意味な音を発するだけだった。隙間から見た光景に、振り下ろされる恐ろしい手に、オレの口からその言葉が出ることは無かったのだ。
やっと失っていた声を取り戻したときは嬉しかった。だけれどもやはり、それでもオレの「待って」は転がり出るまでがとても遅い。前を走る親友が力強くてまぶしくて、きっと追いつけないとわかったとき、もう「待って」というのを諦めていた。待ってと言って待つやつじゃないし、そもそもオレのために立ち止まらせて待たせたくなんてない。それならオレができる範囲で頑張って近づけばいいのだと思った。
それは、それとして。
迫り来る鼓動の波と、息苦しさと、あとなんだろう。これ、もしかして恥ずかしいのかもしれない。
顔が真っ赤になっている自覚はあるし、何とか開けた視界はそれはもうボヤボヤだった。
「ン……はぁ、は、ぎ、んむ」
待って。ようやくその言葉を口にしようと思った時には、言葉に出来なくなっていた。物理的に。
どうしよう。どうしよう。
本当にいつも遅い。
彼の長い舌がオレのものと絡まって、吸われて撫でられて。息も絶え絶え、思考も朦朧、言葉なんかまともに発せられるわけが無い。
どうしよう。と、それだけが思考の円環を巡ってその先に行こうとしない。
気持ちいい。それはそう。
でも、ちょっと苦しい。それもそう。
あと、恥ずかしい。本当にそう。
どうしよう。待って。どうしよう。どうしよう。待って待って。待って、萩原。
キャパオーバーでもしかしたらショートしてしまうかもしれない。そう思ったとき、ちうと舌を吸って、オレの口を塞いでいたそれは離れていった。
はあ、と思わず漏れた吐息に前方からかすかに笑う声がする。ムッとして睨みつけると、滲んだ視界の先で萩原が眉をたれ下げ頬を赤くして笑っていた。それはもう、情けないくらいにだらしが無い顔だった。視線が絡むと目尻がじんわりと滲む。
「はぎ」
「なあに諸伏」
「オレ、待ってって言おうとした」
「言おうとしただけでしょ。まだ言ってなかったもん」
萩原はとても察しがいい。特に人の機敏においては多分、ピカイチだ。班長よりも零よりも松田よりも、頭一つ抜けていると思う。オレが口を開いて何を言おうとしていたのかも分かっていただろうし、本当にどうにかなってしまいそうだとそう思った時には限界を読み取ってするりと開放してくれた。引き際も心得ている。なんて狡い人間なんだと思う。
「諸伏、本当にいやなときは嫌って言わなきゃわかんないし、待ってほしいときも口に出さないとだめ」
「だから言おうとした」
「間に合わなきゃ意味無いって」
「でも萩原なら、わかるでしょ」
ちょっと拗ねたように言うと、萩原はくすくすと笑って俺の頬を撫でる。するりと滑って、さっきまで触れ合っていたところで親指がふにふにと遊び始める。
「わからないよ。だって俺は諸伏じゃないし、俺は止めたくなかったし」
目を細めている彼は何故か嬉しそうに親指でオレの下唇を弄ぶ。器用な彼の指が何かを拭うようにそこを滑ると、気付いた時には大きな身体が前から覆いかぶさっていた。まるで外から俺を隠すように、ぎゅうと抱きしめてくる。オレだってそれなりに長身だからすっぽり隠れるなんてことは無いけれど、俺より肩幅もある彼が覆いかぶさってくると埋もれてしまうような感覚がある。
秘匿される財宝はこんなふうに誰かに守られていたのかもしれない。
「はぎ、はぎ。あの」
「嫌のことは嫌って言う。待って欲しい時は待ってって言う。それ、すごい大切なことだよ」
優しく耳に滑り込んでくる声は、ほんの少しだけ怒っているようにも聞こえた。
「そうしないと、周りは付け上がるし、諸伏が傷つけられちまう」
ぎゅうと、力がこめられる。広い背中に手を回すと、ふふ、と彼が笑う。
「特にオレみたいなブレーキを捨てたやつにはね、気をつけなよ」
「えっ、あ、」
言葉になっていない音はまた彼に吸い込まれてしまった。
嗚呼、また言い損ねた。