sc16受「失敗」萩景 失敗した。
失敗した、失敗した、失敗した!
胸の内で頭で泣き叫びながら、俺は至極冷静を装って手にした鍵を捻った。ガチャン、と重いような軽いような音が響く。鍵穴に差すまでに何度かカツンカツンとシリンダーにぶつけて細かい傷をつくったのは無かったことにした。
それからいつもの様に金属製の外階段を小気味よく鳴らしてようやく地面に足をつける。いつもよりテンポが狂ってたのは他の住人にはバレてしまっただろうか。だっていつもの通りの平気な顔をしてみせてはいるが、内心それはもう大変大荒れなのだ。今季最大の大寒波なんて目じゃない。多分竜巻と雪と雷が全部発生してる。そのくらい大惨事だ。そりゃあ手元も足元も狂う。正直こうしていつも通りの時間に出勤していることを褒めてもらいたいくらいだ。
それでも顔だけは平気なフリをして歩き出す。は、は、と妙に整わない呼吸は白い輪郭を持って視界の隅で踊った。ボトムの後ろポケットに入れた端末が震える。確認してみて後悔した。
メッセージが一件あります。
それはいいが、いやまったくよくない。だってこれ、いま一番気まずい相手だ。
立ち止まり、く、う、と言葉にならないただの音を上げて顔をぎゅっと絞る。逡巡ののち、俺は一旦何も見なかったことにした。それからまたのそのそと道を歩く。とはいえもう数分歩けば職場にはたどり着く。近く過ぎるのも考えものだ。
「キメェ顔してんな」
数時間ぶりに顔を合わせた幼なじみが言った。さすがにストレートな悪口すぎる。更衣室のロッカーの前でコートを脱ぎ捨てながらじとりと睨み返してやった。
「いつものかっこいーけんじくんでしょーやめてよじんぺーちゃん」
「いやその顔で普段通りのつもりとかやべぇよお前」
「……じゃあどんな顔してる?」
聞いてみればんー、と少し考える素振りをする。それからあ、と閃いたのか何故か楽しそうな顔でこちらを見た。
「ギャンブル漫画の主人公が負け確したときの顔」
「やめてよ周りがざわざわしちまう」
「でもそう遠くねぇよな。お前のそれ、昨日のことだろ」
「う、やっぱ夢じゃねぇよなあ……」
松田の言葉に思わずため息が漏れる。もしかしたら、夢だったかも。そんなふうに思ってたときが俺にもありました。
昨晩、久々に同期の五人で集まった。何かと秘密事が多い部署所属が二人もいるというのもあって外で飲むのも気が引け、誰かの家に転がりこもうという話になったのだ。俺は独身寮を追い出された時に一時しのぎのつもりで適当に決めた木造アパートに何故か今も住み続けてしまっているので、五人もの男が集まって飲むには色々と問題があった。だって隣の部屋のおっさんのくしゃみが聞こえてくるような部屋だ。真っ先に候補から外れた。似たような理由で松田もはずれ、紆余曲折あって会場は諸伏の家に決定した。セキュリティのしっかりしたそう古くないマンションの上階角部屋。1DKのひとりで住むには少しゆとりのあるいい部屋だった。案内されたとき、どこでこんな差がついたのだと笑ってしまうくらいに自分の住んでいる部屋との格差を感じて思わず笑ってしまった。
そんな諸伏宅は家主同様にあたたかくて、きれいで、いい匂いがした。
そして、酒の力なのかその匂いや空気なのか、俺は盛大にやってしまったのだ。
昨晩の気まずい記憶とともに、先程見ないふりをしたものの存在を思い出してボトムのポケットから端末を取りだす。いつの間にかメッセージが二件になっていた。同一人物からだ。内容はまだ見ていない。いったいなにを書かれてしまっているのやら。罵りか。憤りか。励ましか。それとももっとちがうなにかか。
無言でじっとりとその画面を見つめていると、ふいに視界に現れた手。ぱちりと瞬いた時にはその手の人差し指は、なんとも軽やかな動作でメッセージボックスを開いてしまった。馬鹿! そう罵りそうになったが、それよりも先にメッセージの内容が目に飛び込んできた。
「……よかったな、旦那がいいやつで」
「いやいや待ってよ待って、まつだ、これ、ええー? どう思う? 俺きらわれて……ない?」
「知らねぇけど嫌われてはねえんじゃねえの」
俺の相手が面倒になったのか適当な言葉で返してくる松田はいつの間にか既に制服に着替えていた。
「ま、お前が思ってるよりも旦那もウブなお嬢ちゃんじゃねえってことだろ。おらさっさと着替えろ時間だぞ」
「陣平ちゃんさあ、どんどん俺の扱い雑になってない?」
「なんだよ優しくされてぇの? そういうのは景の旦那に頼みな」
先いくわ、と零して松田はさっさと更衣室を後にしてしまった。取り残された俺はもう一度画面をみて、ゆっくりと息を吐いた。
警察官というのは中々にハードな勤務形態をしている。所属で異なるが、丸1日出ずっぱりでそのあと非番、休みと続くのがほとんどだ。これは三日交代制というらしい。しかしこの街は事件頻度が大層いかれているのでそう予定通りにいくことなど稀で、なぜかとんでもない時間勤務をしていることだってある。すると休みには死んだように寝てしまう羽目になったりなんていうのも珍しくはない。
なぜそんな話をしたかと言えば、全体でそんな感じなのだから、我ら機動隊も例に漏れずあちこちに応援に呼ばれ、予定はめちゃめちゃのぐちゃぐちゃ。いま現状まさにひとと会うのも一苦労しているというわけだ。
「また、諸伏ちゃんと予定合わなかった」
「とか言ってあからさまにホッとしてんなよ」
「そんなことねえし」
「てかお前諸伏んちになに忘れたの」
「いやそれがさあ」
先日諸伏から届いたメッセージは、俺のやらかしたことには触れずに体調の心配と、それから忘れ物をしているからとりにきてほしいという内容だった。
忘れ物なんてしていただろうかと思ったが送られてきた空色ハンカチの写真とともに「これって萩原のだよね」と聞かれ、たしかに見覚えがあった。もはや庁内で渡してもらおうとした方が確率が高い気がしたが、先日迷惑をかけた身としてはちゃんとこちらから出向いて謝罪も兼ねた方がいい気がして取りに行くと言ったまま予定が合わず進捗はなし。
実際松田の言う通り、少し安心している自分がいる。あの日の夜のことを思うと、彼と顔を合わせるのは少しだけ勇気が必要だった。
本日の現場廃ビルだ。複数回小さな爆発音が聞こえたと通報があったらしく、近くにいた警官が現場を確認した結果複数の爆弾が見つかったらしい。そんなホイホイ爆弾を仕掛けられるこの街はやっぱりイカレてるな、なんて親友と半ば笑いながら支度をする。数年前に大失敗をして、危うく命を落としかけた前例があるので防具の着用に関して俺に対する周りの目は厳しい。それは親友も例外ではなく、毎度毎度うるさい小姑のように着用の確認をしてくる。くだんの大失敗のときに地上から俺のいたフロアが吹き飛ぶところをみていた本人曰く「あんな思いもうごめんだ」ということらしいが、俺だってもうあんな体験はごめんだ。あれからは従順に重い装備を身につけて作業にあたっている。
「あ、萩原。スマホ光ってんぞ。まぁた松田からのラブコールかあ?」
笑いながら先輩に指摘されるが、十中八九別の現場に向かった松田からだろうと俺も思うので口をとがらせつつも反論はしなかった。画面が明るくなっているその端末を手にして耳に当てる。
「もしもし」
「、」
「もー、毎回電話してかなくてもちゃんと着てるって」
「本当? よかった」
「……は?」
思わず耳から話した端末の画面に映る文字を確認する。たしかに「松田」だった。でもいま聞こえてきたのはまったく違う声だ。混乱しながらもう一度耳元へあてる。
「あの、え? 諸伏ちゃん?」
「あはは、そうそう。松田と同じ現場にいてね。電話するって言うから貸してもらったんだ。びっくりした?」
「し、たよ。松田だと思ってたら可愛い声が聞こえてきたから」
「またそういう言い方して……ねえ萩、明日非番だろ。俺も休みの予定だからさ、家で待ってるね。じゃあ解体がんばって」
返事をする前に通話は切れてしまった。ツーツーと耳元で音が無機質に鳴っている。俺はいま宇宙背負った猫のような顔をしてその場で立ち尽くしていた。
それから無心で解体作業にあたって、事後処理して、パトロールの応援に向かって、仮眠して待機して、引き継ぎして気付けば朝を迎えていた。後半ほとんど一緒にいた松田には眼球血走ってると指摘された。冷静に業務にあたっていたつもりだが頭の片隅でずっとこのあとのことを考えていたのも事実で、うまく反論もできなかった。
一度自分の家に戻ってから向かおうかと思ったが、見透かしたように退庁した瞬間に「お疲れ様、いつでも来てもらった大丈夫だから」とメッセージが送られてきた。まじで監視カメラでもつけられてる?
俺はぞっとしながらもこれから向かうと返事をして、帰宅ルートに背を向けて駅へと急いだ。電車に揺られて数十分。先日利用した駅で降りると、駅に向かってくる人波に逆らって住宅街へと進んでいく。見覚えのあるマンションのエントランスに入ってオートロック盤を前にしたところでボトムの後ろポケットから振動が伝わった。まさかね。そう思って画面を確認するとまさかだった。
「も、もしもし」
「もしもし、おはよう萩原。そろそろ着くかなって思って」
「俺監視されてる?」
「え?」
「なんでもない……ちょうどいまエントランスまできたよ。オートロック鳴らしていい?」
「うん。号室覚えてる?」
「大丈夫」
記憶にある番号を押して呼び出すと直ぐに扉が開いて、オートロック盤と端末の両方から「どうぞー」と穏やかな声が聞こえる。擬似ステレオだ。エレベーターに乗るからと一度通話を切った。
マンション内は静かで誰ともすれ違うこともなく目的の部屋までたどり着いた。インターホンを鳴らすと直ぐさま扉が開いて、ニッコリと笑った諸伏が出迎えてくれる。
「いらっしゃい、はぎ」
「えーっと、お邪魔しまーす」
相変わらず諸伏の家は綺麗でいい匂いがして優しい。癒されるような気さえする。リビングに通されると促されるままソファに座る。すぐさまコーヒーカップとハンカチを持って諸伏がキッチンから出てきて隣に座った。
「お疲れ様。朝から来てもらってごめんね。はいこれ、ハンカチ」
「あ、うん。ごめんねありがとう」
差し出されたハンカチを受け取ろうとすると、そのまま手を取られた。ぎゅっと両手で俺の右手を掴んで、諸伏は俺の顔を覗き込む。
「このあいだのことだけど」
きた。こくりと喉がなる。
ここまで触れてこなかったけど、そりゃあ言及するよな。
「失敗したって思った? 間違えたって思った?」
「……」
「俺は、酔った勢いでもお酒の失敗だったんだとしても、ちょっと役得だと思っちゃった」
「…………へ?」
目尻のツンとした涼し気な目を逸らして諸伏は続ける。
「好きな人にあんなに熱の篭った目で見られてキスされたらさ、うれしくなるだろ」
どうやら俺の失敗は失敗じゃなかったらしい。ぶわっと汗が出て、鼓動が鳴って、血が巡る。ありがとう失敗した俺。勢いのまま彼をソファに押し倒した。