sc16受「裸足」ライスコ 肌に突き刺さる外気とともに玄関ドアを滑り込む。コツ、と小気味よい音を響かせる大して汚れの着いていない革靴は玄関へ置き去りにして大きめのスリッパに足先を突っ込む。口をこちらに向けて大人しくそこに待機していたそれは最初こそ冷えた空気を含んでいて足を引っ込めたくなるが、少しすれば体温に馴染んで包んでくれる。
ポスポスヒタヒタと間抜けな音を響かせて静かな廊下を歩く。他に音はない。この家は一人で住むには広い。元は家族三人で暮らしていたはずの物件なので当然といえばそうだった。赤の他人が独り占めしている現状こそおかしいのだ。
一人で使うには随分と広い洗面へ向かい、手を洗う。そこまではなにもおかしなところなどないのだが、そのまま首元に手をかけ、ベリベリと皮を剥ぐ。変装用のマスクというのは出来は良くとも、どうにも肌に張り付いてしまっていけない。不快感をぬぐい去るようにぬるま湯で顔を洗っていく。
顔をあげれば、鋭い切れ長の目の下に大きなクマを飼っている色白の男が水を滴らせてそこにいた。先程までの柔和な若い男ではない。
それからちらりを後ろを見る。
「人というのは死ぬと靴を履くことも忘れてしまうのか」
「えっ」
ぱちりと瞬く猫目。
それからキョロキョロと辺りを見渡して、首を傾げて自前の顎髭をひと撫で。
「オレ、見えてる?」
「ああ」
もう二度と姿を見ることはないと思っていた男を見つめる。ツンとつり上がった猫目も柔らかそうな猫っ毛の髪も整えられた短い顎髭も、どれも記憶にあるものと相違はない。ぱちぱちと瞬いて戸惑っている顔はあまり見覚えのないものだが、どこか彼らしいとも思えてしまう。
ただひとつ違うのは、彼の足元ががらんとしてしまっていることだった。
「ええっと」
「久しぶりだなスコッチ……いや、諸伏くんと呼ぶべきかな」
「ああー好きな方でいいよ。ライは?赤井さんの方がいい?」
「それこそ好きにしたらいい。君はもう、この世界になんの影響もあたえられないのだから」
苦く笑っている彼の横を通り過ぎてリビングへ向かう。ポスポスと間抜けな音が響く。
棚からグラスを二つ取り出し、酒のボトルとともにテーブルに置くと、いつの間にかスコッチが居心地悪そうにリビングの入口に立っていた。こういう様子を借りてきた猫よう、とでもいうのだろうか。
「どうせなら付き合ってはくれないか」
「オレこんなんじゃ飲めるかわかんないけど」
「まあそういうな。今日は俺の知り合いの命日というやつでな、付き合ってくれると嬉しいんだが」
そう言えば彼はグッと眉を寄せる。だがそんなことはお構い無しにソファへ腰掛けることを促して、ボトルをあける。トプトプと空気を含ませた音が響いた。
途端に鼻腔をくすぐる独特で芳醇な香りに思わず口元が緩む。今夜のためにとっておいた酒だった。まさか彼と共に口にするとは思ってもみなかったが。
一方のグラスを彼の前に置き、もう一方は己の手の中。手を伸ばす気配のない彼を横目に一口煽る。鼻から抜けるそれの香りが部屋の味気ない冷気に色を付けるようだった。
「君の足はもう見れないんだな」
「……ライにはどう見えてるんだ」
「どうもなにも、足首から先がないな」
「ええ……」
「君の寒そうな足、結構すきだったんだがね」
半固定のバディとして共に仕事をこなしていれば、時には同じ空間で夜を明かすこともあった。何時だったか、立寄ったホテルが尽く部屋が埋まっており、ようやっととれたダブルの一室に仕方なく二人で転がり込んだことがあった。思えば彼への印象が変わり始めたきっかけはその夜だったかもしれない。
特別何かがあった訳では無い。ただ、仕方なく二人で寝るには狭いはずのそのベッドに潜り込んで、いつもよりうんと近くて体温を感じながら眠りに着いただけだ。他人の気配があるだけで互いに気を張って暫く寝付けなかった。そもそも警戒を解くつもりも眠るつもりもなかった。
ただぴとりと、唐突に足先に触れたそれが存外温かく、強ばった身体が徐々に溶けていってしまった。
骨ばってばかりの彼の足は寒そうな印象しか無かったというのに触れてみればなんてことはない、どこか安心すら覚えるぬくもりがあった。彼がどんな意図で触れたのかは終ぞ知りえなかったが、いま思えば彼も安心する人肌を求めていたのかもしれない。
その後も互いに口にはしなかったが言いようのない心地がたまらず、同様に足をぴたりとくっつけて眠る夜が何度もあった。
「オレも」
グラスには手をつけず、ただぼんやりとソファに腰かけたままそっぽを向いた彼がぽつりと言う。
「ライの足、好きだったな」
「ホォー……」
「オレの体温が移って、ライのつめたい足がだんだんあったかくなるのがなんか、一緒に生きてるって感じがして……なんだろうな」
「……君、そういうところだぞ」
「え?」
「いいや、なんでも。しかしそれならいま君の足が俺の足に触れるとどうなるんだろな」
見えないその足が、いつかのように己の足を包んでくれる想像をする。
冷たい。何度シミュレーションをやり直しても彼の足は冷たくて、世界が色を失って深い穴に落ちていってしまう感覚が身を襲う。
「オレじゃあもう、ライの足を温めることは出来ないよ」
「……そうか」
今日は彼が靴を脱いだ日だ。
もう永遠に彼が靴を履くことは無い。しかし、いつかの夜のようにその素足が体温を移してくれることも無い。
彼はもう、この世界で地に足をつけることも無く、誰かに触れることも無く、ただ思い出に紛れて浮かんで消えて、揺蕩うだけなのだ。
今日はよく冷える。足元が寒い。
しかし暖房なんてものをつける気にもならなかった。