sc16受「ラーメン」ライスコ「腹が減ったな」
ギターケースを背負い直した横の男が言った。
ざっくりと欲求を口にする彼がその言葉を口にしたとき、オレたちの間にはまず二つの選択肢がうまれる。ひとつはまっすぐ最短でセーフティハウスやホテルへ帰るか、もうひとつは食事をしていくか。至極単純だ。そしてそのあとさらにもう一段階選択肢ができる。前者の場合はオレが食事を作るか、それかほかの欲求にもつれこむか。後者の場合は彼が行きたい店になだれ込むか、オレが店を見繕って連れていくか。
さて、今回はどちらだろうと横の男の顔を盗み見たが、彼はギターケースの持ち手に絡まった長い髪を煩わしそうに捌いていてこちらを露と見なかった。彼の口も表情筋も怠惰なものだから、今日はどこまでの選択肢を考えて先程の言葉を投げてきたのか判断に困る。いつもは切れ長の目が答えを語ってくれることが多いが、視線が合わなければ何もわかりはしない。
ようやっと細く長い絹のような髪を救出した彼が顔を上げた。パタッとグリーンアイと視線があった気がした。
「……あれだな」
と思ったが勘違いだったようでオレの背後のなにかを捉えただけだったらしい。これまた諸々足りてない言葉を零した彼はつま先の向きをくるりと変えてその視線の方へ進もうとする。あわてて彼の背と視線を追えば、小汚い赤い看板が目に付いた。
「横浜家系ラーメン」
黒字でそう書いてあった。その後ろの屋号は掠れていて上手く読めない。こんな時間になんてものを、とは思ったが今日一日のスケジュールを考えれば致し方ないのかもしれない。
昼から指定位置で待機して、夕暮れ前に終わったと思えばたまたま近くにいるからと突発的にほかの仕事も投げられ、気付けば夜中の三時だ。昼飯はオレも彼も十秒でチャージできる便利飯を口にしただけだったし、夕飯はもちろん摂れていない。彼は仕事中に間食するのをあまり好まなかった。中途半端に腹が膨れるくらいなら空腹のままの方が集中できる。そう言っていたし、それはオレにも理解出来る。だから彼に付き合っていたらこの有様だ。看板を目にした途端腹が声を上げた。
カラリと軽い音とともにガラス戸を開けて中へはいると、そこにいたのは店主が一人とスーツを着た中年男性の客が一人だけだった。
店主はちらりとこちらを見て焼けた声で「いらっしゃい」と言うと直ぐに鍋へ視線を戻した。ぐつぐつとスープが煮込まれる音と、ごおごおと回る換気扇の音、それから客がずるずると麺をすする音だけが聞こえる。
店主を囲むようにコの字型に席が並んだカウンターの左奥に二人して並んで腰を下ろした。
「ライ、決まってる?」
「……濃いめ、硬め……ほうれん草とチャーシュー追加で。ああ、米も」
「うわ」
「なんだ」
「いや……あ、オレ麺硬めでそれ以外は普通で。ご飯もください」
「あいよ」
店主のぶっきらぼうな返事がして、また店内にはぐつぐつごうごうずるずると、その音だけがその場を支配した。
ライは色白で細身で、油とは縁遠そうな見目をしているが、実は大抵のものはぺろりと平らげてしまう。ジャンクなものなんてそれはもうすごい。ハンバーガーなんてひとつでは足りていないことがしょっちゅうだ。男子高校生かと思わず突っ込んだこともあったが、彼はしれっと「日本のバーガーが小さすぎるんだ」と言うだけだった。もしかしたら日本以外での暮らしの経験があるのかもしれない。
とはいえ夜中にそうもがっつり家系ラーメンを注文するやつがあるか、と先程は思わず目が据わってしまった。あれに加えて背脂マシマシにでもされてたら、食べる前にこちらが胃もたれしてしまうところだった。
カウンターに置かれたラーメンを自分の手元に下ろして箸とレンゲを手に取った。ちらりと横を見るとライも同じように箸を手にしていた。それはいいのだが、
「ライ」
呼びかけると素直にこちらを向いた。長い黒髪がサラリと流れる。
「髪、結いた方が良くないか」
「……ああ、」
言われて初めて気付いた、と彼は垂れ流したままの髪をひとつまみした。
こういうラーメン屋は親切なもので、ヘアゴムが置かれていることが多い。ここも例に漏れずカウンターに置かれた小さなカゴの中に大量に用意されていた。
慣れた手つきで彼が髪を結い上げていく。少量のうぶ毛がはみ出しているうなじで緩く纏められた髪は、大きなひと房となって背中に流れていった。耳が、オトガイが、白い首が見えて少しだけどきりとする。こくりと自分の喉が鳴った。
いま、オレはいったいなにを思い出した。
誰に知られることなく恥ずかしくなって、あわててそれから目を背けて左手のレンゲをスープに沈めた。
ひとりで勝手になにかから逃げるように慌てて麺を啜り、チャーシューにかぶりつき、スープを啜り、白米を掻き込む。夜中の三時に食べるには余りにも冒涜的で背徳的なこいつは、それはそれはうまい。食べ終わる頃には顔は熱いし、鼻通りも良くなった。行儀悪くも何度か鼻水をすすってしまった。用意されているティッシュで鼻を噛んで、もう1枚とって口も拭いて。そこでそう言えば隣が静かだなと思って見てみれば、切れ長のグリーンアイと視線が絡んだ。今度はきっと本当に合っている。
じっとみつめてくるそれは何か言いたげだ。いつもは雄弁なその目が今回はちっともよく分からずただ見つめ返していると、珍しく彼の口が開いた。
「もうお前とラーメンは食べない」
「えっなんで」
「目論見が外れた」
そう言って彼は結いていた髪を解いた。
それから俺の分まで金を出してさっさと店をあとにしてしまった。あわてて追って先程の言葉の意味を問えば彼はため息をひとつ零して振り返る。
「お前、俺が髪をまとめるとその気になるだろう」
「は?」
「だというのに、すぐにラーメンにがっつきやがって……と思ったらあんな顔をする」
「や、あの、意味がさっぱり」
だいたい「その気」ってなんだ。「あんな顔」ってなんだ。
俺が全く理解していないことにライも流石に呆れてきたらしい。ずいっと距離を詰めてきて、人差し指で胸を一突きされる。目は据わっている。
「お前を邪な気分にさせてやろうと思ったら、俺がされた。わかったか? この天然タラシめ」
言い終わると、ライは口角をくいと持ち上げた。