「……ん?」
目覚まし時計を止めてあくびをしようとして、ふと喉に覚えた違和感。「あー」と声を出してみても咳払いをしてもそれは消えず、洗顔と歯磨きを済ませて水を飲んで、やっといつもの声に近くなった。
(湿度は……ヤバいな、四十パーセント切ってる)
部屋の片隅に置いてある温室計に目をやると、室内はカラカラ。寝ている間に乾燥で喉をやられたのだろうと頷きながら加湿器をつけた実は、普段使いの化粧水に手を伸ばしかけて止め、その隣のボトルに――スペシャルケアのラインナップに指先をかける。
(こんだけ乾燥してるし、ちゃんと保湿しとかないと……って、気合い入れたい言い訳なんですけど)
今日は二月十四日。少し――いや、だいぶ期待している、特別な日だ。ほんの一週間ほど前にも実の誕生日という特別な日があったのだが、それはそれ、これはこれ。バレンタインをこんなに心待ちにするだなんて、去年までの自分に言っても信じてもらえないだろう。
(去年は手作りだったから、きっと、今年も……)
期待半分、不安半分。くれると言われている訳ではないけれど、心のどこかで彼女の本命は自分だと信じて、今日という日を待ちかねていた。
それとなく、去年の手作りチョコレートが嬉しかったし美味しかったと伝えてきたし、もし貰えなかった場合には逆チョコをあげるつもりで、通学鞄の中に話題のチョコレートを忍ばせていたりする。
(絶対、あのコの好きな味だと思うんだよな……)
見た目も味も美奈子がどんなものを好むか、ふたりで過ごしてきた日々の中で把握している。放課後の寄り道やデートで行ったカフェで美味しいものを食べた時の彼女の幸せそうな笑顔を思い浮かべながら、導入液、化粧水、クリームと重ねて、鏡の中の自分をじっくり見つめた。
「乾燥対策はオッケー、肌荒れもヘーキ。目も充血してないし、クマ……も、消すほどじゃないか。あとは、リップ塗って……」
学校仕様の髪型にセットして、眼鏡をかけて、きちんと制服を着込めば身支度は完了。
「ん。カンペキ」
鏡に向かってキメ顔を作ったものの、Nanaではなく七ツ森実では今ひとつ締まりがない。しかし、素の実も、飾ったNanaも、どちらも同じように大切にしてくれる美奈子に出会えたから、地味な自分もそう卑下するものではないと思えるようになった。
(登校中……は無理でも、早めの休み時間に会えるかな)
明日がはば学の入試の日らしく、今日はその準備で生徒は全員午前中で下校させられる。なので、タイミングが悪いと彼女に会えないのではと、ほんの少し不安が過ぎった。
(「会えるかな」じゃなくて、「会う」んだろ)
けれど、その不安も一瞬のこと。会いたいなら会いに行くだけだと気合いを入れた実は、どことなく浮ついた気持ちで靴を履いて、一歩踏み出したのだった。
◆
(頭、痛ぇ……)
まるでデート前夜のように寝つきが悪かったせいか、目と頭が重い。それに、なくなったと思った喉の違和感を再び覚え、飴を舐めてホームルームと一時間目を終えた実は、待望の休み時間だというのに美奈子に会いに行くこともせず机に突っ伏した。
「……」
目を瞑り、ハア、と溜め息のような吐息を吐く。
(去年は、いつチョコレート渡しに来てくれたっけ)
少なくとも、午前中ではなかった。昼休みか午後の休み時間だった気がするが、手作りチョコが嬉しかった印象が強くて、時間までは記憶が曖昧だ。それに、思い出そうとしても、頭痛が思考の邪魔をするのが鬱陶しい。
(頭痛いの、もしかして水分不足のせいだったり……)
少し顔を上げて目線を黒板の上の掛け時計に向けると、今から飲み物を買って戻ってくる時間はある。しかし、もし実が居ない間に美奈子が訪ねて来てくれたら――そう考えると、なかなか腰が重い。
(いや、あのコなら時間を改めて来てくれるのは、わかってる……んですけど……)
会いに来てくれたタイミングを逃したくないと思ってしまうが、今の休み時間よりも次や、その次の休み時間の方が可能性は高いはずだ。ぐずぐず悩んでいるよりもパッと行って買ってきてしまおうと立ち上がり、廊下に出ると、心なしかいつもよりもそわそわした空気が漂っている。女の子同士で綺麗にラッピングされた袋を交換していたり、義理チョコを貰った男子がはしゃいでいたり。それを見た実は、思わず目をぱちぱちさせた。
(おぉ……。みんな、青春してるんだな)
美奈子とのバレンタインを楽しみにしている自分のことを棚に上げて、そんな感想を抱いてしまう。それと同時に、無性に彼女に会いたくなった。
(次の休み時間に俺から会いに……でも、催促してるみたいでダセェかな……)
会いたいなら会いに行くだけと気合いを入れていたのに、頭痛のせいかマイナス思考になって、朝にはあった勇気が萎んでいる。悶々としながら自販機に向かい、いつものコーヒーではなくスポーツドリンクを買って教室に戻った。席に着いてスマートフォンを確認してみても美奈子からのメッセージは届いておらず、会いに来てくれた気配もない。
「…………」
自分から『次の休み時間、会いに行ってもイイ?』と誘うかどうか迷っているうちにチャイムが鳴り、結局、メッセージを送らずにアプリを閉じた。
◆
あまり集中できないまま二時間目が終わり、迎えた休み時間。実はまたしても机に突っ伏していた。
(今日、すげぇ寒い……)
登校中も、学校に着いてからも、冬の冷たい空気のせいか鼻の奥がつんと痛い。ただ気温が低いのではなく、体の芯から冷えきっているのではと思うほど。教室は暖房がついているから、こんな風に寒く感じるのも、喉の違和感も頭痛も、もしかして風邪なのかも知れない――そう考えたら、冷気が首筋を伝った気がした。
(俺、風邪ひくようなコト……何かしたか……?)
ここ一週間を思い返してみても、そこまで乱れた生活を送っていない。ゲームのイベント時期ではないから平日は夜更かししていないし、仕事の撮影はスタジオばかり。先週末は美奈子とデートの約束をしていなかったから、家でのんびり過ごしていたため、全く心当たりがない。
「ハァ……」
そんなことを考えているせいか、溜め息もいつもより熱く感じる。
(いやいや、病は気からって言いますし? 体調悪いって思ってたら、マジで悪くなるだけでしょ)
喉の違和感も寒気も全部気のせいだと言い聞かせて、ガバリと身を起こす。乾燥大敵だと少しぬるくなったスポーツドリンクを飲み、ブレザーのポケットから飴を取り出そうとしたその時、スマートフォンが震えた。
「……!」
SNSかゲームの通知だろうと期待せずに見ると、そこには美奈子の名前があり、慌てて姿勢を糺す。そして、息を呑んでメッセージを開くと『今日の放課後って、お仕事だったりする?』の一文がスタンプと共に送られて来ていた。
(ヤバ……。スゲェ期待しちゃうんですけど)
口元が緩むのを手で覆い隠して、意味もなく咳払いをする。ついさっきまで寒かったのに、今は興奮からか暑く感じる単純さに笑い声が出そうになる。
(『今日、仕事は休み』と……あと……)
一緒に帰ろうと誘うか、それともどこかで昼ごはんを食べて帰ろうと誘うか――どんなメッセージを追加で送るか迷っていると、美奈子からの返信が先に届いてしまった。
(『ちょっと時間もらえるかな』って、ゼンゼン「ちょっと」じゃなくてイイですよ……っと)
間髪入れずに『モチ』と送る。それと、とにかく美奈子の予定を押さえておくべく『一緒に帰ろ』と追加のメッセージも送れば、すぐに『OK』の返事を寄越してくれた。それを見て表情が緩みまくっている自覚がある実は、今度は顔を隠すために机に突っ伏して、気を紛らわせようと必死に頭を動かす。
(美奈子に会ったら、何て言おう。いつも通り「オツカレ」? それか、何かもうちょいバレンタインっぽいコト……)
放課後までまだ二時間もあるのに、気は急くばかり。美奈子のことで胸も頭もいっぱいで、頭痛も喉の違和感も寒気も忘れていたのだった。
◆
ホームルームを終えて廊下に出るとすぐに「実くん」と呼ばれた。朝からずっと聞きたかった声の方に目を向けると、美奈子が少し緊張した面持ちで立っている。
「美奈子……待ってた」
自分のことを意識してくれているのが嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。意図せず零れた本音に彼女が「ふふ」と笑うから、「ホントに待ってた」と重ねて告げると、美奈子の緊張がほぐれたのがわかった。
ふたり連れ立って人通りの少ない廊下に移動して、どちらともなく足を止める。そして、顔を合わせて照れ笑いしてから、気を取り直すように美奈子が小さく咳払いをした。
「バレンタインのチョコ、受け取ってくれる?」
「やった。手作りチョコ、ゲット」
市販のチョコレートではない、手ずからラッピングしたのがひと目でわかるチョコレートを受け取り、ドクドクと心が喜びで波打つ。軽い口調で「やった」と言いつつも、内心はガッツポーズしたいくらいだ。今年も手作りを貰えたことはもちろん嬉しいのだが、去年の「仲の良いトモダチから」と今年の「好きなコから」とでは、手作りのありがたみが全然違う。
「実くん好みに仕上げてみたつもりだけど……どうかな?」
期待していた以上に嬉しすぎて喜びを隠せない実に、美奈子がそわそわと、緊張と期待が混ざった目線をこちらに向ける。「開けるね」と断ってラッピングを解いて、思わず目を瞠った。
(うわ……)
ハート型のいちごチョコに、ドライフルーツやカラースプレー、スターシュガーがカラフルに、しかしバランス良く散りばめられている。極め付けは、なないろのミニマカロン。実が好きなものが、これでもかと乗っている。
「ビンゴ。スキしか詰まってない。トッピングが最高!」
「ホント? よかった……!」
ホッとした笑顔を見せる美奈子が可愛くて、しっかりと目に焼き付けた。
(美奈子のこの笑顔の写真撮りたいケド……)
それは、いつかの未来に取っておくことにする。
「写真撮って、仕事仲間に自慢していい?」
「えっ、いいけど。恥ずかしいな……」
仕事で仲の良い人達は、アルカードのあの子とかNanaくんのカノジョと、美奈子の存在を認識している。カノジョじゃないと否定しても「カノジョみたいなもんでしょ」と言い包められ、実自身、いつかそうなったら良いと思ってしまい強く言い切れず、うやむやに受け入れていた。そんな美奈子から貰った手作りチョコだと写真を見せたら、皆どんな反応をするか――手の中のチョコレートを見つめていると、自慢したい気持ちよりも独り占めしたい気持ちに傾いていく。
(すげぇ色々考えてくれたんだろうな……)
色も、トッピングも、ラッピングも。何もかもが実の「スキ」なものばかりで、この一年、より一層心の距離を近付けて来た彼女だからこそのチョイスが堪らない。
「ヤバ……スキが詰まって、スキが重なってる……。やっぱやめた。独り占めして、至福の時間を過ごす。サンキュ」
写真は撮るけれど、それを見て楽しむのは自分だけ。見ているだけでこんなに幸せな気分なのだから、食べる時にはどうなってしまうのだろう――そんな風に浮かれていると、美奈子の表情がふと曇った。
「実くん、ちょっと屈んで?」
「……?」
言われた通りに身を屈めると、美奈子の指先が額に触れる。どうしたのかと目を眇めると、指先だけでなく手のひらいっぱいで額を覆われた。
「やっぱり……」
「ん?」
「熱があるのに……実くん、気付いてなかった?」
「あー……気のせいじゃなかったか」
自覚があるようでないと告げる実に、美奈子の顔いっぱいに「心配だ」と浮かぶ。
(そんな顔、させたくないんですけどね)
空元気でも作り笑いでもなく実が笑うと、どうして笑えるのかと怪訝な顔に変わるのだが、こうやって心配してくれる気持ちが嬉しくて、ますます笑ってしまいそうになるのを咳払いでごまかした。
「授業終わるまでは意外とヘーキ……って感じだったんだけど……」
「えぇ……何で我慢しちゃったの……」
「午前中で帰れるし、何とかなりそうでしたし?」
我慢した理由の大半は「バレンタインだから」なのだが、素直にそう答えると美奈子が気にするのは想像に難くなく、嘘ではないけれど本当でもない言葉を口にする。実の本音を探るように、じっと見上げる瞳をまっすぐ見つめ返せば、先に折れたのは彼女の方だった。
「実くん、おうちに薬とか……ゼリーとかレトルトのおかゆとか、ある?」
「あー……薬はあるけど、食べ物は全然」
「わかった。約束通り、一緒に帰ろう。実くん送り届けたら、ちょっとスーパーで買い物して戻るね」
看病を申し出てくれる美奈子にうつしたらどうしようと、ちらりと脳裏に過ぎる。しかし、ひとり暮らしを始めてからこんな風に体調を崩すのが初めてで、色々と心許なく、好きなコに頼るのが情けないと同時に心強くもあった。
「……ゴメン。正直、助かる」
「謝らなくていいから。早く帰ろう」
実を促して一歩先を歩く美奈子の背中が、小さいのに頼もしい。こんな状況なのに、彼女のこういうしっかりしたところも好きだなと、思わず笑いが零れた。
◆
美奈子がおつかいに出ている間に着替えてベッドに寝転がると、気が抜けたせいか、一気にどっと熱が上がったのがわかった。
(ダセェな、俺……)
せっかくのバレンタインだというのに、ベッドの上。しかも、好きなコに看病させるだなんて、熱で朦朧としているせいか自己嫌悪に陥ってしまう。情けないし心細いしで、背中を丸めて横たわっていると、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。美奈子が戻ったのにも気付かず寝続け、次に瞼を上げた時には夕陽が傾きかけていた。
(あれ……)
暫くぼうっとしていた実だが、何度かまばたきをすると、視界も寝起きの頭も少しクリアになる。
「ごめ……寝てた……」
「……!」
起きたことを伝えようと声を掛けると、ベッドに背を向けていた美奈子の肩が跳ねる。彼女はこちらを向いて実の顔を覗き込んで、実の額にそっと触れた。
「気分はどう?」
「頭と体が、重い……。俺、どんくらい寝てた」
「二時間くらいかな」
「そんなに……」
「少し食べて、薬飲めそう?」
「うん。腹は減ってる。美奈子は?」
「サンドイッチ買って食べたから、大丈夫」
食欲があるなら良かったとホッとした顔を浮かべ、寝ている間に用意されていた雑炊を温め直してくれる。差し出されたスポーツドリンクを飲んで、次に手渡された体温計で熱を測ると、微熱とは言えないが高熱でもない中途半端な数字が浮かんだ。
「これから熱上がるかもだし、ご家族に連絡する?」
「……ッ」
そう言いながら美奈子が手のひらで実の頬を包み込むのは、体調を気遣ってのことだとわかっていてもドキドキする。
(キスされる前みたいだ……って、そんなコト考えてる場合じゃないだろ)
熱に浮かされた頭では、碌でもないことを口にしてしまいそうだ。
「……ヘーキ」
掠れ声とともに零れた吐息が熱いのは、発熱のせいだけではない。余計なことを言わないようにと端的に答えた実に、喋るのもつらいのかと勘違いした美奈子が眉を顰めた。
「でも……ひとり暮らしでこんなに熱が高いの、心配だよ」
「……親じゃなくて、マネージャーに連絡入れる」
実専属ではないけれど、親元を離れたひとり暮らしの親代わりみたいな存在だ。
「あぁ、そっか。マネージャーさんが来てくれるなら安心だね」
「ん。悪いけど、カバンからスマホ取ってもらえるか……」
「……ん?」
「あっ……!」
通学鞄の中に、美奈子に渡すつもりでいた逆チョコが入っているのを思い出したけれど、美奈子がそれを見付ける方が早かった。内ポケットにスマートフォンと一緒に入っている、綺麗にラッピングされた市販のチョコレート――それだけ見ると、美奈子以外から貰ったものを大事にしまってあるように思われるだろう。
「違、それ……ッ……」
「実くん!?」
慌てて身を乗り出したせいで目眩を覚えた実に、美奈子が慌てて手を伸ばす。咄嗟に体を支えてくれたけれど、ふたりの体格差もあり、彼女の肩に顔を埋める体勢になってしまった。
「……実くん、大丈夫?」
「…………ゴメン。もうちょい、このまま」
目を瞑って深呼吸をすると、首筋に吐息が掛かったせいか美奈子の体が擽ったそうに震える。このまま美奈子の匂いや体温を感じたいという欲に駆られたけれど、恋人でもなければ告白もしていない関係では少々マズい。理性を総動員して彼女から体を離した実はベッドから下りると、恋人よりは遠いけれどトモダチよりは近い距離で美奈子に向き合った。
「その……スマホが入ってたポケットの……小さい箱。取って欲しい」
「これ?」
「うん」
彼女から受け取った箱をそっとひと撫でして、ふう、と静かに息を吐く。
「美奈子。バレンタインのチョコ、受け取ってくれるか」
「…………え」
ぽかんと口を開けて実を見上げる美奈子の手のひらに、逆チョコだと言ってポンと箱を乗せた。彼女が我に返る前にしっかりと握らせて、実は目を細めて言葉を紡ぐ。
「コレ、すげぇ美奈子っぽいなと思ったら、どうしてもあんたに贈りたくなって。逆チョコとか初めてだし……あげたいなって思ったのも、買ったのも……」
「逆チョコ……」
「うん。ホントはもっとスマートに渡せれば良かったんだけど、こんな熱出して、渡す前にあんたに見付けられちゃうしで……全然カッコつかないけど、俺からのバレンタイン。……あと、ホワイトデーは別に、ちゃんとお返しさせて。あんたの気持ちに応えさせて欲しい」
「えっ」
美奈子が断ろうとするのがわかるから、彼女の唇を人差し指で塞いで、何も言わないでと乞い願う。彼女が困った顔をしていても敢えてそこには触れず「ハラ減った……」と話題を逸らすと、美奈子は「あっ、雑炊」と慌てて立ち上がり、お返しの話はあやふやになったのだった。
◆
腹を満たして薬を飲んで。もう一度横になった実の額に、美奈子が冷却シートを貼ってくれた。
「マネージャーさん、何時頃に来られそう?」
「六時過ぎには来てくれるっぽい」
「そっか。あんまり遅くならないみたいで良かった」
「……美奈子は、暗くなる前に帰ってな? 今日はあんたのコト、送って行けないから」
「もう! 実くんは私の心配じゃなくて、自分の体調を心配して」
「……ハーイ」
体調が悪いことと好きなコが心配なことは別問題だが、おとなしく返事をすると、美奈子はどこか満足気に頷いた。
「実くんが寝るまでは居るから。鍵、締めたらポストに入れておくね」
「サンキュ。……でも、やっぱ送って行けないの心配だし、家着いたらメッセちょうだい」
「うん」
それから実が眠るまで、美奈子はぽつぽつと話をしてくれた。ツインズとチョコレートを作った時のこと。御影先生が男子生徒たちから義理チョコをたくさん貰っていたこと。アルカードのスイーツがチョコレートからイチゴに切り替わること。ひとり暮らしなのにひとりじゃない安心感と薬の副作用で、起きているのか眠っているのかよくわからない状態ながらも、美奈子の話を遮るように、実の口から勝手に謝罪の言葉が出ていた。
「迷惑かけて、ゴメン」
「ちっとも迷惑じゃないよ。むしろ、おせっかいしてごめんね」
「おせっかいどころか、スゲェ助かってる」
「……じゃあ、ゴメンじゃなくて、ありがとうがいいな」
「だな。……ホント、ありがと」
実がそう言うと美奈子はクスクスと笑う。そして、そっと髪を撫でてくれた小さな手の感触が心地良くて、それに委ねるように意識を手放した。
次に目が覚めた時には既に美奈子の姿はなく、真っ暗な部屋にひとりきりだった。それでも、美奈子の手の温もりを覚えていたお陰か、ひとり暮らしの心細さはない。
「……」
熱っぽい瞼を閉じて、美奈子が居てくれた時間を思い出す。何も考えずにあの手を掴めたら――あの手に触れられたなら、どんなに幸せだろう。
(いや、今も手つないだりしてますけど)
今とは違う、断りなく触れ合える距離が自分の居場所になったならと、そう望んでしまう。そう思うのはきっと、バレンタインのチョコレートが今年も手作りで、自分が本命なのではと期待を抱いてしまったから。
(熱下がったら、写真撮って……写真も食べた感想も、美奈子に送ろう……)
どんなに嬉しかったか。どれだけ美味しかったか。感想を伝えるのが今から楽しみで仕方ない。
(伝えるといえば……あのコ……)
寝入り端でうつらうつらしている時に、美奈子が何か呟いた気がした。実が眠っていると思って口にした言葉だろうけれど、小さな声で聞き取れなかったのが気になる。
「……何て言ったんだろ」
熱のこと。バレンタインやホワイトデーのこと。それとも、ふたりのこと。何を呟いたのか、次に会った時に尋ねたら話してくれるかな――熱があるのに美奈子のことばかり考えていたせいか、やけにふわふわした気持ちになった。
実は大きく息を吐くと、その気持ちがどこかに逃げてしまわないように、しっかり布団にくるまったのだった。