暖かな日差しが降り注ぐ日曜日、楓はキーボードを叩く手を止めて大きく伸びをした。起きてから熱中して作業をしていたが、チラリと卓上の時計――ツアーコンダクターの時、どこに行くにも使っていた年季の入った代物――に視線を向けると既に正午を回りそうになっていた。
「そういえば、七基くんがオススメの珈琲豆をくれたっけ」
勿体無くて取っておいたそれを飲もとインスタント類が置かれたラックから取り出し、ホクホクしながら階下のキッチンを目標に定める。
自室を開けて廊下に出ると、開け放たれた窓の外から聞こえる鳥の声や、涼やかな風が頬をなぞる。殆どのメンバーは出払っているのか、はたまた自室に篭っているのか、HAMAハウスは穏やかな静けさが漂っていた。
静かではあるけど寂しくはない、凪のような心でゆっくりと階段を降りる。と、常より静まり返っていた筈のリビングに静寂を裂くような声が響き、凪のような心はどっぱんどっぱんと荒波になった。
「こ、この声は……ダニエルさん?」
『かーーー!!何がどうなってんだ、不良品か!?』
普段はのんべんだらりとやる気のないその声が、遠くからでもハッキリと聞こえる程に苛々と大きな声になっている。気にはなるものの変に巻き込まれたら面倒だな、と言うダニエルには何故か辛辣な思考になる楓は、それでも生来の人の良さから結局は声の聞こえた共有部へと足を向ける。
当然の如くそこには一人で悠々と四人がけのふかふかソファーを占領しながら、熱心に手元を弄る上司のダニエルがいた。
大きな身体を縮めながら細々と手を動かしているが、苛々しているのかその手つきはどうにも粗い。
「ダニエルさん、何してるんですか?」
「うおっ!?」
背後から覗き込むように声をかけると、全く楓には気付いていなかったのかダニエルは大きく肩を跳ねさせる。途端、その手に握られた丸い何かがつるりと手から滑り落ちた。
「「あ」」
ゴッ、と重く鈍い音を立て、そのまま一回二回、コロコロと丸いそれは綺麗に磨かれた床を転がった。
「…………」
「………………」
どちらとも無言になる中、ダニエルは身を屈めると丸いそれを手に取った。驚いて落とした事が恥ずかしいのか、罰が悪そうにボールのようなそれを手の中で転がすダニエルを見て、楓は慌てて頭を下げて謝罪をした。
「す、すみませんダニエルさん!驚かせる気はなかったんですが、その、壊れてたりしませんか?俺、弁償します!」
「んー、気にすんな気にすんな。んな簡単に外からの衝撃で壊れる代物じゃないみたいだしな。だから苦戦してるんだが」
壊れてないか心配です。と言う表情をありありと貼り付けた楓に、ほらと言いながら、ダニエルは勢いよく大理石で出来た机の角に叩きつけた。だと言うのに、硬い石をなんのその、つるりと鈍い鋼色をしたそれは傷一つ付いていない。
「寧ろ床や机のが大丈夫か心配になる位に硬いんだよなぁ。うん、まあ大丈夫そうだな」
「いきなり何してるんですか!?もし故意に傷付けたら朔次郎さんに怒られますよ!!」
「それは勘弁だから黙っててくれ」
漸く普段の調子に戻った楓に、悪戯っ子めいた表情を崩しながらダニエルは再びソファに腰深くかけると丸いそれを弄り始めた。
「……で、結局これって何ですか?新しい筋トレグッズとか。砲丸投げの……球??」
「いやよぉ、それがこれ猫用の自動玩具らしくてな」
「えっ、玩具!?」
「ああ。試作品として子タろから貰ったんだが、これが全然動かなくてよ」
ころん、と大の大人の手のひらにすっぽりと収まる、妙に重量のある小さなボール。ダニエルは起動しようとするのを諦めて机の上に無造作に転がした。
「子タろくんから貰ったなら彼に聞いたらどうですか?ダニエルさん、機械系が壊滅的に苦手ですよね」
「壊滅的は余計だ。それがよ、アイツどうやらいないみたいでな。愛しのPTちゃんがこれに興味津々だから早く使わせてやりたいんだが、全く動かなくてな〜」
はああ、と疲れた溜め息を吐きながらゴロンとソファに横になるダニエルが何だか少し可哀想になり、楓は珈琲を入れる目的を一先ず横に置いてダニエルの愛猫の為にも協力する事にした。
「仕方ないですね。俺に貸してください。何とかするので後でPTちゃん触らせてくださいね」
「おー、大丈夫かぁ?壊すなよ」
「大丈夫ですよ、少なくともダニエルさんよりは機械に強いですから」
身体の大きいダニエルが寝転んだ僅かなスペースにちょこんと腰掛け、手渡されたボールをクルクルと回してみる。何処かにスイッチがないかと凹凸を確認してみるが、そういった感触は全く無く、それではタッチパネル形式なのかとペタペタとあちこち触ってみる。
「うーん、これスイッチどこなんですかね」
「それが分かれば俺も苦労しないぜ」
「長押しとかしたら起動したりしますかね」
「そんな単純かぁ?」
「意外にそんなものかも知れませんよ。……ん、あれ、ついたかも」
長押しが功をなしたのか、ジ、ジジ、と小さな電子音をさせると鋼色だったそれはパッと七色にその身を光らせた。
<マスター ニンショウ ヲ ロック シマシタ コジン ジョウホウ ホゴ ノ タメ サンビョウ ゴニ バクハツ シマス>
「え?」
(さんびょうごに、ばくはつ)
電子音が紡ぐ不穏な単語の羅列が直ぐには理解できず、仄かに熱くなってきたそれを持ったまま言葉の意味を頭の中で反芻する。
「浜咲!」
瞬きの間、輝くボールはダニエルに勢いよく取りあげられ、そのままグイッと強く引っ張られて彼の腕の中に囲い込まれた。
いつの間にかソファーに横になっているのは楓で、ダニエルはその身を隠すように覆い被さって抱きしめる。日頃鍛えているダニエルの力は強く、余程力を入れているのか、囲む腕には血管の筋が浮き出ていた。ボールを見つめるその顔は、普段の雰囲気とはガラリと異なり眉間に皺を寄せて張り詰めた表情をしている。
その横顔を不安そうに見つめているのに気付き、大きな手で頭を撫でられるとそのまま胸元に頭を押し付けられた。楓の耳にダニエルの心臓の音が響き、ドッドッドッと早鐘を打つ音が聴こえる。力強く脈打つその音をBGMにぎゅうと目の前の服を握りしめた。
(爆発の規模はどれ位?HAMAハウスは大丈夫?誰か残ってない?避難させないと!)
ぐるぐると恐怖と混乱で頭がいっぱいになりながら身をすくませていると、パンっと風船が破裂するような鋭く鈍い音と共に眩い光が包み、そして瞬時にたち消えた。
「おい、浜咲大丈夫か?」
ぽんぽんと楓の背中を優しく叩きながら静かに問いかけるダニエルの声に、恐る恐る閉じていた瞳を開ける。間近にあるダニエルの顔は、知らず浮かんだ涙の膜でボヤけているが、その声音は平時と変わらずホッとする。浜咲、と再び優しく問われ、こくこくと返事の代わりに頷くとダニエルは楓の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「だ、ダニエルさん、爆発、は?」
「ああ、大したことない。ちょっと小さな煙を上げただけだ」
「そ、そっかぁ。あああああ、良かったぁ」
カチコチに張り詰めた緊張が緩まり、力強い腕に抱きしめられたまま体の力が抜ける。
同時に、何時までも抱きしめられていることに気付くと慌てて身を起こした。何時も何だかんだと楓が世話を焼く事が多いのに、いざという時には助けてもらうのが何とも気恥ずかしく、すわりが悪く感じながらダニエルの隣に腰かけ直す。
はたと、その手に握られたボールからプスプスと白くゆるい煙が上がっているのが視界に映ると、本当に爆発したのかとゾッとする。と、ボールを持つダニエルの左手指が赤くなっている事に気付き、慌ててその手を取った。
「だっ、ダニエルさん!」
「ん?」
「指、指に怪我がっ」
「おー、なんか痛いと思ったら。まあ、こんなんちょっとした擦り傷と火傷みたいなもんだろ。舐めときゃ治る治る」
普段だったらそんな訳ないでしょ、と慌てて救急箱を持ってきていた。しかし、未だに冷静とは程遠く、冗談を素直に受け取った結果、後に盛大に羞恥に苛まれる事になる。
「そっ、そうですね、舐めとけば治るっ」
言葉のままに掴んでいた手を引き寄せ、人差し指をパクりと咥える。血は出ていないが薄らと皮は切れているのか、舌先にざらりとした引っ掛かりを感じた。
熱く肉厚な舌がぬるりと指を這い、ピリリとした痛みにダニエルの手が震える。
「ん、む、ダニエルさん、すみません痛かったですか?」
「え、あ、あ?いや、大丈夫だが」
「ああ、良かった」
楓はホッとしたように笑うと、今度は極力痛まないようにと配慮しながらぺろぺろと飴を舐める要領でダニエルの赤くなった指を一本ずつ舐める。
ゴツゴツとして大きな手、そこから伸びる指も長は楓の唾液が絡み付きテラテラと光っている。
「んっ、ん、ぅ」
「…………浜咲、お前」
熱心に自身の指を舐める部下は、ダニエルの左手を両手で持ちながらチロチロと赤い舌を動かし、それは何とも倒錯的な風景だった。
普段はお日様の様に眩い青年が、仄かに頬を染めながら自身の指を熱心に舐めしゃぶる所を見て、燻る欲が出てくるのは致し方ない所ではある。
「ん、うっ、うえっ!?はにえる、さ?」
唐突に、きゅう、と太い指で舌を挟まれ、楓は目を白黒して不埒な指の持ち主に上目遣いで戸惑いの視線を向ける。
じわじわと溢れる唾液も飲み込めず、楓の顎からダニエルの手に伝っていく。離してください、とダニエルの瞳を見つめるが、何時もの適当でだらしない顔は消え、誰か知らない、まるで獰猛な獣を前にしたような、そんな圧力を感じて楓の喉がひくりと震えた。
同時に、漸く自分のあられもない行動に気付き、途端に顔に熱が集中して行った。
「はは。浜咲、めちゃくちゃ赤くなってるぞ」
指摘されて身を震わせる楓を見ていると、身の内にある何か凶暴な獣が牙を立てたいと訴えているようで。ダニエルは空いた手で楓の腰を引き寄せると大きく口を開けた。
「ありゃ~、僕の超玩具式猫跳躍号が壊れてしまってる!!」
大きな声が2人のすぐ側で響き渡り、途端、パッとダニエルの手が楓の舌を放した。
声の主である子タろは2人の間に漂う異様な雰囲気を気付いていないのか、そもそも気にしていないのか。プスプスと小さく煙をあげるボールを両手で恭しく持ちながらそれを検分し始めた。
「子タろ〜、お前探したんだぞ。これ全然動かないわ、なんか光って突然爆発するわで……不良品か?」
ダニエルは濡れた手と楓の腰を抱く手はそのまま、何事もないかのように子タろへと声を掛ける。引き寄せられたまま、ぴたりとダニエルに寄り添うよう楓は見られたかも知れないと石のように固まる。
「むむっ!?そんなまさか。ん〜ん〜ん〜、……なんじゃ、折角僕がダーの為に設定したのにドゥドゥーが触ったから強制シャットダウンしただけぞ」
「えっ、シャットダウン!?」
フリーズしていた楓も、まさかの答えに驚き声を上げる。あんな怖いこと言ってたのに強制シャットダウンか、と身体の力が抜けて身体がぐらりと揺れるところをダニエルの力強い腕が支えた。
「む~、仕方ないの。また再起動して使い方を教えてやろう。ついでにその傷も治してやろうて。ほれ、ダー行くぞ」
「うお、分かった分かった、ちょい待て」
「あ……」
子タろにグイグイと腕を引かれ、ダニエルは面倒臭そうに立ち上がる。ぴたりと触れ合っていたそこから熱が消え、楓の口から無意識に淋しげな声がこぼれた。小さく微かなその声に、ダニエルは目を細めながら顎を掻く。
「……んな顔するなよ、また後で続きしてやっから」
ダニエルはグッと身を寄せると楓の耳に唇を当てて囁く。その柔らかな感触に意識が向き、言葉の意味を直ぐには理解出来ず、ダニエルの瞳を不思議そうに見つめる。
その奥に燻る熱を見て、一瞬遅れて言葉の意味を理解した。
「っ、あっ、え!?だ、ダニエル、さ」
ぼっと火がついたように顔全体に熱が集中して、ドクドクと心臓が痛い程に脈を打つのを感じる。
そんな楓を満足そうに見詰めると、ダニエルはヒラヒラと手を振り子タろの後をついて行った。
――わざわざ楓が熱心に舐めた指を見せ付けるように。