体温(仮題)僕は好きだった。君の手が。
僕は君の手が好きだった。
そこから感じられる君の体温だけは、君のぬくもりだけは、絶対に嘘をつかないから。
どれだけ僕を翻弄したって、どれだけ嘘にまみれたって、どれだけ虚偽の海の泡に消えてしまいそうになっても…ほんの少し小さな手を握れば、すぐに本物だと分かる。それが、いつの間にかすり替えられてしまいそうな、どこか危うい雰囲気を纏う君を確かめる、唯一の方法だった。
窓の向こうで、一番星がゆっくりと目を覚ます。
君と迎えたこんなにも綺麗な夜が、こんなにも痛い。
どうして僕は、君の気持ちに応えてあげなかったのだろう。
後悔を噛み締めながら…いや、後悔に噛み締められながら、の方が正しいだろうか。とにかく僕は、自分でどんな表情を浮かべているかもわからないまま、君の布団に顔を伏せた。ベッドの前で、情けなくも床に膝をつく。ただ茫然としてしまっていた。ようやく受け入れられ始めた段階で、僕の心は鋭く貫かれた。銃か何かで撃たれたりしたら、きっとこんな感覚になるんだろう。頭は重く、重く、そのまま顔を起こすことすら叶わず。ただくぐもった声で、人が来ないよう小さく、何度も何度も君の名前を呼んだ。呼べば答えてくれる気がした。無邪気に笑って意地悪に嘲って、嘘だと笑う。そんな君が今にでも目を覚ますような、そんな気がした。
でも悲しいことに、現実はドラマじゃない。現実は嘘を、フィクションを超えてはくれない。そんな事はとっくに、しっかりと握った冷たい手が、残酷な程正直に、僕に伝えてくれていた。
正直だなんて、君らしくないな。
………君らしくないよ。
窓の外で歌声を響かせる星も、産声を上げる月も、なだらかに流れ落ちる夜の空の色でさえ、今は何一つとして見たくはなかった。このまま全部なかったことになってしまえばいいのに。君が全部…あの時みたいに、盤上をひっくり返してくれたら。この状況でさえ嘘にしてくれたなら。
そうしたら僕が、絶対に終わらせるのに。
そんなことをどこか卑屈に、それでも切実に心の奥底で願っていると、ジンジン疼くような音を反響させていた僕の耳の中に、まるで喝を入れるかの如く外界の音が舞い込んできた。突然の出来事に思わず肩が跳ねる。
……はらり、紙状の物が落ちる音。
重々しい頭を上げて探ってみると、幸せそうな、どこかふてぶてしい寝顔の上に、まるで面布のような紙が落ちていることに気が付いた。先程まで無かったそれが、突然君の顔の上に現れたのだ。
まさか、上から落ちてきたのか…?
咄嗟に天井を見上げると、夜の始まりを告げる星明かりに照らされて、僅かに光るセロテープが見えた。勿論めくれ上がっていて粘着力なんてあったものじゃなかったが、四方にぺたぺたと貼られた痕跡があり、前々からそこにあったのだとひと目でわかる形をしていた。
……一瞬遅れて僕は、それが君の仕掛けたものだと理解した。
______________トリックだ。
僕は呆気に取られながら、恐る恐るその紙を手に取った。厚みがある。この手で触れてようやくそれが紙ではなく、何かを入れた封筒だと気が付いた。封筒にしては硬い素材で作られていて、さらりとした質感が指先を撫でる。何事だ……表情を変えた瞬間、眠った君が微かに微笑んだ気がした。
「…っ!?」
まさか。驚いて其方を見る。残念ながら僕の期待とは裏腹に、君は紙製の面布を取った時と変わらず、目を伏せて黙り込んだまま動かない。しかし僕はそれを見ても、今この瞬間君の存在に何か変化があったような、そんな心持ちを拭えないままだった。大嘘つきの君が、どこか遠くから、あるいは過去から、もしくは、閉ざした瞼の向こうから…こちらを見ている、そんな気がした。
_____________『試して御覧、探偵さん。』
とっくに閉ざしたページの中で、トリックと化したページの中で、フィクションの悪役がただ静かに笑う。記憶に残るその”台詞”は、どういう訳か君の声で述べられた。
背筋が凍ったような、してやられたような、そんな心持ちになった。
君の残した、最後のトリック。
僕だけに残した、君お手製のびっくり箱。
ゆっくりと目を覚ますのは、君の…君だけの「存在」。
僕は思わず息を飲む。
激しく鳴る心臓。早く開けろとしつこく急かす。体内にて暴れる焦りを、僕は必死に制した。
落ち着け、僕。まだ開けるな。まず、この封筒には何がある?いったい何が仕掛けられている?彼なら、一筋縄ではいかないはずだぞ。
まずは深呼吸だ。冷たい空気が、幾度か体内を循環していく。
そうだ、最初は…証拠を片っ端から、自分の持ち弾にしていこう。トリックを仕掛けられたなら、落ち着いて紐解いていかなきゃならない。何よりこれは、彼と僕との一騎打ちだ。彼が真摯に仕掛けたのなら、僕は真摯に向き合わなきゃいけないんだ。虫眼鏡を覗き込むように。
落ち着いて呼吸を整えた。瞬きを数回繰り返すと、モノクロだった世界がぐるりと色を変える。なんだか懐かしい景色に思えた。
僕の視界に浮かぶ、捜査開始の四文字。それが…「記憶」から来るものなのか、あるいは、床に倒れ込んだフィクションから来たものなのか。今ではわからないが、とにかく僕のするべきことは。
さあ、おもちゃ箱をひっくり返したような病室で、君は一体何を企んでいたのだろう。どうせなら、解き明かして見せようか。今、ここで、僕の手で。
手始めにと封筒を裏返してみると、白い紙面上…僕の視界に突然、見覚えのある文字が飛び込んできた。
『遺書じゃないよ。』
ーーーーーーーーーーー
ざらざら、ざらざら。
ざー、ざー、ザー、ザー。
ザアザアザアザア。
聞こえる。
音が、聞こえる。
ノイズだ。
壊れたテレビのように、しつこく鼓膜を震わせ続ける。
次に見えたのは砂嵐。
黒から赤へ、赤から青、緑、黄、滅茶苦茶。
フェードインする視界は間違いなく、砂利を取って集めて蹴散らしたような砂嵐だ。
さらさら、さらさら。
今度は、何かが擽ったく僕の耳朶を撫でる。
風だ。
風にゆらされて、僕の髪が撫でているのだ。
理解すると、途端に滅茶苦茶だった世界は、少しずつ形状を成していった。
真っ先に遠ざかるノイズを筆頭に、群像劇のように構成されていく世界。
砂嵐はゆっくりと輪郭を取り戻していく。視界に秩序が成り立っていく。ただ見つめ、呼吸を何度か繰り返したあとで、目の前に立ち現れたのはミルクと見紛うような純白だ。
即ち、僕は目を覚ましたのだ。
重たい瞼を開いて、目を凝らしてよく見ると、その純白に所々汚れがある事に気が付いた。ぼやけて細かくは見えないが、確かに黒く一定間隔で汚れが付着している。僅かに痛む眼球を動かしてみると、端に水色の壁が見えた。目の前に拡がっていた白は、天井だったのだ。汚れだと思っていたそれは、天井の模様だった。
ノイズの鳴り響いていた耳の中に、一定のリズムが入り込んでくる。よく聞くとそれは電子音のようで、プツ、プツ、と低調な音を、等間隔で刻んで僕に伝えていた。ざんざんと鳴り響いていたノイズは遠ざかり、いよいよ鼓膜に届くのは電子音だけになった。
ひとつずつ掻い摘むように世界を理解する。その中で僕はあることに気がついた。
………身体が、重い。
ひたすら、気怠い。
天井の色と模様、電子音と、頬を撫でる風の感触。髪の触れるこそばゆさ。それからこの異様な怠さだけが、僕の五感で捉えられる事象だった。それ以外は何も無い。僕は自分の体を動かせることすら、一瞬遅れて理解した。
……これは。本当に「僕」か?
不安にも似た疑いが体内に立ち現れた。視線は天井にやったまま、右手で拳を作り、もう一度開いてみる。腕を上げられるか、下げられるか、何度も繰り返す。自分の身体がここにあるということを、この身体が僕だということを、何度も何度も確認した。繰り返した末に間違いなく自分だと理解したところで、疑いは消失した。
問題はこの怠さだ。動かせはするものの、ひたすら重い。まるで地面に固定されているように。重力に負け伏してしまったかのように。ふう、と息を吐いて、今度は首を動かしてみた。僕の頭に浮かんだのは、アンティークショップでよく見たような、錆びた人形。首を動かす事は、ここまで一苦労だったろうか。ようやくの思いで右を向くと肌が布と微かに擦れて、ゆっくりながら視界もスライドしていった。新たな世界を掻い摘む視界。その先にはもうひとつの発見があった。
人がいる。
僅かながら上がる息。そんな身体と同様に揺れる視界には、誰かの横顔が写り込んでいた。ぼやけて細かくは見えないが、それが確かに人の形であることは事実だった。僕はまず驚いた。その人影の色は、余りにも透明に見えたから。
ミルクのように真っ白な肌。窓から差し込む陽の光に愛撫されているものの、そこに朱色が灯ることも無く、紫掛かった跳ねた癖毛は時折流れ込む風に揺られるだけだった。僕と違って、閉じた瞼。息をしているのか、微かに胸元が上下するだけで、それ以外の一切の動きを停止させていた。
真っ先に頭に浮かんだのはこんな言葉だった。
生きてるのか。
生物、なのか。
あまりにもその横顔は人形…あるいは、マネキンのようだったから。
彼を見詰めたままで、淡々と時間は過ぎ去っていった。目覚めて数分程経ち、ようやく体の怠さにも慣れてくる。棒切れのような腕と足を酷使し身を起こすと、自分がベッドの上に横たわっていたことに初めて気が付いた。そして、この体が点滴に繋がれている事にも。とは言っても、右手首からつながる細いチューブには赤い液体が通っているだけで、それ以外に僕の体を拘束するものは何も無かった。そして…じっと見つめていた人の姿…隣で眠っている身体もまた、僕とは違うベッドに横たわっていたのだ。
彼の横顔に、また僕は惹かれる。今にも壊れてしまいそうなその危うさゆえか、それとも、僕と同じ状態という、ある種のつながりを感じたからか。理由は分からないが、とにかく惹かれていた。僕の中にある何かが、彼に引き寄せられていた。
彼の様子をもっと近くで見てみようかと、そう思い立ってベッドから下りる。途端、冷たい床の感触が足の裏を貫いた。痛みさえ感じた。一体どれだけの時間を、僕はここで眠っていたのだろう。痛みを堪えつつ点滴を片手に、よろけながら歩み寄って見ると、身体の骨格や顔立ちから、ようやく彼が男性…と言うより、男の子だと気付いた。彼は僕より何歳か幼いようで、小学生と言われても疑わない程の小柄。どこか幸せそうな寝顔。僅かに口角が上がっているように見える。か弱く細い、枝のような身体は僕と同じように点滴に繋げられて、生きていると言うより、生かされているようだ。等間隔で続く電子音は彼の胸元に繋げられたもうひとつの機械から鳴っているようで、見上げると液晶の中で波の線が、音と同様一定のリズムで揺らいでいた。これといった外傷もなければ、その他の器具を繋げられている訳でもない。点滴と、生命を示す管。彼の身体から繋がるのは、それだけだった。ただ眠っているだけなのか、それとも生死を彷徨っているのか。一見しただけでは分からないが、僕の視線はその痛ましい寝顔に釘付けだった。執拗いほどに何度も述べているが、とにかく心惹かれるような、そんな何かが、彼にはあったのだ。
静寂を切り裂いたのは、スライドドアを開ける音だった。ぼんやりと見詰めている最中、無音だけが続く部屋に誰かが入ってきた。反射的に振り返って見てみると、髪を後ろにまとめた、泣きぼくろが特徴的な女性が、まさに唖然といった表情で、こちらを見つめていた。一瞬遅れて駆け寄ってきた姿は、ドラマのワンシーンさえ彷彿とさせる。服装から考えるに看護婦なのだろう。よかった、また一人戻ってきてくれた、そんな風な事を言って一方的に泣き腫らす彼女に正直僕はついていけず、されるがまま、といった感じだった。彼女はようやく一息置いたあと、僕の置かれていた状況について何かと複雑な説明をしてくれたのだが、口調や説明の方法がたどたどしかったのと…、正直今の頭では言葉を飲み込む事に精一杯で、詳細な内容は殆ど聞き漏らしてしまった。強いて言うならば、「未来機関」「絶望の残党」そして、「超高校級の才能」……これらの単語だけが変に印象に残った。それぐらいだ。僕の理解が至っていない事に気付いたその女性は、また後日改めて説明すると言って、不意に視線を向かいの彼…眠ったままの体に向けた。あの子は、と聞くので、「眠っています」と返した。するとその女性は残念そうに、あるいは悲しそうに眉を下げながら、片手に持ったカルテのような物を口元に添えて、しぶしぶといった風に尋ねてきた。
「そのぉ………とっても聞きづらいんですが、………覚えていたりはしませんか…?えっと……言いづらいんですけど…あの子が死んでしまう姿、とか…」