……味は率直に言って不味いと感じている。
一番最初に手を出したときは碌に作法もわからず、不用意に吸い込んでゴホゴホとむせて苦しんだことは覚えていた。今では多少なりとも慣れてきたようで、喉を通り肺を汚す感覚だけ楽しんでいた。
苦い。舌に残る感覚はそれだけ。
下げた煙草の先には鈍い灯と、ぼろぼろと崩れていく灰。
換気扇の下で吸って、灰皿代わりのシンクに灰を零して汚していく。
(……灰、流し過ぎたら詰まるんだろうな)
ぼんやりと見下ろしながら、頭の片隅で考える。やめる気はないから、本当にただ思っただけのことだった。
「…………随分と子供っぽい悪事だな」
「今しかできない悪いコトの代表例だろ、こんなの」
煙を吐き切ったその口で笑い飛ばす。
いつの間にか近くまで来ていた一真が、僅かに眉を顰めながら立っていた。
時刻は午前2時を回ったくらいの頃か。
今日が――正確には昨日が金曜日だったため、一真は一人暮らしの辰巳の家に遊びに来て、そのまま流れで泊まっていた。ゲームしてたり漫画読んでたりと気ままに過ごして、夜も更けてきたころに適当に寝付いた感じ、だったのだが。
ふと、ひとり目が覚めた辰巳は、ただぼんやりとした欲求に従って無言で台所へと足を向けていた。
横で寝ている一真を起こさないようにこっそりと。
それでもきっと一真のことだからこの時点で気づいていたのかもしれない。
残数の少ない煙草の箱と小さいライターを手にした辰巳は、台所の換気扇の下で明かりもつけずに静かに火をつけた。
光源はそれきり。
しいて言うなら窓から入ってくる柔い月光くらい。
僅かに慣れてきた手順通りに煙を吸って、そして緩やかに吐き出した。
(……)
きっかけはなんだったかとふと思う。
確かただの好奇心か何かだったか。同様の理由で酒も煽ってみたけれど、どうしてだかそっちの方は続いていない。味が気に入らなかったのかと思ったが、別に煙草の味だって気に入ってるわけでもないから違うのだろう。寝起きに近い頭では碌な思考回路も回せなくて、いつもよりも何倍も長い時間をかけて考える。吐き切った煙が換気扇を通って消えていくのを眺めて、もう一吸いするくらいの頃にようやく思い至った。
……きっと。
煙とともに自分の中の何かが吐き出されていくのが、心地いい気がするからだろう。
足音もなくそばに立たれていたものの、辰巳は特に驚いた様子もない。もともと一真は不用意に足音を立てないから、辰巳は気付きようもなかったけれど、なんとなく来るかもな、なんて予感もしていたのだった。
真面目に生きてる一真にとって、未成年の喫煙は決して気持ちの良いものでもないんだろう。薄暗い台所で一人煙草を吸っている辰巳を見る一真の目には、呆れたような、非難するような意が込められているのが見て取れる。
「…………いつからだ?」
「うん?」
「慣れてる吸い方だから、今日が初めてっていうわけでもないんだろ? いつから吸ってるんだ、それ」
「んー、あー……いつだったかな、はっきり覚えてねえや。二、三か月前かそこらへん。そう頻繁に吸ってるわけじゃねえよ? そろそろ一箱なくなりそうだな、くらいだしな」
そう言いながら、片手に持っていた煙草の箱の中身を一真に見せる。二十本入りと思われるそれには、まだ五本ばかり残っていた。
コンビニで時折見かけるパッケージ。ちゃんと記載されている未成年喫煙に対する文面は残念ながら効力を成していない。
「かっこつけなら別のことにした方がいい。体に悪いぞ」
「率直すぎて泣けちまうな。否定はできねえけど」
「…………? 本当にかっこつけだったのか? 辰巳、そういうので煙草吸うようなタイプじゃないだろ」
「よくわかってるようで。かっこつけってかまあ、背徳感っつーの? 悪いコトしてるって事実を噛みしめてるだけだ」
成人したらできない悪事だぜ、といいながら笑っている。
それの何がいいのか一真にはいまいち理解できなかった。
ふわふわと浮かんでは消えていく煙が月光に照らされて僅かに白んでいる。
煙草をはじいて灰をまたシンクに零して、その後にああと辰巳は声を上げた。
「二か月前の大会」
「…………?」
「お前が優勝した剣道大会あっただろ。吸い始めたの、その日の夜からだ」
「……なんでまたその日なんだ。テンションが上がって手を出したのか?」
「そんなとこだろうなあ。最初は好奇心からだったし。でも今は――……」
さらりと嘘を織り交ぜる。
思い出すのはあの日の姿。
今の自分では到底たどり着けない境地にいる一真の姿が目に焼き付いて、半ば自棄のような、劣等感のような何かに苛まれてそれを煙とともに吐き出したくて手を出した。悪手も悪手なのは明白だったけれど、何故だかあの時の自分にはそれしか見えていなかった。
肺を汚すことはすなわち呼吸器系の劣化、ひいては運動能力の低下に直結する。
それでも――自分の肺が壊れることよりも。
目標で憧れで一番の親友の東雲一真に対して、そんな感情を抱くことの方が、よっぽど嫌だったのだ。
……まあ、それはきっかけに過ぎず。
今では背徳感を楽しんでいる節があるけれども。
「……一真」
煙草を持っていない方の手でちょいちょいと手招きする。
疑問も持たずそれに従って近寄ってきた一真を見てクツクツと笑いながら、辰巳は一度煙草を吸って、そしてその煙を吐き出さないまま、
「――、~~ッ!?」
口づけて、彼の口内にその煙を流し込んだ。
突然のことに目を白黒させて抵抗する一真。ぐっと押しのけようとするものの、いつの間にか辰巳の片手は一真の後頭部に回っていたようで一向に口を離せない。流し込まれる煙の味は苦くて、無理やり喉を通るそれを飲み込んではむせそうになる。
煙の口移しの片手間で、辰巳は用済みになったその短い煙草をシンクに押し付けて火を消した。焦げ跡が残ったかもしれないが、今の彼には些細なことだ。
「――っぷは、っ、ごほっ!?」
口を離すと同時、煙にむせて咳き込む一真。慣れてないそれに順応することは叶わず、喉を纏わりつく感覚に生理的な涙を浮かべていた。
「…………な、苦いし不味いだろ、コレ」
「ひゅ、ぅ……たつ、み、」
「味楽しんでるっていうよりは、肺を汚す背徳感にぞくぞくしてるだけだぜ、俺」
悪いことをしている。
それも、ただ煙草を吸うより何倍も悪いこと。
きっと一度だって汚れたことのない綺麗な肺に煙を流し込んで汚すことに昏い背徳感を抱いているのと同時に、いつも煙に乗せて吐き出していた醜い感情を受け入れてほしいという願望の表れでもあった。
一縷の澱みすらない剣技に灰を落とすように。
ほんのわずかに彼の肺を汚す、些細な悪事で――それでも辰巳にとっては、それなりに重大な悪いこと。
背に背徳感のようなものを感じながら、辰巳は。
自分にとっての憧れを、自分の手で僅かに汚す小さな悪事に、手を染めている。