ある日の夕方。
綺麗な夕日が水平線に溶けるかどうかの時間帯。今日も一日のお勤めをこなして、自室へと足を向けていた最中、三四はふと前の方の人影に目が留まって、僅かに足を止めた。
一歩分の静止を挟んだあと、少しだけ呼吸を整えて、やがて何ともない顔でまた歩みを続ける。
ととと、と小さな歩幅で、僅かに速く。
向こうも三四の姿に気づいたようで、こちらに振り向いてくれている。
「一真さん、こんにちは。……今帰りですか?」
「ああ。呰上も戻るところだろ? 途中まで一緒に行くか」
こくり、と小さく頷く三四。
いつもの歩みと違って、三四の歩幅に合わせてゆっくり歩く一真。
彼にとってはなんとなしのことだけれど、三四にとっては嬉しいその気遣いに頬が緩みそうになる。それでもそれを表に出すのは恥ずかしいので、頑張って表情筋に意識を向けて取り繕ってはいるけれど。
見上げると、夕日に照らされた彼の顔が目に入る。いつものように表情の動かない顔だけど、僅かに口角を緩ませてくれているのは見間違いではないだろう。ゆるりと話しているだけだが、三四と話す時間は一真にとっては心地の良いものなのかもしれない。そうだったらいいな、とぼんやり考えて、
「――ざかみ、呰上? 大丈夫か?」
「えっ、あ、はい! ええと、すみません。少し考え事しちゃってて」
黙り込んだ三四を心配したのか、顔を覗き込んで声をかける一真。その声に引き戻された三四は心臓を跳ねさせつつも、冷静な顔を取り繕ったまま言葉を返した。
「ん、そうか。ならいいんだが……」
「すみません。……えっと、何の話をしてましたっけ」
「明後日の話だ。呰上も休みなんだろ?」
「はい。久々の休みですので、何をしようかな、と……」
「ああ。だから、呰上がいいなら一緒にどこか行かないかって話をしてた。小笠原では双子といろいろ巡ったそうだけど、東京に戻ってからはあまり散策とかしてないんだろ?」
「……一緒に、ですか?」
「ああ。明後日は俺も休みなんだ。どうだ?」
ぱちぱちと瞬いて、フリーズするかのように三四の歩みが止まる。
数歩先で同じく立ち止まった一真が振り返って三四の方を見ていた。夕日の逆光で見づらいものの、柔らかなまなざしで三四を見てくれているのはわかる。
二人で。
しかも、貴重な休みを私に使ってくれる、らしい。
その情報量の処理が追い付かなかったのか――三四は、一周回ってたいした動揺も見せず、ただこくりとうなずくことしかできなかった。
「それは……――その、とても嬉しいですが。一真さんの貴重な休みを私に付き合わせてしまって、いいんですか?」
「構わない。むしろ、案内したいと思ってたんだ」
「……ええと、その、なら。よろしく、お願いします」
たどたどしく頭を下げる三四。
ありがとう、と返した一真は、三四が頭を上げて一真に追いつくと同時に踵を返す。どうやらここで三四とは別方向へ向かうようだった。
「じゃあ呰上、また明後日に。朝の十時ごろに宿舎の前に迎えに行く」
「わかりました。ありがとうございます」
最後に少し手を振って、一真は別方向へと歩いて行った。それを見送りながら小さく手を振り返して、やがて名残惜しそうにその影を見つめた後、三四もまた再び歩き始めて、
…………。
…………?
最近こういう事例を見たような? とふと気が付いた。
夕日に照らされてきらきらと反射する海面を眺めながら、脳裏に引っ掛かったその疑問について考え始める。
明後日のこと。
一真さんと二人で出かけることになった。
一真さんと。
二人で。
それは、世間で言うところの――
(――ちょうど、小笠原のときの那姫さんのような、)
――デート、というものでは?
「~~ッ!?」
ようやく思考回路がその結論に達して、周回遅れで三四の顔が真っ赤に染まる。決して夕暮れの光のせいでもなんでもない。咄嗟に頬に当てた手のひらには体温よりも熱い温度が伝わってくる。
デート、いや向こうからしてみればそんな意図はないのかもしれないけれど。
それでも二人きりで出かけることに違いはなく。
…………軽々と頷いた自分が信じられない。
とうに歩みが止まった三四は、ぐるぐると混乱した瞳でうつむいたまま必死に思考を回している。これまで得られた少ない知識を総動員して――それでもなお、自分の手には負えない難題だと判断できたらしく。
まして明後日という短い猶予も相まって。
思わず三四は踵を返して、職場である図書館の方へと駆けていった。
夕日が水平線に溶けて形を保たなくなった、夜に差し掛かろうかという時刻の一幕だった。
「――は、博士……っ! 助けてください…………!!」
「み、三四!? どうしたの、そんなに慌てて?」
日も沈んだころに、三四は図書館の天国博士の持ち場に転がり込んだ。とうに就業時間は過ぎているものの、博士や千尋はよく図書館で寝泊まりしているので、今日もここにいるだろうと踏んでの行動だったがどうやら正解だったようだ。
ついでに近くにいた千尋も顔を出してきた。
息を切らして、三四らしくないくらい顔を赤くしている様に、どうしたのかと首をひねる天国博士と千尋。
ひとまず三四の息が整うのを待って、それから詳しい話を聞こうと思い、適当な椅子に三四を座らせる。
やがて落ち着いたのか、言い淀みつつも三四は先ほどのやり取りを二人に話して、
「――それってデートじゃない!?」
「え、ええと、……やっぱり、そうですよね……?」
「天国博士はちょっと落ち着いて。んー、まあでもそうね、そういうつもりで言ったんじゃない、あいつ」
「そうよそうよ、絶対そう! う~ん、三四の良さにちゃんと気づいてるなんてやっぱり流石不知夜博士の息子さんだわ!」
「そこはあんまり関係ないんじゃないの」
結果として三四よりも盛り上がる二人がいた。
いつの時代でも色恋の話に食いつかない女子などいないのだ。
相談主の三四を半分置いていったままテンションの上がる天国博士に、三四はただおろおろと戸惑うばかり。見かねた千尋がちょっとストップをかけようとするもののそんなもんで止まれるほど天国博士の三四への愛情は浅くはなかった。
「三四のお相手なんてどこぞの馬の骨程度の相手ならあげる気はさらさらなかったけど一真君なら安心よ、ねっ千尋さん!」
「さあ? まあ、なんにせよ無碍にはしないとは思うけど……それで、三四はどうしたの? 結局この誘いは受けたんでしょ?」
「は、はい。明後日の十時にお会いすることになったのですが……その、こういうときの、服装とか、なにもわからなくて、」
最後の方はか細い声で助けを求める。
このような経験もなければそれに属する知識も手薄な三四には難解すぎる状況で、年上の二人に頼らなければどうしようもないのだろう。
ふむ、と二人は三四の姿をまじまじと観察する。
「…………明後日、ね。ならあまり大掛かりな準備はできないか。とりあえず服は私の小さい頃のを漁ってみるわ。天国博士、髪留め系の小物って持ってる? 私このカチューシャくらいしか碌なのないのよね」
「任せて。いつか三四が着飾る機会に備えていろいろ準備しておいたのよ。こんなに早く来るとは思わなかったわ。喜ばしい限りね」
「とりあえず髪は当日の朝するとして、問題は服ね。明日までに持ってくるけど、やっぱり王道のワンピースかしら」
「露出は控えめな方がいいわね。あまり奇をてらっても逆効果だわ」
「メイクは?」
「必要ないわ。三四は素でかわいいもの。色付きのリップで少し色を入れるくらいで……いや、やっぱり少しメイクした方がいいかしらね。血色のいい顔色の方がいいかも」
「じゃあ髪とメイクは天国博士に任せるわよ」
三四を置いてトントン拍子で話を進める千尋と天国博士。
置いてけぼりの三四は話に入れないままだったが、ふと彼女らの話の流れで自身の髪の毛先に触れてみた。
……力を入れてケアをしているわけではないため、千尋のような潤いある髪ではない。同じ黒髪なのに随分と違うなあとぼんやり思っていると、それを見透かされたのか天国博士から、
「三四は今日と明日は私のコンディショナー使いなさい」
と言われてしまった。
なんなら三四は今日明日は宿舎の自室に戻ることすらできなくなったらしい。
「今日明日はここに寝泊まりしなさい。時短だし、あと当日もわざわざここに来る手間省けるでしょ」
「そうそう! 明日の業務もスルッと始められるし、いいことだらけよ。あ、自室に取りに行くものがあれば取ってくるわよ?」
「あ、ええと、特には。それよりも、いいんですか? こんなに手間をかけさせてしまって……」
不安げに問う三四に、天国博士と千尋は二人ともにっこりと笑って。
三四の頭を優しく撫でながら、励ましの言葉を投げた。
「まったく、これくらい全然手間じゃないわよ。折角三四が取ってきたチャンスなんだから、応援くらいするわ」
「そうよ。三四が幸せになってくれれば、私はそれだけでいいの。そのためなら、なんだって苦じゃないわ。……頑張りなさい、三四」
二人からの、温かくて優しい応援。
それを受け取ってじんわりと心の奥が暖かくなる感覚を覚えながら、三四は嬉しそうにこくりと小さく頷いた。
……それから、時の流れは随分と早く。
碌に心構えも覚悟も完了できないまま、あっという間に一日は消し飛んで、約束の日の朝になってしまった。
「…………うん、やっぱり女の子は髪型一つで印象がぐっと変わるわね! どう、千尋さん。更に可愛くなったでしょう?」
「ええ、流石。私の持ってきた服とも合ってるわよ」
「それにしても、サイズ合ってて本当に良かったわ! チェック柄のワンピースに長袖、露出防御も完璧。三四のイメージに合いつつ今までなかったタイプの服装だし、これはぐっとくるんじゃない!?」
「天国博士のヘアアレンジも流石よ。ええと、なんだっけその結び方?」
「300年前ではフィッシュボーンって言われてたわ」
天国博士の言う通り、過去にフィッシュボーンと言われ親しまれていた髪型……をちょっとだけゆるめに、おさげのように左右に作って紐のリボンで止めてある。いつもお団子の三四からがらりと印象の変わるそれは、彼女らの言う通り服装と合っていて年頃の女の子の可愛さが引き上げられていた。
薄く化粧を施された顔色はいつもより明るく、いつものような顔色の悪さは鳴りを潜めている。まあこれから一真と会うのだから顔色なんて些細な事ではあろうが、それはそれとしてやるなら全力である。
時刻は九時すぎ、そろそろ集合場所に向かってもいい頃合いである。
ついでに二人の始業時刻もそろそろだ。
「――よし。じゃああとは三四が頑張るだけよ。私たちができるサポートはこれくらい。帰ってきたら、いっぱいお話聞かせてね」
「今日は気にせず楽しみなさい。面倒ごとはこっちが引き受けてあげるから」
「……はい。その、行ってきます」
期待と不安と緊張の入り混じった表情で、三四は恐る恐る図書館のドアを開いて外へと向かう。
それを見届けた後――天国博士と千尋はただ、彼女の人生初のデートがどうか上手くいくように祈るばかりだった。
その日の昼。
「あっ今一真と三四が露店で昼食買ってるわ」
「ほんと? どう? うまくいってそう?」
「今のところは全然大丈夫そうね、……あっ」
「えっ何、なに!? 何かあった!?」
「三四、一真の食べてるの一口貰ってるわ」
「千尋さん!!!!!!!今すぐ私にも知覚操作を!!!!!!!」
B.D.Aを駆使して彼らのデートを覗き込んでは騒いでいる、昼休憩中の二人がいたとかなんとか。