【透魔編】竜の血を飲んだ眷属ベスが人外になる話或るストラテジストの手記
私はこの日、生まれて初めて神という存在を信じ、その導きとやらに感謝し、首を垂れた。
無限渓谷での決戦で、カムイ王女殿下に敗れ、行方知れずとなっていた軍師殿の御身が見つかった。
そのうえ一命を取り留めている状態にあると、報告を受けた途端、私の両の目からは堰を切ったように涙が溢れ出した。
神は我々のことを見棄てずにいてくださったのだろう。
私は馬を走らせ、軍師殿のもとへと向かった。
軍師殿は供をするダークマージに寄りかかり、俯いたまま天幕の隅に座られていた。
ひと月も渓谷で倒れ伏せていたのだから、御身の状態はさぞかしひどいだろうと確認したが、どういうわけか傷も汚れの一つさえもない。
それどころか、私が近づこうとも顔を上げず、一言も発せず、ただ虚空を見つめているばかりだった。
その時は心的外傷によって記憶が混乱しているのだろうと、何度も自分に言い聞かせた。
◆
軍師殿が戻られてから、ふた月が経過した。
軍師殿はいまだ言葉を発せず、誰が話しかけても軽く視線を動かす程度で、それ以上の反応を示さない。
しかし、その様態には、明らかな異変が起きていた。
灯りの僅かな光さえも毛嫌い、火を拒むようになった。
銀の食器を手にしたら、皮膚が火傷したように焼け爛れた。
常に喉の渇きを訴えて、浴びるように水を飲むようになった。
ただ虚空を見つめ、部屋でぼうとしている日もあれば、一変して身の回りの家具や食器を破壊するなどといった衝動的な行動をとる日もあった。
常軌を逸した行動の数々が目立つようになり、直属軍の生き残りの面々からも、その異常性を指摘する声が上がるようになった。
軍師殿の様態が回復するまでの間、決して人目に触れぬようにと私の屋敷の一角に軍師殿を隔離し、麾下の者たちだけで世話をするようにした。
しかし、恐れていたことが現実になってしまった。
水差しを運んだメイドの一人を、軍師殿は噛み殺し、その亡骸を食ってしまっていた。
長いこと私たちに仕えてくれている彼女なら平気だろうと、一人で行かせてしまったのが間違いだった。
軍師殿はどうやら彼女の名前も思い出せない様子で、無惨な亡骸を前に涙ぐむ私の姿を不思議そうに眺めていた。
その後、皆で相談し、苦渋の決断を下した。
軍師殿の御身を、地下牢に幽閉することとしたのだ。
かつての主人にこのような無体を働くのは大変心苦しいが、人を襲うようになってしまった以上は仕方がない。
しかし、そんな苦悩も些細なことに思えるほど、気掛かりなことが一つあった。
軍師殿の御姿は、何一つ変わらぬままなのだ。
どれだけ人とかけ離れた生態に変化しても、その御姿だけは、私がよく知る姿形のままだった。
それどころか黒々とした髪は歳月とともに長く伸びてゆき、血管さえ透けて見えるような氷肌も健在で、その変わらぬ美しさには、まるで心臓が凍りついてしまいそうになる。
いっそ姿形まで化け物のように変わってしまえばいいと、愚かなことばかり願ってしまう。
私の記憶……いや、理想と寸分の狂いのない姿のままで、変わり果てていく貴方のことをただ眺めているのが何よりも辛い。
こうなってしまった以上、変わるべきは私の方なのかもしれない。
早く気が触れてしまえ。
◆
あれから二年が経過した。
軍師殿はとうとう水もろくに口につけず、鶏や牛の血を啜りながら、地下牢で静かに生き永らえている。
ある日、ダークマージの一人が家畜の数が間に合わないと、食事に豚の血を運んできたものだから、その怠慢さに腹を立てて、彼のことを叱咤し、勢いのまま殴り流血させてしまった。
その時だった。
私の拳に付着した赤い液体を、
彼の頬を濡らす赤い雫を、
目にした軍師殿は自らの意思で身を起こし、鉄格子に縋り付くような形で それが欲しいとねだってきた。
その瞳は生気に満ち溢れていて、数年ぶりに目にするその御姿に、私は感激のあまり膝から崩れ、跪いてしまっていた。
そして、望み通りのものを差し出すと、軍師殿はそれはもう嬉しそうに目を細められ、私に礼を告げた。
ああ、私が間違っていた。
家畜の血など与えて、貴方の美しさが損なわれたらひどい後悔をするところだった。
それからは軍師殿が望むものを食事に用意することにした。
上質な食事を口にすればするほど、軍師殿は 人間らしさを取り戻していくようだった。
今では私の名を呼び、よく微笑むようになった。
なんと、喜ばしいことだろうか。
ようやく辿り着いた答えに、私は涙が溢れて止まらなかった。
或るダークマージの手記
マクベス様は、僕の知り得ない何者かへと変わってしまっていた。
無限渓谷での一戦で、奇跡的に一命を取り留められたと聞いて、無邪気に喜んでいたあの時の自分が愚かだったと思う。
あれからマクベス様は、食事に一切手をつけず、一睡もせず、排泄している様子も見られない。
かつての 愚王を彷彿とさせる何かへと変貌していた。
◇
戦後の暗夜王国は困窮を極めるばかりで、マクベス様の 食事のための家畜を用意することも難しいことだった。
王城を追放された身では、牛のように高価なものを継続的に仕入れることはできず、そのうえ日に日に増えていく食事の頻度に鶏の飼育が追いつかず、厩舎に成鶏はもういなかった。
なんとか今晩の食事に間に合わせようと、近くの民家で飼われていた豚を攫い、調理し、その血で杯を満たした。
どうかばれないようにと心から願い、わずかに震えながら地下まで杯を運んだ。
しかし、かつて一国を背負うストラテジストだった人物に、そんな子供騙しが通じないことは誰よりも自分自身が分かっていた。
僕の様子からか、杯を満たす液体の匂いか色か、一体どれで気付いたのか分からないけれど、ヘンドリックさんはその異変を一瞬で見抜き、僕の頬を強く打った。
その怒りはこれまでの不可解な事象への鬱憤を晴らすかのように僕一人へ向けられた。
どうにか堪えようと歯を食いしばっていると、口の中に鉄の味が広がった。
どうやら鼻から血が垂れているようだった。
大した怪我ではないけれども、その時周囲の空気が凍りつくのを感じた。
牢の奥で項垂れていたはずのマクベス様が、身を起こし、顔をこちらへと向けていた。
ヘンドリックさんはその姿を見た瞬間、血相を変えていた。そして、まるで何かと会話するかのように会釈を繰り返し始めた。
僕には、マクベス様の声なんて聞こえなかった。
マクベス様は痩せて落ち窪んだ目をぎらつかせて、僕たちの姿をじっと見つめているだけだった。
嫌な予感しかしない。
これから僕の身に起きるであろう最悪な事態に、冷や汗が止まらない。
逃げ出そうと立ち上がった瞬間、ヘンドリックさんは僕の腕を力いっぱい掴み、背を押して、鉄格子の向こうへと突き入れた。
数年ぶりに見る 師の姿は、別人のようだった。
髪は手入れされないまま伸ばされて、痩せたせいか四肢の長さがより強調されているような気さえする。
マクベス様が、僕の頬に手を伸ばしていく。
頬に負った傷をいたわるように、指の腹で優しく血を拭うと、微笑んだ。
でも、その笑みの意味がかつてと違うことを一瞬で悟ってしまった。
震えが止まらない。
声が出せない。
あなたが、あなたでないからもう名前を呼ぶこともできない。
化け物は、ようやく与えられた 餌を前に、歓喜していた。