訳あり下弦様の奥方下弦の壱・天元は自由気ままな鬼である。人間時代に忍びという上の命令は絶対の掟に縛られていた反動か、誰かに従う事を嫌っていた。故に鬼の絶対的君主である鬼舞辻無惨の干渉を弾く術を常に発動し、悠々自適な鬼の生活を楽しんでいる。だが、流石に毎回呼び出しに応えないとなると無惨の怒りを買ってしまう。そうなるとややこしい事になると思い、天元はたまにではあるが無惨からの呼び出しに応える事にしていた。そして今日がその「たまに」の日。実力は認められている為、その身を八つ裂きにされる事は無いが、小言は多く貰って来てしまった天元。「干渉を弾く術を解け」「青い彼岸花は見つかったか」「元忍びなら鬼狩りの本拠地を暴け」「妓夫太郎に変な事を吹き込むな」等々…
(言うこといっつも変わんねぇなぁあの方は…)
ハァ…と深い溜め息をついてはやる気のない表情を浮かべる。
(俺が素直に言うこと聞かねぇって分かってんだろうに…)
無論、無惨からの小言を聞く気など毛頭に無い。特に最後のは。
「さっさと帰ってゆっくりするか」
月明かりだけが照らす夜道を駆けながら、隠れ家へと天元は帰って行く。
着いた場所は地下屋敷…日の届く事が決してないその場所は、かつて忍びが潜伏の為に作り上げた屋敷であった。造りは頑丈で、侵入するのも造りをよく理解していなければ困難と、今の天元にとっては売って付けの隠れ家である。嫌っていた忍びとの繋がりに助けられるとは皮肉なものだ、と天元は小さく笑ってしまう。
誰も居ない筈の屋敷へと入り、「ただいまー」と帰宅の挨拶をする。誰も返す筈がないその挨拶…だが…
「おけーりー」
掠れた声で返ってきたその言葉に、天元は視線を向けた。そこには、天元が唯一心を許した相手が笑みを浮かべて歩み寄って来る姿…そして、
「血肉にする?稀血にする?それとも…」
上目遣いで艶かしく告げてくる愛する者…その黒い爪の手が自身の胸に置かれ、天元はフッと微笑みを浮かべてその手を取り、
「お・ま・え」
そう答えて、笑みの浮かんだ愛しい唇へ唇を重ねてい……
「ちょっと待てやぁぁぁぁッ!!つか何だこれぇぇぇぇぇッ!!!」
今の今まで、天元を誘惑するかの如く雰囲気を醸し出していた天元の愛する者…上弦の陸・妓夫太郎は、重なろうとしていた唇の間に手を挟んでは口付けを必死に阻止してきた。
「ええ〜。ここまでやったんだから最後までやろうぜぇ」
「最後までって何だよ!」
「おかえりの口付け」
「何だそりゃ!!」
嫌がる素振りを見せる妓夫太郎の腰を抱いては、唇を近付けていく天元。その表情はとても晴れやかで楽しそうである。
「つかこれ!お前に言われてやったけどよぉ!本当意味分かんねぇんだが!?何だよ!「血肉にする?稀血にする?」って!!」
「ん〜…何か人間の夫婦の間で流行ってるらしいぜ。「ご飯にする?お風呂にする?それとも私?」って」
「ぜってぇ流行ってねぇだろッ!何だその悪寒しか走らねぇ台詞はよぉぉッ!!」
「俺も最初は馬鹿馬鹿しいって思ったけど、お前がやってくれたらメチャクチャ可愛かった」
正に愛のなせる技である。愛しい妓夫太郎が可愛らしく出迎えてくれた姿に大満足な天元だが、やらされた妓夫太郎は不満爆発。
「こんな馬鹿げた事俺にやらせるなよなぁぁぁッ!!」
「文句なら賭け花札に負けた妹に言ってくれ」
「本当っ、何でオメェ相手に賭け事なんかやっちまったのかなぁぁぁアイツはぁぁぁぁッ!」
妓夫太郎の妹・堕姫は天元との賭け花札の結果、惨敗してしまった…その妹の負け分として妓夫太郎は「一日天元の奥方になる」を只今遂行中なのである…。
妹の乗せられやすい性格に頭を抱える妓夫太郎だが、妹可愛さで決して本人に文句は言えない…。最早、天元の気が済むまで一日奥方に徹するしか道はないのだった。
「つか奥方ってなんだよッ。嫁とどう違うんだよッ…ぃ、一応、俺はもう、オメェの嫁なんだがぁ?」
「嫁は働きに出て良いが、奥方は文字通り、家に居て旦那の帰りを待つ身、ってとこかな」
天元の持論である。(因みに本来の意味では、奥方は身分の高い者の妻の事である)そして、自身が天元の嫁であると頬を赤らめながら認める妓夫太郎の姿に天元は頬が緩みに緩みまくり、腰を抱く腕の力も強まっていく。
「万年情緒不安定な上司から小言言われて疲れて帰って来たとこに、可愛い奥方が迎え出てくれたら嬉しいだろ?」
「お前ッ…あの方をなんつう呼び方ッ…」
絶対的君主の無惨相手でも態度を改めない天元に顔を引きつらせる妓夫太郎。そんな妓夫太郎を天元は微笑みを浮かべて抱き上げ、屋敷の奥へと向かっていく。
「オイッ。どこ行くんだよッ」
「ん?風呂」
「……は?風呂?」
「おう。一緒に入ろうなッ」
「……」
ニコッと笑いかけてくる天元に妓夫太郎は目を見開いて何やらポカンと呆気にとられている…そんな妓夫太郎の様子に何かピンッときた天元は今度はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ出す。そして、
「何だ?もしかして布団に直行すんの期待してたのか?」
優しく落ち着いた声で囁きかける。それは色気漂う低音の聞き心地の良いの声。そんな声を吹き付けられて、妓夫太郎は思わず肩をビクッと震わせ、顔を真っ赤に染め上げていく。
「なッ…ば、馬鹿な事言ってんじゃねぇぞテメェェッ!」
「何なら風呂場で可愛がるが?」
「んな事俺に聞かなくても最初っからそのつもりだったんだろうがぁぁッ!」
「いんや?俺はただ一緒に風呂入って背中流し合いしたかっただけだぞ」
真っ直ぐに見つめてくるその紅い瞳が嘘を言っていないと告げてくる。天元ならばどうせまたすぐ自分の身体を求めてくるだろうと思っていた妓夫太郎はその予想が外れて、耳まで真っ赤にしフルフルと小刻みに震えては視線を天元から逸してしまう。そして、小さくぼそっと呟いていく…
「帰って来てから飯より俺を選んだくせにッ…」
「ん?もしかして、お前を選んだの嬉しかったのか?」
「…嬉しかったがぁ?何か文句あんのかぁぁッ?」
キッと睨み付けてくる妓夫太郎。だがその真っ赤な顔で睨まれても迫力にかけるなぁと天元はクスッと笑ってしまう。
「んじゃ、可愛い可愛い奥方のご要望にお応えして、風呂場でいっぱいいっぱい可愛がってあげますかね」
「…ちったぁ加減しろよなぁ」
「善処する」
真っ赤になった顔を天元の首筋に埋め、その頸に腕を回しては抱きついてくる妓夫太郎。そんな妓夫太郎が可愛らしくて愛おしくて、天元は優しい微笑みを浮かべては穏やかな眼差しを向けていく。それは他の誰にも見せる事の無い表情…
(お前だけだぜ。俺をこんなに穏やかにしてくれんのは)
だからこそ、この隠れ家にも招き入れた。鬼となってからは、決して他の者に気を許す事をしなかった自分が。妓夫太郎にだけは全てを許せる…そう感じているから。ずっと側にいたい。ずっと抱き締めていたい。日に日にその気持ちは増していく。
(本当はこのままずっとこの屋敷に閉じ込めておきてぇけどなぁ)
妓夫太郎には大切な妹がいる。その妹といる時は妓夫太郎はとても良い顔をし、良い音を鳴らす。嫉妬してしまいそうにもなるが、そんな妓夫太郎も好きだと思っている自分もいる。だから帰さなくてはならない…妹の元へ。
(まっ、今日一日は俺の奥方だから帰さなくて良いけどな。また賭け花札すっかなぁ。アイツ弱過ぎ〜)
こうして、妓夫太郎通い妻計画を練っていく天元…その計画を知る者も止めれる者もいない…
「なぁ…何か今、ゾクッて悪寒が走ったんだがぁぁ?」
「そりゃ大変だ。早く温めねぇとなッ」