宇髄夫夫のとある朝の出来事「お前に苦労はさせねぇ。辛い思いもぜってぇさせねぇ。だから俺の嫁になれ、妓夫太郎」
妹が自立した年に恋人から贈られたのは、青い宝石の付いた指輪と誓いの言葉だった。「嫁になれ」という横柄な感じにも受け取れるプロポーズ…そんなプロポーズに妓夫太郎は「アンタらしいなぁぁ」と満面の笑みを浮かべて、差し出された指輪を受け取り、恋人・天元からのプロポーズを承諾した。
そんなプロポーズから1年が経ったある日…
朝、人々が街へと駆り出す通勤時間。都内のマンションのとある一室で、その夫夫は今日も慌ただしい朝を迎えていた。
「だぁから!何で最初のアラームで起きねぇんだよッ!今日もギリギリでの出勤じゃねぇかッ!」
「しょうがねぇだろ。最近忙しくて疲れてんだから」
「それは分かってんだけどよぉッ。朝はちゃんと起きろよなぁッ。朝飯も一気食いしやがってッ」
「美味かった!」
「いや全然味わってなかったじゃねぇかッ」
「お前が作ったもんは美味いに決まってんだろ」
朝から喧嘩か?と思いきやただの惚気であった。
ニコニコと上機嫌の天元と、眉間にシワを寄せてはいるが頬を赤く染めている妓夫太郎。二人の左手の薬指には、シルバーの結婚指輪がキラリと光っている。
「いつも起こしてくれてありがとな。お前が居なかったら連日遅刻だわ」
「いやまぁ…それが俺の仕事みてぇなもんだし」
目を細め、優しく微笑みながら妓夫太郎の頬を手で包み込む天元。互いの鼻先がくっつく程に顔を近付けては、妓夫太郎の瞳をジッと見つめる。そんな天元の視線に妓夫太郎は頬を赤らめ思わず視線を逸らしてしまう。
「こっち見ろよ。でねぇとこのままキスしちまうぞ?」
「どっちにしろすんだろ。「いってきますのキス」とか言ってッ」
「ん。勿論」
ニコッと笑みを浮かべては天元は妓夫太郎の唇に唇を重ねて、チュッと音を立てていく。一瞬の触れるだけのキス。そのキスに妓夫太郎は視線を天元へと戻して、「やっぱりなぁ」とジト目で見つめてくる。何故ならこの「いってきますのキス」は毎日の事だから。どんなに急いでいても天元は必ずしてくる。昨日は遅刻ギリギリの時間に出勤したがそれでもやってきたくらいだ。天元曰く、1日の活力らしい。その1日の活力を貰って、天元は満足そうに微笑み、
「んじゃ、いってきます」
「ん。いってら」
職場の学園へと向かってい……向かって……向かっ……
「いや行けよ!!!」
何故かその場から動こうとしない天元。その視線はずっと妓夫太郎を見つめ続けていて、妓夫太郎は思わず声を荒げてしまう。
「弁当ちゃんと持ったろ!?」
「おう」
「んじゃ何で俺をジィーって見て動かねんだよ!!遅刻すんぞマジで!!」
「「いってらっしゃいのキス」待ちだが?」
「さっきしたじゃねぇか!」
「さっきのは「いってきますのキス」だ」
「あぁもう!分かったよ!!」
要は妓夫太郎からキスして欲しいのである。結婚する以前ならそのまま「早よ行け!」と蹴飛ばしてキスする事なく送り出していた妓夫太郎だが、今では自分からキスをする事に躊躇いは無く、天元の望むまま唇を重ねてチュッと音を立てていく。まぁ表情は渋々だったのだが。
「ほら!これで良いだろ!」
「ん。いってきます」
妓夫太郎からのキスに天元は満面の笑顔を浮かべて二度目の「いってきますのキス」を妓夫太郎へ贈り、ようやく玄関のドアを開けて出勤して行く。笑顔で出勤して行った天元を見送り、妓夫太郎は「たくっ…」と呆れた表情を浮かべていたが、その頬は赤く染まっていた。結婚して1年近く経つが、やはりまだ恥じらいが出てしまう。それも顔に。
「さぁて…洗濯すっかなぁぁ」
その恥じらいを隠すかのように独り言を呟いて妓夫太郎は家事へと移行していく。いい加減慣れねぇとアイツに笑われちまう…と反省している妓夫太郎だが…
(いつまで経っても初心な俺の嫁可愛過ぎんだろ)
恥じらう妓夫太郎の顔を思い出し、ニヤニヤと笑みを浮かべながら学園へと向かっていた天元だった。確かに笑っているが、妓夫太郎が思っているものとは真逆である。妓夫太郎の反省意味無しである。
「…っと、そういや煉獄に確かめなきゃなんねぇ事あったな」
マンションから出たところで同僚である煉獄に電話しようと、リュックからスマホをガサゴソと探し始める天元だが…
「……無い、だと…」
今や必需品となっているスマホを置き忘れるという失態。まっ、マンションから出たばっかだし戻りゃ良いかっ!と早々に妓夫太郎の顔を見れる事にウキウキワクワクと胸を踊らせ、踵を返していく天元。部屋に着き、そろりとドアを開けて音を立てないように入って行く。まるで不審者のようだが、れっきとしたこの部屋の主である。そろりと入ったのは妓夫太郎を驚かす為。何とも子供じみた理由である。
今なら洗濯か?と妓夫太郎の居場所を予想し、気配を消しながら歩んで行き、洗濯機を置いている脱衣所の前まで来ては、そろりと中を覗き込む。そこにはH型エプロンを着けた愛しい背中。
(エプロン姿、様になってんなぁ。流石俺の嫁)
せっせと家事をこなしていくその愛しい後ろ姿に思わずニヤけてしまう口を隠しながら天元はジッと見つめ続ける。スマホの事など既に頭から抜け落ちてしまっている模様…。
そんな天元の熱視線に気付くこと無く、妓夫太郎は洗濯物を洗濯機へと入れていく。ドバァッ!とド派手に入れていると思っていたが、ちゃんとこまめに仕分けしている様だ。料理もいつも手作りで、弁当も毎回作ってくれる。掃除も毎日行き届いていて、「本当、専業主夫になってくれてありがてぇ」と天元は心から感謝し、絶対に苦労させないとその背中に誓う。そんな風に天元がしみじみしていると、妓夫太郎の動きがピタリと止まる。
(ん?どうし…あれ、俺のシャツじゃねぇか)
それは天元が着ていたTシャツ。そのシャツを妓夫太郎は手に取り、ジッと見つめている。汚した覚えは無いが?と自身のシャツを見つめる妓夫太郎を不思議そうに見つめていると、次に目に飛び込んできた光景に、天元は思わず目を見開き驚愕した。
天元が驚愕した光景…それは、手に持っていたシャツを口元に押し当てては、その匂いを嗅ぎ始める妓夫太郎の姿だった…
(は?……はぁぁぁぁぁぁぁッ!!?)
妓夫太郎の姿に天元の心臓は跳ね上がる。洗面台の鏡を見ると、顔半分ではあるが妓夫太郎の顔が映っている。その鏡に映る顔は、目を蕩けさせ、頬を紅潮させた、天元の欲情を駆り立てるものだった。
(ッ〜!可愛過ぎかよ!!)
妓夫太郎の表情に胸を撃ち抜かれた天元は、今度は心臓が止まるかと思う程に胸を締め付けられる。そういえば最近は忙しくて、夜の方をヤッていなかったな…と悶々とした気持ちが沸き立ってくる天元。完全にスマホと仕事の事を忘れている。苦労させないと誓ったのは何だったのか。
「……天元」
追い打ちをかけるように妓夫太郎はシャツに顔を埋めたまま、天元の名を口にする。それはどこか寂しそうな沈んだ声…弱々しいその声は天元の胸を強く貫く…
「妓夫太郎ぉぉぉぉぉッ!!!!」
「どわぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
突然大声で名前を呼ばれ、後ろから抱き締められた妓夫太郎は大声を上げた。自分以外誰もいない筈なのだからその驚愕は当然である。更に、その抱き締めてきたのが天元だったという事実は、妓夫太郎をより混乱の渦へと巻き込んでいく。
「へっ!?は!?て、天…!?な、なん…え!?仕事に行っ……は!?え!?み、見られ……!?」
仕事に行った筈の天元が何故ここにいるのか、まさか彼のシャツの匂いを嗅いで思いに耽っていたところを見られてしまったのか…色んな考えがぐるぐると回り、妓夫太郎は顔を真っ赤に染め上げていく。
「スマホ忘れたから取りに帰って来た。お前を驚かそうとこっそり入って来た。お前が俺のシャツの匂い嗅いでんのしっかり見た。俺の名前呟くのもしっかり聞いた」
妓夫太郎の途切れ途切れの質問全てに答えていく天元。その顔は何故かキリッとしていて無駄にカッコ良いい雰囲気を醸し出している。
そんなハッキリとした物言いの天元とは真逆で、妓夫太郎は「あ、ぅッ…ぅあッ…」と言葉を上手く発せない状態になってしまう。見られたくないところを見られてしまった…恥ずかしさで今にも姿を消してしまいたいと願う妓夫太郎だが、天元がそれを許さない。妓夫太郎の身体を自分へと向け直し、真剣な眼差しで震える妓夫太郎の瞳を見つめる。
「妓夫太郎…」
美しい瞳が見つめてくる…自分の青色の瞳とは対象的なその赤色の瞳に見つめられ、妓夫太郎は思わず息を呑む。いつになく真剣な表情の天元。何を告げられるのだろうか…日々の感謝とかかなぁ?と言葉を待っていると、
「今からセックスするぞッ」
回りくどい言い方は無しの、超ド直球の天元の言葉…
「いやアンタ今から仕事ぉぉぉぉッ!!!」
そんな天元に正論を大声でぶつけていく妓夫太郎。
「え?でもお前、欲求不満なんだろ?」
「ッぐ…!それでもアンタは仕事があるだろうがぁぁぁッ!」
「欲求不満なのは否定しねぇんだな」
「もう見られちまったからなぁぁぁッ!!」
「素直でよろしい」
「尻揉むなぁぁぁぁッ!!」
「ぶっちゃけると、仕事よりもお前が大事だから、俺」
「仕事ねぇと生活できねぇだろうがぁぁぁぁッ!俺の為思うなら仕事頑張ってきてくれよなぁぁぁぁッ!」
互いに引くに引けない状態が続く…まぁそこまで緊迫した状態ではないのだが。天元が妓夫太郎の言う通り、仕事へ行けば良い話である。だが、スイッチが入ってしまった天元は、妓夫太郎の身体をガッシリとホールドし、その尻を揉んでいく。朝から何をやっているのだろうか、この夫は。
「どうしてもダメか?」
「ダメに決まってんだろッ!こういう事はそのッ…ょ、夜にだなぁぁ…ッ」
妓夫太郎は視線を天元から逸らしていく。眉を下げ、顔を真っ赤にした恥じらうその姿。どう見ても誘ってるんだが?と天元は真顔で見つめ続ける…。
「そ、それに…最近アンタ疲れてるから…俺の我儘に付き合わすの気が引けっしよぉ…」
「え?何?お前俺の為に我慢してたのか?良し抱く」
「だぁからッ!今は抱くなぁぁぁッ!!」
妓夫太郎の言葉に耳を傾ける事なく、天元は妓夫太郎の首筋に顔を埋めてチュッとキスを落とす。その感触に妓夫太郎は思わず「んッ」と身震いをしながら反応してしまうが、天元の肩を掴んで押し離そうと必死に抵抗をしていく。だが、やはり力では天元には敵わず、その大きな身体は一向に離れていかない…
「ちょっ…て、天元ッ…」
「ん?」
「ほ、本当にダメだってぇのッ…!頼むからぁッ…!」
チュッチュとリップ音を鳴らしながら妓夫太郎の首筋に痕を残していた天元は、ようやく顔を上げ視線を妓夫太郎へと向ける。そこには目尻に涙を溜め始めた愛しい嫁の顔…その悩ましげな表情は天元の欲情を駆り立てたが、さすがに涙には良心が痛んだのか、
「わりぃ。ちゃんと抑えるな」
そう謝罪をし、妓夫太郎に触れるだけのキスを落とす。ようやく天元が分かってくれたと妓夫太郎はホッと胸を撫で下ろし、呆れた視線を向けていく。
「たくッ…もう遅刻決定じゃねぇか…」
「んー…お前の気持ち知れたから俺としては全然OK」
「はぁ?俺の気持ちって何だよ…」
「欲求不満だけど、俺の体心配して我慢しちゃってる」
「ッぐ……ゎ、悪かったなぁぁ…」
「全然。俺の方こそ、お前の欲求不満に気付けなくて悪かった」
「欲求不満を連呼すんじゃねぇぇぇッ」
「照れるなよ」
指摘されたくない事を指摘され、眉間にシワを寄せる妓夫太郎だがその顔は相変わらず赤く染まっていて、天元にとっては愛らしいものでしかなかった。天元は微笑みを浮かべて再び妓夫太郎に触れるだけのキスを落とす。
「今日は早めに帰って来るから。ぜってぇ寂しい思いはさせねぇよ」
細められた赤い瞳は誓う。愛しい天色の瞳を見つめながら。
「…待ってる」
その誓いに妓夫太郎は恥じらいながらも頷き、自分からも触れるだけのキスを天元へ贈る。
もう何度目か分からない「いってきますのキス」をして、天元はようやく学園へと着いた。それは遅刻ギリギリの時間。自分の持てる力の限り全速疾走した甲斐であった。
(嫁がちゃんと家の事してくれてんだ。旦那もキッチリ仕事しねぇとな)
プロポーズの誓いを守る為に、天元は今日も慌ただしい学園での仕事をこなしていく。
その日、天元は宣言通り早めに帰宅し、妓夫太郎と自分の欲求を解消させましたとさ。
余談
スマホはキッチリ家に置き忘れて行きました。