那珂ちゃんと不穏なおじさんDM(仮)…の導入部「離脱状況は」
敵軽空母の懐に酸素魚雷を炸裂させながら神通は言った。そのわずかな隙を見咎めるように、研ぎ澄まされた無数の殺気が殺到する。もはや精度は問題にならないほどの物量で襲い掛かる砲弾の回避は、神通をもってしても容易ではなかった。弾幕を中ほどまで抜けたところで右腕のカタパルトがひしゃげ、腰部の魚雷発射管の天板がえぐり取られる。後退する神通は即座に魚雷発射管を二基ともパージすると、すぐさま誘爆が起こった。爆風を利用しどうにか距離を取ることに成功する。破片が頬に赤い筋をつけた。
「竹、桃、共に後方三! 三海里です!」
「あなたたちも全速で離脱なさい」
「でも、それじゃ神通さんがっ!」
「離脱せよ、と言っているの」
「巻姉、ここは」
青空の下で悲壮に叫ぶ巻波を涼波が必死に抑える。
「もう対空援護は不要です」
二人に狙いをつけた最後の爆撃機を機銃で墜としながら、神通は巻波に素早く近づいた。
「魚雷を」
空になった腰部ジョイントに巻波の魚雷発射管を換装し、接続を確かめるように可動部をひと通り動かす。神通は開口部を下に向けた発射待機状態で固定した。
「なんとか時間を稼ぎます」
――神通率いる水雷戦隊は敗走していた。
予定していた軽巡の病欠により、神通は急遽その代役として彼女ら錬成部隊を率いて鎮守府を出た。雲ひとつない橙の朝焼けのころだった。
着任してまだ浅い艦に経験を積ませるために向かったのは穏やかな海域で、制圧済みの航路からもさほど離れてはいない。深海のはぐれ駆逐艦や潜水艦がちらほらと確認されているだけの初陣にふさわしい海域だった。そこに、強力な個体が眠っていた。
爆雷の衝撃で目覚めたと思しきその個体の装甲は信じがたいほど硬く、二○・三センチ砲を雨粒のように弾いた。重巡棲姫に似通った容姿の深海棲艦はどう甘く見積もっても鬼級、神通の目算では上位の姫級に相当した。おまけにこの浮上に呼応して随伴の二個艦隊がどことも知れぬ海の中から顔を出し、数の上でも劣勢となった。随伴するのは量産型ばかりとはいえ戦艦と空母の混成部隊という強力な布陣で、並ぶだけでも圧倒的な存在感が空気をゆがめる。神通たちは瞬く間に窮地へ陥った。
悪夢のような真昼の遭遇戦はすぐに趨勢が決した。猛攻をかいくぐり空母を中心に数を減らす神通だったが、人の身体に熟練していない巻波たちはそうもいかない。回避が精一杯どころか防御も間に合わず、竹は機関を、桃は右舷艤装を丸ごともっていかれた。救援を待つだけの戦力すらなく、もはや一刻の猶予もないと判断した神通は彼女らを離脱させるため決死の覚悟で矢面に立っていた。
悔し涙を流す巻波と涼波が遠ざかっていくのを確認する間もなく、敵方に動きが起こる。
「離脱阻止の一斉砲撃ですか……」
野良の艦隊ではまずありえない統率の取れた動き。周りの深海棲艦を統べる鬼・姫級の特権とでもいうべきこの指揮能力に、神通は大いに苦戦を強いられていた。
姫級に最も近い戦艦に向け、再び海を駆け出す。これが夜なら、あるいは第一艦隊のフルメンバーならどうにかなったかもしれない。レ級の艤装の亀裂に魚雷をねじ込みながらそんなことを考えた。
「大淀さん、救援の状況は」
『第三艦隊が急行しています。距離十。予想会敵時刻は十五分後。ならびに高速戦艦部隊も南方からそちらへ向かっています。距離十七」
盾にしたレ級に姫の砲撃が殺到し、メレンゲのように溶けた。十五分なんてとても無理だ。
「戦艦部隊の支援砲撃は?」
『可能ですが……危険です!』
「着弾時には距離をとります」
『できるんですか?』
数隻が神通の遥か後方へ砲撃し、遠くで水柱が上がった。巻波たちが離脱した方角だ。午前に回避運動を徹底的に仕込んだ甲斐あって無事回避したようだが、それでも喉がぐっと鳴る。
「やるんです――支援要請、グリッド56RMT 946 295」
『……了解、グリッド56RMT 946 295。砲弾の飛翔時間は六七秒と予測されます』
「なら、もう撃ってください」
左腕に噛み付いたナ級を主砲で内側から破裂させる。一瞬めらめらと燃え上がった爆炎の中に雷跡が見え、慌ててバックステップを踏んだ。飛び退いた先で視線を上げると眼前に砲弾。神通は目を見開いた。真っ黒な砲弾の周囲が陽炎のように揺らぐ様子と、その先で酷薄な笑みを浮かべる姫がスローモーションの中で見えた。
『斉射確認。あと少し耐えてください、神通さ――』
ごおっ、と唸りを上げて風圧が過ぎ去る。限界まで首をひねり直撃だけは免れた。大きく掠ったが、アドレナリンのせいで程度は分からない。千切れた髪のひと房と咽頭マイクが波の上に落ちて消えた。立ち止まった海面が赤く濁っていくのは錯覚だと思いたかった。
とうに満身創痍と言っていい状況だ。
既に砲弾は放たれた。支援砲撃で足止めしている間に海域を離脱する——そのためには敵を一分間釘付けにし、かつ着弾時には散布界内から逃れている必要がある。
弾切れも近い。神通は針の穴を通すような遊撃から回避の専念に意識を切り替えた。
普段は的同然の量産型だが、それらを統制する姫によって三次元的な連携攻撃のパーツとして昇華されては、まったく別物だった。鬼・姫級とは何度も深部海域で渡り合ったが、こうして多対一でやり合ったことなどない。守勢に回ったのを見て取ったのか攻撃はより苛烈になっていく。じんとした痛み、刺すような痛み、灼かれるような痛み……動くたび全身にあらゆる種類の痛みが走るが、それで動くことを躊躇すればあっという間に沈む。脳が身体中の痛みを認識し始めたことに、神通は自身の体力が尽きかけていると知った。もはや身体は、鍛え上げた精神力に寄りかかって立っているだけだった。
「アラァ、モウ終ワリ?」
姫級は人の言葉を操る。とはいえ耳障りな言葉を支離滅裂に喋るだけで、一切のコミュニケーションがとれた試しはない。鸚鵡のようなものだ、と艦娘の間では言われていた。
「一人デヨク頑張ッタネ、エライエライ」
「あなたに言われる筋合いはありません」
通じないと分かっていてなお、言い返さずにはいられなかった。
若々しい乙女の黒髪の如き艶をもつ、老婆のように白く濁った髪が、太陽に透かされ不気味にふわふわなびく。
「ココ暖カクテ気持チイイカラネ、イイトコダヨ……沈ムニハ」
随伴艦の攻撃が止まる。
近づいてくる姫は青白い顔の中に、陶器を思わせる冷たく丸い笑みをたたえていた。
「添イ寝、シテアゲテモイイケド?」
神通は無言で主砲を放った。姫の顔面をずたずたに引き裂くと思われたそれは、腹部から生える巨大な白蛇のような艤装にあっさり打ち払われた。
「ツレナイノネ」
「耳が腐る。さっさと沈め」
「起コシタノハ、オマエラジャナイカ」
穏やかだった声が一転し怒気を孕んだものになる。意味ある返事が返ってきたことに、神通は静かに目を見張った。
「ボクハ嫌ダッタノニ……」
「だったら今すぐ波の下に……沈めッ!」
眼前の姫に飛び掛かる。至近距離で放った砲弾はまたしても艤装によって防がれた。跡にはへこみすら見られず舌打ちする。
「無駄ダッテ!」
鞭のように艤装がしなり、神通の腹部を強烈に打ち据えた。打撃は重く、真っ白な苦痛が全身の隅まで染み渡り、インパクトの一瞬が永遠にも感じられる。気付けば瞼を限界まで見開いていた。噴き出した脂汗が玉になりびっしりと額を埋める。海上を水切りのように跳ね飛ばされる神通の顔に影が落ち、慌てて身体をひねった瞬間轟音と共に海水が舞った。体勢を立て直す間の牽制に魚雷を放つも、姫は見せつけるように艤装を水中へ潜らせ受け止めてみせた。
「サッキカラ何ヲ待ッテルノカナァ? ア、仲間ノホーゲキ?」
姫は攻撃を止め、波間でくすくすと可笑しそうに笑った。神通も眉をひそめ様子を窺う。
「十七海里モ先カラ? ソレッテ当タルノ?」
「まさか、私たちの通信を……」
現代の兵器が効かないことを鑑みて、深海棲艦から傍受を受けることは当然想定されている。とはいえ洋上で作戦立案を行うことなどあるはずもなく、増してや人類とのコミュニケーションが不可能なため、現在ではほとんど気にされていない。
神通が驚いたのは、この姫級個体は明らかに人語を解する、ということだった。
「三、四海里先デモ中々当タラナイノニ……ネェ?」
白い艤装がうねうね動き高い位置で止まった。嗜虐的な笑みに悪寒が走り、考えるよりも先に神通の身体が駆け出す。
「試シテモイイ?」
「っ! この……ッ!」
待たず、四門が青い火を噴いた。完璧に重なった四重の圧倒的な衝撃波が神通の三半規管を狂わせる。その場に膝をつき息を荒げる神通の炎のような眼光と、悠然と佇む姫の視線がぶつかった。
遠い背後で爆発が聞こえる。姫は至極つまらなそうな顔をしていたから、巻波たちは無事だと知った。知らず安堵の息を吐いた神通を見て、姫は作り物の表情を顔から降ろした。
「――当タッチャッタ♡」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
「お前エェェッ!」
あらん限りの叫びを上げ肉薄する。本体を守る艤装の醜悪な口に魚雷を差し込み、渾身の肘撃ちと膝蹴りの間に挟み込んで無理やり口を閉じさせた。衝撃と共にぶくぶくと水膨れのように頭部が膨らんだあと、艤装は最後のあがきと言わんばかりに神通の右腕にかたく噛み付いてぐったりとした。
「刺し違えてでも……!」
右腕を呑まれたまま身体に取り付き、顔面数センチで全砲門を炸裂させた。
「ガアアッ!」
驚くことにそれすら痛打にはならず、額から伸びる大きな角が根本から折れただけにとどまった。自由に身動きの取れない神通は最後の魚雷を眼前へ発射するも、爛々と発光する青い瞳は水飛沫の中で苛烈さを増した。
「ヴェアアァァッ! オノレェッ!」
「がッ……!」
柔らかな腹に重い膝蹴りを食らわされ、くの字に折れる。その頭の上を砲弾が掠めていった。先まで動きの止まっていた随伴艦が再び戦闘行動を開始したとみて間違いない。
「五倍ノ相手、手負イデ支エキレル?」
ひやりとする余裕もなく苦悶を顔中に浮かべて歯を食いしばる。懐から抜け出そうにも、右腕がカタパルトごと呑まれたままで動けない。
「イタイ? イタイヨネェ? アハァッ!」
「おっ……」
再びの膝蹴りに合わせ神通は一も二もなくカタパルトの火薬を炸裂させた。それは剥き出しになるまでに追い込まれた生存本能の強烈な発露だった。深海艤装の口内でひっかかった射出部が強烈な反作用をもたらし、どうにか腕を引き抜くことに成功する。
膝蹴りの威力を殺しきることまではできず、神通は飛沫を上げて海面を吹き飛んだ。空と海の上下が目まぐるしく入れ替わる中で、ガソリンに引火したかのような真黒い濃厚な煙が爆音と共に立ち上るのが見えた。神通を背後から狙っていた敵随伴艦の魚雷が、姫の本体に命中したのだった。
「イタイィッ! アアッ、イタイ……役立タズ共ガ……!」
右腕をだらりと下げたまま反撃の機をうかがう神通の元に入電があった。立て続けに入った四つの『モドレ』の電報は、艦隊の全艦が辛うじて健在であることを示していた。頭に上った血が引いていく。急速に冷めていく思考の中で、ここが潮時か、と神通は思った。
「ナニ、逃ガストデモ思ッテル? ココカラ、タダデ、帰サナイ……ッ!」
動かぬ身体に鞭打ち、霞む視界に映る砲弾をやっとの思いで回避する。なんとか離脱する隙を作り出せないか。神通は自問したがしかし、魚雷も尽きた今それは不可能だと、思考するまでもなく肚の深いところでとっくに理解していた。
「ネエ、楽ニナッチャイナヨ。ツライデショ? モウ十分頑張ッタジャナイ」
「わ、私は……」
「ボクモ戦争、キライナンダ。マタ眠ロウヨ、二人ナラ寂シクナイッテ」
手を伸ばす姫を視界から追い出すように頭を振る。
「私は……ぐっ!?」
血のしずくが右目に入った一瞬の隙に、死角となった二時方向からの大きな衝撃。なす術なく吹き飛ばされる。
胸元のセーラーカラーとリボンが消し飛び、赤茶けた血の滲むさらしが露わになった。深海棲艦が息を呑む気配がこちらにまで伝わってくる。
なぜならそれは、角度的に胸板を斜めに貫通し心臓をえぐる、必殺の一撃だったから。神通が負った傷は、しかし左鎖骨下の熱傷のみだった。
あちこちが焼け焦げ千切れ飛びぼろ切れ同然となった制服の右胸元からなにかが零れ落ちるのを感じ、反射的に手で受け止める。それはバックプレートのほとんどが溶けたようにえぐられた、神通のスマートフォンだった。
今日の教導は別の軽巡が務める予定だった。急遽割り当てられ慌てたため、置いてくるはずの携帯を胸元の内ポケットに入れたままだったのだ。それがこうして命をわずかに引き延ばすとは、運命とは分からないものだ。あるいは当初の予定通りなら、この姫級を目覚めさせることもなかったのだろうか。神通は自嘲気味に笑い、画面を表に向けた。
『リマインダー:那珂ちゃんのライブまであと一週間!』
「――那珂、ちゃん」
走馬灯とは死の淵で生を強く願ったときに現れるものなのだと、神通は初めて知った。
「私は帰ります。絶対に」
「逃ガサナイ、絶対ニィッ!」
再び灯った瞳の炎に一瞬たじろいだ深海棲艦たちだったが、姫の統率の下ですぐに剥き出しの殺意を殺到させた。神通は残弾の切れた魚雷発射管を増設装甲のように扱い、どうしても避けきれない弾はその天板で受け流しながら距離を稼ぐ。牽制の主砲すら放たない徹底的な回避運動を続ける神通が取り出したのは零式水上観測機だった。
「ナニソレ。紙ヒコーキ?」
風を孕んでいた髪は額当てを外すと無秩序に暴れ出す。ほどいたリボンを咥え、左手を必死に動かした。懸架装置に結びつける間、麻のかたい生地に指が触れた端から赤黒い染みが広がっていった。
「ヤバ、オ仲間サンのホーゲキ、モウ来チャウカモ」
「サッサト沈ンデネ」という姫の声と、神通がリボンに携帯をくくり付け終えたのは同時だった。
「工作楽シカッタ? デ、ナニソレ」
「自分で確かめてみてはいかがですか」
神通は答え、腿の探照灯を五度照射した。六キロ先まで照らす十三万カンデラの光は昼に目を焼くにも十分だった。
「姑息ナ真似ヲ!」
画面を見ずとも、親指に沁みついた記憶だけで操作できる。携帯に触れたのはほんの一瞬だった。
カタパルトを装備した右腕はもはや動かない。携帯をぶら下げた零式水上観測機のフロートを紙飛行機のように握り、神通は大きくテイクバックしたあと全力で振りかぶった。
「オノレッ、逃ガサナイ、逃ガサナイィッ!」
『最初から飛ばしていくよ~っ! 一曲目、「恋は桃色戦争」っ!』
「増援カ……! イヤ、チガウッ、ナンダ!?」
焼けた網膜を回復した姫が目を擦る。ひそめられた眉を確認し、神通は全速で離脱を開始した。
『♪~ ♪~』
ゆったりと舞う零式水上観測機に吊り下げられたスマートフォンから爆音が響き渡る。録音であっても燦然ときらめく歌声は、戦場には不釣り合いな明るいポップスだった。
「ナンダ、コレハ……!」
飛んでくる砲撃の精度が目に見えて落ちていく。姫の動揺をそっくり表しているようだった。サビにかかるころ、砲撃は随伴艦が放つ散発的なものだけになる。狙い通りに姫の統率が乱れた。
「ナンダ、ナンナノダ! コノ響キは、声ハ! ナンダ……コノ歌ハ!」
混乱の隙、うなるほどに機関を回し神通は海を駆け抜けた。
息を切らし倒れ込んだ背後で、海が傾いた。絶えず降り続くとてつもない衝撃に、支援砲撃を弾着せしめたことを、神通は自らの鼻歌の中で知った。
『どっかぁーん! 那珂ちゃん今日も絶好調~っ! 続けていくよっ! 二曲目はもちろん――』
◇
『那珂ちゃん、オハヨウ💕😘😃
今日も、ホント可愛すぎだよ( ̄Д ̄;;💦💗
今から寝ようと思ってたのに、目が覚めちゃった❗😘💕
マッタクどうしてくれるの(^_^)🎵😚』
「もうっ、川内ちゃん! 目の前にいるんだから直接言えばいいじゃん」
「えー、やだ。面白いし」
にやにやと楽しそうに口角を上げる川内はまったく懲りていない。那珂の持つ携帯にはすぐ『怒った顔も可愛いヨ(^_^)😘』と新着メッセージがポップし、たまらず噴き出す。
「最近ほんと流行ってるよね、これ。面白いけどさあ、駆逐艦の子まで広がらないか那珂ちゃんちょっと心配」
情操教育に悪いよ、とにまにましながら呟く。
一週間前、鎮守府内で突如として流行の兆しを見せた『おじさん構文』。艦娘のコミュニティは狭く、そして戦友同士という性質上結びつきが非常に強い。馴染みの艦娘から不意打ちのように送られてくるメッセージに、鎮守府のいたるところで腹筋が崩壊する事故が発生した。一昔前のチェーンメールのようにおじさんの輪は広がり、現在では艦娘間のグループトークまで浸食されている。
「私のせいじゃないし知らなーい。最初は鈴谷がどっかから持ってきたんだよ。それを私が面白がって真似して瑞鶴に送ってたら、なんか広まっちゃっただけで」
「半分くらい川内ちゃんのせいじゃん!」
「鈴谷が部長だもん」
「何の? 艦娘おじさん部でもあるの?」
「うん。鈴谷が一番エラくて、イケおじとか鈴おじとか、ナイスミドルって呼ばれてる」
那珂はお腹をぷるぷる震わせた。毎朝欠かさないプランクよりも腹筋に効いている感じがした。
「そんなに流行っているんですか?」
背後から二人の間に割り込む影がある。川内は携帯に視線を落としたまま、那珂は後ろを振り返って言った。
「おはよー」
「あ、神通ちゃんおはよ」
微笑を浮かべ「こんにちは」と返す神通。はしゃぐ二人の輪に入れない寂しさで、遅起きの二人をちくりと刺しているみたいだった。
「神通ね、私が何回おじさんメッセ送っても全部無視するんだよ。ひどくない? 普通に謝ってもシカトされるし」
川内が口元に手を添え、内緒話をしている風にちらちら神通を見ながら話す。「え」と目を瞬かせた那珂がアイコンタクトを送ると、神通は軽いため息をつき言った。
「この前の出撃で失くしたから今度買い換える、と確かに言ったはずですが……」
「え、そうだっけ?」
「言ってたの、朝だったからねえ」と那珂はしみじみ頷く。
「ともかく、そのことで」神通が画面のQRコードを差し出す。「ついさっき新しい端末を買ってきたところなんです。登録し直してもらえますか?」
「ん、引き継ぎしなかったの?」
「変える予定もなかったですし、それにIDとパスワードも、最近は自動入力機能があるから覚えなくてもいいかなって思ってて……」
ばつが悪そうに視線を逸らす様子を、川内はいたずらを仕掛けた子供のような笑みで見つめた。
「……うん、分かった! 登録登録、っと。ほら、那珂も!」
「姉さん、またなにか企んでますね」
那珂は神通の後ろにすすっと隠れた。那珂の知る限り最も頼り甲斐のある背中である。ややあって神通の携帯が震えた。
『ハジメマシテ✋☀なんちゃって❗😘
神通ちゃん、メッセージ✉は久しぶりダネ😃✋
突然だけど、神通ちゃんはイタリアン🍝好きカナ( ̄ー ̄)❓❗❓
月曜日、ご飯行こうヨ(^з<)😚💕』
「もうっ、姉さん!」
笑いながら神通が言うと、川内もからからと声を上げた。
「いやあ、嫌われちゃったと思ってたから嬉しくて! あー、よかったあ」
「対面では普通に会話してたじゃないですか」
「なんか、そういうプレイかなって。で、月曜どう?」
「……行きますけど」
川内は「よしっ!」と懐で拳を握ると、どこからか上機嫌にアイマスクを取り出して「安心したら眠くなってきちゃった、私もう寝るね」とそそくさ寝室へ消えて行った。
「あ、ちょっと姉さん……もう、やっと昼夜逆転が治ったと思ったのに」
「いつもの調子が戻ってきたのを喜ぶべきじゃない?」
沈没寸前の神通が入港してからの川内は「目が冴えて眠れない」と神通の看病に付きっきりで、ほとんどの傷が癒えたここ数日もなにかと気を回している。那珂が言ったのはそのことだった。
「それは、うん……そうかも」
神通は照れた風に頬をさすった。
連絡先を登録し終えた那珂は携帯を置いた。「むむ……」と唸りながら保護フィルムを貼る神通の手元を隣で見つめる。
「あれ。もしかして私のとお揃いかな」
「え? どうかしら」
ケースから自分の携帯を外し、神通のものもフィルムの隙間から空気が抜けるのを待たずに手に取る。隣に並べてみれば、精査するまでもなくそっくり同じ機種だった。
「やっぱり! あー、白もいいなあ。この色とすっごく迷ったんだよね」
那珂のゴージャスなピンクゴールドに対して、神通のものは透き通るようなリリーホワイト。那珂はぴかぴかの端末を手に取って眺め回したあと、思い立ってカメラを起動した。
「神通ちゃん、こっちこっち」
「写真なら私が撮るけど」
「違うよ、ツーショットだよ」
神通の片腕を抱いてしっかり捕らえる。もう片方の腕を伸ばしてインカメラを構えた。
「え、あっ、ちょっと、こんなに近づかなきゃだめ?」
「画角に入らないでしょ。ほーら、神通ちゃん携帯持ってポーズして。手は顔の近くに」
「携帯? ポーズって……えっと、こんな感じ?」
不馴れな神通に「手裏剣みたいになってるからもうちょっと手首を外に曲げて」「小顔効かせたいから少しカメラ側に手を寄せて」など細かい指示を飛ばしたあとシャッターを切った。プレビューを満足気に眺め、ほんの軽いフィルターをかける。重加工を施さないのは那珂の絶対のポリシーだった。
「うーん、神通ちゃん今日も可愛いっ!」
「そ、そう? ありがとう……」
ぎこちなく言った神通が「それ、どうするの?」と背後から画面を覗き込んでくる。那珂はにっこり笑い、たった今投稿したばかりの呟きを見せた。
『神通ちゃんが機種変してお揃いになった!!!!白もすっごく可愛い🐻❄️♡』
ばっちりと写真も添付されている。神通はしばらくぽかんと放心していた。再起動まで那珂は大人しく待った。
「那珂ちゃん!?」
「てへ」
こなれたウインクに「ああ……」と頭を抱える神通。かと思えば指先が真っ白になるほど携帯を握りしめて凝視し始める。画面の中では『いいね』や『シェア』の数がリアルタイムでどんどん増えていく。一分足らずで四桁を突破した。
「私と那珂ちゃんのツーショットが、こ、こんなに拡散されて……」
「近くで撮ったツーショ上げたの初めてだからねー。あ、もうたくさんリプきてる」
『那珂ちゃん今日も可愛い 神通ちゃんも最高すぎる!』『本日も供給ありがとうございます』『仲良しすぎる~!ほっこりしちゃった』『配給たすかる』『これTLに流していいやつ? 死者が出るのでは』『次のライブで神通ちゃん出演フラグ?』『後ろで川内ちゃん寝てるww』『☺☺☺☺』『てことは俺の携帯も那珂ちゃんとお揃いってコト……!?』『二人とも最高です💕今年のピューリッツァー賞は決まりましたね』『神通ちゃんスマイルめちゃめちゃ可愛い~~!!!』『那珂ちゃんのファンやめないで神通ちゃんのファンになります』『好き』
「あぁっ……!」
神通は目を覆った。
◆
近々、艦娘運営の広報アカウントを立ち上げる予定がある。持ち回りの庶務や当番を免除する代わりに運営してくれないか――長門からの要請を受けた那珂がSNSでの活動を始めたのは、一年前のことだった。
広報といっても、メインの広報担当は別にいるから大した宣伝や告知をする必要はないし、なるべくしないで欲しいと言い含められていた。あくまで艦娘運営というのが売りで、内容は穏やかなものならなんでもいい。みんなが共感できるような些細なものならベター。投稿頻度も一、二ヶ月に一度で構わない。
那珂はその条件に頷き、渡されたSNS運用マニュアルを読み込んだ。加えて姉譲りの几帳面なところがあったから、初投稿の前に有名企業らのアカウントを徹底的に研究した。そうして頻度や文面、炎上の要因を分析する中でふと思う。「イベントやライブは何度もやったことがあるのに、そういえばSNSアカウントがなかったな」。那珂は気付けば、好きな歌手のアカウントをぼんやり眺めていた。
なにをやってもいいと言われているのだから、どうせなら実利も兼ねてしまおう。そんな小さな野望を抱くまでさほど時間はかからなかった。那珂は分析の対象を歌手やアイドルに変えた。
それから数日後、自腹で借りた小さなスタジオから発信された一四〇秒の歌は瞬く間にネットを駆け巡り、那珂は華々しいSNSデビューを飾った。
「うわ、昨日の写真すっごい伸びてる。やっぱり神通ちゃんは華があるよねえ」
今や那珂のフォロワーは六桁の大台に乗り、開設からわずか一年ながら鎮守府・艦娘関連で最も発信力の大きいアカウントの一つに数えられるまでになった。
呟きのほとんどを占めるのは何気ない日常のことだがそれにも最低四桁のいいねがつく。那珂はそれに驕らず、慎重にアカウントを運営していた。
『おはよー! 昨日の写真すっごい伸びてて神通ちゃんが朝から青い顔してる🙄みんなありがと!!♡』
投稿を終えた那珂は昨日の写真につけられた山のようなリプライをスクロールしながら、心の中で「ありがとう」と唱えた。
アイドルは誰か一人のファンを特別扱いしない。本当は一通一通に丁寧な返事を書きたいところだけれど、それはできない。リプライにいいねや返信をしないのも、時折来る仕事依頼以外のダイレクトメールに返事をしないのも、全てはリスク管理の一環だった。
ガラスにアルミフレームの取っ手がついたカップへ白湯をそそぐ。湯気が立ち込めカップのふちが曇った。適温を待つ間、今の投稿に早速ついたリプライへ目を通す。鈴なりになった『那珂ちゃんおはよう』の言葉に目を細めた。
リプライもDMも基本的に全てチェックする。
「防衛省のプロパガンダだ」という批判や謂れのない誹謗中傷も多く受けたが、そのたびにファンの暖かい応援が那珂の心を支えてきた。ファンの中にもかつては妙な縄張り意識を張り巡らせて「なんで返信してくれないんだ」「新参は話しかけるな」と排他的になる者がいたが、「那珂ちゃんはみんなのアイドルだから」と全体へ向けてやんわり言えば矛を収めてくれた。那珂の呟きはファンの皆に向けた返信でもある、という認識が今ではぼんやりと共有されている。届くメッセージの量がその証だ。
那珂の理想である「みんなのアイドル」像を理解し支えてくれるファンとの間には、確かな信頼関係があった。
白湯の最後の一口を含んだころようやく全てのリプライを見終わる。あとは新着DMを確認すれば朝のSNSチェックは終わりとなる。
(三通も。珍しい)
下から開封する。順に、捨てアカウントからの中傷、馴染みのファンからの昨日の写真へ向けた感想であった。前者はメンタルヘルスのために即閉じる。後者はじっくり読み、熱意ある言葉が嬉しかったので読み返す用にスクリーンショットを撮った。
最後の一通は、リプライ等でも見覚えがない鍵アカウントからだ。DMを送ってくれるのは呟きに毎回反応をくれる熱心なファンであることがほとんどなので、那珂はすこし首をひねった。「めひ川」という名にも覚えがない。
前の二通がよぎって一瞬躊躇した。タップすると画面に文字が躍る。表示されたのはしかし、中傷と熱心な感想のどちらでもなかった。
『那珂チャン、お早う😃
那珂チャン、すごくキュートだね❗木の花咲耶姫👸🌸が舞い降りたのかと思ったよ😍
写真を一目見ただけで、ますますファンになっちゃった(笑)
早く本物の那珂チャンの歌を聞きたいな(^_−)−☆🎵』
口内の白湯を噴射しそうになり、慌ててごくんと飲み下した。すこし鼻に入ったせいでむせる。
「大丈夫?」と心配して駆け寄った神通が背を叩いてくれたが、「平気だよ」と喋ることもできないくらいに爆笑しながらむせていたので、しばらくの間那珂は机に突っ伏してされるがままになっていた。
「ふ、腹筋攣るかと思った……」
「なにがそんなに?」
「いかにも、ってくらいすんごいベタなおじさんDMが初対面の鍵アカからきたの。もう絶対うちの子のいたずらじゃん!」
言った途端思い出し笑いが襲ってきた。腹筋の痛みもぶり返す。
「ふふ、私のところにも阿賀野とゴトランドさんから早速来たわ。本当に流行っているのね」
「え、ついにゴトちゃんまで? やっぱり駆逐艦の子に広がるのも時間の問題じゃ……」
「そう? 大丈夫じゃないかな。こういうのって意外とあっさり廃れると思うけど。みんな飽きっぽいし」
ここ数日放置していた巡洋艦のグループトークを開いてみる。那珂は間違えたかと思って二度開き直した。そこは、まさに激流であった。応酬によって各々のスキルは怒涛の下の石の如く磨かれ、その研ぎ澄まされた切れ味は糸刃をつける前の和包丁を想像させた。かつて流れの遅いのどかな小川があった場所は今、後天的ネイティブおじさんたちによって高度にソフィスティケイトされたおじさん構文が飛び交う鉄火場と化していた。ひとしきり笑った後、那珂は静かにドン引きした。
「DMを送ったのもきっとこの中の子かしら。でも、いいんじゃない? 那珂ちゃんも楽しそう」
大笑いするほど愉快だったのは事実なので頷く。ふふ、と上品に笑う神通を見ながら、一体誰なんだろう、と那珂は思った。できることならからかい返したい。あのトークを覗いた後では犯人に心当たりがありすぎた。
去っていく神通を尻目にDMをもう一度開く。自身のアイドル活動と絡められているのがじわじわおもしろくて、またお腹をかかえた。
その日を境に、那珂の下にはたびたび謎の鍵アカウント――「めひ川」からのおじさんDMが届くようになった。テンプレート的でない手の込んだいたずらが那珂の密かな楽しみになるまで、そう時間はかからなかった。