交換条件 グレイブランドからムーンロードを渡った先、連盟が押さえた宿の一室。外の暑さを感じさせないような他と比べ若干高待遇なその室内で、甘く涼やかな眼差しを困惑に変えたカミュがそれでも優雅に羽織っていた上着を脱いでソファに掛けたのを、なんとなく目で追った。
残念なことに、カミュのその困惑には心当たりがありすぎる。
「これを?」
「はい……」
「私が?」
「……すみません」
訝しげにエマの手元を凝視するカミュの視線を痛いほどに感じながら、エマは苦笑を浮かべた。
(そう、なるよね……確かにちょっとカミュさんらしくないというかプリムスクラブらしくない衣装だし……これ本当に着てもらわないと駄目なのかな……)
今回の競技会では各チームに分かれて参加することになっているが、その中でもさらにそれぞれに揃いの衣装が用意されていた。一体どこで採寸したのか、サイズも概ねぴったりだ。白と赤を基調にした衣装は明るく華やかで、とはいえカミュに着せようと思うかと問われれば、こんな機会でもなければ思い付きもしなかっただろう。
もちろんそれは、カミュの前に届けに行ったプリムスクラブの面々だって同じだ。セブンとヴィクトルはともかく、レンだって一目見るなり悪態をついたうえに、最終的にはばさりと頭にかけられたのを思い出す──それでも流石に捨てることはなく渋々と回収し、丸めて抱えていたが。
逆に内心手強そうと懸念していたユミルは特にごねることもなく、エスコートフロアのイベントなんかでこういった衣装も着たことがあるからと、煌びやかな苦笑を浮かべて受け取ってくれた、けれど。
──問題は目の前の総支配人だ。
あからさまに戸惑いの色を滲ませるその瞳に申し訳ないとは思うけれど、これも仕事なので仕方がない。おずおずと抱えた衣装を差し出したエマに、けれど軽く肩を竦めて見せたカミュが苦笑を浮かべた。
「君の上司は随分と遣り手ですね。こうして君に強請られてしまっては、断ることも難しそうだ」
「あの、本当に駄目ならそう伝えますので……」
「ふ、構いませんよ。その代わり──」
身を屈めたカミュが耳元に唇を寄せて、二つの条件を告げる。
(着替えの時間の確保と、身嗜みの確認……それくらいなら問題ないよね? ていうかそれ、条件というより当たり前のことの気がするけど……)
そもそも開会式のようなものだってまだ十分に先だし、何も今すぐ着替えろと急かすつもりもない。大きな姿見があるけれど、確認し辛い背面なんかは言われるまでもなく整えるつもりだった。
(カミュさんのことだから何か意味があるのかもしれないけど……うーん、分からないや。でもまずは着てもらえることが大切、だよね)
にこりと綺麗な笑みを向けるカミュに首を傾げ少し考え込んで、それでもエマは頷いた。満足げに目を細めたカミュが、エマの抱えていた衣装を手に取って背を向ける。隣の部屋で着替えるのだろう──久々に見たその背がなんとなく名残惜しくてじっと見つめていると、すぐに立ち止まって手にした衣装をデスクに放ったカミュが、肩越しに視線を流してくすりと笑った。
「そのような顔をされては、気付かぬふりでからかうことも叶いませんね」
「え?」
「こちらへ」
「あの」
「さあ」
逆らうことの出来ない笑顔で差し出された手に恐る恐る手を重ねて、デスクに凭れるようにして腰を下ろしたカミュに引き寄せられる。そのままするりと腰に回された手が柔らかく聢と身体を抱いて、密着した身体に一瞬で顔が熱くなってしまった。
先ほど上着を脱いでしまったせいで、シャツ一枚越しに感じるカミュの身体に様々な記憶が蘇ってしまって落ち着かない。
「あの、カミュさん……んっ!?」
至近距離で蕩けるような笑みを浮かべたカミュに動揺で目を泳がせたエマは、すぐに優しく重ねられた唇に目を丸くした。少しだけ離れて、またすぐに重なる。呆然としている間にも楽しげに弧を描いた唇が幾度か重ねられて、じわじわと熱を持ち始めた身体の奥に不意に気付いたエマは、慌ててその間に手を滑り込ませた。
「か、カミュさん、駄目ですよ!」
「何故?」
「何故って……じ、時間が」
「ふ……優秀な君のことです、分かっているでしょう? 私たちに許された時間はそう短くはないはず。ご安心ください、タイムスケジュールは全て頭に入っていますよ。君の空き時間も含めて、ね」
「そうじゃなくて、えっと、あ、そう、仕事中なので……」
「君の当面の仕事は、私にこの衣装を着せることでは? ──そもそも条件を受け入れたのは君だ」
触れたままの唇が手のひらを軽く食むようにされて、びくりと身体を跳ねさせる。それに満足げに目を細めると、カミュはエマの髪を宥めるようそっと撫でた。
「ひとつ──着替えを終えるまでの時間は、私のもの。私たちの間に優劣など存在し得ませんが……この私の身柄を抑えたいならば、その程度のベットは必要ですよ」
それでもその優しげな眼差しと触れ方からは程遠い台詞が、覆ったままの手のひらを吐息と共にくすぐる。
(待っ……なんか条件、変わって……だめ、ぞくぞくする)
そのくすぐったさから込み上げる妙な感覚を懸命に押さえ込むように、エマは細く息を吐いた。いつの間にか薄く閉じていた視界をそっと開いて恐る恐るカミュを窺えば、先ほどまではあれほどに優しかった眼差しが、まるで獲物を前にした獣のように鋭く熱いものに変わっていたのに気付いてさらに身を竦める。
「カミュ、さん……」
「これでも随分と譲歩したのですよ。ひと月も君を奪われて、大人しく待てを受け入れたのですから。まあ、ここに至って更に条件を足せることになるとは思いませんでしたが」
肩を竦めて見せて、それでもカミュの腕は緩まない。髪を探っていた手のひらはいつの間にか首筋をなぞるように這っていて、その温度と触れ方に身体が震える。ゆっくりと滑って頬を包み込んだその手のひらにほうと息を吐いて、エマは眉を寄せた。
「も、う一つも、別の意味があるんですか?」
「おや、別の意味とは?」
「だって……だってこれ、最初に言われたのと、だいぶ違います……!」
「それは君の確認不足では。私は最初から、隠す気などありませんでしたが」
けろりと言い返された言葉に口を開いてまた閉じて、小さく唸る。
「うう……それは、そうです……」
「──ふ。とは言え素直な君のことです。言葉通りに受け取るだろうと企んだことは白状しましょう」
「や、やっぱり……! 騙されました……」
「ああ、いけませんね。君を困らせてばかりだ──気を引き締めなければ」
殊勝な台詞を吐きながらも楽しげに笑い声を漏らして目を細めたカミュに項垂れて、それでもエマはようやく身体の力を抜くと、カミュの胸に身を任せた。とくりと静かに伝わる鼓動をじっと聞いていると、先ほどまであれほど動揺して振り回されていた心身がゆっくりと穏やかなものに戻っていくのを感じる。
結局のところ、エマを乱すのは概ねカミュで、そんなエマを落ち着かせるのもカミュなのだ──乱す部分までカミュの思惑通りというのは少し、悔しいけれど。エマは唇を尖らせて、再び優しく髪を探る指先の感触に意識を向けた。
まるで壊れ物でも扱うように丁寧に恭しく触れるその指先が、けれどひとたびカミュがそうと決めればどこまでも無慈悲に自身を追い詰めるかを知っている。そっと額に触れたその唇までも。
そんなことを考えて少し耳が熱くなったのを誤魔化すように、エマはそっと身体を起こした。
じっと見つめ合ううちに、カミュのその眼差しがふと緩む。そうしてゆっくりと重ねられた額に、エマもつい頬を緩めた。
おずおずと伸ばした指先で、視界の端の金糸を掬って絡める。
(こんなの、恐れ多いって思ってたのに)
こんなことが当たり前のように許される日が来るなんて、思いもしなかった──それが意外とそこまで過去の話でもないのが不思議だ。未だカミュの一挙手一投足の意味を読み解こうとして戸惑いを重ねていたころを思い出して、思えばそこから変わることがなかったカミュの眼差しにまたほうと息を吐く。
間近に光るように輝く浅海の色を覗き込んで、エマはふと込み上げた妙な衝動に堪え切れず破顔した。
「カミュさん」
そっと名前を呼んで、促すように細められた瞳に見入ったままその顔を覆う眼帯をなぞる。
「時間になったら、着てくださいね」
「君がそう願うなら──マイレディ」
楽しげに潜めた笑い声を漏らして、カミュが軽く唇を重ねた。またも幾度か触れて、今度はその隙間を割るように熱い舌が入り込む。受け入れて味わって、その熱をまた記憶に刻む。
(結局カミュさんの思う通りに動いてるのかも)
腰にあてがわれていた手のひらがゆっくりと腿を撫でたのに意識を向けて、エマはそれでもカミュの首に腕を回した。強く抱き竦められて、息が出来ないくらい胸が詰まる。絡めあう舌が蕩けるように熱く、そこから身体中に甘い痺れが伝染していくようだ。強くしがみついて、包み込まれるその嗅ぎ慣れた香りにくらりとする。
「エマ」
舌の隙間に、くぐもって濡れた声が囁く。それを飲み込むように喉を鳴らして、エマはゆっくりと引きずり込まれるような心地に身を委ね、目を瞑った。
「ふたつ。君の感想を聞かせてください──私の気が済むまで、ね」
迫る時間に気怠い身体を何とか起こした先、いつの間にか衣装を身に纏っていたカミュにそう強請られて、呻き声とともにまたベッドに潜り込むのはもう少し先の話だ。