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    マリウス

    @mariuscarpediem

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    マリウス

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    大変遅くなり申し訳ありません!リクエストありがとうございました!

    追加√後のとある雨の日、皆守くんに由岐姉が傘を届けに来た話です。

    #ともゆき

    アンサングアンブレラ しと、しと。
     雨音に紛れた喧騒、足音に飲まれた焦燥。水たまりの空が砕けて、水しぶきの細氷が弾ける。涯もない群青という不安を覆い隠してくれる灰色の緞帳と熱を容易に奪い去る無色透明の気分屋。たしかに絶景かな、と何処からか雨宿りにやってきた黒猫が鳴いたように嘆いた。
     ひと、ひと。
     チカチカ燃える蛍光灯が交差する営み、鳴り響くクラクションと共にぼやけた光る線を描くテールランプ。煌めく映画のワンシーンよろしく忙しなく動き回るこの街も、この季節に入ればどこか大人しく見えた。それでも視線も足音も当たり前のように無秩序に渦巻いて、胸のざわめきが凪ぐことはない。
     小雨、通り雨、驟雨、にわか雨。言葉とは不思議なもので、そうと言えばそんな風に聞こえる。悲傷、憂鬱、頭痛、低気圧。次々と連想するのは容易くても質感は伴わない。なぜなら言葉と言葉の狭間にあるこの感情を名付けるのにはきっとどれもピッタリはまらない。そう、パズルのピースは最初から欠けている。
    「ゆき」
     だからせめて、まだ辞書にある二文字だけを声に出してみる。愛の告白だろうか、救難信号だろうか、魔法の呪文だろうか。この際どれでもよかった。
    「雪なんか降ってないぞ、皆守」
     ああ、どうしてお前はいつもそうやって、何食わぬ顔で欲しいものを与えてくれるのだろう。

     アンサングアンブレラ

     早朝の窓に差し込む日の光にしては随分と人工的な光だった。目覚ましのスヌーズを片手で止めながら、身体を起こすと窓の外は鉛色の曇天。明かりのついた部屋を見渡すと、明らかにベッド周りを片付けられた痕跡はあるのに、見慣れたはずの黒いヒラヒラ服の影は何処にもなかった。
    「おはよう、皆守」
    「はよ」
     これから出勤する腰の重い会社員に比べて、リビングのソファで鎮座している幽霊もしくは幻覚あらため脳の不具合様は大層お気楽なものである。朝のニュース番組を横目に文庫本のページに目を滑らせている。相変わらず恐ろしいほどに器用な奴だと感心する間も無く、彼女はさりげなく合図するように皆守の方に小さく手を振る。
    「コーヒー淹れといたよー、トーストは自分で焼いてね」
    「目玉焼きがねえ」
    「あー、卵切らしてるよ」
    「そうか。まあ、いいや。珍しいな……由岐が俺より早起きすんの」
     帰りにスーパーに寄ろうと脳内でメモしながら一人でテーブルに席をつく。普段は寝起きでも色々と悪戯やらちょっかいやらを仕掛けてくる彼女にしてはやけにしおらしい態度だった。そう思った瞬間に、由岐はソファに寝転がったままこちらに視線を投げかける。
    「昨夜はお楽しみデシタネ♪」
    「当事者が言うか? それ」
    「当事者というより被害者?」
    「どの口が」
    「そりゃもう、下の方のくちにきまっうごごごごご」
     食パンをオーブントースターに突っ込む前に軽口を叩く女の口に突っ込んでおいた(決して下ネタに乗っかったわけではない)。芝居がかった反応をされて余計に腹が立つ。
    「お元気そうでなによりです」
    「おう! 由岐姉はいつだって元気だぞ! 死んでるけど!」
    「この調子ならもう一枚入る余裕はありそうだな」
    「朝からそういうプレイも悪くないけど……皆守、時間大丈夫?」
    「ああ……まあ、今日は仕事多そうだし早めに出かけて損はないか」
     突如終わる茶番。食パンは皆守が責任を持ってインスタントコーヒーと共に美味しく頂いた。いつもよりどこか味気ないのは目玉焼きが乗っていないせいではない気がする。
     食事の途中は「間接キスだねー」と訳のわからない追い討ちをかけられたが、とりあえずマグカップを片手に拳を突き出す。すると彼女は案の定いともたやすく躱してはおどけたように小さく舌を出した。それで多少は可愛いと素直に思える自分がいるのだから尚更じれったい感情に支配される。
     そんなこんなで、くだらなくも愛おしい日々を意味もなくただ重ねている。砕け散るのは一瞬だと誰よりもわかっているつもりだが、それでも永遠に続くのではないかと錯覚してしまうほど今がどうしようもなく平坦かつ平穏、だからこそなにより代え難い。
     テレビから気が滅入るような深刻で暗いニュースがいくら流れようとも、かつての自称ヒーローの少年Aとは縁遠い話ばかりだ。登り切ったのに捨てられなかったはしご。最高傑作を見守るリトルエッフェル。少年はとうに少年ではなくなったのに、空気力学少女は未だに少女のまま。それでも浮世の理に背けて永遠を誓ったのならその続きはない、あるはずがない。
     クールビズという名の半袖シャツに着替え、支度を終えて腕時計に目をやりながら玄関で同居人を呼びつけるも、やたらと呑気な声が返ってきた。
    「ほら由岐行くぞ」
    「あー、えーっと、皆守」
    「なんだ」
    「今日は行かない、これ読み終えたいし」
    「……そうか。そういや今日特売日だっけか、帰りにスーパー寄るから少し遅くなるぞ」
    「んー全然いいよ、待ってる。いってらー」
     調子の良い明るい笑顔はそのまま、ゆらゆらとぞんざいに振っている手を何となしに掴み取ったはいいものの、肝心のアレが出てこない。見送ってもらう時に口にすべきあの常套句が、言葉になってくれない。
    「なんだよ人の顔じっと見つめて……あ、行ってきますのチューか?」
    「ちげえ」
     もはや日常の一部と化した彼女の軽口は常に何かを誤魔化しているためのものだと、流石に長年の生活から解ってしまう。
     いつも煩わしいほどに背中にくっついてくる最愛の幽霊は、今日はついてこない。それだけのことだ。特に珍しいことでもなければ、お互い四六時中一緒にいなければ生きていけないほど自分も彼女も子供でもない。
    「……戸締まりちゃんとしろよ」
     ただ、たまによくわからなくなるだけだ。自分のことが。彼女のことが。それが無性に腹立たしいのか、悲しいのか、寂しいのか。ここ数年の暮らしの中で時折浮かび上がる曖昧なこの感情の正体も掴めないまま、まるで何かから逃れたいかのようにそそくさと自宅を出る。見るからに厚い雲が滲むような空も、鼻につく湿っぽい匂いも、何一つ気に留めないまま重い足取りで歩き出した。
     ──ったく、調子狂うな。
    「あ、皆守……まあ、あいつのことだし大丈夫か」
    『続いてはウェザーニュースです。梅雨の時期に入り、今日は曇り時々雨となっています。午後からは激しく降る所もある見込みですので……』
     アナウンサーが言い終える前に、テレビの画面はぷつりと容赦なく消された。静まり返ったリビングで、由岐は休日の若者よろしくだらしない格好のままページを捲り続けた。どれだけスカートが捲れようが、下着が丸見えだろうが、はしたないからやめろと赤面しながら怒ってくる奴はいない。
     黒い折りたたみ傘は、玄関口に置かれたままだった。



     一つため息をついて、喫煙所で不健康極まりない煙を吐き出す。朝出かけた頃よりだいぶ空が曇ってきたから屋上は何となしに避けてみた。このままだと間違いなく雨が降るだろう。
    「梅雨だから、そりゃ雨は降るよなあ」
     訳の分からない言葉を独りごちて、自嘲も込めた乾いた笑い声と共にまた灰色の息は口から滑り出す。何か大事なものを忘れている気がするが、思い出すまでには至らなかった。
     午前中の仕事は滞りなく進み、この調子ならスーパーの特売には余裕で間に合うだろうと算段を立てたところ、家で待っているであろう自由気ままな彼女の顔が過った。今頃、何をしているのだろうと、まるで授業中に好きな女子に思いを馳せる思春期特有のそれに自覚しては呆れ、どうにか忘れようと再びフィルターに口をつける時だった。
    「あ、間宮さん。お邪魔していいですか?」
     喫煙所のガラス製の引き戸から後輩の女性社員がゆっくりと入り込んだ。珍しく休憩時間が重なったようだ。
    「構いませんよ……えーっと……たな、たか……わ、渡辺さん」
    「あら、正解です。田中から当てようとしましたね?」
    「これは面目ない。渡辺さんもタバコ吸うんですね」
    「それは先月お話しました……彼氏の影響で始めたんです……って、間宮さんって本当に他人に興味ありませんよね」
    「そんなつもりはないんですが……って渡辺さん、彼氏いたんですね」
    「それも先月聞きましたよ」
    「あはは」
     わざとらしく乾いた笑いを漏らして頭を掻いてみたら、これもまたわざとらしく肩をすくめられた。これでも学生時代よりかなり丸くなったと自負しているが、やはり社会人とは面倒臭い生き物である。
    「今日の間宮さん、なんだかお元気ないですね」
    「そう見えますか?」
     絵に描いたような作り笑いと穏やかに弾む口調。
     ──彼氏の影響、ねえ。
     仕事に使う知識も技術も、他人との付き合い方も、手に取った虚しいシガレットも、正しい呼吸の仕方も日々の歩き方でさえも、形のない彼女の背中がゆらゆらとチラつく、香りのない彼女の匂いが鼻に沁みる。それはまさしくテレビの中のヒーローを真似るかのように、錆びの付いた煌めきに溢れていた。遥か遠い夏空の果てに浮かんでいるはずのそれが、今は……──。
    「この調子だと降るんですかねー」
     スマホで天気予報でも見ているのだろうか、小さなため息と共に憂鬱めいた低い声が漏れる。
    「渡辺さんは雨がお嫌いですか?」
    「雨が好きな女なんてこの世に居ませんよ。服は濡れるし、移動がめんどくさいし、低気圧で頭痛くなりますし」
     皆守も電車通勤だからその気持ちがわからないでもない。いつもより鈍重な人々の足音、濡れて滑りやすい床、体にまとわりつく湿った空気。特に雨が降った前後の気温が異常に高いとその温度差で体調を崩しかねない。
    「……まあ、そうですよね」
    「間宮さんは好きなんですか? 雨」
    「嫌いではない、かな」
     こんな季節に思い浮かんだのは決まって同じ笑顔。今の自分には手に取るように作れる笑顔。決して屋烏の愛ではないけれど、彼女が好きだと言うこの時期を皆守はどうしても憎みきれなかった。これも歳を取って素直になったからだろうか。
    「……やっぱり間宮さんってどこか変ですね」
    「本人の前で言わないでくださいよ」
    「あ、だから間宮さんって、傘さすときはいつも高めにさすんですね」
     返す言葉も忘れて、火花を帯びて焼け落ちた灰は無音で灰皿に転がった。



     しと、しと。
     アスファルトで踊る水滴の群れ。心臓の音まで奪いそうな冷たい透明の針。忙しく煩わしく虚しく、それでいてきっとどこか愛おしいはずだ。
    「傘、そうか……傘、忘れたのか」
     何を忘れたかすら、今の今まで忘れていた。
     妹が誕生日に贈ってくれた腕時計は容赦なく正確に時刻を知らせる。刻一刻と終わりに近づくタイムセール、会社のビルの前で湿気に耐えきれずネクタイを緩めながら立ちすくむ一般男性、走って赴くには些か遠い距離と険しい道のり。十年前の自分だったら、走っていただろうか。たかが、いつもより安い卵のパックのために。
     スマホの待ち受け画面を何度睨みつけても、雨音は絶え間なく響き続けるだけで、焦りと共に滲み出す汗が額を伝う。羽咲は大学にいるだろうし、マスターはこの時間だと開店の準備で忙しいからわざわざ傘を届けてもらうのも迷惑な話だ。友人と言える友人はほぼ皆無。まさに絶望的だ。
    「……カッコ悪いな」
     水溜りに映る冴えなく波紋で歪んだ表情。こんなとき、やっぱり彼女の輪郭を描いてしまう。目に焼き付いたのはやはり強く眩しく真っ直ぐな背中なのに、最近では振り向いた先に彼女の可愛らしい笑顔がそこにあった。
     水上由岐はあまり自分について話さない。
     煩いほどに饒舌で屁理屈を捏ねるのが上手い女で、世間話の延長で人生哲学やら思索やらくだらない下ネタも散々聞かされているのに、肝心の本音に関して実は滅多に聞けなかったりする。それは生前も死後も、同じ体を共有する別人格としていた時期も変わらなかった。
     今更あれこれ詮索したいほど野暮ではない。好きだ、愛している。言葉は陳腐かもしれないがそれで十分だと確かめ合ったのも事実だ。ただ、たまに全てを見透かされたような視線を向けられることが癪なだけである。
     喩えるなら、黒い単色パズル。
     それだけでもだいぶ難解で完成させるのに果てしない根気が要るものだ。これに最初から足りないピースがあるときた。むかつくだろう、腹が立つだろう、虫唾が走るだろう。しかし、欠けているからなんだ。完成図は間違いなく想像できるしわかる。問答無用、至極当然。混じり気なしに真っ黒だ。
    「ゆき」
    「雪なんか降ってないぞ」
     それが、たぶん正解だろう。
     その証拠に、目の前には黒いヒラヒラ服の幽霊がまだ開いていない黒い折り畳み傘を差し出しているのだから。
    「珍しいな、皆守が傘を忘れるなんて」
     まるで湿った空気を軽やかに撫でるかのように、いつもより静かな口調。責め立てるわけでも、揶揄っているわけでもない。助けに来てくれただなんて大袈裟で、けれど心のどこかで安心したのも間違いなく事実だ。勝てないと思った。敵わないと思った。届かないと思った。曇りガラスを見つめ続けて果たして自分は何を得たいのか。掌にある小さな折り畳み傘がどれほど重いのか。きっと何もかも聡明で気遣い屋の彼女に見透かされている。
    「ああ、俺も今びっくりしてる」
    「どう? 旦那に傘を届けるとかめちゃくちゃ新妻っぽくなかった? 水も滴るいい女とはこの由岐姉のことよ! 幽霊だから濡れないけど!」
     どうにかいつも通りの調子に持っていこうとするが、こちらは沈黙したままで会話は成り立たない。
    「……まあアレだな、傘って雨の日じゃないと案外存在感薄いからねー。ほら、早くしないと卵売り切るぞー」
    「なあ、由岐……」
    「んー?」
     ──こんな俺で、お前の先を歩いていいのか。
     胸の中に降り積もった何かを辞書にある言葉にしようと逡巡した瞬間、後から人の気配がした。聞き覚えのある足音なので反射的に振り返ると、後輩の渡辺がショルダーバッグを漁りながら慌てふためいていた。
    「あ、あれー? たしか今朝カバンに入れたはずなのに」
    「あの、渡辺さん。よかったら使ってください」
    「えっ、でもそれじゃあ間宮さんが……」
    「この後は暇ですので雨止むまで待ちますよ」
    「では、ご好意に甘えて。明日は必ずお返しますので!」
     礼儀正しくお辞儀されて、にこやかに笑顔を作りながら手を振る。かなり急いでいた様子だからやはり彼氏とのデートとかだろうか。同僚のプライベートにはあんまり興味ないし詮索もしたくないけれど。
    「あーあ、このまま一緒に相合傘してあげたらお持ち帰り確定なのに〜」
    「向こうは彼氏持ちだぞ、てか恋人を放っておいて他の女と相合傘して帰る男がいたら連れてこい、俺が全員ぶん殴ってやる」
     わざわざ届けてもらった傘を他人に貸しただけで嫉妬するであろう女性もわんさかいる中で、彼女の感性と琴線はやはり不思議である。
    「ちくしょう! 皆守のくせに! 久しぶりにときめいたじゃんかよ!」
    「いや、そこは嘘でも毎日ときめいてるって言えよ」
    「そこまで低燃費じゃねえわ!」
    「どうだか」
     くだらない言い合いは絶えないホワイトノイズに吸い込まれていく。こんな陰気で億劫な天気だと言うのに、心地よい雨音だけがまるで軽やかに降りかかる音符のように耳に馴染んでいく。黒白の鍵盤の叩き方もまた、目の前の彼女が教えてくれたのだから。
    「こういう時のヒーローは、雨なんて構わないで濡れたままで走っていくんだろうな」
    「卵のパックを買いに?」
    「人助けに決まってんだろ……」
    「そうか? めちゃくちゃタマゴ買いに行きたいだけかもしれないぞ」
    「そんなヒーローいてたまるかよ」
    「でもさ、助けたじゃん」
     己の黒い傘の背中はどんどん遠ざかっていく。少しだけの優しさを振りまくことは誰でもできる。長い間優しくあり続けること、そして誰かのために身を削るようなことをさも平気な顔で当たり前のようにこなしていく。だから本物のヒーローはきっと……──。
    「いつ晴れるかもわからない雨の中を走りながら誰かの傘を届けて、挙句の果てに風邪を引くバカみたいな、そんなやつ」
    「私は風邪なんか引かないぞ」
    「死んでなかったらって話だろ」
     すると彼女は困ったように笑った。泣き顔によく似たそれは遥か昔から嫌というほど見慣れていて、あまりにも土砂ぶる雨の暖簾が似合う不思議な笑顔だった。寒さで震える手も思わず握りしめてはやがて呆れたように開いて差し伸べる。この手には、あの時あの場所から彼女の心意気を乗せている。
    「ほらな? やっぱりたまの雨もいいもんだろ」
    「ああ……お前が好きな理由もわかる気がする」
    「逆みたいだな、いつぞやと」
     抜けるような青空が悍ましいと嘯いた彼女は、それも悪くないと言いながら共に坂道を降りた。そして、今度は──……。
    「よおし! 走るぞ! 皆守!」
    「うおおおおおおおお!」
     パシャパシャ、ベチャベチャ。そして自分の奇声。逆さまの曇天を蹴破ったらそれは呆気なく砕けて飛散する。無数の針が無情にシャツの肩を叩いて、気が遠くなるほどに体温を奪い、さすがのクールビズも形なしだ。雨水が泥が汚れが……その他諸々が痛みになり重りとなる。傘をさす街ゆく人々の視線や車のヘッドライトがさらに心臓に刺さる。後ろで野次とも応援ともつかない幽霊の叫びが自分の耳にしか届かないことに、些か優越感を覚える。
     はて、ここまで必死に走る理由は何だろう。スーパーのタイムセールはとうに終わったし、会社の人に見られたらまた変な噂を立てられるに違いない。こんな奇行を否定する理由は百個あって、こんな勇姿を貫く理由は一つだけある。
    「なんだよ、傘なら持ってんじゃねーか、最初から」




    「はあ、こんなの羽咲ちゃんに知られたらまたしこたま怒られるねえ」
    「安心しろ責任は全部お前になすりつけるから」
     どこだかも知らない雑居ビルの玄関ドアで、雑巾を絞るかのごとくシャツから雨水を切る。髪の毛にネクタイやスラックス、妹が贈ってくれた腕時計も無論びっしょりである。まだ秒針は動いているから壊れてはいないだろうが。
    「あんなに走る皆守、久しぶりに見たなー」
    「やめろ、今あらゆる恥ずかしさで死にたくなってるから」
     これでもかというくらい晴れやかな笑顔のせいか、灰色の緞帳の向こう側から少しずつひび割れて微かな陽の光が差し込む、いわゆる天使の梯子だ。この気まぐれでふざけた雨もようやく止むかと安堵したものの、雨脚が弱まっただけで一向に止まる気配はない。
    「嘘だろ……いつまで降るんだよ……」
    「さあ、いつだろうね」
     はしごを登り切った最高傑作を眺めるような視線を向けられる気がした。それは間違いなく曇りガラスの向こう側で、あらゆる色彩が混ざり合う真っ黒のパズルの完成図だった。ずっとこの笑顔を目印に走っては歩いてきた。
     晴れであり、雨である。矛盾めいて掴めない、光り輝いては通り越して行く天気雨。彼女と空を眺め煙を吹かし鍵盤を叩き、二人三脚で駆け抜けた日々は帰らない。それでもこの手のひらにある勇気は誇らしく眩しく、彼女と共に見た景色だけが真実だ。
    「狐も嫁入りかー、こりゃ赤飯炊かなきゃねえ」
    「キツネっていうか猫だな、黒猫」
     気まぐれで気高く、馴れ合いを嫌う癖に人一倍献身的、猫みたいな少女が。
    「今度買いに行くか」
    「タマゴ?」
    「ばーか、指輪だよ」
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    マリウス

    DONE大変遅くなり申し訳ありません!リクエストありがとうございました!

    追加√後のとある雨の日、皆守くんに由岐姉が傘を届けに来た話です。
    アンサングアンブレラ しと、しと。
     雨音に紛れた喧騒、足音に飲まれた焦燥。水たまりの空が砕けて、水しぶきの細氷が弾ける。涯もない群青という不安を覆い隠してくれる灰色の緞帳と熱を容易に奪い去る無色透明の気分屋。たしかに絶景かな、と何処からか雨宿りにやってきた黒猫が鳴いたように嘆いた。
     ひと、ひと。
     チカチカ燃える蛍光灯が交差する営み、鳴り響くクラクションと共にぼやけた光る線を描くテールランプ。煌めく映画のワンシーンよろしく忙しなく動き回るこの街も、この季節に入ればどこか大人しく見えた。それでも視線も足音も当たり前のように無秩序に渦巻いて、胸のざわめきが凪ぐことはない。
     小雨、通り雨、驟雨、にわか雨。言葉とは不思議なもので、そうと言えばそんな風に聞こえる。悲傷、憂鬱、頭痛、低気圧。次々と連想するのは容易くても質感は伴わない。なぜなら言葉と言葉の狭間にあるこの感情を名付けるのにはきっとどれもピッタリはまらない。そう、パズルのピースは最初から欠けている。
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    DONE大変遅くなり申し訳ありません!リクエストありがとうございました!

    追加√後のとある雨の日、皆守くんに由岐姉が傘を届けに来た話です。
    アンサングアンブレラ しと、しと。
     雨音に紛れた喧騒、足音に飲まれた焦燥。水たまりの空が砕けて、水しぶきの細氷が弾ける。涯もない群青という不安を覆い隠してくれる灰色の緞帳と熱を容易に奪い去る無色透明の気分屋。たしかに絶景かな、と何処からか雨宿りにやってきた黒猫が鳴いたように嘆いた。
     ひと、ひと。
     チカチカ燃える蛍光灯が交差する営み、鳴り響くクラクションと共にぼやけた光る線を描くテールランプ。煌めく映画のワンシーンよろしく忙しなく動き回るこの街も、この季節に入ればどこか大人しく見えた。それでも視線も足音も当たり前のように無秩序に渦巻いて、胸のざわめきが凪ぐことはない。
     小雨、通り雨、驟雨、にわか雨。言葉とは不思議なもので、そうと言えばそんな風に聞こえる。悲傷、憂鬱、頭痛、低気圧。次々と連想するのは容易くても質感は伴わない。なぜなら言葉と言葉の狭間にあるこの感情を名付けるのにはきっとどれもピッタリはまらない。そう、パズルのピースは最初から欠けている。
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