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    マリウス

    @mariuscarpediem

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    マリウス

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    文字書きワードパレット18「おはよう」「ワルツ」「靴」

    #じょーさや

    日々は踊る、されど進まず アラームの音に呼び起こされないのは、約五日ぶりだった。元々眠りが深いタイプではないのだが、知らないうちに日頃の疲労が溜まっているかもしれない。何となしに瞼を開けると、セットされていない目覚まし時計が無情にも午前十一時半を指している事実を瞳に映した瞬間に、いつも冷静沈着な譲二も流石に肝を冷やした。 
     まだ覚醒しきっていないせいか、まともに頭が回らない。慌てて布団をめくってベッドを降りても、向かったのは洗面所ではなく妻の部屋だった。
    「みよしさ……」
    「あら、譲二さん、お目覚めですか? おはようございます」
     ちょうど洗濯物を干しているのか、足元には洗濯カゴ、ほぼ全開の窓とベージュ色のカーテンを前にして純白のシーツを腕にかけている三好(旧姓)。窓の外のベランダには植木鉢や植物の緑、真昼に近いせいか眩い日差しが彼女の金色に近いサラリとした長い髪をより輝かせる。日当たりの良いこの部屋を彼女に譲ったのは大正解だと譲二は過去の自分を心の中で全力で労った。
     そんな時に、気まぐれに訪れたのは一陣の爽やかなそよ風。寝起きでスウェット一枚の譲二でも特に肌寒さを感じない、どこか暖かさを孕んだ風だった。そして、純白のシーツと共にその金色は絹のようにふわりと舞い上がり、美術館の名画に勝るとも劣らない光景が、自宅の一室で広がっている。
    「女神……」
    「寝言は寝てる時に言ってください」
     笑っているのに、全く喜びを感じさせないその冷徹とも言える笑顔と何度もお説教で耳にした柔らかな声で、譲二はようやく現実に引き戻された。




    「申し訳ありません。休日とは言えだいぶ寝過ごしてしまいました」
    「いえ、お仕事でお疲れでしょうし、洗濯物干したら呼びに行くつもりだったのですが」
     三好の作った昼食を召しながら事務的な会話を交わす。譲二にとっては朝食も兼ねている。不摂生だが時間が時間なので、今日だけだと己を許した。一人暮らしの時は、いくら休日でも昼まで起きないなんてことはなかったのに。生涯のライバルである幼なじみの男と同じく、結婚して気が緩んでしまったのか。いや、彼奴は四六時中気が緩んでいる気がする。
    「家事も溜まってますし、午後からは俺がやりますので、三好さんはせっかくの休日をゆっくりお過ごしください」
    「……では、お言葉に甘えて」
     二、三回目を瞬かせて三好はしぶしぶ了承する。こういうことに関しては相手に気を遣いすぎるせいで埒が開かなかったことは一度や二度ではないので、彼女も譲二と接しているうちに学習しただろう。お互い敬語が抜けず、夫婦別姓というわけでもないのに妻への呼び方は未だに苗字呼び、部屋も別室、色気のある会話をしたことは一度もない。
     世間の一般的な夫婦像とは何光年もかけ離れているし、何なら入籍の報告をした時は譲二の祖母以外の人間には十中八九、驚愕の目で見られていたし、みつば区役所ではちょっとした騒動になっていたらしい。それほどに彼らの選択は周りの人間にとって衝撃的だっただろう。
     それでも、彼らは紛れもなく『夫婦』だ。
     ──まずは洗い物、家と風呂の掃除、確か引越しの時にまだ片付けていない段ボールがあるから片付けて、それから夕食の支度といったところか。
     職業柄、正確かつ効率のある仕事が求められている。そして、譲二の本人の生真面目すぎる性格も相まって、日常的な出来事でも脳内でチェックリストを作りながら行動している。家事と言っても、事務的な作業とは本質的に変わらない。それを本職とする譲二からすれば、特に苦のあることではなかった。だから、テレビでよく見かける『休日、家でダラダラするだけで家事を手伝わない夫』に対して、理解を示すことはできなかった。
     一方その頃、作業の合間に盗み見た三好は自室でパソコンに向かっている。仕事……というわけではなさそうだ。
    「午前十一時三十分まで睡眠。疲労が蓄積されていると推測。家事の遂行を申し出される。しばらく様子を見る……」
     何やら神妙な表情でノートパソコンに向かってブツブツと独り言を呟くのは、共に暮らしてからの三好の日課のようだ。いくら夫婦と言えど、プライバシーは尊重すべきなので、譲二は特に触れなかった。ただ本人はまだ大学の研究のことを引きずっているようだから、それを思い出して妙な行動に出ないと良いのだが。
    「そういえば、研究関連の書籍は……三好さんの部屋か」
     本棚を埋め尽くした書籍の山。三好の努力の結晶であり、後悔の証でもある。三好の自宅で初めて目にした譲二も気が動転してプロポーズ紛いのことを口走ってしまったが、幸い本気にされず、おかげで人生で同じ相手に二回もプロポーズするという貴重な体験を得た。
     彼女を後悔から救うのだと大それたことを後にも先にも思ったことがない。救われるのはいつも譲二の方だ。だから彼女を心から尊敬しているし、せめて困った時は彼女の力になりたい。そんな名のない感情の行き先を『結婚』にしたのは、他でもない譲二である。
     しかし、どんなに親しくなっても結局は他人で、それぞれの事情を抱えて生きていくしかない。けれど、少なくとも興味の引けることや新しい趣味でもできれば、彼女もきっと少しは楽になれるだろうに。如何せん譲二はつまらない人間だと自他ともに認めているので、この手の話に役に立てないのがもどかしいところだ。
     そんなことを頭の隅で考えながら、洗い物と掃除を難なく済ませた。次は例の段ボールだ。中身はほぼ譲二の私物なので、三好の手を煩わせる訳にはいかない。カッターを使って開封したら、予想外のものが譲二の目に入った。
    「あ、これって確か」
    「どうかしたんですか?」
     例の日課は終わったのか、若干驚いた声を発した譲二につられたのか、部屋から三好が出てくる。
    「いえ、懐かしいものが出てきたな、と。ここに仕舞ったことすらついさっきまで忘れてました」
    「引越しの時は結構バタバタしてましたからね。あの、見てもいいですか?」
    「どうぞ」
    「これは……社交ダンスのDVD? と、ダンスシューズまでありますね……しかも男女両方……?」
     仕事で若い女子高生から年寄りのおばあちゃんまで色々な愚痴を聞かされ、市民の様々な質疑応答に対応してきた三好でも、驚きを隠さないまま口をあんぐりさせている。どう見ても年代物で再生できるかも怪しい『初心者のためのワルツ』と書かれたDVDと、男性用の黒い革靴と、女性用の赤いピンヒールがそれぞれ一対、段ボールの中にある。男性用の方はいかにも新品のようだが、女性用の方は若干古びた痕跡が見えた。
    「俺のもの……ではありますけど、正確に言えば祖母から送られたものでした」
    「田中さんから?」
     三好が担当している窓口の常連であり、譲二と知り合うきっかけの一つでもあった気の良い老婆だが、よく着物を召されるし、価値観が良くも悪くも伝統的な人なので、情熱的かつ奔放的、高等な技術を求められる社交ダンスのイメージとはだいぶかけ離れた。
    「若い頃少し習っていたようで。確か、三好さんに出会う前のことで、よくお見合いを勧められた時期でした。ご存知の通り俺は長谷部を追いかけ回ること以外に特に趣味らしい趣味がないのですが、社交ダンスなら女性受けもいいですし、見合いの時の話題作りのために少しは勉強でもしなさいと」
    「なるほど、DVDと男性用のダンスシューズはわかりましたけど、どうして女性用まであるんですか?」
    「祖母が実際に使っていたシューズらしいですが……、その」
    「?」 
     どこか切り出し辛い譲二の心中を知るや否や、三好は何となしに首を傾げた。
    「俺が選んだ……人生のパートナーにこれを履かせあげて、共に踊ってあげなさいと、言われました」
    「はぁ、この場合は私になるのでしょうか」
    「なるのでしょうね」
     宙に浮かんだシャボン玉のようなふわふわした会話。第三者がいたら間違いなくツッコミを入れるようなテンポの緩さだが、今は彼らしかいない。三好は譲二と言葉を交わしつつも、変わらず段ボールの中身を凝視している。
    「それで、譲二さんはこれ、どうしますか? 踊りますか?」
    「こういうものは専門的に学ばないと話になりませんし、元はと言えばお見合いのためですが今の俺にはその必要もありません。それでも祖母からもらったものなのでよほどのことがない限り捨てませんが…………おど……、今なんて」
    「譲二さんがいいなら、今ここで練習してもいいですよ。ただ、私運動神経はあまりない方なので、うまくできないかもしれませんが」
    「い、いえ、俺も、……」
     ──わからん……。いや、三好さんのことだから何か深い考えがあるに違いない。いやでも、もしこれをきっかけに社交ダンスという趣味ができれば三好さんも……。はっ、社会人たるものいつダンスパーティーに誘われるかもわからないから、今のうちに特訓を……ということか!?
    「普通の銀行員と公務員がダンスパーティーに誘われることなんて滅多にないでしょう」
    「! さすが三好さん、心まで読まれるんですね」
    「読めませんよ、譲二さんがわかりやすいだけです。私はただ、田中さんのお気持ちを無碍にしたくないだけです」
    「心遣い、感謝します。きっと祖母も喜びます。今度電話で報告します」
    「そういうのはいいので……」
     心底困ったように眉を下げながら三好はDVDプレイヤーにディスクを入れる。テレビの画面に男女二人が映り、DVDそのものは古いがどうやら無事放映できるらしい。
    「三好さん、どうぞソファにお座りください。ヒールが高いですので履くのを手伝います」
    「わ、わかりました」
     三好は戦々恐々とソファに腰を下ろし、失礼のない程度に足を差し出した。譲二も譲二で跪く姿がなかなか様になっている。三好の白い足に深紅のハイヒールはなかなか映えているが、部屋着とだいぶミスマッチなところは目を瞑ろう。彼女は何を着ても美しいことに変わりはないので。
     手も繋いだことがないのになぜか靴を履かせられた。童話の中のお姫様もこういった感じなんだろうかと、らしくもなくメルヘンチックな思考になったことを、目の前の生真面目な男に悟らせる訳には行かないので、三好はそれとなく視線を逸らした。
    「どうですか? 立てますか? 無理はしないでくださいね」
     前言撤回、お姫様扱いというよりおばあちゃんの介護だった。部屋着の下にダンスシューズというシュールな組み合わせではあるが、あくまでこれは『ごっこ遊び』である。ヒールは確かに仕事で着るようなハイヒールよりは高いし派手なデザインではあるけど、慣れれば問題ない。サイズも何だかんだピッタリで安堵する。
     譲二も靴下を履いてから自分のシューズを履いた。送られたきり一度も使ったことがないが、まるでお誂えのように自分の足のサイズと一致している。心の中で祖母に感謝しつつ、DVDの画面に目を向けた。
    「内容はワルツらしいですね。初心者向けで良いかと」
    「あの、譲二さん……どうすれば」
     自分で言い出したものの、経験がないからか明らかに戸惑っている三好の顔を見て、譲二はどことなくむず痒い気持ちになった。
    「そこまで本格的に学ぶわけではないので、とりあえず肩の力を抜いてください」
     すると譲二は画面を見倣って右手をそっと三好の肩に置き、左手は三好の右手を丸ごと握っていた。三好も不器用ながらも見様見真似で、どうにか形だけはそれらしいものになった。
    『ワルツは、3拍子に沿って踊るものなので、ゆっくりとした感じで焦らず、1・2・3と数えながら両脚で円を描くように動かしてみてください』
     解説が聞こえ、画面の中の男女ペアもゆったりと踊り出した。彼らの洗練された動きを凝視しながら、三好は同じように足を踏み出そうとした。
    「円って……こう?」
    「三好さん、ここは俺に任せてくれませんか?」
    「え、はい」
     譲二は真剣な眼差しで画面を見つめ、その動きを自分のものにできないかと思考を巡らせる。祖母に社交ダンスを勧められた時に多少は齧った数少ない知識だが、社交ダンスにおいて男性はリード役で、花形である女性をより美しく魅せる役目がある。普段の二人からは考えられないことだが、今だけは自分が先導すべきだろう。
     三好の足だけは踏まないように慎重に、彼女が次にどう動きたいかを考えながら先回りしてそのポイントまで体で誘導する。音楽のテンポに呼吸を合わせて、スローテンポな息遣いが二人分。広いとは言えないリビングが今だけ華やかなダンスホールになったのではないかと錯覚させた。
     1・2・3。
     ワン・ツー・スリー。
     ひー・ふー・みー。
     いつまでも変わらない、規則的なリズム。
     猪突猛進で思い込みが激しい自分に彼女は大切なことを教えてくれた。だから彼女は神であり、人生の師でもある。だが、今はパートナーだ。見上げていたつもりだった、遠くの方で眩しい光を放っていた彼女が、こんなに近くにいる。だからこそ、わかってしまう。彼女が人間だということを。
     誰かを言葉で傷つけてしまうことを恐れるほどのお人好しで、好きなことができなくなったら人並みに後悔を抱えて、繊細なのになぜかホラーもスプラッタも平気で、意外と蛇が好きで、薄いチーズが苦手で、たまに変な味のジュースを飲んで、お酒は弱くて……。気づいたら、知らなかったこと、知らなくてもよかったはずのことが、全部自分の頭の中にあった。
     ワルツの音楽を背景に、まだ拙い想いは言葉になって流れ出す。一つ、二つ、三つ。いつものように頭の中で整理して、一個ずつ順番に、彼女のリズムを乱さないように。
    「三好さん、俺は」
     まつ毛の長さも、靴音も、息遣いも、鼓動も、全部筒抜けになるほどに近くにいても、譲二はもう眩しさで目を灼かれることはない。三好のいる時間は間違いなく彼の日常になっている。一人でも二人でも……たとえいつか三人になっても、きっと大きな変化は訪れない。取り止めもなく代わり映えのない日々。特別なことなど、何もない。
    「俺は、三好さんとの暮らしが好き、みたいです……息がしやすいと言いますか、気が楽と言いますか」
     ただ相性が良いからか、習慣や生活リズムが似ているからか、理由なんてどうでもいい。起きたら彼女がいて、何も話さなくても気まずくならなくて、わからないことがあってもそれでいいと納得できて……一般的な新婚夫婦に当たる甘酸っぱいものなどどこにもなくて、お互いはただ、淡々と同じ円を描くように。何一つ進みやしないけど、何よりも心地が良く、そんな日々の中に、確かに柔らかな音はした。
     ──「おはよう」、「おやすみ」、「おかえり」、「ただいま」。言うべき相手がいて初めて意味をなす言葉。
     いつもより遅く起きたのは、疲れが溜まったわけでも、気が緩んだわけでもない。ただ、ぬるま湯に長く浸かってしまうような、面白い映画をずっと見てしまうような、長い時間をかけて味噌汁の出汁をとるような……そんな居心地の良い日々がずっと続くと願ったから。
     ゆるりと心の奥底で根付いたのは、そんなありふれた感情だった。
     ふと、音楽が止まった。マンションなので長時間練習しても靴音が下の階の住民に迷惑をかけるので、程々にして段ボールの中身を棚の奥に収納した。また、こんなチャンスがあるといいなと、多少浮ついた気持ちを抱きながら。
    「夕食の準備、してきます」
    「譲二さん、私も手伝わせてください」 
    「ハイヒール履いて踊ったばかりですし、休んだ方が」
    「譲二さん」
     彼女はにこやかに笑う。けど、世話の焼ける年下の男性に説教する時や怒っている時の笑みとは少し違う気がした。まるで、譲二と同じ目線にいるような……。
    「夫婦なんですから、二人で手分けしたほうが早いですよ」
     そう言いながら三好はエプロンをつけては腕をまくり、冷蔵庫を開けて食材を物色する。こうして一緒にキッチンに立てるのは、よく休日が重なる銀行員と公務員ならではの特典だ。
    「そういえばまだ聞いてませんけど、今日の献立は?」
    「そうですね……──」
     敬語は当分やめられないし、寝室も共にする予定はしばらくない。三好は変わらず神で師で、そこにパートナーという新しい関係が付け加えられただけだ。
     ただ、それだけ。
     

     就寝時間。自分の部屋に戻った三好はノートパソコンを立ち上げた。数ページだけ書かれた文字を読み直して、呆れたように小さくため息をつく。 
    「リビングにて社交ダンスの練習。身体、精神状態共に正常。睡眠時間延長の原因が疲労でないと判明。共に夕食を調理っと……」
     馬鹿馬鹿しいにも程があるが、これが今の三好にできる精一杯であり、仕事以外の『やりたいこと』もしくは『趣味』と言えよう。譲二の行動、感情……彼と共に過ごした時間を書き記したもの。世に役立つような代物とは思えないし、何か新しい事実を見つけたいわけでもなければ、誰かに向けて発表したいわけでもない。三好なりの生活を綴る日記と言えるかもしれない。
     ただの社交ダンスの『ごっこ遊び』でも、真剣に向き合って真面目に取り組む人間のパートナーとしては、相応しいような気がしなくもないが。
     踊る最中に見上げた仏頂面。いつもと変わらないはずの端正なそれを、ほんの少し頼りにしたいと思え始めたことを、どんな文字にしてどのように記述すればいいのか。しかしあくまでこれは三好の主観であり、報告書には書き込まない方がいいかもしれない。
     ──というより、未だに本人の承諾を得てないのはどうかと思うから、近いうちに話そうかな。
     どんな顔をするだろうか。すごいと褒めてくれるだろうか。引かれるだろうか。喜んでくれるだろうか。今まで集めたサンプルを元に分析し始めたが、それすらも今日一日の出来事でわからなくなってしまって、余計に興味が唆られる。
     研究の代わりには遠く及ばないけど。
    「私も、今の生活、嫌いじゃないですよ」







    『結婚してくれて、ありがとうございます』
     ──『田中譲二観察研究報告書(仮)』より抜粋。
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    マリウス

    DONE大変遅くなり申し訳ありません!リクエストありがとうございました!

    追加√後のとある雨の日、皆守くんに由岐姉が傘を届けに来た話です。
    アンサングアンブレラ しと、しと。
     雨音に紛れた喧騒、足音に飲まれた焦燥。水たまりの空が砕けて、水しぶきの細氷が弾ける。涯もない群青という不安を覆い隠してくれる灰色の緞帳と熱を容易に奪い去る無色透明の気分屋。たしかに絶景かな、と何処からか雨宿りにやってきた黒猫が鳴いたように嘆いた。
     ひと、ひと。
     チカチカ燃える蛍光灯が交差する営み、鳴り響くクラクションと共にぼやけた光る線を描くテールランプ。煌めく映画のワンシーンよろしく忙しなく動き回るこの街も、この季節に入ればどこか大人しく見えた。それでも視線も足音も当たり前のように無秩序に渦巻いて、胸のざわめきが凪ぐことはない。
     小雨、通り雨、驟雨、にわか雨。言葉とは不思議なもので、そうと言えばそんな風に聞こえる。悲傷、憂鬱、頭痛、低気圧。次々と連想するのは容易くても質感は伴わない。なぜなら言葉と言葉の狭間にあるこの感情を名付けるのにはきっとどれもピッタリはまらない。そう、パズルのピースは最初から欠けている。
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