Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    マリウス

    @mariuscarpediem

    マイペース文字書き

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 4

    マリウス

    ☆quiet follow

    大変遅くなりすみません。『みにくいアヒルの子』もしくは『よだかの星』にまつわる直圭のリクエストをいただきました。ありがとうございました。

    ※CP要素薄めで、89代弓張美術部のメンバーも出ています
    ※『サクラノ刻』ネタバレあり

    #直圭

    晴天線路は君に続かない 仰ぎ見れば晴れ渡る群青が奔る。澄み通る青藍が泳ぐ。それは初めてあいつを見つけた時の色に似ていた。ギラギラと、キラキラと、生命力と覚悟だけが煌めいては燃えて、見る者の眼球を焼いては心の臓を動かし続けた。
     何処までも広がる狭い砂漠。砕けた石。弾けた原石。かつて星だった砂の粒。光と熱を放ち続ける恒星。
     何処までも続く途切れた線路。見下ろせばそれは登り続けなければならない梯子に見えた。またはいつか必ず捨てなければならない脚立。
     乾いた温い風が吹き抜けて体力を奪う。それでも足を止めることなく、まるで本能のように砂上に一人分の足跡を残し続けた。神様が代わりに歩いてくれているのだろうか。だったら、その神様は──……。
    「けい」
     まるで呼吸のように刻んだ二つの音はやがて空気に飲まれて通り過ぎていく。灼熱とも厳寒ともつかない不思議な温度が身体中を支配していた。
    「マジでどこだよ、ここ」
     今。此処。現在地。過去にも未来にも属さない無限が重なる通過点であり終着点。年季の入った方向音痴には当然のように地図も羅針盤も持ち合わせていない。だが、それでも一つだけわかることがあった。
     この先に、きっとお前はいない。



     二度と帰れないあの夏の日のこと。虫取り網と虫かごを持った少年たちの背中を見送って、吐いたため息は蝉の求愛信号に紛れる始末。それでも直哉は弓張学園を目指した。階段を登る気力すらなく、ただ惰性と慣性に任せただらしない歩き方しかできない。
     すると頭上の方に明るい声が降ってきた。太陽光を反射した白銀のショートヘアは今日に限って一際眩しい。一年中元気が有り余っている奴だが、夏は特にホームといった感じだ。
    「直哉〜! 置いてくぞ〜!」
     今日はバイクの調子が良いのだろうか、自分よりだいぶ遅い時間に出かけたはずなのにもう到着しているし、屈託のない笑顔で腕をぶんぶん振り回している。これからの予定を思い出すだけでやる気をなくしてしまいそうな直哉に対して、此奴は元気なのか呑気なのか馬鹿なのか、おそらく全部だ。
    「これから補習だってのに、よくそんな元気でいられるよな」
    「こういうのは楽しんだもん勝ちだからなー、現に今はまだ補習が始まっていない! 故に俺は楽しい! 以上!」
    「よくもまあそんな屁理屈をぬけぬけと」
     圭を見ているとこの世の全てがどうでも良くなると常日頃思っているが、どうやらこの明るさはこの憂鬱な夏の思わぬ清涼剤になっているようだ。
     夏目圭は、いつ如何なる時でも笑顔を見せる。
     夏に向日葵が咲くことを、誰も疑問に思わないように。

     壁画事件、プール掃除、学校で合宿。カレー。花火……その他、絵に描いたような『青春ごっこ』。似合わないと心底わかっていながらも、愛しく思える瞬間を取りこぼさないように拾い集めてきた。なんやかんや大人しく過ごしてきた二年間を棒に振るような出来事の連続で、それでも悔いはないと胸を張れるかもしれない。しかしその代償として、夏休みの補習と山積みの宿題が課されるのだから、今の直哉は少しばかり後悔している。
     同じような境遇の人間に目の前の馬鹿がいるが、その前向き思考をどうにか一割でも分けてもらいたい。
    「補習、俺は地理だけだけど、お前は?」
    「全教科〜! でも今日は英語と世界史だけ〜!」
     何一つ誇れない事実をこうも誇らしげに言えるのは一種の才能かもしれない。もはやツッコミすら放棄して連絡事項だけ伝えておく。
    「終わったら鳥谷が、図書室で集合だとよ。今日で夏休みの宿題を片付けるつもりらしい」
    「えー、俺まだなんもやってないぞ!?」
    「そのお前のために部長様がありがたく勉強会を開いてくれるんだから、感謝しろよ」
    「いや絶対半分直哉のためでもあるんだろがい!」
     そんな何万回もしてきたようなやり取りを繰り返しながら、知らないうちにそれぞれの教室の前で別れた。いつかは忘れてしまうかもしれない時間だけが無限にあるような不思議な感覚、高校生活はかくあるべきものだと気づいたのは教職に就いた後からであった。

     地図やら自然やら地形やら、聞く振りだけして何もかもちんぷんかんぷん状態のまま苦笑いの担当教師に解放された。分からないことがあれば後で勉強の得意な幼馴染に訊く方が効率が良いのかもしれない。
     図書室に足を踏み入れたら、美術部の面々がほぼ勢揃いだった。夏休みだからか、図書室は閑散としており、直哉たち以外にほとんど生徒がいない。しかしこのメンバーだからいつどこで騒ぎを起こすかわからないもので、どうせなら美術室の方が人を騒がせずに済むだろうに。
    「読書感想文もあるんだから、こっちの方が断然良いじゃない」
     直哉の疑問を知ってか知らずか、真琴がいつもの尊大ぶった態度でけろりと答えた。
    「あー、そういやあったな。まだ読んですらねえ。めんどくせえな指定図書……」
    「私も何冊か読んだけど、どれもピンと来ないんだよねえ。稟ちゃんは……もう終わったんでしょうね」
    「え? あ、うん」
     適当に相槌しながら、つらつらとノートに書き込んでいるようだ。そもそも彼女がここにいるのはかなりの場違いと言えよう、もちろん良い意味で。ちらっと見えるのは二学期からの内容ではないか。つまり暇を持て余して予習しているわけだ。恐ろしいやつ。
    「圭とか鳥谷とか川内野はともかく、稟も氷川も別に無理に参加しなくても良いんだぞ?」
    「こら草薙、自分を棚に上げるんじゃない」
    「私は優美の面倒を見てるだけですよ。毎年最終日に『写させてくれ〜』って言われるのもそろそろ飽きましたので」
     里奈が軽くため息つきながらぼやくと、つられたように優美も目を輝かせながら「ありがと〜、里奈」といやらしく抱きついて、その抱擁を無理やり解こうとする一連のコントじみたやり取りはもはや美術部の日常茶飯事である。
    「私も、家にいても勉強以外やることないし、みんなと一緒の方が楽しいかな」
     稟の笑顔が苦笑いではないことを確認してから、直哉も先ほどの補習の課題に取り掛かる。夏休みの宿題もあるのだから今日中に完成できるかはだいぶ疑問だが。
    「稟、悪いんだけどさっきの補習でやったところ……」
    「──直哉! 聞いてよ!」
     小さな静寂は陽気な声によって打ち破られる。一瞬にして『勉学に励もう』という雰囲気が霧散したと直哉は感じた。それと同時に真琴は眉を顰めながら人差し指を口に当て「しー!」とたしなめた。
    「思ったより早いじゃねえか。もう2科目終わったのか?」
    「今英語終わったとこ、次の世界史の先生が急用で来れないから早めに解放されたよ、って聞いてよ!」
    「あー、聞いてる聞いてる。で、このケスタ地形のとこなんだけど……」
    「聞いてないじゃん!」
     無視できないほどの喧しさなのか、稟からは『相手してあげて』と含みのある苦笑いを送ってきたので、仕方なく直哉は圭の方に顔を向けてみる。すると、眼前に思いっきり開かれた英語の教科書を突きつけられた。
    「直哉、この問3読んでみろ」
    「は? 『She had been knocking on the door when he was sleeping.』」
    「四つめの単語、もっかい」
    「だから『ノッキング』だろ?」
    「のっきんぐ……!? 頭文字『k』だぞ? 普通はカ行だろ?」
    「あのなー、てっきり『when』の訳し方とか時制とか訊いてくると思ったら、そんな基礎も基礎レベルの……」
     直哉は思わず頭を抱え、一部始終を聞いた真琴も何やらこめかみを抑えているようだ。
    「勉強に関する質問してくるだけで一歩前進なのかしら」
    「お前が普段そんな甘やかしてるからこんなバカになってんだぞ」
    「お前らは俺の何だよ! 保護者か!」
    「本物の保護者が聞いたら卒倒するから絶対に同じ質問訊くなよ」
    「まあまあ二人とも、ちゃんと教えてあげましょうよ」
     いつもの美術室ならともかく、人様の場所ではしゃぎ過ぎるのはよくない。穏やかに笑いながら場を持ち直し、稟は一息つくと中学レベルの英語知識をゆるりとわかりやすく解説し始めた。
    「えっと、これは『黙字のK』という法則で、『k』の後に『n』が続くと『k』は発音されません。先ほどの『knock』のように、他には『know』や『knife』など日常生活でもよく使われる単語もこのルールに当てはまります」
    「なんで? なんで他の『k』はちゃんと読むのに『n』が続くとスルーされるの? 可哀想じゃん」
    「そういうルールですから」
    「わかりにく過ぎるよ! 誰が決めたんだよ、ぶん殴ってやる」
    「誰っていうか、『みんな』が決めたんだよ。文法という言葉のルールは」
     言語を学ぶ人間なら一度はぶち当たる『なんでそうなる』という壁。流石に高校三年生というのは些か遅すぎる節もあるけれど。直哉が手元にある英和辞典を心なしにパラパラめくると、真琴も冷やかしのように付け加えた。
    「神様に触れようとバベルの塔を築き上げた代償は大きいわね」
    「こいつに関してはそれ以前の問題だと思うがな、てか『K』って雅号使ってたんだからそのくらい知っとけ」
    「ただのオニシャルだけだし〜、そういうの興味ないし〜」
    「イニシャルな」
    「え、圭先輩って雅号使ってました?」
    「昔ちょっとな。賞を取ってるのはだいたい本名だぞ」
    『えっへん』と胸を張ってはいるが、あからさまにはぐらかしている。里奈も無理やり根掘り葉掘り聞くタイプの人間ではないので素直に黙り込んだ。そんな空気をどうにかを変えようとしたのか、稟が別の話を切り出す。
    「黙字もそうですけど、日常生活でもよく使われていますよね。『キロ』と読んで千を代表したり、絶対温度の単位でもありますし」
    「へー、便利じゃん。K」
    「生憎と名が体を表してねえな」
     直哉の皮肉も届かないらしく、圭はただ意味がわからないと言わんばかりに小首を傾げた。そのやりとりを目撃した稟は「あはは」と乾いた苦笑いを漏らす。話題が一旦落ち着いたところで、どうにか全員勉強を再開させる雰囲気になった。
    「そういえば圭、夏休みの宿題まだやってないんでしょ? さっさと一緒に片付けるわよ」
    「それがさ、読書感想文がさー」
    「あー、お前本読むとすぐ寝るもんな」
    「それで、姉貴に聞いたらあんまり字が多くない本、なんなら童話とか絵本とかでもいいって」
    「絵本の感想って逆に難しくない?」
    「藍先生もだいぶ圭に甘いわね」
     自分のことを棚に上げながら真琴は「で、どれにするか決めた?」と問いかけるも、圭からは歯切れの悪い返事だった。
    「それが〜、どれもつまんなそうだし興味もないし……一応、さっきあそこの本棚でそれっぽいやつ持ってきたけど」
     芸術関係の人材を輩出した由緒正しい弓張学園の図書室と言えど、流石に子供向けのハードカバー絵本はそこまで網羅していない。有名どころのアンデルセンやイソップ寓話は一通りあるが、いくら学のない圭でも耳にタコのような物語ばかりで、今更もっともらしい感想を絞り出せそうにない。すると、絵本の山の中にあたかも宝物を発見したようにつぶらな瞳を輝かせた稟がいて、直哉には嫌な予感しかしなかった。
    「『幸福の……」
    「あー、これダメ。絶対ダメ。むり。死ぬ」
     咄嗟のことで直哉は手でその絵本を覆い被さり、どうにか圭に表紙とタイトルを見せまいと冷や汗を垂らす。失念していたが、確かに有名な童話ではあった。
     あの日の夢浮坂の下の彼女の言葉と表情が蘇る。彼女曰くそれは銅像の王子とツバメの愛の物語。何故だかはわからないが、圭には読んで欲しくないし、それに関する感想も極力耳に入れたくない。何かが幻滅するような、砕け散るような不思議な感覚が身体中を支配した。はたまたそれは単なる照れ隠しなのか。稟も一瞬だけ不思議そうに目を見開いたが、すぐに何かを汲み取ったように微笑みながら身を引いてくれた。
    「まあ、圭くんの宿題ですし、本人が読みたい本を選ぶのが一番だよ」
    「なんで草薙がそこまで否定するの? なんの本だっけ?」
     覗き込もうとする真琴に対しても絶対防衛を貫いた。側から見ればその作品の熱狂的なファンに見えなくもない。
    「いいじゃねえか、……お、オスカー・ワイルドの思想とか美学とか圭のやつにわかるわけねえだろ! 俺ですらよくわかってないし!」
     一応事実ではあるので堂々と宣う。特に反論はされず、ただ直哉だけが妙に焦り、稟はどこか諦めたような、呆れたような遠い目をしているという謎の光景が一瞬だけ繰り広げられた。
    「直哉がそこまで言うなら、他のやつにするけど……、他のみんなはなんかオススメない?」
    「ふっふっふっ、圭先輩よくぞ聞いてくれました。なんと、こういうメルヘンチックな本には里奈が詳しいんです! 昔からよく読み聞かせてくれましたよ!」
    「そんな人を子供っぽいみたいな言い方せんでも……」
     何故か自分のことのように誇らしげな優美と、紹介の仕方にどこか不満に思えた里奈であったが、真剣に選んでくれるのはやはりそういう優しい性格故だろう。あれこれと物色した後に、二冊の絵本を圭の前に並べた。
    「私の好きな話は……これですね。似たような話がこちらにもあります。こっちの方が有名ですけど」
    「えーっと、『よだかの星』……表紙に鳥が描いてあるぞ。『みにくいアヒルの子』……で、名前だけ聞いたことあるような……こっちはアヒルか……なんかわかりやすそう」
    「確かに『よだかの星』はアンデルセンの影響を受けてるって説あるもんな」
    「比べながら読むと面白いのかもしれません」
    「サンキュー氷川。あ、稟ちゃんもな! なんの本だったかわからないけど!」
    「いえいえ。今度なおくんがいない時に貸しますね」
    「おやめください」
     他愛もなく、くだらなく、屈託もない。普通の高校生の普通の会話。ありふれて暖かい刹那の瞬き。あそこにいた人間の何人がこの時のことを覚えているのだろう。けれど、大切で価値があるのはいつだってこんな道端で拾えるような石ころだった。それを宝石に変えるのは、今にも崩れそうな時間の積み重ねと、かけがえのない感情の沈殿。

    『ピー、ピー、と、ひよこが鳴きながら、ころがり出てきました。ところが、その子ったら、ずいぶん大きくて、ひどくみっともないかっこうをしています』
    『よだかは、実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ、味噌みそをつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています』

     心地の良い揺れと暖かい夕日に照らされて、ようやく目を覚ます。小さな鉄の箱の外では穏やかな夕景が川のように流れ続けた。あるいは帰路への舗装のように思えた。ガタンゴトン、ガタンゴトン。テンポ正しく、正確かつ的確な速さで、ただ一つの目的地へと向かう列車はひたすら線路の上を進み続ける。
    「あれ……でんしゃ……」
    「やっと起きたわね、草薙。もう少しで寝過ごすところだったわよ」
     少し距離を取った座席で真琴が文庫本を読んでいる。寝ぼけた目ではっきりと見えないが、青い表紙に月が描かれていたからなんとなく予想はつく。その隣には稟と里奈や優美が続いていた。後輩の二人が一緒に電車に乗るのはかなり珍しいことだった。不思議なことに他に乗客はおらず、少しばかり不気味な貸切状態だった。
    「なんで、電車……?」
    「なーに寝ぼけてるのよ。これから帰るんでしょ? 夏目屋敷に」
    「あー、あ、勉強会は?」
     先程まで図書館が宿題を片付けていた感覚が抜けず、直哉は覚醒したばかりの頭を掻きながら、記憶を辿っていた。しかしどうだろう、学校から電車に乗るまでの過程がすっぽりと抜けている。
    「とっくにお開きになったよ……って、なおくんも一緒に駅まで歩いてたじゃない。大丈夫ですか?」
    「放っといてあげてください、稟先輩。きっと痴呆症ですよ」
     いかにもツッコミ待ちという優美の暴言に、直哉は反論する気すら起こせない。それほど疲れていたのかもしれない。それを察してくれたのか、優美もこれ以上は追い打ちをかけなかった。代わりに氷川が「お家に帰ったらしっかり休んでください」と労いの言葉をくれた。そこでようやく、此処に居ない人間のことを思い出す。
    「ああ……、あれ、圭はバイクか」
    「風のように飛んでいきましたね。『あたま使ったからお腹空いた〜』と叫びながら」
    「俺より早く帰っても意味ねえがな……ったく、いつ事故ってもおかしくないぞ」
     いつもの、口の悪い高校生による少しばかりタチの悪い冗談だった。其処にいる全員が了解していた事実。だけど──空気が凍った。暖かな夕焼けの風景が国境の長いトンネルを抜けずとも、瞬く間に凍てつく雪国にたどり着いてしまったような感覚が直哉の骨の髄まで支配した。それでも鮮烈な赤と橙色だけが輝かしく見えて、その分だけ目の前の全てが偽物で、作り物で、紛い物であると理屈ではなく本能と自分の眼がそう告げている。
    『次は──駅、──駅……出口は右側です』
     アナウンスの音だけが静寂の中を走る。車掌による車内放送なのにやたらと無機質に聴こえた。
    「じゃあ、私は先に降りるわね」
    「鳥谷……?」
     文庫本を閉じた後、すっと立ち上がる鳥谷を見上げる。何か意を決したような眼差しだった。電車を降りるというより、何かの舞台から降りるような、またはとても手放したくないものから身を引くような悲壮と感傷と、ほんの少しの後悔とやるせなさが冷えた空気を伝ってきた。
    「草薙……宿題、ちゃんとやりなさい。またアンタのせいで補習とか勘弁だから」
    「あ、ああ……」
    「それから」
     今生の別れでもあるまいし、なぜ目の前の彼女は目を潤わせているのだろう。意外と繊細で弱気なところは傲慢な態度という仮面にしっかりと覆われていたはずだ。儚く揺らめく背中を見つめることしかできず、直哉は人知れず苦い息を飲んだ。これから真琴の口から紡がれるその名前を予感したからだ。
    「圭は」
     青春の代わりに陶芸に打ち込んで様々な器を作り上げた手、二人の天才が息づく場所を作りたかった手、月に届かなかった手。こんなにも不安げに震えている。
    「圭はね、祝福されて生まれたわけじゃない。最初から疎まれて育ったの。それでも彼は私の弟だから……私だけが同じように接してあげなくちゃって……別に天才だからって、勉強ができなくたって、バカだって、そんなの関係なくてさ、一人の家族として、あるいは友人として仲良くしてあげたかった」
     みにくい、みにくいアヒルの子。生まれた瞬間から『みんな』と違うアヒルの子。それは彼が白鳥だからだ。美しく穢れのない翼を羽ばたかせ、水面の下で必死に水を掻き分けて進んでいた。同じように、よだかもまた、醜い容姿で虐められる弱肉強食の世界に絶望した。だから星になることを選んだ。
    「そう、私は知ってるの。ううん、気づいてる人も結構いるかもしれない。あいつがいつか白鳥になること。それでも、月に梯子をかけてくれたとき、とっても嬉しかったわ……あなたの『櫻』を見た時と同じくらい」 
     思い出と共に列車は進む。寸分の狂いもなく、正しい速さで、正しい時間に、正しい場所に。交差しながら錯綜した路線と軌道。乗らなければならない者は乗り、降りなければならない者は降りる。
    「アンタたちなら……行けるわ。止まって見えても、アンタはちゃんと進んでる。私が全部、知ってるから。私が知らないところで戦うのだなんて、もう許さない」
     届かなかった。届けられなかった。けれど、月を目指そうとしたその心は──魂は、それが既望であろうと、幾望であろうと、きっと満ちも欠けもしない。
    「これが六ペンスを選んだ真のジャーナリストよ」と、まなじりを緩めて強かな笑顔を見せながら、子供じみたピースの形を作る。それもまた立派な梯子のように思えた。ベージュ色のカーディガンを身に纏い、気楽にゆらゆらと揺れている彼女の手は、土よりペンやカメラを握ることが多くなったのだろうか。それが喜ばしいことなのか、そうでないのか。閉じたドアの向こうに問いかけるまでもなく、くぐもった祝福が先に届く。
    『708番線、まもなくドアが閉まります。足元にご注意ください』
     けたたましい発車ベルの音が同窓の言葉を遮ろうとする。その時、直哉は知った。これは虚構であると、幻想であると、空想であると。それでも手を振らずにいられないのは、ただ目一杯の敬意と感謝を贈り返したいから。
    「──良い旅を」

    『「さあ、ぼくを殺してください」と、かわいそうなアヒルの子は、言いながら、頭を水の上にたれて、殺されるのを待ちました』
    『どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません』
     
     見送った背中はまるで嘘かのように、列車は誰の乗車も待つことなく先へ急ぐ。二人分の距離を取った先に、稟は何故かずっと目を閉じていた。寝ている気配はないから、考え事だろうか、それとも何かタイミングを測っているのだろうか。
     凝固した空気を打破してくれたのは、誰より空気を読んでいないようで常に気を配る優美だった。つまらなそうに携帯をいじりながら、気だるい口調で話しかけられた。
    「草薙、ケイ線って知ってる? 国語じゃない方の」
    「知ってるも何もお前まだ高校生だぞ。株はまだ早いって」
    「そうとも言う」
    「そうとしか言わねえだろ」
    「キャンドルスティック……ローソク足って訳すとちょっとダサくない?」
    「知らんがな」
     真琴が残した粛々とした雰囲気は何処へやら、青春の切り抜きのような一コマがまたふと顔を出す。直哉が安心感を覚えたのは束の間で、長い間ずっと口を噤んでいた里奈がようやく声をあげた。鈴を鳴らしたら、振動が止むまでその音を誰も止めることはできない。たとえそれがどんなに小さくて壊れ易い音でも。
    「……蝋燭もまた、燃えるものです」
    「……里奈」
    「ごめん。ちょっと待っててね、優美」
    「ん、待つよ。いつまでも」
     優美の手を握っては離れ、里奈がいまだに瞳を閉じている稟を一瞥した後、彼女を通り過ぎては直哉の手前に立つ。いつも優美と一緒にいるからか、真正面からじっくりと向かい合うのは久しぶりだった気がする。瞳にある生き生きとした鮮やかな青は、確かにどこかあいつを彷彿させた。だから、彼女にも分かるのだろう。
    「圭先輩……読んでくれたでしょうか。絵本」
    「さあな、途中で眠らなきゃいいんだけど」
    「草薙先輩、どうしてアヒルの子は白鳥になり、よだかは星になったと思いますか?」
    「またケッタイな質問だな……見返してやりてぇんじゃねえの? バカにした奴らに」
     わざと的外れな答えを口にすると、里奈もまた予想できたとでも言いたげに微笑んだ。伊達に『精神的妹』と自称されて追いかけ回されていなかったわけだ。
    「言い方を変えます。『白鳥』と『星』の違いを聞かせてくれますか?」
     姿勢を変えて窓の外に視線を投げる。こんな曖昧な問答はそれこそ本の中でしかありえないだろうに、外の景色は美しき青の銀河になってくれない。いまだに、燃えるようで冷えるような夕焼けのままだ。
    「まあ、寓話的な角度から見て、どちらも『美しいもの』に違いはないけど……強いて言うなら、生物と非生物? アヒルから白鳥へと変わったアヒルの子と、鳥類とは全く別の──星になったよだか、ってところか」
    「『此処にいたくない』『死にたい』『変わりたい』と願ったのはきっと一緒なんです。生への絶望と当てもない救済を望むこと。あれは、私でした」
    「過去形だな」
     公園の遊具に散らばった悍ましいほどの糸杉。永久に蒼穹へとその枝を伸ばし、瞬間を何度も自らを燃やす真紅の炎。燃やして、燃えて、灰燼になることを望む、火花になることを願う。自分の為? 誰かの為? 何かの為? 生から逃れる為。死から救われる為。だが、出来なかった。己の覚悟のそれ以上に、儚く強い生命の花に魅せられたから。
    「私はそんな自分が嫌いだったし、気高く生き生きとしたオオカミが羨ましかった」
    『オオカミ』という響きを聞いて、座席にいる優美は少しばかり反応したように思えた。里奈の方は全く動じることなく、屈託もなく遠い昔の思い出を語る。
    「どうせ死ぬなら綺麗に死にたい」と平たく俗的に言えばそんなありふれた感情。しかし、目的と手段が逆だったら? 綺麗になりたいから死を選んだ。こちらの方が正しい。きっと、誰かが自分の生に意義をつけてくれる。きっと、誰かが自分の死に意味をつけてくれる。そんなどうしようもなく漠然とした我儘な願い。
    「圭先輩は、きっと昔の私よりずっと立派で……私よりずっと強欲でしょうね。誰にも届かない光の速さで、駆け抜けようとしていましたから」
     今日を諦めなかったから。諦められなかったから。諦めることができなかったから。どうしても、生きてしまう。どう足掻いても、幸せになってしまう。幸せになるように生きてしまう。
    「星は、光ったわけじゃありません。何億光年先から届く星の光は……燃えていました。身を削り心を捧げる燃焼だからこそ、遠い場所からでも見える煌めきを生み出せる。星は生きるために勝手に燃えて、人間は生きるために勝手に光を見出して──、それこそが」
    『次は──駅、──駅……出口は左側です』
    「私はもうオオカミに食べられる毒キノコでも、狩人に助けてもらわなければならない赤ずきんでもありません……たくさんの夢物語を──絵本を、描く者です」
     扉が開く。光り輝く舞台に通ずるような眩しい扉。そこから吹き抜ける爽やかな風と次第に解ける白銀の三つ編み。彼女にも見えたはずだ。芸術は終わらない、絵画に際限はない。所詮自分のことが一番好きになれるのは、自分しかない。だから自分で髪を巻く。だから此処で電車を降りる。糸杉が枝を伸ばした先にある、たった一つの終着点を目指して。
    「里奈!」
    「行こう、優美」
     漆黒のツインテールが視界を通り抜けては激しく揺れる。何故これだけはいくつになっても似合ってしまうのだろうと、口にしたらまた蹴られてしまいそうなくだらないことが思い浮かんだ。誰のための変わらない二つ結びなのか、少し考えれば分かるだろうに。
    「──良い旅を」
    「あばよ、でくの坊!」
     しかし、もう独唱ではないだろう。音楽に関しては全くの素人だが、少なくとも直哉にはとても耳に馴染む二重奏に聴こえた。あの日の夜の公園に負けないほどの素敵な音楽に、最大限の拍手を。それが燃えた星に光を見出した人間の義務だから。

    『お日さまは、それはそれは暖かく、やさしく照っていました。ハクチョウは、羽を美しくなびかせて、ほっそりとした首をまっすぐに起しました』
    『そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました』

    「氷川の奴、降りる前にすっげえお前の方を睨んでたぞ。なんか恨まれることしてたか? 稟」
    「恨まれることしかしてこなかったからでしょう……まあ、今度ランチでも奢ります」
    「お前らそんな仲良いんだっけ」
    「悪いですよ」
     決められた軌道の上を走る密室。ようやく目を開いた彼女との会話が、これはまた不思議とくだらないものだった。会う度に張り詰めていた精神が嘘だったかのように、何とも筆舌に尽くしがたい涼やかな空気が流れている。居心地が良いのか悪いのか、直哉にはもう判断のしようがなかった。
    「で、お前は何を言うつもりだ? 俺は早く帰りたいんだけど。てか帰れるのこれ」
    「私が、そんな言いたいことだけ言って帰る大人しい女に見えますか?」
    「見えるけどなあ」
     容姿や言動だけなら春の穏やかな陽気そのものであると、彼女に対する印象は一貫して変わらない。しかし、中身はどうだ。専属キュレーターに冷酷とまで評されていようと、愚直で不器用な普通の少女の影がどうしてもチラつく。
    「『花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは──』」 
     不穏な語尾を伸ばしてこちらを見た。続けろ、と言わんばかりの深い視線を感じて、少し思索した後、つらつらとその続きを詠む。
    「……『雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し』だっけ?」
    「さっき図書館で古典の予習してた時に見かけて、懐かしくなってね。小さい頃初めて読んだ時は不思議に思いましたよ。『じゃあ、逆に常に満開の花って、常に輝きを放つ月って、価値がないってことなのかな?』って」
    「価値がないって言うか、あり得ないからなあ……まあ、お前にとっちゃあ違うかも知れないけどさ。散った花と曇った月を見ながら、完成形を夢想するその時間が美と感じる心を生む。最初から理想がそこにあるだけでは何の意味もない。結局、作品より物語を愛してしまうんだ。俺たちは」
     少し言葉が強かっただろうか。それでもこの主張を変えるつもりはなかった。それも向こうも理解しているはずで、だから稟は特に大それた反応はなく、ゆるりと振り向いては背中の車窓に目を向けた。未だに燃える夕景かと思いきや、いつの間にか夜の帳は下ろされた。点々と赤と青の星々が煌めいたのは、全てが燃え尽きた跡。奈落にも舞台裏にも見えたこの場所で、一度だけ体験した息苦しさと痛みが直哉の体を蝕んだ。 
     遠くの方に見えたのは、燻んだ黄色の花が一列に並んだ風景。どんなに通り過ぎても延々と続いてしまうような、無限の循環。燃え尽きてもまた新たに生まれ変わる、太陽の花。
    「まるで生者と死者の境界だね」
    「何処へ行くんだ」
     口に出して、果たしてこれは質問になっているのだろうかと直哉は考える。答えは予め自分の中で用意してあるのに。なのに、あえて言葉にしない。それも織り込み済みなのか、彼女も答える気はさらさらないようだ。
    「完全に咲いた向日葵は太陽の方を向かない。なおくんにはこの意味がわかりますか?」
    「それが、終わり……なんだろ」
    「じゃあ、太陽を追いかけない向日葵は、ひまわりと呼んでいいのでしょうか」
    「いや、それは違う。例えば、背の低い小さな女の子がいたとして、そいつには太陽が遠すぎる。そこで、綺麗に咲いた向日葵は、その少女にとっての──『太陽』になる。まあ、別に太陽じゃなくてもいいんだけどな、夢とか憧れとか、ヒーローとかアイドルとか、鳥とか星とか……そういう『綺麗な宝物』に、なれるから」
     すると、長い間表情を崩さなかった彼女は微笑みを浮かべた。満足したのか、諦めたのか、どちらとも取れる瞳の弧線は美しく恐ろしい。  
    「さて、私も帰りますね……と、その前に」
     彼女が立ち上がった瞬間に、揺れる。身体が、列車が、世界が、揺れ動く。大きな古時計の振り子のように、瞬刻を重ねながら前へと後ろへと、重力の中で必死に足掻く。車輪と軌道の摩擦音が甲高い悲鳴になり、鼓膜を突き破るかのように鋭く貫く。車窓のガラスはとうに破られ、勢いのある冷たい突風が二人の間を通り抜けた。
    「ったく、お前、ほんと、いちいち派手だな」
    「あなたには負けますよ」
    「このスピードで、どっかにぶつかったら死ぬんだろうな」
    「なら死んでください」
     何処から取り出したのだろう。どこにでもあるような普通の絵筆を翳して、あたかもコンダクターのように虚空を切るだけで、何も生み出していない。否、あるいは──。今、この瞬間の此処こそが──。
    「筆を持つ私の、私達の、情熱、矜持……尊厳、身勝手、無責任。譲れないもの」
     最高速度を越えようとした列車の中で、直哉は必死に足を地面につけている。そうしなければ瞬く間に跡も残らず吹き飛んでしまうからだ。けど、目の前の彼女はきっと違う。まるで、これから銅像の心臓と鳥の死骸を溶鉱炉に落とすつもりのようだ。
    「幸福って、何も感じないことなんです。自分以外のことなんか考えないで生きてゆく。だから、私も、みんなも幸せです」
     稟は目を細めて、冷たく嘲笑う。自分を? 直哉を? 両方とも。
    「『何処へ行くんだ?』 ですか? 終着点なんて、結論なんて、最初から決まってるの、列車に乗ったその瞬間から。急行だろうと、徐行だろうと、迂回だろうと……あなたは必ず約束された地点に届く。信仰ではありません。根拠もありません。ただ、そうあれば良いと」
     そして、車体が浮いた。何もない空の道を走った。それでも軌道から外れることはない。ただ一つの執着──終着点を目指している限りは。この道が正解なのだ。
    「私には、私の終着点がありますから」
     こんな状況の中で悠々とドアの方に歩く度胸はいかがなものだろう。彼女は十年間ずっと、こんな細い糸を渡ってきた。糸ですらないのかもしれない。何兆分かの一の可能性に、ずっとかけてきた。
    「天才の宿命ってやつか? 本当は一番才能に振り回されてるくせにな」
    「……あなたたちとなら、美しい綺麗な正三角形になれたのでしょうね」
    「どうだろ。俺も圭もお前みたいにはなれねえよ」
    「頂点が三つあったなら、十分だったと思う。あ、これは仮定法過去完了形です」
    「まだ高校生気分かよ」
    「そうかも」
     強風が靡かせた蝶結びは変わらなかった。優しさに満ちた春風のような笑顔も変わらなかった。ただ背筋だけを伸ばして、誰よりも先を見据える。最初から彼女は何もかも持っている。何もない空を舞うような、鞦韆を漕ぐ方法以外は。
    「おい」 
    「今度はきっと、上手く落ちて見せるから。飛んで見せるから。もうあなたは無理して受け取らなくて良い。だって此処はファンタジーで、私は芸術家……私自身が描く対象で物語そのもの。プロタゴニスト」
     いつの間にか青嵐の泳ぐ空が一面に広がる。燦々と照らす太陽は眼が眩むほどに眩しく、なんとも清々しい夜明け後。そんな青々とした虚空を背に、彼女は薄ら笑いを浮かべながら両手を広げた。
    「だから見せてね。王子とツバメの、終着駅。──……良い旅を!」
     そして、真っ直ぐに、まっすぐに大地に落ちていった。落ちたらもう、生き返らない。生まれ変わることはない。それでも彼女だけの終着点に辿り着ければ良いと、直哉は右手を血が出るほどに握りしめ、勝手に願ってしまった。

    『ぼくがみにくいアヒルの子だったときには、こんなに幸福になれようとは、夢にも思わなかった!』
    『今でもまだ燃えています』

    「いや〜、面白かったな! アヒルの奴もよだかの奴もよかったな! ハッピーエンド!」
    「読み比べってのは、二つの本を同時に読むことではないぞ。圭」
     ちょうどいい大きさの石の上で、二冊の絵本を両手に持ち、左右に視線を移しながら、さながら幼稚園児の朗読のように拙く声をあげる。乾いた空気を通り抜けた朗らかで暑苦しい声が、より今の暑さと息苦しさを倍増させる。
    「良いんだよこまけぇことは」
    「こんな砂漠の中でよく本が読めるな。暑いし眩しいし」
    「別に良いじゃんかよ。てか直哉ってどうやって此処にきたの?」
    「あー、列車が事故って俺も事故って、血だらけで飛んで、絶賛迷子中」
    「あはは、何それ」
     線路を辿り、帰路を探す。けれど何処までも広がる砂漠の中をまるで自分のものではない足跡を重ねる。それでもただ一つ光る星はあり、まさに世界の中心だった。それさえあれば、いくらでも奔っていけた。
    「いや、星は光ったんじゃない、燃えたんだ」
     呟きながら勝手に圭の体をどかして石の上に座る。視線で抗議されるかと思いきや、案外素直に譲ってくれた。際限のない砂の海。風に舞う砂埃が目に入って痛くて仕方ない。圭は平然とした様子でなんとも満足げに裏表紙を捲り本を閉じる。
    「書けそうか? 読書感想文」
    「どうだろ。書いても姉貴に提出できないし」
    「代わりに渡すから、書けよ」
    「えー」
     承諾にも拒絶にもならない曖昧で気だるい声。「これは出さないパターンだな」と揶揄うつもりでいたら、意外と真面目に指を顎に乗せ考えていた。
    「感想『文』じゃなくて『絵』でもいい?」
    「国語の宿題だぞ」
    「俺の国語は絵画なんだよ」
    「それもそうだな」
     己の思いを表現する手段なら、圭にとっては一つしかない。他は全て、余計で不要で無駄だと、切り捨ててきた。捨てた先に残ったものこそが、最も純粋で単純な願い。風だけが、砂だけが、青空だけが、太陽だけが、見ている。皆の思いを乗せた、あり得ない軌跡の先はやはりこんなにも平坦で愛おしい。
    「なあ、直哉。こういうのはなー、だいぬしせいって言うんだよな」
    「大往生。どっちかって言うと志半ばだけどな」
    「そんなことないって。俺はもう満足してるし、幸せだと思う」
    「バカ。まだまだこれからだったろ」
     ハードカバーの本が二冊、砂の上に落ちた。氷川に怒られるだろうなと思いつつも、腕を伸ばさずにはいられなかった。たとえ花びら一枚分のものだろうと、もう何も取りこぼしたくない。男のくせに華奢で今にも折れそうな身体は、感触がない。
    「ったく、俺の飯食ってるくせにこんなに痩せて……」
    「直哉はすっごい筋肉ついたな、学生の頃よりずっと」
    「ああ、毎日体鍛えてるし、サーフィンにも行ってる」
    「なんで?」
    「お前と、絵描くためだよ」
    「うわっ、やけに素直じゃん……気持ちわるいぞ……」
    「はっ倒すぞお前」
    「おうおう、やれるもんならやってみろ〜」」
     せせら笑いが耳元で響く。これ以上距離が縮まることも、離れるわけでもなく、二人は長い間静寂に身を任せた。それを打ち破った空気の読めない馬鹿はそっと息を吐いた。呼吸の一つでさえも、安堵を覚えてしまう。
    「言ったろ、アヒルもよだかも、ハッピーエンドだった。なりたいものになれた、したいことができた。自分に絶望しても、誰かに希望を与えられた。たぶん幸せってのはな、何もかも……通り過ぎていく全てに鈍感であること……だから俺は何も知らないことを選んだ……」
     双眸に宿す群青が眩しく儚く、次第に空の青さを映す水が溜まりつつある。指で拭いてあげようとして、腕を掴まれて止められた。いや、直哉自身が止めた。
    「だから、お前は先へ行けるんだ。幸せになれるんだよ」
    「『K』の後に……『N』……俺なんかが続いたら、お前の音を消してしまう。何も残らなくなる」
    「だーれが決めてるんだよ、そんなもん。会ったら絶対ぶん殴ってやる」
    「だからそういうルールだっつーの」
    「いや、待てよ?」
     無理やり抱擁を解き、石の上から砂の上に這いつくばって、指で何かを書いている。二人分の名前のローマ字が拙く歪んでいる。
    「何これ、相合傘?」
    「ちげえよ! さっきから何なんだよお前!」
    「過去最大級の素直な草薙直哉だ、受け取れ」
    「ええ……、まあどうでも良いけど。見ろよこれ、苗字だったらさ、お前が『K』で俺が『N』で逆になる! どうだ、これで行けるだろ! 世紀の大発見だこれ」
    「言ってないと思うけど、俺も夏目姓になったぞ」
    「は!?」
    「だから『K』はお前だけ……夏目圭だけの音だ。黙字になんて、なるもんか」
     乾いた砂漠に、初めて水が生まれた。けれどそれは塩辛すぎてとても飲めるものではなかった。阿呆らしく何も知らないふりをして笑うだけの彼が、透明の雫を流すこと。当然のようで、奇跡だった。それが心を満たしてはまた隙間が生まれる。帰らなければいけないのに、此処から離れたくない。
    「やーい、泣き虫」
    「うるせ……帰る」
    「此処だってだいぶ暑いのに何処に帰るんだよ、ツバメさん」
    「なんだよ……、ツバメって」
    「一緒に天国へ行けるかなあ。てか此処がそうなのかなあ。まあ、今は待ってくれる人がいるし、楽しみにとっておくか」
     適当に砂埃を振り払い、未だに湛えた群青を見つめた。昔よりずっと視線が低い。全てが虚構だろうと構わない。これは草薙直哉の良き旅路。
    「お前は『美しい』よ、過去も今も。でも……だからこそ、後は続かないから。俺は、俺なりの道で、また同じ場所に立てるように、これからも奔ると、決めた。それまで、まだ此処──終点で待っていてくれ」
     誓いだろうか、呪いだろうか。どちらにせよ、これもまた一人の芸術家の我儘だ。直哉の視線と覚悟が突き刺さったのか、瞬く間にいつもの笑顔で返した。
    「なんだよ、俺、やっぱり幸せ者じゃねえかよ……!」
     夜に咲く日輪草。帷を燃やす一等星。虚空を切り裂く梯子。醜く、みにくい、美しい鳥。途切れた軌道を描くブロンドの天使。そんな彼に届いたのだろうか、返してあげられただろうか、『ありがとう』と言えただろうか。
    「またあおう、圭」
    「ああ! じゃあな! 直哉!」
     それは自己犠牲など美しいものではなく、されど自己不信ほど惨めなものでもなく、必死に、純粋に、ひたむきに。丁寧に、確実に、生真面目に。そしていつか、その想いは本物になる。
     こんなにも、晴れているのだから。
     


    Tap to full screen .Repost is prohibited
    👏👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    マリウス

    DONE大変遅くなり申し訳ありません!リクエストありがとうございました!

    追加√後のとある雨の日、皆守くんに由岐姉が傘を届けに来た話です。
    アンサングアンブレラ しと、しと。
     雨音に紛れた喧騒、足音に飲まれた焦燥。水たまりの空が砕けて、水しぶきの細氷が弾ける。涯もない群青という不安を覆い隠してくれる灰色の緞帳と熱を容易に奪い去る無色透明の気分屋。たしかに絶景かな、と何処からか雨宿りにやってきた黒猫が鳴いたように嘆いた。
     ひと、ひと。
     チカチカ燃える蛍光灯が交差する営み、鳴り響くクラクションと共にぼやけた光る線を描くテールランプ。煌めく映画のワンシーンよろしく忙しなく動き回るこの街も、この季節に入ればどこか大人しく見えた。それでも視線も足音も当たり前のように無秩序に渦巻いて、胸のざわめきが凪ぐことはない。
     小雨、通り雨、驟雨、にわか雨。言葉とは不思議なもので、そうと言えばそんな風に聞こえる。悲傷、憂鬱、頭痛、低気圧。次々と連想するのは容易くても質感は伴わない。なぜなら言葉と言葉の狭間にあるこの感情を名付けるのにはきっとどれもピッタリはまらない。そう、パズルのピースは最初から欠けている。
    7968

    related works

    recommended works