青天井の囚人「不安は自由の眩暈である」
──セーレン・キルケゴール『不安の概念』
アスファルトに照り付けた灼熱はじりじりと身を焦がす。誰も彼もが教室で勉学に励む午前十時ごろ。太陽が頭上へ登りつつあるこの時間に、何が悲しくて地獄への扉をこの手で開かなければいけないだろう。
何が悲しい、のか。
「やあ、居ると思ったよ」
「あ?」
女豹のような鋭い目つき。煌びやかな金色の地毛を反射させた本人は明るさからは程遠い厳しい面構えをしている。
満遍なく日差しを受けている此処の唯一日陰ができる箇所の下で、それはもう現役女子高校生とは思えないほど行儀の悪い姿勢だった。シャツの上ボタンは止めず、スカートを着ているのに足を組んだせいで長くも肉付きの良い太ももが青天の下に曝されている。
風紀委員としては看過できないけど、一男子高校生としてならむしろ好都合だ。
そんなかけらも満たない下心に勘づいたのか、片手には文庫本、もう片手で煙草を吹かした彼女は不機嫌という文字を顔に書いては視線で投げつけた。
軽く笑いながらいなして、何事もなく隣に腰を下ろすと、嫌そうに舌打ちをされて距離を取られる。わざわざ日陰から離れるほどに自分と距離を取りたいのか、それはそれはとても傷つくものだと、わざとらしく傷ついた顔を見せたら、彼女は今すぐ此処から去るのだろう。
「近藤さんもサボり?」
「うるさい、黙れ、失せろ」
「答えになってないよ」
青春の模造品。
ひび割れたびいどろ。
出来損ないの法螺話。
この時間を形容するには、どれが相応しかったのだろう。
青天井の囚人
彼女は女王だった。
お伽話に出てくるような陰険で卑劣な性格をした女王ではなく、単に学力も容姿も申し分なく性格もクールを通り越して冷酷そのものなので男子生徒からはなかなか話しかけられない高嶺の花、しかし持ち前の姉御肌が原因か女子生徒からは何かと慕われる、故に女王。周りの評価は概ねそんな感じだった。
そして、もう一つ。これは独自のルートで調べた情報である。耳にした時はかなり驚愕したが、同時に彼女という人間に興味を持ったのもそれがきっかけだった。
一介の風紀委員が軽い気持ちで近づいて良い存在ではないことはこの情報を手に入れた時点でわかるだろうに、人間というのはどこまでも矛盾めいた生き物で、だからこそ面白いと他人事のように思ってしまう。
小さな火花。シガレットの匂い。地上から広々とした青空に向かって儚く線を描く一筋の紫煙。見つかったら退学も十分に有り得る。制服の乱れ以前に注意すべきところだったが、生憎と正義感に駆られて風紀委員になったわけではないし、向こうもそれがわかっているから何の身構えもなかった。
暴言を散々吐いた女王サマは何事もなかったかのように読書を再開した。何やら難しい本だったが内容には全く興味が湧いてこない。むしろ日差しが眩しすぎて読めなくないだろうか、と訊いても多分答えは返ってこないだろう。そう思った瞬間に、彼女は思索の代わりに煙草を一口吸っては吐く。
「虚血性心疾患、末梢動脈硬化症、肺がん、脳卒中……うわ、ゲッホゲホ」
中身は理解できないがとりあえず無理矢理暗記した喫煙による健康被害の可能性を羅列してみたところ、思いきり煙の直撃を受けてしまった。熱くて苦いそれは一瞬にして口から侵入しては呼吸を乱し、思い通りに言葉が吐き出せなくなる。まさに天敵だ。
「受動喫煙って普通に煙草吸うより健康に悪いからね!?」
「ざまあ」
いつも仏頂面な彼女が初めて、ほんの僅かに口角を上げて己の勝利を振りかざした。そして、また口を噤んで文庫本のページに視線を移す。昼休みまではまだ時間がある。校舎を支配した静寂は此処にも居座り続けて、蒸し暑くて乾いた風の音だけがざわざわと吹き抜けた。
何一つ実にならない不毛な時間。教室にいてつまらない授業を受けてもきっと大した差はないだろうに。いや、むしろ教室の方がクーラーが効いていて涼しい。なのに、自分が、彼女が、此処を選んだ理由は。
じきにチャイムが鳴り、彼女は一足先に教室へと戻った。友人と昼食を共にする予定らしい。自分もまた教室に戻っては情報集めに勤しむ。清らかな水面、波風立たない当たり前の日常。そんな変わらない日々を積み重ねることが、青春と言えるではないかと、当時の自分は本気で思い込んでいた。
待ち合わせをしたわけでも、何か約束があったわけでもない。授業が退屈だったら、気が向いたら、時間ができたら。元々他人の指図を受けるのはあんまり好きじゃないので学校というシステムとは相性が悪いかもしれない。向こうも自然と同じようにやってきて、交わらないはずの空間と時間を共有するようになった。
「こんな苦いもの、喜んで口に入れる人間の気が知れないね」
「余計なお世話だ」
返事が返ってきたことに少し驚いた。しかし、気まぐれだろう。気まぐれで買った煙草を屋上で吸ってみようと思った自分が言うので間違いない。あまりの苦さに舌と喉が拒絶反応を起こしている。
「俺には無理だから近藤さんにあげるね」
箱を差し出すと、彼女は一瞥してすぐ目を逸らした。臣下の献上品は女王サマのお気に召しなかったらしい。
「この銘柄嫌い」
「ああ、そういえばわざと近藤さんのと違う銘柄にしたっけ。確かいつも吸ってるのはメンソールの……」
脳内のデータベースから情報を引き出す前に、感情のない低い声に遮られる。
「こんなことしていいのか? 風紀委員サマが」
「まあ、バレても誤魔化せるネタはたっぷりあるから、ご心配なく」
「ゲス野郎……」
塵を見るような視線も辛辣な言葉遣いも彼女の魅力だなと思い始めたので、これはいよいよ重症かもしれない。口直しに、ポケットに常備していたドロップ缶を取り出した。駄菓子だがどれもなかなかクセになる味で、何が出るかわからないところも含めて日頃の楽しみの一つである。軽く揺すって蓋を開けて、掌を開いて受け止める。この仕草は煙草を取り出した時のものと似ている気がした。中身は真逆だが。
「あ、黄色い、レモン味だね。こっちは要る?」
「いるか、そんな甘ったるいもん」
「えー、美味しいのに」
「いつもこんなん食べてるから他人を舐め腐った偏屈野郎になったんだろうな」
「近藤さんの中で俺のイメージってそうなんだ。へぇー」
棘のような酸味が口の中で暴れる。けど、時間が経つと酸っぱさの中に甘みも潜めた素直じゃない飴玉。噛み砕いて飲み込んだら、ほんのりとした淡い香りを残すそれは、目の前の彼女と重なる気がした。どう考えても煙草なんかよりずっと美味しい。
「俺は人を舐めたことなんてないよ。飴ならしょっちゅう舐めてるけど」
「それで舐めてなかったらお前は人間に向いてない」
こんな平行線のような問答が馬鹿らしくなったのか、また文庫本を開いて熟読する。今日はこの間のとは違う本らしいが、彼女が此処で読むのはいつも哲学書だった。
前人による生きるための教訓、人生の心構え、生まれた意味。過去から現在までの人類の思考の集大成。真理への鍵。多分そんな単純な道理が重厚かつ複雑な言語と化して書かれているだろうが、如何せん興味のないものはどんなに興味を持とうとも興味がない。
だって、生きている人間の方がずっと面白いのだ。
「近藤さんは、ちゃんと人間やれてる?」
「やれてる奴はこんな場所でこんな本読まない」
「面白いの? それ」
「さぁ」
一応会話しているのに全くこちらを見ず、視線は一行また一行と素早く活字を追いながらも頭の中では考え事をしているのだろう。でなければ内容を理解できるはずがない。器用なものだ。彼女がこのように集中し出したら他人と交流する気はないらしいので、暇を持て余した自分もやりたいことを始めた。
学生のお小遣いの域を遥かに越えたデジタルカメラを取り出して、慣れた手つきでボタンを押しながら中身を確認していく。隠したくなるような秘密、誰にも言えない繋がり、水面下にある関係。知り尽くした上でどんな反応と変化を見せるのか。それが堪らなく嗜虐心と好奇心をくすぐる。事前に何の味が入っているかを知っているのに、それでもドロップ缶を揺らした瞬間に期待が膨らむのと同じ仕組みだ。うむ、やはり紙の上で死んでいる文字より生きている人間の方が断然面白い。知るべきは文字ではなく人間だろう。
ふと、ある発想が脳内を通り過ぎた。つかさずレンズを隣に向けて素早くシャッターを切る。無論、シャッター音は購入した瞬間にオフにしている。
「撮ったら殺す」
死刑宣告と共に、授業の終わりを告げるチャイムが張り詰めた空気を切り裂いた。勢いよく文庫本を閉じた彼女は階段の方に足を踏み入れて、素っ気なく背を向けた。
「おっかないねえ」
画面に目を落とすと、そこには煙草を片手に持った不良少女が真面目に読書に勤しんだ姿。一瞬を切り取った写真なのに絵になるのはこういうことだろうか。これをクラスの男子どもに売ったら、こんな安物のデジカメではなく一眼レフも夢じゃないだろう。教師に売ってポイントを稼いでおくのもありだ。
頭ではそんなことを考えながら、ゴミ箱のマークが描かれたボタンを強く押す。
真逆な生き方をしているのに、自分と同じ場所に辿り着いた彼女を、どうして気にせずにいられるか。空気の中で漂う煙草の匂いが、もはやどうしようも無いほどに尾を引いて纏わりつく。鼻にくるその匂いを振り払うべく再びドロップ缶に手を伸ばす。
どんな味が出るか楽しみなのに。どんな味が出ても嬉しいのに。今だけは、黄色がいいなと、子供のような我儘を抱いてしまった。
──『削除しますか?』
はい。
「お前、そんなに情報収集力があるなら探偵にでもなれば?」
同じ時間に屋上にいても追い返されないくらいの距離感になった時のことだった。あるいはもう諦めたかもしれない。ただ、こうして他愛もない話題を口にできる時間は、かなり貴重と言えよう。
「データを集めるのは好きだけど、答えを出すのは得意じゃないな。頭の良い近藤さんが目指すなら喜んで助手になるけど」
「嫌だな。他人のケツの後を追うのは。まあ、なったらなったで真っ先にお前を警察に突き出すよ」
「あはは、探偵といえば、なんかなかったっけ……?人生に糸がいっぱいあって、その中で殺人だけ赤い糸とかなんとか」
「『人生という無色の糸かせには、殺人という緋色の糸が混じりこんでいる。僕達の仕事は、それを解きほぐし、分離して、1インチ残らず白日の下に晒すことなのだ』……シャーロック・ホームズ」
「そうそれ、さすが近藤さん。殺人は専門家に任せるけど、他の糸が絡むところを見るのはそこそこ好きだよ」
「やっぱ悪趣味」
「俺も今度本持ってこようかな。近藤さん何かオススメある?」
「『人間失格』」
「それ、悪口じゃないよね?」
「さあ」
こんがらがった糸を眺めるのは好きだ。人と人が深く関わった分だけ、より複雑に絡められ、強い結び目はやがて鎖になる。手錠かもしれないし、足枷かもしれない。いわば自分の限界を決めるもの。振り解こうと必死に足掻く人、後生大事に抱え込む人、目的のためにそれを利用する人だっている。そして、そんな中でも彼女は、何者にも縛られない孤高な存在でありながら、まるで羽交い締めにされたように身動きが取れない、不思議で哀れな女王サマ。
「不自由だよねえ、君は」
「お前もな」
少しも動揺はなかった。何かの冗談のように思う。レンズ越しに見る世界に自分は存在しない。だから鎖など出来るはずもない。間違いなく自由なはずだ。
「笑えない冗談は近藤さんらしくないんじゃない?」
「相馬」
用意した返事を軽くあしらった彼女は、初めて名前を呼んだ。凪いだ水面に波紋を呼び起こすには、十分すぎるほどの響きであった。
「お前は今、不安か?」
波紋は波紋を呼び、やがて広大な波と化す。遠くにあった青空は一瞬にして、揺れた水面。上だけを眺めて泳ぎ方を知らなかった人間は、溺れる。
「まるで意味がわからないんだけど……」
学校帰りに本屋に寄った。案の定、彼女が読んだことのある哲学書はもちろん、勧めてくれた名作と言われた小説も最初の3ページ目で音を上げそうになる。学校の授業でさえだいぶ苦戦したのだから、当然と言えば当然かもしれない。
それでも小遣いで買い、適当なファミレスに入って軽くページを捲る。見ず知らずの人間の物語を辿っているはずなのに、彼女の影はまるで現像されたネガのように、ぼんやりとした輪郭だけ浮かび上がった。
だからこそ、ある決意をする。
彼女の鎖を断ち切りたい。そんな身分不相応な思いを抱えた時点で、自分が立派な囚人になったことにも気づかずに。
「晴れて自由の身だね。これはなんだかんだ探偵に向いてるんじゃないかな、俺」
誰かの役に立つとは思えない趣味だったが、いざ実行するとなんだか気分は爽快である。
「向いてねえよ」
憎まれ口を叩きながら、壁に背を預けて今日も変わらず読書に勤しむ彼女はなんだかご機嫌だった。自分でまた手に入れた資料を整理する。変わらない光景──……一つ変わったことがあるとすれば、それは彼女がわざわざ日差しを受けることなく、一緒に日陰にいてくれたこと。
「近藤さんさぁ、名前呼んでいい?」
「嫌だ、気持ち悪い」
「えーっ、いいじゃん。減るもんじゃないし」
「精神がすり減る」
「それは大変だねぇ」
それでも甘ったるい関係ではなく、強いて言うなら無味無臭で色鮮やかなシャボン玉。現実を歪に映し、目に入った瞬間は思わず手を伸ばしたくなるが、掴んだら瞬く間に消える幻想。
「いい加減煙草、やめたら? ほら、飴あげるよ。それともたい焼きがご所望かな?」
ポケットに常備しているドロップ缶を鳴らすと、その音はいつもより乾いていることに気づき、思わず唖然とした。
「買い足さなきゃ」
カラン。コロン。カラン。コロン。その音は、たしかに現実へのカウントダウンだった。こんなどうしようもない時計の針を折る軽やかな四拍子。
「近藤さんは、どうして此処に来たんだい?」
「……知ってるだろ」
「知らないよ。此処に来てるってことは知ってるし、理由も想像がつくけど、答え合わせのためにも近藤さんの口から聞きたいな」
「相変わらず食えない男」
文庫本から視線を移すと、彼女は青を見上げる。今日も今日とて雲一つない快晴で、むしろ眩しいほどに目が眩む。
「全部が逆になる気がすんだよ、此処にいると」
どこか醒めたような、悟ったような年齢不相応な目だった。けれど何かに縋りたくて彷徨っている子供の目にも見える、不思議な女王サマ。
「不安が自由になってくれねえかなって、望んでさ」
「はあ……?」
時折、頭脳明晰な彼女の話は理解できない。けれど、言わんとすることはわかる気がする。要は自由を手に入れたいのだろうか。それなら、彼女はややこしい人間関係に縛られず、とっくに自由の身であるはず。
「そんなこと言ってるわけじゃねーよ」
浅はかな考えはすぐに見抜かれた。彼女は珍しく一瞬だけ上機嫌に微笑んだ。
「いいんだよ、別に、わかってもらわなくても。不安の数だけ罪だからな、このオッサンが言うには」
まるで旧友を紹介しているような口調で、文字の向こうの哲学者を引っ張り出した。
正解を探しているわけではない。彼女は答えを探しているのだ。自分が納得できるように、自信を持って言えるように、自由の意味を理解できるように。
口にしたら即刻否定されるだろうけど、多分とてつもなく似ていたから惹かれあったのだろう。自分の、彼女の、本当の欲しいものにさほど差はないと、今なら言える。
だが手段が真逆だった。彼女は死んだ先人の文字を頭に入れて、自分は生きている他人の言葉を眺めた。世界の一部になれず、世界をどこか遠い場所からでしか見られない寂しがり屋の子供二人が散々『答え』を探して求めて縋り付いて辿り着いた場所が、此処だった。
難解で窮屈で苦痛でしかない授業から抜け出せたら、自由なのだろうか。純粋で開放的で秒毎に移り変わる空を目に映したら、自由なのだろうか。
結論を出すのは苦手だ。数ある可能性の中から正解を選び取るのは至難の業のように思える。そして、おそらく心のどこかで不正解を恐れている。
「答えを探す手伝いなら、いくらでもするよ」
彼女はまるでこの言葉を待っていたように、微塵も驚かないまま軽く文庫本を閉じた。そんな思い切りの良さが羨ましい。一瞬だけ塞がれた呼吸に爽やかなメンソールと苦い匂いが広がり、どんなにドロップを飲み込んでもかき消せなかった。
それから、色々あった。
ピークにたどり着いたら、それは落ちるしかない。清々しいほどの直線落下、躊躇う暇も与えない。積み上げたと思い込んでいたものは意外と強くも脆くて、たったの数文字で崩れ落ちてしまうことを知った。
「不正解……だったね」
いや、弱いのは自分の方だ。
なんでも知っている。日常に潜む些細な隠し事も、表に出せないような秘密も、多少の利益をチラつかせればいとも容易く手に入る。そうやって自分を裏切って、他人を見捨てる。人間の繋がりなんて、どうしようもなく儚いことを理解し、それを手のひらの飴玉のように転がり回す自分がどれほど惨めだということを心得る。
だからあんな言葉を口走ってしまうのだ。好かれているなんて、心底では微塵も思ったことがないかもしれない。他人の感情を踏みつけてきたことへの代償は、唯一好きになった人間の気持ちを軽蔑することだった。まさに等価交換、自業自得。世界は実によく出来ている。神様がいるなら褒めてやりたい、「このクソ野郎」と。
「煙草の匂い、するなぁ」
強烈な薄荷とニコチン特有の臭味が鼻腔を刺激する。そんなものはとっくに霧散しているはずなのに。
夢の名残と現実の残滓、残りはつなぎ止められた形のない鎖。それでも照り付ける日差しは暑く、青々とした水面は頭上で余波もなく流れている。仰げば仰ぐほど、奈落の底へと落ちていくと錯覚させる。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
「なるほど、たしかに」
真っ逆さまだ。
「不安で、怖くて、臆病で仕方なかったんだ、俺は」
何もないつもりでいた。何者にも何物にも縛られないことが、自分らしさと思い込んでは無闇に振りかざす。鎖だとか手錠だとか足枷だとか辟易しながら、それを心のどこかで誰よりも求めている。でなければ、何処にも帰れず、何処にも行けやしない。
理解した気でいて、何一つ理解しようとしなかった彼女を、今になってわかるなど。そんな出来の悪い喜劇のような人生の続きを、贖うことでしか送れない。これからはずっと、この青空の下で繋がりという名の鎖を引き摺り回しながら生きていく。
「なんていうか、懐かしい、かな」
秋色のベンチ、少し燻んだ空の色、強く吹き抜ける木枯らし。仰いだ景色があの頃のような底のない水面に見えなかったのは、背が伸びたせいではないだろう。
「思い出したくないことを引っ張り出すな」
「それはごめん」
規則正しい寝息を立て、熟睡している小さな赤ん坊。遠くの方でクマのぬいぐるみを抱えて落葉樹の下で戯れる黒髪の少女。二人きりの屋上からは想像できない光景が、いつしか見慣れたものになっていく。
「変わったねえ、色々」
「お前は変わんねえな。相変わらず胡散臭い」
「そうだけど、そうじゃなくて、なんて言えばいいかな……」
彼女の近況は把握している。けれど記憶の中の彼女と、今目の前にいる彼女との乖離が思いのほか自分を戸惑わせたらしい。それだけ時間が経っていたのだ。当たり前なのに。
「正直、もう会えないと思った」
「同意見」「でも会えた」「今にも吐きそう」「え?」「冗談」
過去に囚われ続けた自分も、彼女も。今は解放されたのかと聞かれたら多分違うと答えるだろう。けれどあの日々には決してもう戻れない。鎖の先はまだあの屋上に繋がっている。凝固したような空気の間に、無邪気な少女の笑い声だけはやけに響く。奇跡を繋いでくれた孤独で喧しい小娘は少しずつ暖かさを思い出させた。
「相馬、お前は今、自由か?」
臆病だから突き放した繋がり。形のない罪に迫られた日々。
同じようで違う疑問。今なら答えられるだろうか。何を言えば正解だろう。何を語ればこれが答えだと自信を持って言えるだろう。何を紡げば嘘にならないと自覚できるだろう。
「あいー」
パチリと、幼い赤ん坊は徐にまん丸い両目を開き、音にならない言葉を小さく上げた。
「やっぱり姫は賢いな、私に似て。青は藍より出でて藍より青し」
「え、なんて?」
「馬鹿に似なくて良かったな、姫」
「ぅえい」
「いや、これでも傷つくんですけど」
顔色一つ変えず、彼女はベンチから立ち上がる。丁寧に娘を抱え直す仕草、はしゃぐ少女を呼びかける少し優しさを孕んだ声。やはり彼女は変わった。カメラだけ構えて人々の生活を切り取ることしかできない自分だけが停滞している。
「近藤さん、さっきの質問だけど」
「いい。馬鹿の答えは聞きたくない」
「言わせてよ、馬鹿なりに必死に考えたから、ずっと」
「さぁ、姫、帰るよ」
「ぇう〜」
「……自由なわけないよね」
「でも、そんなに悪くない、と思う」
デジタルカメラから新型の一眼レフになった。盗撮の枚数がアルバムが出来るほどになった。近所の主婦の世間話から道端の小学生の噂まで、握っている秘密の数は学生時代の倍以上になった。そして、かけがえのない宝物ができた。他人との繋がりを大事に思うようになった。同じレンズ越しの景色でも、重みを持たない言葉を投げ続けても、鎖だと思った情の繋がりでも、今は全てが愛おしく思えた。
限りあるものの中に自由はある。だから今この瞬間がいつか消えるのではないかと、ぼんやりとした不安が付き纏う。何も怖がらないまま生きていくのは到底不可能で、だから誰もが自分を繋ぎ止める鎖が必要だった。
不安でいる限り、人は自由になれる。
小さなファミレスのキッチンから見える景色は、あの開放的な屋上よりずっと広かった。
「あ、いや、近藤さんと姫が大事じゃないってわけじゃなくて……俺が大事に思う資格はないっていうか、ってそんなの言い訳にならないよね、あれ?」
言葉を放ってようやく気付く、捨てた繋がりに向かって他に大事なものができたと、空気が読めないにも程がある。舌先三寸、また無意識にナイフを向けてしまった。いつものようにフライパンが飛んできてくれたら、どれほど楽になれるだろう。
「ダメ……だよね。やっぱりクソ野郎だ」
沈黙の背中に震えた声を投げたら、しばらく静寂が居座る。普段は些か煩いと思えた少女の声を探しに、ほんの少し遠くへと視線を飛ばそうとした。
「相馬、今度うちに来な。茶くらい出す」
「え?」
「……山田連れて」
「なんで!?」
「お前一人じゃ不安だから」
それだけ言い残して、暖かくも寂しさを感じさせる秋の景色がよく似合う二つの金色の後ろ姿は徐々に遠ざかっていく。心なしか彼女の口角は少し上がっていた。願望を込めた錯覚かもしれない。
けれど、僅かに残った懐かしい薄荷の匂いが、これは現実の延長であると何よりも教えてくれる。
人生でこれだけ緊張したことがあろうか。どんな危険な秘密を探るときでも、どんな命知らずな地雷を踏んでも、きっとここまで怯えてはいなかった。今なら同僚二人の気持ちが痛いほどわかる。いつだって思い通りにならないのは、好意を持った異性の前であることを。恋とか愛とか、そんな真っ当な関係性から外れた繋がりであったとしても。
訪問の土産に、縦に長い箱を差し出した。ぱっつんの少女は赤ん坊と仲睦まじく少し距離の離れたリビングで遊んでおり、何度も会話を交わした彼女の母親は現在夕飯の買い物中である。ダイニングテーブルを挟んで、まるで刑事に尋問を受ける犯人の如く畏まる。
「はい、これ。中身は万年筆」
「なるほど、離婚届にサインしろと」
「違うからね!? てか結婚もしてないからね!?」
「するのか? しないのか?」
「どっち!? 結婚の方なの? 離婚の方なの?」
「それはあれだ、お前次第ってやつだろ」
「確かにそうだね!」
使いこなしてきた弁舌が通用する相手ではなかった。彼女を前にして下手に出る以外の選択肢は存在しない。
ぶっきらぼうに箱を開けると、興味なさげの割にじいっと観察を続け、何やらやけに分厚い紙の束の上で試し書きもした。いらない紙だろうか。
「昔は何あげても断ったのに」
「貢がれるのは慣れてたからな」
「言い方。どうせ送ったお金も手付かずなんだろうけど」
「……これからはちゃんと姫に使う」
「……、それって」
疑問には答えず、何やら真面目な表情でつらつらと筆を滑らせた。何を書いているのかまでは読み取れないが、話題が話題なのでとにかく必死に沈黙を保った。
「これ裏側、私の卒論な」
「本当に何やってんの近藤さん」
「結構書き心地はいい。珍しく見る目あるな」
「修正液で今すぐ消して!」
こんな馬鹿みたいなやりとりを、彼女としたことがあっただろうか。あの頃のまま何一つ進みやしないと思い込んでいたら、とんでもなく遠回りして思いも寄らない場所に来てしまったらしい。
「なんで土産が、これなんだ?」
「そのままの意味だよ」
万年を贈るには、あの瞬きにも満たない時間は短すぎる。本物にもなれず、偽物とも言えないこんな中途半端な関係で、何が出来ると訊かれたらやはり口を噤んでしまう。だから、何かを永く書き記せるもの。だがそれは過去の文字でもなく、偽りに満ちた言葉でもなく──……。
「姫が大きくなったらあげてって、言おうとしてたんだけど」
「最近は株の計算とかしてるからな、いずれ必要になるんじゃねえの」
「そんなことしてるんだ、へぇー。シラナカッタナー」
もはやツッコミを入れる気力すら失せて、どこか脱力気味に声を挟んだ。なんだかんだ自分の周りの人間は個性的である。好みの女性を服従させるのが好きだった自分がこのザマとは、女王サマには敵わないということか。
ふと、リビングから騒がしい少女の声と赤ん坊の声がしなくなって、ソファの方へと視線を向けると、持っているスマホで静かかつ迅速にシャッターを切った。
「可愛いなぁ、俺の娘は」
「私の娘だよ、盗撮すんな。山田もいるし」
「山田さんを撮るわけないでしょ」
「どうだか」
「とてつもない信用の低さ」
この世のものとは思えない天使のような寝顔。これが目を覚ましたら株を買うものだから末恐ろしい。この景色を素直に宝物だと言えるには、積み重ねた罪と鎖は重すぎる。その分、未来はもうしばらく続くだろう。万年とは言わなくても、せめて取り逃したあの時間より一秒でも長く刻めるように。
あの群青は今この瞬間、此処まで続いている。
何かが書かれた一枚の紙が無造作に差し出される。彼女の卒業論文の一部なはずなのに、こんなぞんざいな扱いでいいのだろうか。
「お前の判決書」
「判決書って……婚姻届持ってこなかった自分の英断を褒めたい」
「持ってきたらすぐ追い出そうって考えてたからな。褒めてやろう」
『Life can only be understood backwards; but it must be lived forwards.』
「近藤さん、俺、読めないんだけど」
「要は大罪人、しかも終身刑ってやつだ、相馬博臣」