いちばん星 見つけた サボらずに最終時限まで出席した日、放課後が訪れると二条遥は決まって誰よりも早く教室を出る。
モタモタしていれば、違うクラスの弟・奏が『一緒に帰ろう』なんて気色の悪い言葉とともに押しかけて来るのが分かりきっているからだ。
奏のクラスの前を避けて、足早に昇降口へと向かう。その頃には愛用のヘッドホンで周りの声も音も遮断してしまうけれど、遥には連れ立って歩く友人はおろか挨拶を交わすような相手もいない。だから別に不便だと思ったことはなかった。
学校を出たら真っすぐシェアハウスに帰って部屋に籠るか、遅くまで寄り道をするのが習慣になっている。あるいは気乗りしない単発のバイトを入れる日もあり、これらは全て奏と顔を合わせる時間を極力少なくするのが目的だ。
ライブや練習でメンバー全員が揃う時は仕方ないとしても、それ以外で絡まれるのは真っ平だった。
今日は個人練習な上にバイトもない。となると選択肢は、真っすぐ帰るか寄り道していくかに絞られる。
(どうすっかな……)
とりあえず歩きながら遥は考えた。
このまま帰って惰眠を貪るのも悪くないが、そういえばギターの弦を新調したかったことを思い出す。それなら最寄りの楽器店を覗いていこうとひらめき、進路を定めた。
ところが他にも下校し始めた生徒が見えた途端、ぴたりと足が止まってしまう。
(あいつが来るかもしれない……)
『あいつ』とはもちろん奏のこと。
どういうわけか奏は遥の出先によく現れる。おそらく後をつけられたのだろうが、その度に遥は不快な思いをしてきた。
見つからずに学校を出てきた今、後をつけられているとは考えにくいけれど、立地を考えれば鉢合わせする可能性はゼロではない。
出くわした事態を想像するだけで、どうしようもなく苛立ってくる。
「チッ」
苦々しく舌打ちをして、遥は再び歩き出した。
と言っても、その足は楽器店とも帰り道とも全く別の方向に向かっている。他に行き先を思い付いたのではなく、この苛立ちを抱えたままで帰宅する気にはなれなかった。
いつにも増して陰鬱な気分でスマホを取り出すと、画面に表示されるのはまだまだ早い時刻。
どこか気を紛らわす場所が欲しくて、マップを開いてみる。
公園や書店、雑貨屋にカフェ。周辺スポットのウェブサイトをいくつも巡った末、とあるページに目が留まった。
(新規オープン、手作りアイス……)
それはアイスクリームショップのもので、トップを飾るバリエーションに富んだアイスの画像に遥の目は釘付けになった。
なにしろアイスは彼の好物。メニューのリンクを開くと、気を衒ったものではなく素材を活かしたオーソドックスなものたちが並んでいる。さらに、季節ごとに限定フレーバーを取り扱っているとか。
店の場所はここからバスでおよそ30分といった距離だが、それくらい離れたならさすがに奏と遭遇する心配はしなくて済むだろう。
しかもマップによれば、アイス屋の近くには楽器店まであるときた。
しばらく帰宅するつもりもない遥には、これ以上ないほど好条件。何の迷いもなく、早速そちら方面へのバス停を目指すことにした。
◆◆◆◆◆
バスに揺られながら、遥は目を瞑っている。眠っているわけではない。ただ瞼を閉じているだけだ。
着けっぱなしのヘッドホンは、相変わらず外部の音を遮断している。こうしていると周りの光景を何も感じられないが、そんなことなんてどうでもよかった。
目を開けていようと閉じていようと、どうせ同じなのだから。
試しに車窓を流れる景色を眺めてみても、案の定くだらない世界が広がるばかり。
気怠げなため息をつくと、もう一度瞼を閉ざした。
遥は世界に絶望している。
こうなった要因には、奏の存在があまりにも大きい。
双子の弟である奏は、幼い頃から何かと遥の真似をしたがった。習い事や勉強、何でも遥の後に続いた。
あらゆることをそつなくこなす弟は優秀な兄を追い抜き、家族も教師もクラスメイトも事あるごとに二人を比較しては奏を褒めそやす。残酷な現実に遥は傷つき、焦燥することが増えていった。
やがて遥がベースを始めれば、同じように奏も始めた。髪を染めてもピアスを開けても、やはり奏は真似をした。
双子と言っても当然違う個であるのに、これを許さないかのように奏は遥を追いかけ続けた。
けれど、周りに認められるのは奏の方。
選ばれるのも、いつだって奏の方だった。
真似て、邪魔して、壊して。奏は遥の好きなものや仲間たち、居場所さえもことごとく奪っていく。
遥はそんな弟に憎悪にも似た嫌悪感を抱くと同時に、他人とも関わることを避けるようになった。どうせ奪われるのなら、最初から遠ざけてしまえばいい、と。
遥の孤立は奏の画策であり、その行動原理は兄への深い深い愛である。
しかし、深過ぎる故に歪んだ愛情を遥が受け入れることはないだろう。どう足掻いても執拗に纏わりつくそれは、遥をひたすらに追い詰めるものでしかないのだ。
やっと手に入れた居場所たるバンドも今や「自分」を認めさせるための手段で、時には苦しさすら感じさせる。
どれだけ渇望しても満たされない日々を繰り返す内、遥の目に映る世界はいつしか無彩色のつまらないものになってしまった。
ただ、こんな世界の中でも少しくらい楽しみはある。
一人静かにアイスを食べたり、バンドを忘れて心ゆくまで音楽に触れたり。ほんの些細なことだが、この時間だけは遥の世界に色がつく。奏を筆頭に一癖も二癖もある面々と暮らす遥にとっては、心を安らげてくれる至福の時だ。
今まさにそんな楽しみの待つ場所へ近付いているとあって、先程の苛立ちが薄れてきているのがわかる。
到着まで、あともう少し。遥は目を瞑ったままバスに揺られ続けた。
◆◆◆◆◆
しばらくして、ある公園の東屋に遥の姿があった。手にはお目当てのアイスを持っている。
(うま……来て正解だったな)
傍から見れば普段の無愛想と変わりなくても、本人は至ってご満悦。
美味しいアイス屋と、そこから程近い大きな公園という個人的に最高なロケーションのおかげで、気分はすっかり晴れたらしい。
あちこちで騒ぐ子どもたちの声も、日頃自分を振り回すうるさい連中に比べればなんとも可愛いものに聞こえる。
一緒に過ごす友人がいなくても、遥はそれなりに一人の時間を謳歌していた。
ふと、何の憂いもなくアイスを味わうのは久しぶりだと気付く。
自室の冷凍庫にも常備しているものの、同居人たちが在宅していれば何かしらの邪魔が入り、落ち着いて食べられた記憶の方が少ない。
それに以前も気に入っていた店があったが、“ある日“を境にめっきり足が遠のいている。突然店内に現れた奏に、通っているのがバレた日からだ。
奏曰く『偶然』遥を見かけたそうだが、通学路から外れた店での遭遇はどうしても後をつけられた以外には考えられず、以降通う気など消え失せてしまった。
遥にしてみれば、これもまた居場所をひとつ奪われたようなもの。
「兄弟」や「同じバンドのメンバー」以上に共通項が増えるのを拒絶するほど、奏への憎しみは深い。
(くそっ、余計なこと思い出した……)
せっかく落ち着いていた心が再びささくれ立ってくる。
くしゃくしゃに丸めたコーンスリーブをポケットに突っ込み、代わりにスマホを手に取った。
もう一つの目的地、楽器店へのルートを調べると、この公園を入ってきた門とは反対の方へ抜けると近道のようだ。
新しい弦を吟味して気になったギターの試奏でもさせてもらえば、この鬱陶しい感情も多少は解消できるかもしれない、とわずかな望みが湧いて、さっさと向かおうと東屋を出る。
それから首のヘッドホンに触れようとした時──
「はるか、くん?」
不意に背後から声を掛けられた。遥をこんな風に呼ぶ人間は決して多くない。
訝しげに振り返ると、見知った顔がそこにあった。
「七星……」
「やっぱり遥くんだ! こんにちは!」
小走りに駆け寄ってくるのは“Argonavis“の七星蓮。
ふわふわと髪を揺らしながら無邪気な笑みを浮かべる姿は、遥より年上なのに幼い子どものようにも見える。
「こんな所でどうしたの?」
「別に──っ」
つい、いつもの調子で『あんたには関係ねえだろ』と言いかけて口を噤む。いくら機嫌が悪くても、会ったばかりの蓮に当たることはしたくなかった。
ただし相手が彼以外だったなら、突き放すか無視するくらいは平気でしていただろうが……。
「楽器屋に行くんだよ。じゃあな」
素っ気なく言って離れようとすると、蓮は何故だか後ろをついて来る。
「……なんだよ」
「楽器屋さんって、向こうの門を出た先にあるところでしょ? 僕、帰りの方向が同じだから途中まで一緒に行こう」
「は……?」
なんでそうなる、と疑問が脳裏を掠めるも、微笑む蓮を目の当たりにしては断る言葉もどこへやら。
「……好きにしろ」
ため息混じりな遥の返事に、蓮の笑顔が一層輝いた。
『あの楽器屋には自分も行ったことがある』とか『早めに講義が終わったから公園で歌の練習をしていた』とか、蓮は聞かれてもいないことを楽しげに話し、遥は言葉少なに相槌を打つ。
一見すると噛み合っていない二人は、並んで公園の中を進んだ。
蓮がボーカルを務めるArgonavisは、遥たち“εpsilonφ“と同じくLRフェスの出場バンドである。
出場する5組は拠点をそれぞれの地方から東京へと移し、フェス運営の用意したシェアハウスで暮らしている。運営側は音楽活動だけでなく、編入先の学校の手配からバイトの斡旋に至るまで、生活基盤をも幅広くサポートする。
そのためかメンバー同士が顔を合わせる機会は多く、二人もこれまでにバイト先が同じだったり、練習スタジオが隣だったりということが度々あった。
遥は積極的に他人と関わろうとしないし、蓮もコミュニケーションは苦手な性格。顔見知りとは言っても、本来なら肩を並べるなんてことはなかったはず。
それでもこうして一緒にいられるのは、彼らの好きなものが共通しているからだった。
二人が共通して好きなもの、それが特撮モノだ。
特撮も遥の世界を彩る要素のひとつ。当然のように話題も特撮のことへと移っていった。
遥は東京に来て間もなくの頃、「超夢宙閃隊スターファイブ」の主題歌を歌う蓮を見かけたことがある。
歌声に思わず聞き惚れていたところを見つかり短い会話を交わしたが、それだけでも蓮の熱量が凄まじかったのを覚えている。
そしてヒーローショーの会場へと赴いた際、“GYROAXIA“の旭那由多と曙涼を連れた彼に会ったのはいつだったか。
遥の所持グッズへの食いつきぶりと造詣の深さから伝わる特撮愛、さらに特撮を軽んじた那由多に揃って反論したことが、蓮を一目置く存在にした。
特撮を誰かと共有したいと思ったことはないのに、彼と盛り上がったのを嬉しく感じたのは本音だ。
片や蓮は引っ込み思案にも関わらず、特撮が絡むと驚くほど饒舌になる。
今みたいに遥が相手だと特に、マシンガントークに拍車がかかった。やはり同じものを好きなことが、心を早く開かせたのだろう。
しかしながら、バンドに加入するまで親しく話す者のいなかった蓮には語りに込める情熱のさじ加減が難しいようで、そろそろ独演会になろうとしている。
(よく喋るな……)
遥は止まらないおしゃべりに少し呆れたものの、不思議と『うるさい』とは思わなかった。
いつの間にか歩調も蓮に合わせていて、奏を振り切るために身についた早歩きの癖も完全に影を潜めている。
笑顔とまではいかないが、無意識に和らいだ表情がこの時間を心地良く思っている証だった。
他人を寄せつけたがらない遥だが、蓮のことを無下にする気にはなれなかった。
εpsilonφのボーカル・宇治川紫夕は、LRフェス出場者の中で最年少ながら才能に溢れた少年である。さらに愛らしい容姿とは裏腹に、戯れに他人の人生を破壊するような危険な面を持ち合わせていた。
紫夕は蓮がお気に入りで、やたらと『遊び』たがる。そのせいで遥の中でも、蓮は気に掛かる存在になった。
紫夕の目に余る行動を散々見て来たし、自身も常々振り回されているものだからシンパシーを抱いたのかもしれない。それとも自覚はないが、幼少期に置いてきたはずの“兄心“がそうさせるのか。
とにかく、気付けば蓮を放っておけなくなってしまった。
それになにより彼と顔を合わせる時間が嫌いではなかった。
蓮は良い意味で調子を狂わせてくれる。とりわけその笑顔を見ると、いつも重たく鬱屈した心が軽くなる気がした。打算や下心なんてものが全く無いとわかる人柄に、安心していられた。
そんな蓮が紫夕に狙われているのを知りながら、見て見ぬふりができるほど遥は非情になれない。
フェスで競う相手とは言え、特撮好きの同志だからだろうか。蓮の歌声が、スターファイブの主題歌を高らかに歌っていたあの声が、紫夕に壊されるのを見たくはなかった。
一方で、蓮を遠ざけようとする自分もいる。
なにせ自分が近付くことで、紫夕どころか奏という厄介者との接点をも与えかねないからだ。世界に絶望するほど奪われ続けてきた遥は、これがどれだけ危ういことかを身をもって知っている。蓮と自分の安寧を望むなら、親しくなることは得策ではないともわかっていた。
それなのに蓮を突き放すことがどうしてもできない。会う度にせめて素っ気ない態度を取ってはみるけれど、彼はそんなことお構いなしに、するりと心の中に入ってくる。結局心を許してしまう自分が腹立たしいのに、この時間を手放せない自分にも同じくらい戸惑った。
(俺といたって、ろくなことにならないのに……)
矛盾した思いを抱えながら言葉に出せないのは、蓮との時間に光を見出しているからかもしれない。
誰にも邪魔されないこの瞬間を少しでも長く感じていたくて、遥は蓮の歩調に合わせ続けた。
◆◆◆◆◆
公園を抜けた先の大通りは、夕方とあってか多くの学生や買い物客らしい通行人で賑わっていた。
この賑わいも遥にとってはただの雑音でしかなく、いつもであれば耳を塞いで通り過ぎてしまうのだが、今日は隣の弾む声以外何も耳に届かない。
その声の主は人混みが苦手なようで、すれ違う人を避けようしては意図しない方向に流されそうになっている。
遥は蓮を歩道の奥の方に追いやると、横を守るように歩く。さらに歩む速度を落とせば、蓮が流される心配はなくなった。
歩きやすくなったことに気付かない蓮は、今なお語りに夢中である。けれど感謝されたい訳でもないし、独演会の続きが聞けるなら遥にはなんでもよかった。
公園を出てから数百メートル。とある曲がり角に差し掛かったところで蓮が足を止める。
「それじゃあ僕、こっちだから行くね!」
「っ、……ああ」
出会った時点ですぐに別れることはわかっていたのに、いざその時が来るとなんとも言えない虚しさが込み上げてしまう。
この感情が『名残惜しい』ということは認めざるを得ない。
「今日は話せて楽しかった! またね、遥くん」
「……じゃあな」
引き止めようとするのをグッと飲み込んで遥が別れを口にすると、蓮はひらひらと手を振って背を向けた。
振り返すのは柄じゃないと、ポケットに突っ込んだ手をぎゅっと握りしめる。
一人になるや、蓮はよろよろと人混みに流され始めた。表情こそわからないが困惑した様子が見て取れて、遥の口元が思わず緩む。
本当はもっと話がしたいし、蓮のことももっと知りたいと思う。今から追いかけて、駅まで送ってやってもいい。
けれども紫夕に壊される恐怖と奏に奪われる不安が頭をよぎって、それ以上繋ぎ止める勇気が遥にはなかった。
離れていく背中を見送って、中途半端な未練を断ち切ろうとヘッドホンに指をかける。
すると突然、母親に何かを訴える子どもの声が耳を打った。
「お母さん、見て!」
普段なら気にもしないのに、この時は妙に気になって声の元を探すと、すぐ近くで女性の手を引いた子どもが空を指さしている。
「あら、一番星! よく見つけたね。夕方か明け方の短い時間にしか見えないのよ」
親子は立ち止まることなく通り過ぎたが、その嬉しそうな声色につられて遥も空を見上げてみた。
夜色に染まり始めた空に、一際輝く星がひとつ。
(星なんか見るのは久しぶりだな……)
しばらく見つめた後、地上に視線を戻してハッとする。
相変わらず苦戦しながら人混みを進む蓮の後ろ姿が、遠く離れた今でもはっきりと捉えられたからだ。
思い返せば公園から蓮と一緒に歩いてきた短い時間、遥の世界は色に満ちていた。それは特撮話のおかげだとばかり思っていたが、蓮がいたからこそ彩られていたのだと気付く。
別れてまた無彩色になった世界で、遥の目には蓮だけが色鮮やかに映った。
(七星と一緒にいれば、いつか満たされる時が来るんだろうか)
そんな考えが浮かんだけれど、すぐに乾いた笑いでかき消す。
どれだけ望んでも星が手に入らないように、この世は叶わないことで溢れていると、遥は嫌というほど思い知っていた。
それでも願わずにはいられなかった。
ほんの少し、あの一番星が見えている間だけでもいい。また何にも邪魔されず蓮とただ並ぶことができたなら──と。
蓮の姿が遠い雑踏の中に消えるまで、遥は一瞬たりとも目を離すことができなかった。