狐は鶏肉が好きエドモンドが苦々しい顔で「魔獣討伐に同行してほしい」とエイトに依頼を持ち掛けた。以前ならそれが人に物を頼む態度かと文句のひとつも言っただろうが、決して短くはない付き合いの中でエドモンドという男の人柄を大体は掌握している。騎士団の力だけでは解決に至らなかった。戦う術を持たないエイトを危険な任務に巻き込むことになった。その二点を歯痒く感じているがゆえの表情なのは明らかだ。だからエイトは、二つ返事で承諾する。自分と同様に剣も魔法も使えない人たちが、魔獣に襲われる事態は避けなければと考えて。
すぐに屋敷の主人であるエスターを始めとした面々に二、三日不在にする旨を伝えた。ついでに誰かに護衛を頼めないかと考えていれば、エイトが何かを言う前に八雲が森の案内と食事の準備を申し出てくれた。戦いでお役に立てるかどうかはわかりませんがと、冗談とも謙遜ともつかない言葉を添えて。初対面の日に驚異的な力を見せつけてくれた青年は、今や戦闘時はもちろん、エイトの心を癒やす意味でも頼もしい存在となっている。
エドモンドの他に八雲が来てくれるなら安心だろうと。安堵の溜息を吐き出したエイトの視界の片隅で、指先に藤の上に向かって弧を描く。
「僕もお手伝いしましょう」
「……いつの間に!?」
ラウンジの一角に、さっきまでいなかった妖狐の姿があった。屋敷の住人にとっては見慣れた光景らしく、エスターとモルフィスは「ずっとそこにいましたよ」と言わんばかりの顔をしている。エイトと八雲とエドモンドが驚きに硬直していることなどまったく気付いていない様子で(もちろん実際にはわかったうえで素知らぬ顔に徹している)、お目当ての魔獣の住処は知っていますよと、人のいい笑顔を浮かべて見せた。あくまでも表面的な善意に過ぎないのかもしれないが、妖狐の考えを常人が正しく汲み取れるなんて思い上がりもいいところだ。
それでも、強力な助っ人に変わりはない。無暗に森を歩き回らずに済むのならそれに越したことはないと。玖夜の協力を取り付けると、すぐに支度を済ませて森に向かった。理由はひとつ。気紛れな妖狐が「やっぱりやめます」と帰宅してしまう可能性を危惧してのことだ。
結論から言うと、エイトを始めとした面々の不安は杞憂に過ぎなかった。危険な植物が群生するエリアを通過するとか、あえて足場の悪い道を選ぶといった趣味の悪さを発揮することなく、一行を目的地に送り届けて。さらには暴走した魔獣討伐にも参加して、「これで森が静かになります」と、淡々とした調子で締めくくった。やるべきことは終わったと言わんばかりの表情で。
空はオレンジ色に染まっていて、つまりは夕方の時間帯で、その気になればエスター邸に帰って温かい食事とふかふかのベッドを堪能することも決して不可能ではない。しかし誰も戻ろうとは言わなかった。開けた場所に出ると、エドモンドが当然のように野営の準備に取り掛かり、八雲はどこからか愛用の包丁を取り出すと、エイトに「見ないでくださいね」と心配そうに声をかけた。
まるで申し合わせたように息の合った連携だったが、八雲とエドモンドの間でこれという会話は交わされなかった。ただ、目配せをしただけだ。森に入る前に玖夜が呟いた「そういえば、今日は僕の誕生日なんですよ」という言葉を耳にした瞬間に。それから、魔獣を目掛けて放たれた玖夜の広範囲に渡る攻撃が上空を通過した一羽の鳥を撃ち落とした瞬間に。
『狐は鶏肉が好き』というのは、エイトとエドモンドの頭の片隅に存在する共通認識である。玖夜の手によってエドモンドのもとに送り届けられた密猟者のひとりが譫言のように繰り返していた信憑性に乏しい情報ではあるのだが。
不幸な事故か、あるいは恣意的なものなのか。それさえ判断つかないが、奇しくもエイトたちの手元には丸々と肥えた鶏肉がある。背後から聞こえる羽をむしる音、それから肉や骨を断つ音を意識の外に追いやりながら、エイトは頭上に目を向けた。
空はすっかり暗くなっている。大きな木の枝葉に遮られて月の位置はわからなかったが、微かな明かりに照らされた妖狐の姿はかろうじて見て取れた。
今この瞬間、ひとりでどんな顔をしているのか。そもそも何を思って誕生日だと言い出したのか。みずから空を飛ぶ鳥の急所を狙ってでも自分たちを引き止めたかったのだろうか。エイトの物差しで考えれば考えるほど、答えが遠ざかっていく気がする。大勢に賑やかに祝われたいなら、エスター邸に戻るべきだった。美味しい食事と酒にありつきたいならなおのこと。八雲の手料理は確かに絶品だが、持ってきた食材と現地調達した鳥の肉だけでは豪華な食卓にはならないだろうに。
それでも、しばらくすれば食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。様々な香辛料が織りなす、獣の嗅覚にはそぐわない匂いが。かねてからそうであるように、美しい男の姿をした妖狐はそれを好ましく感じるらしく。
「そろそろ食事の時間ですか?」
「……なんだ、気付いてたのか」
玖夜の色違いの瞳に、困惑気味な表情が映る。視線ひとつ交わらなくとも、玖夜はエイトがそこにいると正しく認識していた。彼が自分についていろいろと考えを巡らせているということも。ときに意外な鋭さを発揮するが、今日は見当違いな想像ばかりしていたに違いない。玖夜はそう確信している。誕生日だと話題にしたことに特別な意味はない。「今日は晴れている」「そこにリスがいる」と口にするのと同様に、ただ事実を述べただけだ。
誕生日なんてものを特別視するのは、人間が脆弱で短命な生き物だからだろうか。すでに長い年月を生きていた、この先も気が遠くなりそうな歳月を生きていくであろう玖夜の感覚からすると、人間が毎週、あるいは毎日のように誕生日を祝っているようなものだ。
それでも、今夜の寝床を整えたり食卓の準備をしたりするエドモンドを見ていると、限られた食材で少しでも夕食を豪華にしようと奮闘する八雲を見ていると、自分は何をすればいいのかと途方に暮れるエイトを見ていると。悪くない、と思えてしまう。もう何度目かもわからない誕生日に、人間が思うような意味を持たせてやってもいいと。
「……なあ、何か欲しい物とかあるのか?」
「おや、なんですか急に」
「プレゼントだよ! 俺だけ何もしてないからさ」
あまり高い物は買えないし、入手困難なレア物を手に入れて来いなんて言われても困っちまうけど。だんだん尻すぼみになっていく声は、狐の耳でなければ聞き取れなかったに違いない。
「……では、エイトさん。僕を楽しませてくれますか?」
「え?」
「いい顔を見せて、いい声を聞かせてください」
「……それって」
一方は木のうえ、一方は地上に引き留められたまま。それほどの距離があっても、さらには夜の森の中であってもわかるほど、エイトの顔は赤くなっていた。ほんのわずかな羞恥に、それを上回る期待に。想定通りの反応をつまらなく思う心とは裏腹に、玖夜の唇は満足げな笑みを象った。
「……エイトさんもまんざらではないようですね。では、あとで」
「あとで……って、今日する気かよ!?」
「ええ。彼らの見ている前で」
それはやだ、絶対無理。エイトがひたすら否定の言葉を紡ぐ中、朗らかな声が聞こえてきた。玖夜さん、エイトさん、ごはんの準備が出来ましたよ。焚火からは少し距離を置いた場所で密談するふたりを呼ぶ声は、今日だけは主役となる妖狐を優先した。
「ほら、行きますよ」
「は、ぁ……嘘だろ」
枝から飛び降りて、逃げようとするエイトの腰を意味ありげに強く抱き寄せて。ふたりが待つ食卓に向かって足を進めるたびに、エイトの顔色は悪くなっていく。赤々と燃える焚き火の炎にどんどん近付いているというのに。
そして焚き火を囲んでの食事中。パチパチと火花が弾ける音に、エドモンドがごくりと喉を鳴らす音が、八雲が驚きに息を呑む音が、エイトの震える声が重なる。誰もが玖夜から目を逸らせずにいた。
香辛料たっぷりのタレに漬け込んで焼かれた鶏肉が、次々となくなっていく。本来残るはずの骨ごとすべて、粉々に噛み砕かれて、咀嚼されて、玖夜の胃の中に消えていく。やがてはどろどろに溶かして、みずからの血肉にするのだと。
視線の先にいる男に──エイトに見せつけている。それと同時に問いかけてもいる。
みずからの牙で簡単にエイトを噛み殺せる事実を。それでも心に思い浮かべた通りのプレゼントやらを、目の前に差し出してくれるのかと。
2022.05.22