be filled with you寝苦しさに耐えかねて、広いベッドのうえで寝返りを打つこと十数回。じわじわと身体を蝕む暑さから逃れたがる欲求と、もう少し寝ていたいと訴える本能はしばらく拮抗していたが、日が高くなっていくにつれて天秤は前者に傾いた。
「……暑い」
エイトがあからさまにゲンナリした表情で発した声は普段より低く掠れている。寝起きだからというのも理由の一つではあるのだが、根本的な原因は思いきり揺さぶられて声が涸れるまで喘がされた昨夜の情事なのは明らかだった。。
言葉通り腰が立たなくなるまでエイトを抱き潰した男──エンテンの姿はすでにない。彼がエイトより早く目を覚ますのも、ひとりベッドを抜け出すのもいつものことだ。そのうちの何度かは、お気に入りの椅子に腰かけて、報告書に目を通す振りを装ってエイトの寝姿を盗み見ていたものだが。
今日は部屋中に視線を巡らせても、燃えるように赤い髪を持つ男の姿は見当たらない。サイドテーブルに置かれている水差しは、昨夜の時点ではなかったものだ。中にはまだ貴重な氷が残っている。恐らくは、エンテンが誰かに命じて持って来させたあと、目につきやすい場所に置いてくれたのだろう。
一連の行動が目に浮かんでくるかのようだ。普段はなんでも使用人にやらせるのに、自分がまだ眠っているから、ただそれだけの理由でエンテンは他の誰も部屋の中に入れなかったのだと。根拠はなくても確信できる程度には、エイトはエンテンという人間を理解していた。
知り合ってすぐの時点では嫌悪感を前面に押し出していたが、最近は「いいところもあるんだよな」と素直に認めている。あくまでもひとりでいるときに限っての話で、エンテンを前にすると自然と喧嘩腰になりがちなのだが。
そして今朝は、エンテンがいないにも関わらず不機嫌になっている。面白くないのだ。ひとり部屋に取り残された事実が。手ずからグラスに注いだ冷たい水をごくごくと飲み干しながら、あいつは俺を置いてどこに行ったのだと腹を立てている。
眠っているエイトを見つめる穏やかな眼差しも、エイトが目を覚ますと同時にわかりやすく顔を背けるシャイなところも、わりと嫌いではないのに。ときにエンテンが垣間見せる可愛げを味わえなかった事実を思いのほか悔しがっている現状に、他でもないエイト自身が並々ならぬ戸惑いを覚えている。
身支度を整えて部屋の外に出る。広い屋敷の間取りも、知らぬ間にだいぶ覚えてしまった。ひとりでも通い慣れたラウンジに到着できるだろうが、屋敷の主の部屋には貴重品も数多く存在するはずだ。施錠せずに離れてしまうのはまずいかもしれないと、廊下で立ち往生することしばらく。パタパタという足音に背後を振り返れば、顔馴染みの少年執事──ジェロが慌てた様子で駆け寄ってくる様子が見えた。
「エイト様! もう起きていらしたんですね」
「おはよう、執事さん。もしかして俺を迎えに来たのか?」
頭の回転の速い少年は、エイトが佇んでいた理由を瞬時に見抜いたらしい。遅くなって申し訳ありませんと謝罪すると、すぐさま部屋の扉に鍵をかけた。
「朝食の準備はできています」
「ああ、ありがとう」
ジェロの言葉に応じる声はだいぶ沈んだ調子で、その事実にエイトはすでに数回目となる大きな衝撃を受けている。これじゃまるで俺が寂しがっているみたいじゃないか。胸に浮かんだ言葉を声には出さなかった。しかしジェロは、エイトの本音を耳聡く拾い上げたかのように、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑顔を見せた。
「申し訳ありません。夕方から行われるはずだった会談が前倒しになってしまって……エンテン様は当初の予定通りに開始すると譲らなかったのですが」
「…………そうか」
多忙を極めるエンテンと実際に会って話すには、事前にアポイントメントを取るのが必須となる。かつてはエイトもエスターに手紙を送ってもらうところから始まって、しっかりと手順を踏んでいた。そして定期的に顔を合わせるようになった今も、仕事、つまり祭壇の調整を始めとした大魔法使いの役目を果たす目的で訪問するときは、既存のルールに従っている。いかなる場合も例外を作ることを好まない彼が折れたことを踏まえると、本日行われる会談はエンテン、ひいては太陽の都にとって重要な意味があるに違いない。
それでもすぐには応じなかったのは、自分が来ているからだろうか。エイトの想像は、決して自惚れや思い上がりではない。そもそも今回の訪問自体が私的なもので、さらに言えば事前の連絡もしていなかった。たまには顔を見に行ってやるかと思い立って足を運んだはいいが、タイミングが悪ければすれ違いに終わった可能性もある。そうならなかったのは、エンテンが貴重なプライベートの時間を丸ごとエイトに明け渡したからに他ならない。
──会談の前倒しを渋ったのは、もう少し俺と一緒にいたかったから?
エイトの頭の中は、そのことで占められていた。エンテンの本音が気になりすぎて、豪華な朝食の味もまったくと言っていいほどわからない。ひとつ確かなのは、このまま一言も交わさずにエンテンの屋敷を去らなければいけないということだ。
「エイト様、帰りの馬車が到着しました」
「ありがとう、助かるよ」
いつもなら「私も出掛ける用事がある。ついでに途中まで送ってあげよう」なんて言い張るエンテンと一緒にしばらく馬車に揺られる流れだ。別れ際までああでもない、こうでもないと口論じみたやり取りを交わした記憶を反芻しながら、エイトがひとり馬車に乗り込もうとしたときだった。
「エイト!」
よく通る声が耳に届いてきた。車体に片足をかけた状態で背後を振り返れば、目覚めてからずっと頭に思い浮かべていた人物が近付いてくるところだった。会談の準備を途中で抜けてきたのだろうか。いつも堂々としているエンテンが、珍しく慌てた様子を見せている。謝罪の、あるいは気の利いた言葉のひとつもかけてくれるのかと思ったが、実際にはエイトの顔のすぐ横にエンテンの手が伸びてきて。
シャッと、エイトの耳元で乾いた音がする。視界がカーテンに遮られた次の瞬間には、唇同士が重なった。柔らかな弾力が一瞬だけ触れてすぐに離れる。そしてエンテンが強い力でエイトの身体を押しやると、その身体はどさりと音を立て、敷物のうえに転がった。
「出せ」
エンテンの声に、扉が閉まる音が重なる。客人が体勢を整えるまで待つことなく雇い主の命令に従った車夫の手によって、馬車がゆっくりと走り出す。この先の決して短くない道程を思ったら、エイトは早々に座席に腰を落ち着けるべきだった。
しかし彼は今、とても冷静ではいられない。照れくさくて居た堪れなくて、この場で暴れ出したい気分だ。車体に防音魔法が施されているのをいいことに、大声で喚き散らしたくもなっている。実際は敷物のうえで抱え込んだ膝に顔を埋めて、いっそかわいそうなほど大人しくしているのだが。
「なんだよあれ……行ってらっしゃいのちゅーでもあるまいし」
思わず口に出していた言葉で、みずから墓穴を掘っている。どうかしている。エンテンの屋敷は自分の家ではないのに、「行ってらっしゃいのキス」みたいだと認識してしまうなんて。
そもそもキスどころかセックスだって何度もしているのに、どうしてこんなにも気恥ずかしくて、胸のあたりがむず痒くて仕方ないのか。
深呼吸をしても、別のことを考えようとしても、唇に触れた心地良い弾力も、扉が閉まる直前に垣間見た赤くなった顔も、エイトの頭から離れてはくれない。けれども朝からずっと感じていた苛立ちや寂しさといった類の感情は、完全に鳴りを潜めていた。
2022.05.23