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    エリンギ猫

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    エリンギ猫

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    ‪🌱‬の怖いもののお話。🏛‪🌱‬健全です。

    いのちの音「お前に怖いものなんてないんだろうな」
    そう言ったのは誰だっただろうか。
    名前も顔も、いつ、どこで言われたのかも。何一つとして思い出せない。遠い過去のような気もするし、つい最近の出来ごとのような気もする。
    酷く曖昧で、あまりにも朧気で、掴もうとしても指の間からすり抜けていく霧のよう。もしかすると他人からの言葉ではなく、己の頭の中で作り上げられただけの、あるはずも無い記憶なのかもしれない。
    はたまた何処かの本でたまたま読んだものなのかも。
    考えてみても、分からない。
    それなのに、そんな言葉だけが、まるで喉に刺さった魚の小骨のように引っかかって取れやしないのだ。

    ◇◇◇

    ぽつり。鼻の頭に僅かな水滴が当たる。
    重たい前髪の隙間から空を見上げるが、今にも泣き出してしまいそうな灰色の空は朝から少しも変わっていない。
    脇に抱えていた本を上着で包み、少しでも濡れてしまわないよう懐に抱く。そうしている間にも、ぽつりぽつりと落ちてくる水滴はその数を増やす。
    周りから聞こえてくる「傘を持ってて良かった」「早く帰ろう」などという声が、アルハイゼンの背を追い越していく。
    連れられるようにふらりと足を踏み出せば、冷たい水滴が頬を伝い落ちる。
    一歩、また一歩と進む度に、降り落ちる雨は強くなっていくばかり。
    傘を忘れた慌てる人々が水飛沫を上げながら横を駆けていくが、それに倣うでもなく、いつもと同じ歩幅と速度でいつもの道を進む。じきに見えてくる玄関を開け、家の中へと身を滑り込ませる。

    「おかえり……って、ずぶ濡れじゃないか!?そこでちょっと待ってろ!」

    カーヴェがギョッと目を見開いて、手に持っていたスケッチブックやペンを放り投げると慌てた様子で立ち上がる。
    そうしてアルハイゼンの全身を確かめ、ヘッドホン越しにもはっきりと聞こえるカーヴェのよく通る声が離れていき、すぐにバタバタと慌ただしい足音が帰ってくる。

    「はい、お待たせ」

    バスタオルを頭に乗せられ、カーヴェの大きな手のひらがわしゃわしゃと髪を掻き混ぜる。
    目敏く脇に抱えてたままだった本に気が付いたカーヴェが、サッとそれを奪うとリビングテーブルの上へと積む。
    いつもであれば「まだ読みかけの本があるじゃないか!」「誰が片付けると思っているんだ!」などと喚き立てるのだが、ひょっこりとアルハイゼンの瞳を覗き込んだカーヴェは笑みを浮かべ、頬を伝う水滴を優しく指先で拭った。

    「そんなに濡れてたら寒いだろう?先にお風呂へ入っておいで」

    「……ああ」

    カーヴェに背を押されるまま、ゆっくりと浴室へと足を向ける。雨を吸って重たい仕事着は適当に床へ落として、肌寒さにふるりと小さく震える。
    浴室のコルクを捻り、温かい湯を頭から被る。ざあざあとシャワーの水滴がタイルを叩く音と雨粒が窓を叩く音が重なり、頭の中で反響する。
    咄嗟に両手で耳を押えるが、そんなことなど関係なく音は頭の中へ響いてくる。
    頭いっぱいに雨の音が埋まっていく中で、ふと、雑音に混じった微かな歌声が。
    鼻歌混じりのその声は優しく、伸びやかで、あたたかい。
    不思議と身体から力が抜けて、あれだけ反響していた雨音は遠く、カーヴェの鼻歌だけが頭の中を占めていく。
    それはアルハイゼンが聞いた事のない歌だったり、よく覚えていないのかほにゃほにゃと言語になっていない歌だったり。
    思わず小さく笑ってしまう。
    ご機嫌な鼻歌は、近付いたり遠ざかったりと忙しない。
    アルハイゼンはその声に耳を傾けながら、手早く全身を清めると、乳白色の湯に肩までゆっくりと浸かる。
    冷え切っていた身体にじんわりと沁みる温かさは心地良く、思わず吐息が漏らし、引き寄せた自分の足に頬をつけた。瞼を閉じて、カーヴェの鼻歌を追いかける。

    ぴちゃん、ちゃぷん。湯の揺れる音と水滴の滴り落ちる音、そうしてカーヴェの鼻歌がアルハイゼンの心を穏やかに宥めてくれる。
    今まで何も感じなかったのに、急にアルハイゼンの胃袋がきゅるきゅると音を立てて空腹を訴える。一度意識してしまえば空腹感は強くなるばかり。
    きっとカーヴェが何かしらを用意してくれているだろう。
    ゆっくりと立ち上がり浴室の扉を開けると、アルハイゼンが適当に脱ぎ捨てた服は部屋の隅にあるカゴの中へ入れられていた。
    洗面台に置かれていた部屋着に袖を通し、首からタオルを下げたまま、カーヴェの姿を探してリビングルームへ。家の中に広がる食欲を刺激する良い香りに、アルハイゼンの胃袋から、またしてもきゅるると音が鳴る。
    ひょっこりとリビングルームへ顔を出せば、二人分の料理が並べられた机の前でカーヴェが鼻歌を口ずさんでいる。
    その手の中には変わらずスケッチブックが握られていて、澱みなく動く右手は綺麗な線を描いていた。
    吸い寄せられるようにカーヴェの隣へ腰掛けて、肩に頭を乗せ、スケッチブックの中を覗き込んだ。

    「む、まだ濡れてるじゃないか。せっかく綺麗な髪なんだからちゃんと手入れをしろっていつも言ってるだろう」

    「面倒だ」

    「ったく……仕方ないな」

    呆れたように笑って、カーヴェがタオルを手に取るとアルハイゼンの髪を優しく掻き混ぜる。
    ――だって、自分でやらなくても、カーヴェがやってくれるから。
    アルハイゼンは自身の容姿にあまり頓着しない。そのかわり気にしいな恋人が、あれやこれやと手を尽くしてくれる。毎日のようにせっせと髪に香油をつけられ、肌には何やら保湿成分の含まれたティナリ手製のクリームを塗られる。
    そうしてぴかぴかに磨き上げられたアルハイゼンを、いっそ芸術作品を愛でるかのように、カーヴェは満足そうに眺めている。
    適当に拭っただけの髪は未だしっとりと濡れていて、カーヴェの指が髪を梳く度に小さな水滴が落ちていく。
    ぼんやりと開かれたスケッチブックを眺めていれば、おもむろにカーヴェが左手を伸ばして机の上にあるピタを掴む。
    それなのに自分が食べるでもなく、掴んだピタをアルハイゼンの口元へと差し出す。
    食べろ、ということらしい。
    差し出されているピタとカーヴェを何度か交互に見やって、仕方なしに大人しく口を開いてかぶりつく。
    瑞々しいレタスと甘いトマト、カリカリになるまで焼かれた厚いベーコンは程よい塩気で、カーヴェお気に入りのチーズソースが中には掛けられている。
    相変わらず料理の腕がいい。とても美味しい。
    もぐもぐと咀嚼しているアルハイゼンの食べかけに、カーヴェが迷うことなく齧り付き、またアルハイゼンの口元へ差し出す。
    その間も止まることの無い右手は建物の材質や装飾、どこから日が当たり、どうやって風が抜けていくのか……そんなことまで走り書きを増やしていく。
    綺麗な家だと思った。きっと温かくて、笑顔の絶えない幸せが詰まった家なんだろう。それはおそらくカーヴェの理想で、いつか必ず叶えられる夢だ。
    ……そこに自分が居るかは、分からないけれど。

    「アルハイゼン、ぼーっとしてないで早く口を開けて」

    「……うん」

    あ、と口を開いて、一口また一口と差し出されるままにピタを胃袋に収めていく。テーブルの上へ視線を向ければ、ビリヤニや、デザートであろうデーツナンが。
    いつもであればぺろりと平らげて珈琲でも啜っていることだろう。

    「ちょっと待ってて。手を洗ってくる」

    そう言いおいてカーヴェが立ち上がる。咄嗟にその腕を掴もうとして、持ち上げかけた手を慌てて引っ込める。
    カーヴェは気が付いているのか分からないが、汚れていない方の手でアルハイゼンの髪をくしゃりと掻き混ぜて行った。
    じっと待っていれば、なにやらカーヴェが両手にマグカップを携えて戻ってくる。

    「はい。お待たせ」

    差し出されたマグカップを、そっと両手で受け取る。優しく甘い香りがする中身はどうやらホットミルクのようだ。
    ちらりと隣のカーヴェを盗み見ると、アルハイゼンのものとは違って黒い液体がなみなみと注がれている。
    どうして自身のマグカップの中身だけホットミルクなのか。
    首を傾げながらもゆっくりと啜る。

    「それ飲んだら寝た方がいい」

    「え、?」

    きょとりと目を見開くアルハイゼンに、カーヴェが困ったように頬笑みを浮かべる。まだテーブルの上には料理が残っているのに何を言っているのだろうか。
    せっかくカーヴェが作ってくれた物を残したくは無いのだけど。

    「君、そんなに食欲ないだろう?」

    「そんなこと、は」

    「無理しなくていい。明日の朝にでも食べればいいさ」

    隣から伸びてきた手が優しく髪を掻き混ぜる。別に無理をしているわけでは無いのだけど、用意した本人がそう言うのなら大人しく従おう。
    実際のところ、あまり食が進まないのは本当のことだ。
    暖かなミルクはほのかに甘くて、遠く記憶の隅に追いやられた在りし日を思い起こさせる。
    いつの間にか随分とシワの増えた柔らかな手が、ティースプーンに一杯分の蜂蜜を溶かしてくれていた。
    ……同じ味が、する。

    「…………はちみつ」

    ぽつりと呟いたアルハイゼンの言葉を、丁寧に拾い上げたカーヴェが「少し甘い方が好きだろう?」と小さく笑う。
    その言葉に、はて、と首を傾げる。自分はカーヴェに教えたことがあっただろうか。
    普段はカーヴェと同じように珈琲を飲むことが多いのに、ホットミルクを……しかも蜂蜜を入れているところを、自分はいつの間に見せたのだろうか。
    水彩画のように滲んでしまった遠い昔と同じように、隣の温もりへもたれ掛かり、優しい味のするミルクをゆっくりと啜る。
    熱すぎずぬる過ぎず、ちょうどいい温度で、熱いものが苦手なアルハイゼンでも飲みやすい。こくりこくり、とマグカップの中身を飲み干して息をつく。

    「ごちそうさま」

    「ん、口濯いで大人しく寝るんだぞ」

    「君は?」

    「片付けてシャワーを浴びたら僕も寝るよ」

    そう言って、カーヴェがアルハイゼンの手から空になったマグカップを抜き取り、早く寝ろとでも言うように頭を撫でる。
    もう少しだけ一緒にいたい、と言いたくて、ちらりとカーヴェを見上げるが何も言えずに口ごもってしまう。首を傾げてアルハイゼンの言葉を待つカーヴェに「なんでもない」と頭を振り立ち上がった。

    「おやすみ」

    「おやすみ、アルハイゼン」

    就寝の挨拶を交わして言い付けられた通りに口を濯ぎ、自室へ真っ直ぐに戻る。暗い部屋の中、手探りで枕元のランプの明かりを灯す。
    橙色の光がぼんやりと辺りを小さく照らしてくれる。枕元に置いたままにしていた本を手に取り、枕を背もたれ代わりにして本を開く。
    いつものように文字を目で追うが、頭に言葉が入ってこない。あまりに目が滑るせいで、自分が何を読んでいて、この本に何が書いてあるのかが分からない。
    大きくため息を吐き出し、静かに本を閉じる。注力が散漫すぎる。文章として脳が理解をしてくれず、どこか絵や写真を見ているかのようだった。
    潔く諦めると布団の中へと潜り込み、枕元のランプを消す。冷たく広いベッドの上、足を引き寄せて背を丸める。
    あまり、眠くは無い。
    明日は休みなので焦って眠る必要は無いけれど、眠気が訪れる気配がないのは些か気持ちが悪い。ぎゅう、と目を固く閉じて、頭まで布団を被り、眠気が訪れるのをひたすらに待った。

    ◇◇◇◇

    小さな箱の中に人が寝そべっている。何処からか鼻をすする音と、噛み殺しきれない嗚咽が漏れていた。
    色とりどりの花に囲まれたその人は、パッと見ただけでは眠っているようにしか見えない。
    そっと伸ばした手で頬に触れるが冷たく、硬い。
    はくり、と喉を震わせて名を呼ぶのに、固く閉じられた瞼は持ち上がらない。
    いつものように、笑って怒って泣いて、名前を呼んで欲しいのに。目の前にあるのはただの空っぽの器だけ。
    それはまるで陶磁器で出来た精巧な人形のようだ。
    呆然と立ち尽くすことしか出来ない自分の前で、ゆっくりと蓋が被せられた瞬間に……意識が覚醒した。

    「ッ……!」

    真っ先に目に映ったのは真っ白なシーツで、心臓は痛いくらいに暴れていて、嫌な汗が全身から吹きでていた。
    目の前がぐるぐると回っているかのような酩酊感と、脳裏にこびり付いて離れない夢の中身が、現実と夢の区別を危うくさせる。静かな部屋の中に、荒い呼吸を繰り返す自身の喉から漏れる音だけが響いていた。
    胸の奥からにじり寄ってくる悪寒にも似た不安に突き動かされ、ゆっくりと起き上がり部屋を出る。黒一色に塗り潰されている廊下を壁に手を付きながら歩き、カーヴェの部屋の扉を押し開けた。

    窓から射し込む微かな月明かりが、こんもりと山になっているシーツを照らし出している。ふらふらとベッドの脇へ寄り、小さく震える指先でカーヴェの頬へ触れる。
    ――あたたかくて、やわらかい。
    途端に曖昧だった意識が現実へ引き戻される。すうすうと心地よさそうに眠っているカーヴェの寝息が聞こえてきて、身体から力が抜けてしまった。
    ぺたりと床に尻をつけ、目の前の柔らかなベッドに頭を乗せる。
    へたり込んだ時にサイドテーブルに足を軽くぶつけてしまい、静かな部屋の中では小さな音でさえ、やけに大きく響いたように感じた。

    「ん、ぅ……?」

    閉じられていたカーヴェの瞼が震える。ゆっくりと顔を見せた宝石のような赤い瞳は、未だ眠そうにぼんやりとしている。
    何度か瞬きをすると視線がアルハイゼンの方へ向けられる。
    こんな夜中に自分のベッドの横で座り込み、頭を乗せてじっと見詰められているのだから、当然カーヴェは悲鳴を上げて飛び起きると思った。
    カーヴェのことだから「こんな時間になにをしているんだ」「早く自分の部屋に帰れ」と言うだろうな、とも。
    こればかりは自分の奇行に非があるとろくに回らない頭でも理解している。何を言われても仕方がない。
    しかしそんなアルハイゼンの予想は大きく外れた。

    「……あるはいぜん」

    とろりとした甘さを多分に含んだ優しい声で、カーヴェがアルハイゼンの名を呼ぶ。その声の優しさに、何故か胸の奥がきゅうと痛んで、アルハイゼンはわずかに息を詰めた。
    カーヴェが呼んでいるのだから、返事をしなければいけないのに。声が喉に張り付いてしまったかのように、か細い息しか出てこない。
    膝の上に投げ出した手の平を硬く握りしめて唇を噛む。
    ――夢だと、分かっているのに。
    アルハイゼンが何も言えないでいると、シーツの隙間から手が伸ばされ、そっと頭を撫でられる。
    髪を掻き混ぜ、二度、三度と優しく頭を叩かれ、ざわついていた心が不思議と穏やかになっていく。
    ふわりと微笑んだカーヴェがもぞもぞとベッドの上で動き、僅かなスペースを作ると自身の隣を手で叩く。
    カーヴェと叩かれるシーツを交互に見やって、誘われるままその隣へ潜り込めば、途端に力強く抱き締められる。

    「からだ、冷やしすぎだ。ばか」

    カーヴェの体温がじんわりと染み込んでいく。その時に初めて、アルハイゼンは自身の身体がびっくりするくらい冷たくなっていたことに気が付いた。
    寝ている時にかいた汗が冷えたせいで体温を奪われていたのだとすぐに気が付く。きっとカーヴェからすればアルハイゼンの身体は冷たくて仕方がないことだろう。
    それなのに抱き締める腕の力は強くなるばかりで弱まることは無い。
    ぴったりと触れているカーヴェの温もりで、知らず知らずのうちに強ばっていた身体から力が抜けていく。ほう、と息をついて、カーヴェの胸に額を擦り付け、伸ばした両手で自分からも同じだけ強く抱きしめる。
    匂いも、温もりも、名前を呼んでくれる優しい声も。全部ちゃんとここにある。

    「……また、うなされた?」

    酷く心配そうな声に小さく頷けば、抱き締める腕に力が込められる。僅かに顔を逸らせて耳を目の前の胸にピタリとくっ付けて目を閉じた。
    とくん、とくん、と規則正しく穏やかな鼓動が優しく鼓膜を揺する。
    ――生きている音がする。
    胸の中にこびりついていた泥のような焦燥感がゆっくりと解け、代わりに暖かく優しいもので満たされていく。安心した途端眠気が足元から這い上がってきた。
    薄れていく意識の中、カーヴェの優しい声が聞こえた気がして。……返事は明日の朝、目が覚めた時に伝えよう。
    アルハイゼンは、ゆっくりと意識を微睡みに投げ出した。
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