爪先を溶かす 雪解けの春、三月。もう時期新芽が生え揃う穏やかな気候は、大型低気圧の影響か崩れるに崩れザアザアと連日雨が降り続いていた。雨霰、増して雪。雪解けなど、春告など忘れたかの様に積もっていく。橘桔平は、大きな窓からそれをぼうっと眺めていた。
部屋の中から見える漆黒と揺れる牡丹雪。稼働音を鳴らしながらも、外気の低さからちっとも温まらないエアコンの風……。何が特にある訳でもないが、漆黒の闇が不動峰のジャージを思わせた。あの輝かしくも熱いあの日々は、大人になった今になっても忘れることの無い永遠だと橘は思う。
「桔平、寒かけんカーテン」
「千歳帰ってきとったんか、悪か」
さっきまで、確かに一人きりだったのに気配の一つもなく現れた千歳千里に橘は驚きの一つも見せずに言った。長年の付き合い、とも言えるし橘にとっても千歳にとってもこのなんとも言えない距離感こそが日常でもある。
「寒か」
「エアコンが効かんね」
「カーテン閉めんと、窓見とったから」
「関係なか、外気の問題ばい」
テニスを辞めて数年、大人になった千歳と橘は東京という土地で二人が暮らすに十分な家を借りた。出会いから交際に至った経緯まで、関係してきたテニスというスポーツ。青春の思い出の日々。楽しかったあの日々を懐かしむ事はあっても、戻りたいとは思わない。だが、もし、戻れるなら橘はきっと、千歳の怪我の日を選ぶだろう。そもそもにして、橘がテニスを辞めたのは、千歳が理由だった。全国にも世界にも一緒だった千歳が、テニスを辞めたのは怪我の悪化が理由だったし、その傷を負わせたのは紛れもない自分だ。ケジメにもならないケジメをつけるには橘はテニスを辞めるという選択肢以外なかったのである。千歳は気にするなと言ってくれるが赦すとは言ってくれない、かと言って赦すなと言えば、そもそもそんな話ではないと一瞥して笑われるだけであった。赦すと言われもしないが赦さないとも言われない、ただ千歳は怪我なんてものは、テニスなんてものはさもどうでも良いかの様に、引退した橘に言ったのだ。
「俺は桔平と遊べれば何でもよかとよ」
その一言が、橘には重しに感じた。橘は、贖罪を求めたが、覆水は盆に返らず。ダメになってしまった眼は、どうにもならない。病状が悪化していた事も、進行していたことも、治せる段階に千歳は何も言ってはくれなかった。橘は己の思考があまりにも楽観的過ぎたのだと悔やんだが、結局は後の祭りだ。だからこうして、大人になった今も橘にとって出来ることは暮らしていく上で、千歳が何の不自由もないように全てを養う覚悟で一緒に暮らすという道だけで、橘はその道を選んだのだから。
「今日は鍋にするけん」
そう言って橘は立ち上がる。
「それより俺は桔平」
そう言って橘をソファの横に誘うように千歳が手で叩く。その動作から、橘は千歳が何を求めてるかなど容易く分かる。だが、橘はふるふると首を横に振った。
「飯」
「そっけなかねー、桔平らしいこったい」
「……風呂の後ならよかとよ」
「今がよか」
「我儘言うな」
「今がよか、きっぺー」
その言葉に橘は大きなため息を吐いて千歳の隣に座る。それがどういうことなのかは、橘はよく分かっているが、こう言い出したら千歳は聞かない。それは橘がよく知ってることだ。きっと、飯も風呂も忘れて、結局はなし崩しに寝不足気味で明日を迎えるのだろうなと言うことも。だが、求められるということに、橘は喜びを感じてもいた。橘が千歳に与えてくれてやれるものなど、あまり多くはない。
「冷たか!」
「千歳から触っといて何を言っとん」
「冷たかもんは、冷たか爪先なんか特に冷たか!」
橘の足に千歳が足を絡ませながらぎゃいぎゃい言う。橘はそんな千歳を眺めながら、千歳は暖かいなあ、と思った――。