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    ぺずぱ@🐍🐉

    @Pezz_561

    サークル名:サチピズム
    とっくに成人済!真桐の民です。

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    2023.6.17-18開催、まきりのWebオンリー展示作品。
    真→桐。季節遅れネタご容赦!

    ##mkrweb

    それは〇〇の匂い? そっと掴まれた手に感じる温もり。
     骨ばった男の指先が、生白い自分の手の甲とそして第二関節の深い皺の間と一本一本丁寧に撫ぜていく。
     もし組の者たちがいまの自分たち二人を見たら一体あの二人は何をやっているんだ、とさぞ訝しむ事だろう。
     好みの女ならばいざ知らず、相手は男。それがどこの者とも知れぬ男だったならば、当然こんな風に好きなように触らせてなどいない。即座に相手の股間を蹴り上げていたに違いなかった。
     だが、いま自分のこの手を包み込んでいる人間は密かに好意を寄せている――男だ。

     (桐生ちゃんの手ぇあったかいなぁ…)

     この歳ともなれば誰かの肌に直接触れることなど、決まった相手でもいなければそうそう無い。
     それに常日頃から革手袋を身につけていることもあり、肌に直接触れるというのは、手洗いや帰宅して風呂に入ってからで、自分ですら機会が少ない。
     それがいまは、手袋もせず直に触れられている。
     他人の体温を手のひらに感じることなどいつぶりになるだろうか。それも相手は桐生だ。思わず顔が緩む。
     とくんとくんと自分の胸打つ音を聞きながら、真島は桐生が自分の手を撫ぜる様子を潤んだ瞳で見つめていた。

     あのいつもつれない桐生がどうしてこんな事をしてくれているのか。それは遡ること少し前――。


    ◇◇◇


     「桐生チャン見ィーーっけ!!」
     振り返らずともわかる、いつもの聞き知った声を聞いて、桐生はきたか…と眉間に皺を寄せた。
     仲のいい友人というわけでもなければ盃を交わした間柄でもないが、妙に気に入られて以来、神室町内の行く先々でなんやかんやと理由をつけて喧嘩をふっかけてくる兄貴分だった。
     自分の力に見合う相手がなかなかいないのは理解できるが、こちらとしてはいちいち相手をしていては身が持たない。そのため、真島の気配を先んじて察知したときには何度か見つかる前に逃げてしまうようにしていたのだが、今回は生憎といつしか身につけた体内センサーの感度が鈍っていたらしい。
     というのも、いまは少々真島の相手をするには十分といえる体力では無かったからだ。
     生憎、冷蔵庫の中身を切らしてしまい、辛うじて現在一緒に暮らしている少女の朝食は確保できたが自分の分を賄えるほどの蓄えは無かった。
     あれだけ昨日買い物してきてねってお願いしたのに――と愚痴をこぼされ、平謝りした後、食事と買い物ついでに久しぶりに馴染の町へと様子を見にやってきたのだった。
     そして、店まで近道しようと細い路地へと入った途端に、出来ればいまは聞きたくなかった人物の声が聞こえてしまった。無視して走って逃げようかと振り向かずにいたが、思ったよりも声の距離が近い。
     気付いたときにはすぐ後ろにまで接近されていた。
     「おい、喧嘩はし……っ…!?」
     言い切らぬうちに背後から銀色の刃が突き出される気配を察知してとっさに交わすと、キラリと光る刃が頬の横を掠めた。
     カラカラと大層楽しそうに笑いながら、俺と桐生ちゃんが会うたら喧嘩せんわけにはいかんやろぉ?と、愛用のドスをギラリと光らせながら眼帯に蛇柄のジャケット…といったいつもの出で立ちをした真島がのたまった。
     ちっ、と小さく舌打ちをして正面から身構える。いい加減こちらの都合も聞いてほしいが――こうなった以上、背を向けるわけにはいかなかった。
     じりじりと間合いを詰めながら相手の呼吸の一つ一つに神経を集中させる。
     大通りを行き交う車のエンジン音。道行く人々の話し声、パチンコ屋の騒々しい店内音。それらを耳の端で聞いていると、近くで一際大きくバサバサっと鳥の羽ばたく音がした。
     その音が合図となり、後脚を蹴って一気に間合いを詰め、拳をボディに突き出す。
     「うらァッ!」
     ボディに当たりはしたが『入った』感触はない。
     横に躱された、と思った時には後頭部へとびゅるんと風を切る音がした。
     「くっ…!」
     咄嗟に身を屈めて蹴りを交わすとそのまま勢いつけて体ごと体当たりする。
     「ぐぉっ…!?」
     予期していなかった桐生の体当たりを受け止めきれず、真島諸共二人揃って倒れ込むと、すかさず桐生は真島の上にのしかかった。
     「さあ、これで終わりだ。兄さ…!?」
     勝利を確信した僅かな隙をついて、ひゅっと伸びてきた手に両肩を強く掴まれる。一瞬のうちにクルンと反転させられてしまった。
     予想だにしていなかった反撃に受け身を取れず、打ち付けられた背中に衝撃が走る。
     「ぅっ!?」
     形勢逆転。
     離れようとするも、すかさずのしかかった真島の重みで下肢が動かない。その上、上腕を辿ってするりと降りてきた革手袋に両手首を完全に押さえつけられていて、辛うじて動かせる指先は真島のジャケットにくしゃりと小さな皺を寄せるだけだった。
     「クソっ!重てぇ…!」
     「なに油断しとんねん。それもこれも――」
     今日は虫の居所が悪いのか、不機嫌そうに真島が言い放った。
     いま攻撃されても満足に動かせるのは首だけだ。
     (……?)
     しかし、即座にドスか拳が降ってくると思っていたが攻撃の気配は感じられない。
     ただ、理由はわからないが真島がいま何かに怒っている事だけはわかった。
     背筋に緊張が走る。
     怒っている時のこの男を相手するにはいまら歩が悪過ぎる。
     何を考えているのか黙ったまま無言でじっとこちらを見ていた真島が動いた。
     冷ややかにこちらを見下ろしていた隻眼が段々と覆いかぶさってくる。
     頭突きにしては速度が遅い。まさか噛み付いてくるのではと一瞬考えたが何かが違う。
     そのうち真島の顔が傾きながら口元に近づいてきた。
     「おい……?」
     まさかこの体勢は……と、喧嘩をするような男同士では考えもしないあらぬ行為を想像してしまい、うまく言葉が出ない。
     焦りと不安とほんの少し…内心パニックになってドクンドクンと心臓が脈を打つ。
     そしてあと数センチ…というところで情けなくも正面から直視出来ず、ぎゅっと目を瞑り身を固くした。

     ――フンフン。
     「っ……?」

     覚悟していた感触は訪れなかったが――その代わり、小刻みに鼻を啜るような音を耳元で感じた。まるで犬でもいるように小さく鼻息らしきものが吹きかかり、そのくすぐったさに恐る恐る目を開けると、真島が想像通り――桐生の体に鼻を寄せてその臭いを嗅いでいた。
     「ちゃうなぁ…でも…」
    一人ブツブツと何言か呟きながら小首を傾げている。
     「……おい。なにしてんだ」
     脱力して少々怒り気味に言った。
     特に何されるでもなかったわけだが、勝手にとんでもない想像をしてしまっていた自分が今更ながらとてつもなく恥ずかしい。
     (焦って損しちまったぜ……!)
     耳を赤くして決まり悪気に小さく舌打ちした。
     当の男を見れば、ちょっと臭いを確かめてはまた小首を傾げ、また嗅いで…を繰り返している。幸いなことに桐生が一人で動揺していたことはバレていないようだ。
     ひとまず喧嘩を続ける気は無いようで一息吐く。
     しかし、為す術もなく一方的に体臭を嗅がれているこの状況からはなんとか脱したかった。裏道とはいえ、いつ人がやってくるとも限らない。
     早く離れたいのだが、下手に体を動かせば真島の顔が当たってくすぐったいので無闇に動くこともできず、くすぐってぇからやめろ!と行き場の無い焦りと恥ずかしさをぶつけるだけだった。
     当然、真島は聞いていない。

     しかし…なんだって真島はこんな真似しているのだろうか。
     風呂は毎日入っているし、遥と一緒に暮らすようになってからは洗濯だってこまめに回している。
     だから臭くない…と思う。
     とはいうものの、真島が腋の下辺りの臭いを嗅いでいるのを見ると非常に落ち着かなかった。それで腋汗が出てしまっては本末転倒なのだが、自力で抑えることなどできないため「桐生ちゃん臭いで!」と言われないよう祈るしかなかった。
     今まで遥にも「クサイ!」などと言われたことは一度も無い。
     無い…が、先日外で酒を飲んで帰った時の事を思い出してしまった…。

     玄関ドアを開けると「おじさん、おかえりなさい!」といつも通り遥が出迎えてくれた。
     しかし、すぐにその場で「ちょっと待ってね」と靴棚の中に常備されている消臭スプレーを上から下までかけられ「これでよし!」とお許しを得てから家に上がったのだ。
     もしやあの時も…気付かぬうちに相当臭いニオイを放っていたのかもしれない、と真島が執拗に臭いを嗅いでくるのを見て段々と不安にかられてきた。
     そうして桐生が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、真島の鼻先がいつの間にかボタンの止められていないシャツの胸元にたどり着いていた。
     「なっ…やめろ、ばか!」
     僅かに開いた布地の隙間に顔を埋めるようにして臭いを嗅ぎだす。
     慌てて剥がそうとするも、やはり両手を抑えられて動けず、真島の鼻息や、サラリとした黒髪が素肌に触れる度に擽ったくてビクビクと反応してしまう。僅かに身を捩るだけで精一杯だった。
     「ちゃんと風呂には入ってる!だから臭くねぇだろ!?」
     焦りと羞恥とこそばゆさで顔を赤くしながらヤケクソになって喚くと一通り嗅ぎ終えたのか、真島が体を起こした。
     「なーにが臭くないや。こないにぷんぷんオンナの匂いさせといてよう言うわ…」
     「…なんだって?」
     突然何の話だ?と頭上に疑問符が浮かぶ。
     「女としけこむのもええけど、牙まで抜かれたんとちゃうやろなぁ?」
     真島が片眉を上げて挑発するように言った。
     「そんなことしてねぇぞ」
     心外だ、と桐生は眉根を寄せた。
     自分の失敗で今朝は朝食を食べ損ねたため、とにかく何か腹に入れたくてここへはアパートから直でやってきたのだ。そして店に辿り着く前に真島に捕まってしまった。
     ここへ来る前に会った誰かというと一緒に暮らしている遥ぐらいのもので、当然真島の言うような『オンナ』の部類には該当しない。
     しかしそのような桐生の反論にも「嘘は良くないでぇ、桐生チャン?」と真島は鼻で笑った。
     「――せやったら、さっきから桐生ちゃんの周りに漂っとるこの甘酸っぱい、エエ〜匂いはなんやねん?ンン??」
     鼻を突きだし、これみよがしに匂いを嗅ぐような仕草でおどけている。
     そんな真島に一瞬イラッとしたが、ある言葉が耳に引っかかった。
     「甘酸っぱい…ええ匂い…?」
     考えを巡らせて、数秒。そういえば…と思い当たる節があったことをようやく思い出した。
     女物の香水など付けないし、ましてや女と匂いが移るような事もしていない。考えられるのはこれしかなかった。
     「……それってもしかしてハンドクリームの匂いじゃねぇか?」
     未だ上から抑えられている手首に力を込めると、真島は桐生の手首を素早く手に取り、匂いを確かめるべく鼻を寄せた。
     「これや……!!」
     驚いた衝撃で勢いよく離れた真島に、やはり原因はこれだったか、とほっと息を吐き出した。
     自分は馴れてしまってあまり気にならなくなっていたが、至近距離にいた真島には女物の香水をつけているように感じたようだ。
     あまりこの手のものには詳しくないが、確かにこの店のハンドクリームは香りが強い気がする。遥が家でハンドクリームを塗った時はその香りにすぐ気がついたからだ。
     「なぁんや!いつもとちゃう匂いするからてっきり女んとこ寄ってきたんやと思うとったわ」
     「嘘じゃなかっただろ?わかったら早く退いてくれ」
     こっちはさっきから重いんだ、と身を起こそうと動き始めたところで、真島が思い出したように「ん…?」と眉根を寄せた。
     「……待てや。これかて女物やないか!やーっぱり桐生チャン……」
     半眼でじーっとこちらを見ながらまた適当な想像を始めたであろう真島に、だから勝手に話を作るな!と抗議する。
     いつぞやは公の場で、読んでもいないアダルト雑誌を「立ち読みしとったで〜!」と大声出されて大顰蹙を買った。あれは忘れたくてもこの先一生忘れられないだろう。
     今回は形成逆転されて未だ上に乗っかられているのも面白くない上に、そうなったのも女と会っていたからだ、などと言いふらされてはたまったものではない。
    それに、このクリームをくれた『元の持ち主』の耳に、回り回ってそんな嘘が伝わるのは避けたかった。
     ここは一つ、この出鱈目言いふらし男にきちんと出所を言っておくしかない、としぶしぶ口を開いた。

     「これは……遥の誕生日プレゼントに俺があげたんだ」
     解放された手を胸の内ポケットに差し入れ、ピンクの花が描かれているシルバーの小さなチューブを取り出して見せた。予想外の言葉に真島がきょとんとして目をぱちくり瞬かせる。
     「誕生日プレゼント?あげたのに返されたんか?嬢ちゃん、気に入らんかったん?」
     「それが――…」
     
     ハンドクリームは女子が気に入りそうな種類の香りを三種類、店員に勧められたものから選んで包んでもらった。
     一つは贈ったその日から遥が毎日嬉しそうに使っている。使う度にふわっとやさしい金木犀の香りが部屋中に拡がり鼻孔を抜けていくと、こちらもあげた甲斐があったなと思わず笑みが零れた。
     そして先日。いつものように食事の後片付けをして桐生が手を拭いていると、遥が後ろ手に何か隠しながら「おじさん、ちょっと手を出して?」とにこにこと楽しそうな顔をしてお願いしてきた。
     何やらいたずらでも企んでいそうだったが、この様子から察するに、遥らしい可愛らしいものに違いないと踏んで素直に手を出してみせる。
     すると、後ろに隠していた手をぱっと開いて遥がハンドクリームのチューブを見せた。
     「今日買い物行った時、おじさんの手がね、怪我したら痛そうだなって思ったの…」
     少し心配そうな声音で言うと、蓋を外して桐生の手の甲に白いクリームを出し、塗り拡げ始めた。
     遥が使っている金木犀のやさしい香りとはまた違う、甘酸っぱい独特の香りが部屋に広がる。
     「図工の時間に紙で指を切っちゃった子がいて…乾燥してると指とか怪我しやすいって先生が言ってたんだ」
     小さな掌に温められながら水分が抜けて乾いていく手肌に、薄いベールがかけられていく。
     「おじさん、たくさん手使って赤くなってるから…洗い物した後とか手を洗った後は私みたいにクリーム塗っておいたらあんまり怪我しないかなって」
     そう言ってにこやかに微笑みながら硬くなっている関節の皺の部分を小さくしなやかな指先が擦り込んでいく。
     
     自分の気づかないところでこの子に余計な心配をさせてしまっている――。
     
     小さな優しさに胸が傷んだ。
     「遥……」
     心配かけてすまない、そう心の中で謝った。
     その気持ちに嘘はない。
     けれども謝ったところでこの町と関わっていればまた新たに傷を作ってしまうだろう。何度謝罪の言葉を述べたところで同じ事の繰り返しでは意味を為さない。
     そろそろ本格的にこの町から離れるべきなのかも知れない…
     そんなことを頭の中で考えながら、ささくれだった指先にクリームを擦り込んでくれている少女の手をじっと見つめていた。
     「だから、このハンドクリーム…私が貰ったものだけど、おじさんに使ってもらいたいんだ!」
     「……え?」
     遥が溢れんばかりの笑顔でなおも続ける。
     「私はもう一本貰ったから…あ…こういうのってプレゼントしてくれたおじさんに失礼…?」
     おそるおそる上目遣いで問いかけてくる遥に「いや…」と小さく口端を上げて首を横に振ると、ぱあっと再び笑顔が戻った。
     「でも本当にいいのか?俺が貰っちまって……遥のプレゼントなんだぞ?」
     念のために聞き返したが「これもとっても良い匂いだし、おじさんが嫌じゃなければ貰ってほしいんだ!」と嬉しそうに言うので「わかった、ありがとう」とそれ以上は何も言わず、やさしい気遣いと一緒にチューブを受け取った。
     「ちゃんと使ってね!」
     言ってはにかみながら微笑む遥に、桐生もつられて眦を下げた――。


    ◇◇◇


     「――と、いうわけだ」
     桐生がチューブを胸ポケットにしまっている傍、事の顛末を聞いて真島は目頭を抑えながら深い溜息を吐いた。
    「はああぁぁ〜〜……嬢ちゃんの優しさで前がぼやけて何も見えへん…」
     目から滝のような汗が出てまう、と上向いて首を左右に振る。
     そのまま見えなくて構わないからいい加減早く退いてくれと下から催促する声を聞き、しゃあないなぁと返事して立ち上がった。
     続けて立ち上がろうとする桐生に手を差し出し、勢いつけて立ち上がらせると掴んだ手をそのままぐいっと自分の方へと引き寄せた。
     「…にしても、これなんの匂いなん?知ってる匂いのような気もするんやけど…」
     何かの花の香りがベースになっているんだろう、どこかで嗅いだことのあるような懐かしい匂いのような気もするが、すぐには思い浮かばなかった。
     桐生がチューブ再び取り出し、確か…と外観を見る。
     「『チェリーブロッサム』だ」
     言われて真島は、そうだったかと納得した。道理でどこかで嗅いだことのあるような懐かしい感じがしたのだ。
     寒い冬が終わりを告げると、そこかしこで幾つもの淡い色合いの花びらを枝につけて咲き誇る毎年恒例の光景が目に浮かぶ。
     「春の香りかぁ…嬢ちゃん代わりの御守やな」
     そうだな、と桐生が相槌を打つと、ひゅうっと風が桜の香りとともに二人の肌を撫でていった。

     この町でこうして桐生と喧嘩できるのもあと何回あるだろうか。
     既に桐生は組を抜けて子供と二人、この町から離れた場所で暮らしている。
     義理堅い性格もあって、何かあれば今日のように様子を見にやってきているようだが、子供への影響を考えるとそのうちそんなことも無くなっていくだろう。
     いつかこの町から本当に離れる時がきっと来る。
     その時まで――。
     急に背後を取られて驚いたり、揶揄われて顔を真っ赤にしたり、喧嘩をすれば挑戦的に見返してくる……一見わかりにくいだけで本当は幾つもある桐生の様々な表情。
     それを出来る限り近くで見ていたい。
     そして自分と会った時くらいは眉間の皺を浅くして、少しだけでも口許を綻ばせてほしい。
     きっといまも少女の事を想っている桐生を静かに見つめながら、そっと胸の中で願った。
     (ほんまはこの先もずっと見てられるとええんやけどな――…)
     

     しばらくして桐生が何か思い出したように顔を上げ、チューブしまおうとしていた手を止めた。
     「――兄さん、手袋。外せ」
     突然なんだ?と不思議に思ったが、桐生が早くしろと目で訴えている。
     言われるがまま嵌めていた黒手袋を外すと、桐生は持っていたチューブの蓋を外し、真島の手の甲にクリームを出した。
     蓋を締めて再びポケットに仕舞う一連の動作をなんとはなしに眺めていると、数日前自分が遥にされたという行動――自分の手の甲に出したクリームを桐生がその手で塗り拡げ始めた。

     (キッ、キリュウチャン…!?!?)
     突然始まった予想だにしない桐生の行動に思わず息を呑んだ。驚き過ぎて声も出ない。
     呑み込んだ息の音を大きく漏らさぬように、静かに吐き出す。
     一体、どうしたというのか。
     興奮して呼吸乱れているこちらの気配を悟られないようにそうっと視線を移せば、桐生自身は特にいつもと変わらず、少々眉間に皺を寄せているだけ。
     黙々と真島の手にクリームを擦り込む作業に集中している、といったところだ。
     (一度始めると結構のめり込んでまうとこあるからのう…)
     ここが裏道で良かった、と真島は内心思った。
     いい歳した中年の、それも一見してその筋の者とわかる出で立ちの男二人が手を繋いで何やらやっている光景なんて、さぞ人目を引くだろう。
     (ま、誰かに見られとっても見つけ出して口止めするだけやけど)
     それ以前に、人通りが多い場所であったら桐生はこんなことしてくれなかったかもしれない。人気の少ない場所が幸いした。

     「あんたは普段から手袋しているからあんまり乾燥してないな」
     「…そ、そか?でも、こことか皮めくれてもうてなぁ〜」
     声が上擦らないよう返事をするのも一苦労だ。
     心臓の大きな鼓動が触れられている先から伝わらないか心配になる。
     緊張のせいか手に汗もかいている気がして、不快な思いはさせてやしないかと気が気でない。
     それでも、なるべくこの時間が長く続くようにと祈った。
    小指から順に一本一本、爪の付け根に、先端から手首の方まで、甘酸っぱい匂いが覆っていく。
     ずっとこうして触っていてもらいたい――。
     そんな風に思いながら、自分の手肌を撫でている桐生の顔をほんのり上気した顔で見つめていた。
     すると今度は手のひらを上向きに返され、両の親指でむぎゅむぎゅと盛り上がっている肉を押し始めた。
     まさかのハンドマッサージのオプション付き。
     (き、気持ちええ……!!)
     ここ結構固いな、などと呟きながらゴリゴリと凝りの溜まっている部分を押してくれている。
     生半可な事はせず、しっかりマッサージしてくれているため本当に気持ちがいい。
    たまらず深く息を吐き出した。
     「はぁ気持ちええ……」
     思わず口から零れた呟きを聞いて、桐生が得意気に語り始める。
     「だろ?俺も遥にやってもらってな。そんなに力入れなくてもいいって言ったんだが…」
     ヤニ下がった顔で、遥がああしたこうしたと実の娘のように語る様子がたまらなく愛おしい。
     (あ~~……もうほんまずっと一緒におりたい)
     甘酸っぱい香りに包まれる中、桐生の手の温かさとマッサージの気持ち良さとの相乗効果で、ここが何処かもつい忘れてしまう。
     虫が花の蜜に吸い寄せられるように、ツンと上向きに上がった桐生の柔らかそうな唇へと体がふらふら近づいていく。
     極端に思考能力が低下し、すっかり夢見心地の状態で桐生の手の感触を直に感じていれば、顔も緩む上に下半身もそろそろと熱が充填していこうとするわけで……。
     (――それはアカンアカン!)
     なけなしの理性で慌てて灯りかけた熱を冷ます。
     でもこのまま……と、諦め悪く桐生の口元を見つめていると、やがて視線に気づいた桐生がはっと我に返った。
     「あ、こっ…これはその……遥だ!」
     急にこの状態が恥ずかしくなって、桐生が慌てて説明をはじめた。
     「遙が…俺も誰かにしてやれば、その、相手が喜ぶって……!」
     耳まで赤くして今更な言い訳をしている姿も可愛いと思ってしまう。
     「まさか桐生ちゃん…俺を喜ばそうとしてくれたんっ!?嬉しいのう〜〜!!」
     ひしっとマッサージしていた桐生の手を両手で握りしめる。さっきまでの不埒な考えは気づかれていないようだ。
     「違う!遥が…離せっ。とにかくもう終わりだ!」
     「何言うてんねん!まだこっちの手ェ残っとるやろ!」
     「そっちは自分でやれ!」
     桐生が手を振りほどいてスタスタと大通りへと向かっていく。
     粘り強さの重要性に関しては過去に十分教わっている。桐生の手の温もりと感触を再び味わえる何したっていい。何だってする。……嫌われない程度に。
     「ええ~!自分でやっても気持ちようならんやん〜!」
     何やら騒ぎながらやってくるコワそうな男二人を、なんだなんだと遠くから通行人が様子を伺い始めた。
     人目なんて後からどうにでもする。とにかくこの機を逃す手はない、と追い縋った。
     「後で桐生ちゃんにもやったるからぁ!な、ええやろ?こないなことしてくれるヤツ、桐生ちゃんしかおらへんのやぁ!」
     ――なぁ〜お願いや、桐生チャン!と子供が強請るようにダメ押しのお願い攻撃を繰り出すと、前を歩いているグレーのスーツを着た背中がピタッと止まった。
     「ったく……」
     悪態つきながらスラックスのポケットに手を突っ込むと、桐生がゆっくりと顔だけこちらへ振り返る。
     「飯、食ったらやってやるよ」
     しつこく食い下がる真島に、とうとう桐生が折れた。
     仕方ねぇなとばかりに眉根を下げ、子供にでも向けるように穏やかな笑みを浮かべて。
     飛び跳ねたいくらい舞い上がる、と同時に自分以外にはそんな顔見せないでくれと心の中で訴えた。
     「…ちょろいんやからなぁ」
     「なにか言ったか?」
     「なんでもあらへん!嬉しいのう〜!!」
     足取り軽く桐生に追いつくと、なんでそんなに嬉しがってんだよ、と明後日の方を向きながら桐生がぽそりと呟いた。
     どうやら照れているらしい。
     「桐生ちゃん、気になるぅ?俺がなぁんでこないに嬉しいのか?なぁ桐生ちゃ…」
     「気にならねぇ」
     ツンとすまし顔で相変わらずの即答が返ってくる。
     「つれへんなぁ。俺は桐生ちゃんのこと気になって気になってしゃあないっちゅうのに」
     「…なんでだよ」
     「何でて。そりゃあ――……」
     むっと眉間に皺を寄せて少々不満そうな顔をしている桐生に手を伸ばす。
     にんまり笑い、むくれているその頬をむぎゅむぎゅとクリームの匂いが香る手で挟んだ。
     「桐生ちゃんのこーんな顔も見逃したくあらへんからのう~♪」
     「~~~~ッ!!真島ァッッ!!」
     ヒャハハ!変な顔やぁ!と笑いながら走っていく真島を顔を真っ赤にして桐生が追いかける。
     「さ~て飯や、飯!ほら行くで、桐生ちゃん!」
     
     いい歳した中年で、それも一見してその筋の者とわかる出で立ちの男が二人。
     揃って甘酸っぱい匂いを振りまきながら、雑踏の中へと消えていった。



                        ―了―

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