いつかの六月十七日―――明日六月十七日の関東の天気は、朝から夕方にかけて雨。夜六時以降は次第に天気は回復しますが、東京と神奈川の一部地域は、にわか雨にご注意ください―――
数多の大粒の雫が音を立てて硬いアスファルトの上で弾けては、水溜りの上にいくつもの波紋を広げている。
急遽雨宿りのために駆け寄った雑居ビルのエントランスでは、電球が切れかかっているのか、入居店舗のネオンがジジッ……と音を立てて不規則に点滅していた。
その横で、桐生はぶるぶると首を振って肩や腕についた水滴を払っている。ライトグレーのスラックスの裾には点々と跳ねた泥が付いていた。
そもそも、今日は雨に濡れるつもりなど毛頭無かった。
未だひまわりにいる遥と一緒に暮らすための手続きに、神室町近くまで来たので亜天使に立ち寄ってみたところ、ママから「連日の雨でバイトの子が体調を崩してしまって、人手が足りないから手伝ってほしい」と買い出しを頼まれて外出したのが雨もすっかり止んでいた夕方。
買い出しを済ませた後はポッポで夕飯を買い込み、早々にセレナへ戻る――という算段をつけていたため、傘は持たずに出てきたのだがその目論見はすっかり外れてしまった。
亜天使からセレナへ戻ろうと泰平通りに出たところで、小遣い稼ぎのために因縁をつけてきたチンピラ数人に遭遇してしまったためだ。
相手も見ずに喧嘩を仕掛けてきた奴等を一掃することは取るに足らないものだったが、一人、二人……と地面に沈めていくうちに空の雲行きが急速に怪しくなっていった。
三人、四人……と倒している途中で、あっという間に広がった黒い雨雲からポツポツと雨が降り出し、最後の一人のみぞおちに拳をめりこませた時にはサーッと空から水滴が降り注ぎ始めた。
雨に濡れながら捨て台詞を吐いて逃げ出していく男達の背を見送ると、桐生も直ぐに近くの雑居ビルへと避難した、というのがここまでの経緯だった。
(もう降らないと思っていたらこれだ)
昨日聞いた天気予報の内容を思い出しながら、このままにしておくよりはマシだろうと、上着を脱いで若干乱暴にバサッと雫を振り落としていく。
既に雨水が幾分染みてはいたが、すぐ乾くことを祈りながらまた羽織った。
ツー……と、冷たい水滴が首筋を伝っていく。
動いたせいで髪についていたものが落ちてきたのだろう。少し不快な感じがして、持っていたハンカチで雫を拭った。
午後の早い時間に雨が止んでいたこともあり、もう今日は降ることなどないだろうとすっかり油断していたのが仇となった。
あらかた拭き終わったところで、湿気って幾分柔らかくなった煙草を一本くわえ、先端に火をつける。
ゆっくり息を吸い込み、ふぅ、と一息吐き出した。
ザーッと激しい音色に変わった雨音だけが耳に響く。
(全然止まねぇじゃねえか……)
そう口の中で悪態をつきながら、傘を差しながら急ぎ足で目の前を通り過ぎて行く人々を、桐生はただぼんやりと眺めていた。
◇◇◇
桐生は昔からこの季節の長雨があまり好きではなかった。
そう思うに至る理由はいくつかあったが、小さい頃よく思っていた理由の一つが、単純に『外で遊べなくなるから』だった。
桐生が育ったひまわりは、一緒に暮らす子どもたちの人数は少なかったものの、それでもあの小さな家の中で子供達が満足に遊べるような広さは無かった。
そのためほぼ必然的に、子供たちは学校から帰るとひまわりの庭か学校か、近くの公園へ遊びに出ていくのが常だった。
しかし、この長雨が始まるとそれも叶わなくなり、ひまわりの中に籠もる日々が始まる。
それは桐生の誕生日が近づいてくる事とイコールでもあり、なんでこんな雨続きの季節に……と、顔も知らない存在を恨めしく思う季節でもあった。
『誕生日』といっても、クラスメイトのように新しい玩具や野球のグローブを買ってもらえるでもない。
特別なことといえば「今日は一馬くんのお誕生日です。みんなでお祝いしてあげましょうね」と園長が切り出し、由美が色紙で作ったネックレスを首にかけてくれて、錦山が「今日はこれ貸してやる」と、必ず取り合いになる気に入りのヒーロー人形をこの日だけは特別に譲ってくれた。
あとは綺麗な薔薇の花がデコレーションされた、くどい甘さでぬるっとした舌触りのバタークリームのケーキ――おそらく本物のバタークリームでは無かったのだろう――を美味しい、とみんなで笑い合いながら口いっぱいに頬張った。
園の中ではこうして自分の誕生日という日を少しだけ特別なものとして捉えてくれる。少し照れくさかったが、とても嬉しいことだった。しかし――。
幼い桐生はやっぱり自分の誕生日にこそ、外で錦山や由美と一緒に目いっぱい騒ぎながら早くヒーローごっこがしたい、と願っていたのが本音だった。
ヒーローごっこは桐生と錦山の、あの頃定番の遊びだった。
だがどちらも悪役にはなりたがらなくて、最終的には『どっちが強いか勝負』になるのがお約束だった。
すると見兼ねた由美が「じゃあ先に倒れた方が負けね!」と、土に土俵を模した円を描き、行司の真似事をしたのだった。
大抵二人同時に地面に倒れては何回も勝負することになるので、その度に二人揃って頭の上から靴の中まで土埃まみれになった。
子供というのは不思議なもので、散々どろどろに汚れた顔や姿を見ては、飽きもせずにひぃひぃ笑い転げた。
そして最後には三人揃って園長にキツく叱られるまでが『お約束』だった。
昔はそんなふうにして毎日のように遊んでいた。
――三人で、笑っていた。
(あの頃は事あるごとに錦と張り合ってたな……)
昔を懐かしんで、小さく笑う。
幼い頃のことなど思い出せば余計に辛くなるだけだとわかってはいるが、どうにも止められなかった。
他にも思い返したらきりがない。
長くなった煙草の灰が、ぽとり、と汚れたビルの床に落ちた。
大切な人達の人生が変わってしまった『あの日』もそういえば雨が降っていた。
十年前のあの年、最後に祝ったのは由美の誕生日で、桐生はプレゼントの指輪を手に入れるため奔走していた。
あの時までは桐生の誕生日も二人が祝ってくれていた。
本当なら錦山の誕生日も三人揃って……きっと麗奈も一緒に過ごしていた――はずだった。
(こんなことになるなんて、あの時は思いもしなかった……)
ずっと自分のすぐ隣にいて、自分の生まれた日を共に過ごしてくれたかけがえのない二人はもうどこにもいない。
二人以外にも……多くの大切な人達を失ってしまった。
気付けばいつの間にか人通りも少なくなっている。
道路には叩きつけるような雨粒が跳ね、荒れ狂った黒い海のようだった。
まるで自分だけが、この場所に一人取り残されたような錯覚がしてくる。
本当なら自分も彼らと同じように、白く眩い光の中に溶けていたはずではなかったのか。
何度夢で見たかわからないあの光景を思い出して胸が苦しくなる。
瞳が潤んでいくのを堪えるように、ぐっと眉根を寄せて目を伏せる。
いまはまだ、自分にもやるべきことがあると信じて立っているが、ともすればこの黒い闇に吞み込まれてしまいそうだった。
なぜ、自分だけがここに――。
行き場のないやるせなさに拳を握りしめる。
次の瞬間、馴染んだ気配を近くに感じてハッと我に返った。
「桐生ちゃん、めーっけ!」
思考が底なしの海に堕ちていくのを遮るように、通りの向こうから突如降ってきた声に顔をあげる。
そこには黒色の紳士傘を差した真島がニカッと笑いながら立っていた。
「真島の、兄さん……」
「こっちの方に桐生ちゃんが居るような気ィするなぁ思うて来てみたら大当たりや」
久しぶりやのぉ、と笑いながら水溜りの上をバシャバシャと泥水が黒いレザーパンツに跳ねるのも気にせず近づいてくる。
予想していなかった人物の登場に暫く呆気にとられていたものの、桐生は慌てて持っていた煙草を踏み消し、身構えた。
「……喧嘩、か?」
傘を閉じて隣に立った真島が、ぽりぽりと頭をかく。
「あ~……まぁ喧嘩はそりゃしたいけどな。この雨やし、気分とちゃうねん。……桐生ちゃんもやろ?」
そう言って柔らかに問いかけてくる真島の視線が、先程までの自分を見透かしているような気がして、胸に突き刺さる。
こんなことではいけない、と瞑目し、雑念を取り払うように首を横に小さく振って返事をした。
「……確かに、この雨じゃな」
この男には情けない自分のことなど知られたくない。
いや……たとえ知られたとしても、真島がそんなものに興味を惹かれるとは思わないが、それなら尚の事、弱味を見せるような真似はしたくなかった。
ただ、互いが互いに全力をぶつけられる相手でいたかった。
そんな小さな願いにも似たプライドで己を鼓舞し、真島に視線を戻せば、少し困ったような顔がそこにあった。
その顔が何を意味するのかまではわからない。
ただ漠然と、耳に痛い言葉を言われるのではないか、とぎゅっと拳に力を入れて言葉を待っていた。
しかし真島はどこか寂し気に、ほんま残念やなぁ…とぽつり呟くだけでそれ以上は何も言わなかった。
こちらを気にする様子もなく、レザーパンツについた水滴を払っている。
桐生は安堵して構えていたポーズを解くと、真島が何か思いついたように顔をこちらに向けた。
「………でも雨あがったらしよな。いま予約受け付けたで!」
「なんだ、受け付けたって。申し込んだ覚えはないぞ……」
「何いうてんのや。桐生ちゃんから喧嘩か?て聞いてきたんやないか」
「それは俺が喧嘩したくて言ったわけじゃねぇんだが……」
「アカン〜!先に聞いてきたならそういう事やろ!取消不可や!」
おい、と抗議しようと口を開きかけて言葉を飲み込んだ。
こういう風に真島が言ってくる時はこちらが何をいっても聞かない、というよりも悔しい事に、桐生が口で勝てたためしがなかったからだ。
それに……と、このところ真島と拳を交えること自体、無かったことに思い至る。
ついこの間までは四六時中見張られて幾度となく闘い、喧嘩するのも面倒くせぇ!と思ったこともあった。
だが、己の全力を出して闘う真島との喧嘩はいつの間にか秘かな楽しみに変わっていて、筋が通っていると自分なりに思えば買うことにしていた。
しかしそれも、神室町へ来る機会が減ったため真島と喧嘩すること自体が過去の出来事になりつつある。
今日こんな風に遭遇したこと自体、貴重なのかもしれなかった。
「まったく、仕方ねぇなぁ……」
「雨上がりでウッカリ滑って転んでも容赦せんで」
ニィッと口の端を上げて余裕ぶった笑みを浮かべる男にやれやれと呆れる。
予報どおり、雨は止むだろうか――。
その時にはこの男の眼差しを真正面から受け止められる自分でいなければ。
「それはこっちのセリフだぜ。兄さん」
負けるわけにはいかない、と自分自身に言い聞かせるように独りごちた。
「――ん?桐生ちゃん、こないな雨の日に傘持ってへんやないか。……どこ行くつもりやったん?」
「出てきた時は降ってなかったんだがな。すぐセレナに戻るつもりだったんだ」
「ほんならこれやるわ。俺は事務所近くやし」
受け取れ、と真島が手にしていた傘をずいっと差し出してきたので思わず手に取ってしまった。
「近く……ったってここからじゃ距離あるだろ。兄さんが使えばいい」
「俺はもうええねん」
あっけらかんと言い放ち、胸ポケットから煙草を取り出している。
「要らんならそこに投げとき。――この雨や。置いとけば誰か持ってくやつもおるやろ」
「置いとけば、って……」
傘の主である真島が濡れて帰るのでは本末転倒だろう。
そう思って返そうとしているのに、その本人は何故かもう使うつもりはないらしい。まったくもってわけがわからなかった。
困惑気味に真島を見ても、何食わぬ顔で口にくわえた煙草に火を点けているだけで、こちらを見ようともしない。
(予約だとか、俺はもういいだとか……)
相変わらず言うことがめちゃくちゃだ。
この男だけはいつもの調子で変わらない。
先の読めない『いつもどおり』の真島の兄さん――。
内心呆れていたが、まるで約束された”オチ”のように期待を裏切らず突拍子の無いことを言い出した真島に、やがて呆れを通り越して可笑しさが込み上げてきた。
自分が過去の出来事を思い出し、さっきまで勝手に鬱々としていた事はもちろん承知している。しかし、一体自分はいつから真島の言動に妙な期待をかけるようになっていたのだろう。
(これじゃ兄さんに振り回されるのが楽しいみたいじゃないか)
胸の内を占めていた暗い思いもいつの間にか吹き飛んでしまっていた事に気付いて、しまいにはくつくつと笑い声が漏れてしまった。
「な、なんや……急に笑い出しおって」
「いや……いつでも、あんたはあんたらしいなと思ってな」
「どういう意味やねん」
物言いたげな目をして「……ま、ええけど」と付け足し、少し気恥ずかしそうに口を尖らせている。
そんな真島を尻目にひとしきり笑い、少し強引に差し出されたこの傘は兄貴分なりの優しさだということにして、素直に受け取ることにした。
本当のところはわからない。だが、桐生自身がそう思うのならそれでいいと思った。
「じゃあこれ……誰かに持っていかれるくらいなら使わせてもらうぜ」
雨に濡れるネオンの街を静かに見つめながら宙へ煙を吐き出している男の横顔を見て、目を細める。
「―――ありがとう、兄さん」
「おう」
真島は横目でちらりと桐生を見やると、すぐ視線を正面に戻した。
その表情は僅かにはにかんでいるような気がしたが、切れかかったネオンの点滅が邪魔をして、横にいた桐生からはよく見えなかった。
◇◇◇
「しっかし止まんのう……にわか雨いう話やなかったんかい」
短くなった煙草を消しながらぼやく真島の横でちらりと腕時計を見れば、桐生がこのエントランスへやってきてから既に十数分が経過していた。
桐生は貰った傘をそろそろ使おうかどうしようか傘の開ボタンに触れては離してを数回繰り返したところで、ふと思いつく。
「兄さん、事務所戻るんだろ?俺が一緒に寄っていけばいいんじゃないか?」
「ん~………別に戻らんでもええんや。も少しここで待っとる。桐生ちゃんは先に帰り」
「そうか……」
そう言われて、胸の奥が僅かに締め付けられるような感覚がした。
開ボタンにかけていた指を外して、その場に再び佇む。帰れと促されたというのに、どうも足が動こうとしない。
もう用事は無いというのになかなか気が進まなかった。
なんとなく……この場から離れ難いのだ。
手持ち無沙汰を紛らわそうとまた煙草でも吸おうかと思ったが、ここに留まる理由も無いのに再び一本火を点けるのも憚られた。
自分はここから立ち去るのを引き延ばそうとしている――。
そんなおかしな事をしている理由は、なんとなくわかっていた。
(こんな日に昔のことを思い出したから……)
人恋しい、のかもしれない。
そう思った。
しかし、今日ここで遭遇したのがほかの誰かであっても果たして自分はこんな行動をしたかというと、それは違うような気がした。
強引に言い含めて喧嘩の約束を取り付けたり、突拍子の無い話をしてきたり……桐生の期待する『お約束』の行動をして本人の意図は関係無しに、こちらの沈んでいた気分をいつのまにか吹き飛ばすなんて真似、真島で無ければきっと出来ない芸当だろう。
そんな兄貴分の話を、自分はもっと聞いてみたかった。
どぎつい女装姿で現れたこの男と以前飲んだ時のように。
色々な話をして……それから――……
胸の奥にいつからかちりちりと燻ぶる、小さな熱。
触れてみたい気もするが、下手に近づくのもこわいような――。
とくん、とくん、と自分の心臓の音が少し大きく聞こえる。
以前とは別の意味を持って『真島吾朗』という男が自分の中に存在しはじめているようなそんな予感がした――。
未だ降り続いてはいるものの雨脚はだいぶ弱まり、屋内に避難していた人々もちらほらと外へ戻りはじめた。
店の呼び込みの音に混じって聞こえる雨音。
これから飲みにでも行くのであろう騒々しいサラリーマンのグループ。
同伴中と思しきカップルの話し声――。
雨に濡れて万華鏡のように輝くネオンに混じって、色とりどりの傘達が再び暗闇に華を添えている。
いまはどこかすっきりとした気持ちでこの光景を眺めていると、こちらの様子を探る視線に気付いて、口を開いた。
「兄さん、もしよかったら―――」
「桐生ちゃん、急いどらんのやったら―――」
二人同時に声が重なり、思わず顔を見合わせた。一瞬の間を置いて、お互い笑い出す。
「なんで同時やねん!ずっと黙っとったくせに!」
「すまなかったな」
気恥ずかしそうにブツブツ言う真島に、クスリと笑いながらまた謝った。
「ほんなら桐生ちゃん……これから飯行かへん?」
「え……?」
出てきた言葉に目を瞠る。
「今日、桐生ちゃんの誕生日やろ?もちろん俺の奢りや」
「知ってたのか?」
「まぁな。真島組の情報網を舐めたらアカンで!」
ヒヒッと愉しげに笑う表情に、胸の奥がじんわり温かくなった。
思いもよらなかった真島からの誘いに、心が浮き立つ。
「……韓来がいいな」
桐生は口許を綻ばせながら、返事代わりにリクエストした。
真島はそれを見て一瞬真面目な顔をしたが、願いが叶って嬉しそうな笑顔をすぐ見せて、威勢良く声を上げた。
「よっしゃ!なら、早速行こや!」
「ああ」
桐生が傘を開くと、真島がスッとその中へ横に並んだ。
男二人で入るには狭くて、なるべく真島が濡れないように傘をずらしながら歩きはじめる。
「桐生ちゃんはさっき何言いかけたん?」
「……秘密だ」
「なんやずっこいやっちゃのう……って桐生ちゃん、そっち全然傘ん中入っとらんで」
「……っ!?」
突然背後から回された黒手袋に右肩を掴まれたかと思うと、ぐいっと体を引き寄せられて僅かにバランスが崩れる。
何するんだ、と顔を向けようとしたが、
「これならなんぼかマシやろ」
とすぐ耳元で真島の低い声が響いて思わず動きを止めてしまった。
声が届いた方の耳に、じん……と熱が集まる。
ちら、と少しだけ顔を向けると、柔らかな笑みを浮かべて真島がこちらを見つめていた。
桐生はすぐに視線を逸らしたいのを堪えて、少し間を開けて視線を正面に戻す。
肩に回された腕からは男の確かな体温が伝わってくる。
喧嘩の最中には気にもならないのに、煙草とトワレの混ざった男の体臭が濃く香ってきて、距離の近さをつい意識してしまう。
感じる体臭、引き寄せる腕の力強さ、温もり……そのどれも不快感は無かった。
またはっきり聞こえ始めた自分の脈打つ速さとは裏腹に、心はどこか落ち着くような居心地の好さを感じていて、このまま目を閉じたいような気になった。
胸の奥には先ほどのちりちりとした燻り。
自分の事なのに、よくわからないこの感情――。
なんとなくわかるのは、この気持ちそのものが悪いものでも、嫌いでも無いということ。
ならば、このまま触れずにいてもいいだろう、とそっと心の奥にしまっておくことにした。
「……はみ出してるとこはやっぱり二人とも濡れるな」
「こんくらい屁でもないやろ。それに、桐生ちゃんと一緒やったら俺は平気やで!ずっと喧嘩してたら寒くならんし」
冗談か本気かわからないような話をしながら、韓来までのあまり長くはない道のりを二人並んでゆっくりと歩いていく。
その間も、しとしと降っている雨が二人の肩をちょうど片側ずつ濡らす。
この雨はにわか雨だ。降り続けることはない。この調子だと食事している頃には止んでいるだろう。
「そうだな。あんたと一緒なら……」
たとえ、このまま降り続けたとしても。
「俺も―――」
真島が穏やかな笑みを浮かべながら、真っ直ぐ行く先に視線を向けている。
その横顔を静かに見つめながら、下手くそな出来栄えのてるてる坊主を作って、雨の降る様を眺めていた遠い日の自分を思い出して、小さく微笑んだ。
〈了〉