泡沫の小噺 ●
「絵本読んでたんだ」
机の上の童話の横に、手土産のドーナツの箱を置きつつ。
「うん! 人魚姫。知ってる?」
小さいその子がまんまるな目で見上げてくるのを――伊緒は優しく見下ろして。
「知ってるよ~。アンデルセンだろ」
「あんでるせん」
「ホラここ、書いてある。作者の名前」
「ほんとだ」
指先の「ハンス・アンデルセン」から、鉱太郎は人魚姫の表紙をしげしげと眺め。
「ねぇいおべ」
「うん?」
「人魚って本当にいるの?」
「ん~……鉱太郎はどう思う?」
「いると思う」
迷う素振りもなく、鉱太郎は即答した。伊緒は「ほう」とその様子に興味深げに言葉を続ける。
「どうしてそう思ったの?」
「あのね……」
ちら、と台所でお茶の用意をしている祖父を見て、鉱太郎は声をひそめた。
「じいちゃんがね、じいちゃんの友達が人魚に呪われたって言ってた。だから人魚はいると思う」
「ほうほう」
「それでね、じいちゃんはね、友達にかけられた人魚の呪いを解いてあげたいんだって」
「ほうほうほう」
「僕、そのお手伝いがしたい」
「そうかあ~、鉱太郎は優しいね」
伊緒は鉱太郎の頭にポンと手を置き、柔らかい髪を優しく撫でる。
「じゃあまずは、しっかり学校行って、いっぱいお勉強しないとだな」
「じいちゃんにも似たようなこと言われた……」
「そらそーだ。誰かを助けたいなら、まずは自分を強くしないと。強くないまま手を差し伸ばしても……自分まで引きずり倒されてしまうからね。こういうのを『共倒れ』っていうんだよ」
「ともだおれ……」
「助けたい気持ちに焦って、あれもこれもと自分の限界以上に手を差し伸べたら、何も救えないどころか自分まで潰えてしまうから。そこも気を付けるんだよ」
『いおべ』の言葉は時々、鉱太郎には難しい。だけど、優しいだけでは誰かを助けることは難しいらしいことは伝わった。
「……だけど、誰かを助けたい、力になりたい、っていう鉱太郎の優しさは本当に立派だ」
彼にそう言われ、鉱太郎は弾かれたように顔を上げる。立派……ってことはつまり、
「いいおとこ?」
「いいおとこ~~~にはまだちょっと早いかな~?」
「なんだ~~」
「ふふふ。ほら、ドーナツ買って来たんだよ。一緒に食べよう」
「うん!」
テーブルに座る。鉱太郎の祖父がお茶を出してくれる。「じいちゃんも一緒に食べよ」と鉱太郎は声を弾ませ、ドーナツの箱を開けた。
――甘い味を頬張りながら。
伊緒は幼い命と、そして共に歩み続けた老いた命とを交互に見やる。
――なあ鉱太郎、知っているかい。
その絵本の中では、人魚は泡になって消えておしまいだろうけど。
実は人魚はその後、風の精霊に生まれ変わるんだ。
そうして300年したら、天国にいけるんだけど……
愛されている子供と一緒に微笑めば、300年は1日ずつ短くなるんだってさ。
『了』