RELAX~スタベアオンリー・エアスケブ御礼SS~ スタイナーは風呂というものには無縁に等しい半生だった。
アレクサンドリア再建した今でこそ、城の従者も利用できる大浴場があるものの──世界各国の復興支援をしたジェノムたちとリンドブルム公国の技術の賜物である──。
護衛や見回りに勤しむ日々だ。鎧を脱ぎ素肌を晒すのは、簡単に清拭し、寝るときくらいのものだった。
かつて星の命運を懸けた旅路には、秘湯に巡り合うこともあったが、そのときもスタイナーは『見張りが必要である!』と固辞しているのだ。
だから、スタイナーには風呂というものは馴染みがない習慣だった。
──ベアトリクスと恋仲になるまでは。
※
きっかけは、ひょんなことだった。
「今晩、貴方の時間を、私に下さいませんか」
──仕事が終わり、ベアトリクスがスタイナーにそう提案し、スタイナーが深く考えず了承したこと。
「二人とも、しばらく留守を頼むわね」
──三日前から主君・ガーネットがジタンと共に新婚旅行へと発ったこと。
「これ、エーコが作ってみたの! ダガーとベアトリクスにもお裾分け!」
──そのまた三日前に来訪したリンドブルム公女が最近お熱だという、石鹸や化粧水づくり。
それから──それぞれの部下たちが『さりげなく』気を利かせ、仕事が順調に捗り、その分、暇ができたこと。
ささいなきっかけが綾取りのように組み込まれた、結果。
「きょうも蒸し暑かったですね」
「うむ。実にいい汗を掻いた…と言いたいところであるが、こうも連日となると、さすがに堪えるな」
スタイナーは今、アレクサンドリア城内にあるベアトリクスの私室に通されている。
長ソファで隣り合って座り、湯で濃いめに抽出した紅茶を、調理場で分けてもらった氷──これも高度技術の賜物で、食品の貯蔵がしやすくなった──を入れたグラスに注いだ冷茶を飲み、涼んでいるところで。
ベアトリクスが距離をつめ、スタイナーの片腕に己のそれを絡ませる。
「べべべベアトリクス? 自分は今、かなり汗臭いであろう?」
スタイナーは狼狽え、みるみる赤面し、思ったままそう口走る。恋仲になって何年も経つというのに、未だに私情で触れ合うことに慣れていないのである。
「ふふ。でしたら、良い方法がありますよ、スタイナー」
そんな一途で純情なスタイナーを心底愛おしく思うベアトリクスは、自然と頬が弛むのを感じながら、言った。
──一緒にお風呂へ入りましょう。お背中、流しますから。
ベアトリクスの穏やかで美しい微笑に、甘く響く誘いに、『風呂』という未知の世界への扉を前に、断る理由など頭から吹っ飛ばしたスタイナーは、こくこくと首肯するのであった。
※
体温より少し熱めに張った湯船──肌に浸せば薄荷由来の清涼感があり、それでいて華やかに鼻腔をくすぐる薔薇や果実由来の豊かな香りの、エーコ公女謹製のアロマバス。
ベアトリクスが存分に身体を伸ばせるように、大きめに造られた浴槽内。
大柄な男と細身だが長身の女が二人、身を寄せ合って浸かるとなると、こじんまりとした印象へと様変わりした。
その狭さは二人にとっては、より互いの存在を近く深く感じ合う為の好条件ともいえた。前方で膝を折り、──まるで飼い主に洗われる大型の愛玩動物のように──大人しく座るスタイナー。そのすぐ後ろにベアトリクスが密着するように寄り添い、スタイナーの頭皮をマッサージするように両手の指先で洗髪している。その指圧の加減は絶妙であった。彼は安心しきった顔の和らいだ表情で、泡が目に侵入しないように目を固く瞑っていた。
「…かゆい所はないですか?」
「うむ! 心地良いのである」
──まさにスタイナーは極楽の気分に浸っていた。
風呂とはこんなにも疲れを癒し、気分を爽やかにしてくれるものであったのか、と。
すぐそばで愛する者とともに分かち合う感覚ならば、なおのことだった。
──ベアトリクスも同様の気分に酔いしれていた。
こんなにも恋人が気を弛め、身体の力を抜くなど、今まで見たことがなかったからだ。
いつだって彼は真剣そのものであった。他の誰よりも熱血漢であった。戦場においては一瞬の油断も命取りであったし。それはベアトリクス自身もそうであったし。だからこそ誘って正解だったと、彼女は噛みしめていた。
スタイナーの背中には縦横無尽に走る古傷。彼の幼少期からあった争いの悲惨さを物語っている。彼自身が歩んだ道の過酷さを表わしている。
彼の頭皮はとても固かった。どこもかしこも凝っていて、繰り返し指圧することで少し柔らかくなった。頭皮だけじゃない。脱力した柔らかな筋肉の感触に混ざり、体の凝りも散見されたのだ。それだけ鎧の重み、剣の重み、そして命の重みを全身で感じ取ってきた証拠ともいえるだろう。
手当、という言葉がある。それはなにも白魔法だけではない。
手を触れる。ただそれだけで癒しをもたらすこともあるのだ。
実際に、スタイナーに効果てきめんだった。
「ベアトリクスよ…実に良いな、風呂というものは」
彼が安堵の息を吐き、そう言葉を漏らす程で。
「スタイナー…そうですね」
濯いだばかりの髪に彼女はキスを落とし、彼に全体重を預け──その柔らかく豊かな胸も──幸せに満ちた笑みを浮かべていた。
※
風呂に上がったあとも、二人は穏やかな時間を過ごした。
互いの髪をタオルドライで乾かし合って。
薔薇の香りがする香油に浸した櫛で髪を梳いて。
気を鎮める効果のある寝香水を互いに吹きつけ。
バスローブを脱ぎ、互いに生まれたままの姿で、仰向けになったスタイナーの上にベアトリクスが腹這いになり、床に就く。
スタイナーはすぐにでも眠りに誘われそうだった。風呂に癒され、今もなお愛する者の温もりに癒され、瞼が重くてたまらなかった。
それに気づいたベアトリクスが『おやすみなさい、スタイナー』と囁き、彼の額に口づける。『うむ…おやすみ、べあとりくす』と舌足らずに返事するスタイナーに、彼女は母性がくすぐられるようだった。
すぐさま眠りに落ちた彼の寝顔を、じっと彼女は眺める。
とても安らかで、まるで幼子のように可愛らしい寝顔だと思った。
彼は仮眠を取るときさえ眉間に皺が寄ったままだった。いつだって臨戦態勢で。でも今の彼にはそれが全くない──ベアトリクスはそれが堪らなく嬉しかった。
彼は己に、命を運命を、一時的にも委ねてくれているのだと。
彼がこんなにも安らいでいるのが、己の傍らだけなのであると。
「アデルバート。愛しています。私をずっと、貴方のお傍に…」
普段めったに伝えられない愛の言の言葉を、普段呼べぬ名を、深く眠っている今だからこそ告げてみる。
「……ベアトリクス…」
早くも夢の住人になった彼の口から己の名前が漏れ出る。
それだけで、もはや十分だったのだ。
※
──その日を、境に。
スタイナーとベアトリクスは、二人で風呂に入るのが習慣となっていった。
「──最近の隊長さぁ…すっげぇいいニオイするんだけど…」
「まさか、とうとう将軍と進展したのか…?!」
「に、してはだ…隊長自身は、いつも通りにも見えるんだよなぁ」
「むしろ元気有り余ってるって感じも…?」
と、プルート隊員の間で物議を醸していたし、『こらー! 何サボっておるー!』とガシャンガシャンと駆け寄ってくるスタイナーの姿が──隊員の言葉通り──相も変わらずあった。
「──この頃のベアトリクス様…ますますお美しさに磨きが掛かったみたいだわ…」
「やっぱりそう思う? お髪も艶々で、お肌もハリが増したよう!」
「エーコ公女様が開発なさった化粧品の効果かしら…気になるわねぇ」
「それも一理ありそう。でも、それだけではない気もするのよね…」
と、ベアトリクス隊でも噂話に花を咲かせていたし、『あなた方…随分と休憩時間が長いようですが?』と笑顔の背後に般若を召喚しているベアトリクスの姿もあったのだ。
──『元気が有り余っている』のは、スタイナーが入浴により回復効果を得ているからであるし。
──『それだけではない気がする』のは、二人の距離が着実に縮まっているからに他ならない。
進展しているか、否か。
それは二人だけの、秘密。
(了)