忘れかけた、美しくおぞましいもの 長い冬が終わり、水が清らかに流れ、木々の芽が柔らかく綻び、花々が咲き始める頃だった。
柔らかい日射しが、世界に降り注いでいた。
少女は、柔らかく短い草が生い茂る丘の一番上に座っていた。
何故こんな所にいるのか、自分でもわからなかった。
先ほどまで屋敷にいて、何かをしていたような気がする。何をしていたのかは、覚えていない。
Schwarz perle(シュバルツ・ペルレ)は気づいたら草の上に座っていた。
ふと、ほんの一瞬だけ感じ取った感覚。
草に触れている足や手から伝わってきたのは、地面が波打っているような感じだった。
まるで呼吸をするように、又は、大地が溜息をついたように。
ペルレは思わず手を地面から離し、膝に置いた。
立ち上がろうとは思わなかった。疲れているわけでもないのに、動く気になれなかった。
「悪くない世界だな。季節も丁度良い」
突然、隣から声がした。
ペルレの隣には、いつの間にか女がいた。
足音もしなければ、気配さえも感じなかった。
ペルレは驚いた。人が近づいて来れば必ず察知できるはずなのに・・・
女は少し歪な見た目をしていた。
異様に長い腕が最初に目につく。陶器のように白くて枝のように細い。
膝の上に肘を置いており、腕の半分は地面に付いている。
さらに長い紺色の髪は不思議なことに、夜空の細かい星のような煌めく小さな光があった。
じっと見つめていると、その小さな光たちはゆっくりと動いていた。
まるで小さなプラネタリウムだった。
ペルレはこの女が「人間ではない」事を察知した。
ただ敵意もなければ好意的な雰囲気も感じられない。
つんと前を向いて隣に座っていた。
その横顔は「いつかすれ違った」誰かの顔のような気がした。
対して気にも留めない、偶然に出会った人の中に、映画や本などで見た俳優などの中に、夢で出会った異形の中に・・・
初めて会うはずなのに、そんな気がした。
「・・・あなたは誰ですか?」
ペルレは静かに話しかけた。
久しぶりに、自分から他人に話しかけたかもしれないと思った。
「共通した言語だと、この世界では『モード』と呼ばれると思う。だが好きに呼ぶと良い。魔女でも誰かさんでも。名前とは形を固定する要素に過ぎないからね」
女が言った時、ペルレは小さく口を開けてぽかんとした。
女が口にした言葉はドイツ語ではない。
どこの国のものでもない言葉に、ペルレは思わず呆然としてしまった。
顔は前髪で隠れているのと、日ごろの行いで表情に出ないが、明らかにおかしい事に彼女は気づいた。
女は、モードは、それを見透かしたように話した。
「君にだけわかる言語さ。全ての生命、繋がりを持つ者同士にはその繋がりだけの『言語』がある。母親の腹に宿っている間だけ、人が思う言葉を口にする前の間だけ、運命の者同士の視線で交わされる言語、鳥や獣たちだけの言語・・・難しい事じゃない」
「・・・お国の言葉ではない言語って事ですか?それは・・・言語って言うのか、わかりません」
「まぁ、そう思うだろうね。私は『此処にいる少女』と繋がる言語と言葉で話している。仮に、君の親がここにいたら親にもわかるか、親にしかわからない言葉を話す。悪魔ならば悪魔の言語を。要は、目の前のものに合わせてあったはずの言語を使って話す。そういう法則にする。それが私の魔法」
「魔法・・・あなたは、魔女なんですか?」
「そう呼ぶ人が多い。でも、私は所詮『私』でしかないからね。見る人によって幾らでも呼び名も存在も変わる」
女は座っている丘の上から見える景色を眺めているようだった。
ペルレも視線を辿って見てみる。
大空と、緑と、ちっぽけに見える町。ありきたりな景色だったが、平和な景色でもあった。
ごうっという風の音がしばらく続いていた。
数分の沈黙の後に、女が言った。
「面白いものを見せてあげよう。目を閉じてごらん」
ペルレは疑問に思いつつ、警戒しつつも、それに従った。
女の細い人差し指が、ペルレの額に触れた。
乾いた感触と同時に、暗闇に包まれた世界に異変が起きた。
風の音が小さくなってきた代わりに、違う音が近づいてくるように大きくなっていく。
鳥の鳴き声、無数の足音、風を切る羽の音や鼻歌のような鳴き声。
舞台の幕が開くように、暗闇に包まれた視界が明るくなった。
最初に、どこまでも続く地平線が見えてきた。
赤とオレンジ色の太陽が、地平線に溶け込むように遠くの方で輝いていた。
どうやら夕方らしい。
その地平線を、無数の生き物が列をなして歩いている。
キリンやゾウの大型の草食動物から、その横や前にライオンやトラなどの肉食獣が歩いている。
食物連鎖など存在しないか、或いはこの瞬間だけ忘れているのか、彼らは何処かに向かって歩いていた。
空には鷹などの鳥が飛んでいるが、よく見るとフラミンゴやカモメも飛んでいる。
ペルレの左右から、雪のような軽いものがふわりと舞い上がって地平線の方へ飛んでいく。
青い金属のような輝きを持つ、モルフォ蝶だった。
それに続くように、カブトムシなどの昆虫類も飛んでいく。
不思議な光景に、ペルレはぼうっと眺めているしかなかった。
連鎖のピラミッドや、遺伝子に刻まれた本能さえ忘れ、彼らは旅をしているようだった。
命ある者の行進。
美しくも、どこか恐ろしささえ感じる光景だ。
感情などなく、本能的で純粋な存在。
目の前に、自分の中に存在しているが見えない、強大で脆いもの。
時に嫌悪し、時に縋るほどに守りたくなるもの。
ペルレは考えようとしなかった事を無理やり突き付けられ、教え込まれたような気分だった。
「『 』。君も、君の一族も、忘れかけているものがあるな」
モードの声と、指先が離れる感触。
テレビが消えるように、ぱっと元の暗闇に戻った。
ペルレは目を開けた。
先ほど見た、空と緑の風景、風の音が戻ってきた。
ペルレはモードの方を見た。
彼女はこちらを見ていた。
その目もまた「小さな宇宙」を閉じ込めたような色をしていた。
目の前の「人ではないもの」は、理解というものを無視したような存在だと、ペルレは思った。
考える程におぞましく感じ、何者も捕らえられない者。
もし「捧げれば」大きな成果になるかもしれないと一瞬だけ思ったが、その思いも見透かされるだろう。
その透明で未知の魔力に、最初から翻弄されている。
おそらく、ここに導かれた時から。
「忘れかけているものって・・・?」
ペルレは尋ねた。
モードはまた前を向いた。
「肉体という器を持つ者、心を持つ者が持っているものだよ。二度は言わないよ」
ペルレは聞き取れなかったモードの言葉が、それだと思ったが、思い出そうとしてもノイズがかかったようにそこだけわからなかった。
鳥の鳴き声が聞こえた。
「長くはいられないな。もう行くよ」
モードが立ち上がった。
立ち上がっても、長い髪は地面に付いていた。
「・・・perleはまたあなたに会えますか?」
「どうだろうね。世界は広いから」
細く長い指が、ペルレの頭をそっと撫でた。
「最初の十二の星座が浮かんだ時、私の名を呼んだら、来てあげてもいいよ」
ごうっと強い風の音が聞こえ、ペルレの前髪が激しく揺れる。
彼女は思わず目を瞑ってしまった。
指先が離れる感触がした。別れがたいと言うように、するりと静かにそれは消えた。
風が止んで目を開けると、そこには彼女しかいなかった。
日射しが傾き、空の青色と太陽の鈍いオレンジ色が混ざった色が頭上に広がっていた。
何事もなかったかのように、存在なんてなかったと押し付けるように、風の音や草木の匂いが強く感じた。
ペルレはゆっくりと、静かに立ち上がった。
帰らないと。
思い出せば、ここは敷地内だった。