Harmonize 高校三年の秋、拙者は特別補習を受けることになってしまった。
資料を読んでのレポート提出。その易しさが、かえって気に入らなかった。
ノれる気が、まるでしない。
――卒業進路が決まっている己への"温情"か。たいした傲慢だ。
黴臭い本棚たちの間で、拙者は鼻を鳴らす。
図書室に目的の資料があることは担当教諭に教えてもらった。
だが、どこに置いてあるのか分からない。そして、探す気がまったく起きない。用事か怠慢かはわからないが、司書やその代わりをする委員の姿も見えない。ため息は舌打ちに変わる。大人というのはこれだから信用が置けぬのだ。
「……帰るか」
今日のところは。という言葉すら正直言えばつけたくない。
何せこの河上万斉、生来、ノリとリズムの合わないことは適当に済ますか、全くやらないかの二択である。今回、後者を取りたい気持ちのほうが大きいが、卒業がかかっているともなればそうはいかない。
ああ、早くギターが弾きたい。拙者がつまびきたいのは紙ではなく、弦、そして音だった。その様を思い浮かべながら、踵を返そうとする。
「何か探してるの」
そのとき、高めの声が後ろから尋ねてきた。目をやると、地味な男子が一人、こちらを見上げている。
黒ふちの眼鏡と白シャツに茶色のカーディガン。肩までの黒髪がはねている容姿に覚えはなかった。かといって、すべての同級生を把握しているわけでもなし、もしや他棟の下級生かもしれない。
「もしかして、これかな」
眼鏡は拙者の腹ほどの位置から、読む気の失せる厚さの書を引っ張り出すと、こちらに差し出す。タイトルは担任から受け取ったメモと合致していた。
「そのようでござるな」
頷いて受け取る。うんざりする重みが腕に伝わった。拙者の様子を見ていた眼鏡が、急にくすくすと笑う。
「何かおかしいか?」
あ、とつぶやいてから、くすくす笑いは引っ込めたものの、いたずらっ子の顔のまま眼鏡は答えた。
「いや、すっげーいやそうだなーって」
「嫌でござるもん」
「もんって」
また笑い出す。不思議と心地のよく感じる声なのだと、そのとき気づいた。
くすくすからひーひー笑いに差し掛かりかけたところで、彼は口を抑えて息をついた。笑みを含んだ目が、拙者を見上げる。
「――じゃあ、頑張ってね。河上くん」
「ん? ああ」
違和感を覚えたが、返事をした。茶色のカーディガンの背が、すたすたと離れていく。しばらくして、ガラリと扉の開閉音が聞こえた。
「……はて」
拙者、名乗ったでござるか? 今さら浮かんだ疑問を、夕焼けは答えてくれなかった。
なぜ、自分がどうにもノれぬ貸出不可の資料を読みに毎日図書室に通う日々に甘んじているのかというと、会いたい音があったからだ。意識すれば簡単な話だった。
入室後に望む姿がないことを確認してから、机に向かうもたびたびちらりと扉に目を向ける。レポートが進むはずはなかった。
通っていれば会える気がしていた。阿呆らしい響きだが、拙者の直感はよく当たる。答えは次の週に訪れた。
「ああ、お疲れ様」
扉の音で振り向いた先客――眼鏡の男子が、へらっとこちらに笑いかける。小脇に抱えたレポート用紙と筆記具で、拙者の用を察したらしい。拙者は返事をしないまま、お決まりの本棚に向かった。図書を持ちだすと、迷わず彼の向かいに腰掛ける。相手は目を丸くしたが、何も言わず自分の手元で準備を始めた。
書籍とノートを広げたものの、シャーペンは宙を泳いでいる。端のよれた紙からたびたび目は離れて、ちらちら向かいを窺った。眼鏡は、くくっと笑った。
「気になるならさー、なんで向かいに座るの」
「……ここが拙者の指定席にござる」
「あ、そうなの? じゃあ俺が移るね」
「待て」
腰を浮かせようとした相手を押し留める。
「それでは拙者が無理強いしたようでござろ」
「そういうわけじゃないでしょ。意外とめんどくさい思考してるな河上くん……あっごめん。悪い意味じゃない」
呆れ声でズバッとこちらに切りかかってきたくせに、はっとして取り繕う。今度はこちらが呆れ声になった。
「どういう意味でござるの」
眼鏡はへへへと頬をかいてごまかし、座り直している。移動は止めたようでほっとした。
「……名前」
「ん?」
「なぜ拙者の名を? 名乗った覚えはないが」
「いや……だって有名だよ河上くん。それなりに」
「それなりに?」
とは。親友ともどもそれなりのことをしてきたので、覚えがない訳では無いが。この男子が口に出すと内容が少し気になった。
「高杉くんのグループでケンカ強くて楽器ができてカッコイーって女子にモテモテで」
眼鏡は指を折りながら「それなり」を説明する。他愛も無い噂だが、こやつが話すと何処か心が落ち着かない。こちらの眉に力が入ったことに気づいたらしい相手が噂話を数えるのをやめたころに、拙者は本題に入った。
「お主の名は」
「へ? 俺?」
思ってもみなかったという間抜け面にたたみかける。
「一方的に知られているのは気味が悪いでござる」
「あ、はい……」
もっともだと納得したのだろう。バツが悪そうにこちらの顔色をうかがいながら、彼は答えた。
「――やまざきさがるだよ。やまざきは普通の山崎。さがるは退却のたい」
「地味な外見と名字に反して珍名でござるな」
「かわかみばんさいに言われても」
まあ俺は君と違って外見は地味だけど。ぷくーと頬でもふくらませそうな拗ね声に意地悪心がわきおこる。
「さがるの方がレア度が高いであろう」
「あー、ネガいって思ってる? これはね、一歩退いて全体見渡して物事にあたれっていうありがたーい意味がこもってるんですぅ」
響きはそりゃアレだけどさあ、と拗ね声のまま、しかし確かな誇りの音にひそかに感心した。すこしばかり高い声は落ち着く響きを持っていて、こちらの胸を沸き立たせるリズムをきざみ、拙者のノリに重ね支え調和する。
親友とはまた違う協和音に、自分が魅了されていることはとうに自覚していた。だが、言葉を交わしていくだけでまだ深みに落ちていくとは予想外だ。
――だいぶ参っているようだな、と心中で己が己を茶化す。
そのやりとりが顔に出る前に、呼吸を整えて、
「退」
と、呼びかけた。
「いきなり呼び捨てかよ、万斉」
と、笑って返された。
コトン、と心が脳に恋を伝えた。
退と図書室にて逢瀬を重ねた。
二人の指定席で会話をする。退がたまにレポートの進みを指摘して、拙者もしぶしぶながらシャーペンを走らせる。初対面時にかすかに見えた遠慮はさっぱり消えて、内容にも口出ししてくるようになった。幸い、退はレポートが得意なのか教え方が上手で正直助かったのだが。
退は年齢の割に落ち着きがあるが、からかえばすぐムキになったり拗ねたりところころと表情を変える。それを決まって最後に、仕方ないなという微笑みで終えた。拙者らは雑談の中で、だいぶ自分たちを開示しあうようになってきた。
「俺、あんまり最近の曲わかんないんだよなー」
拙者が今イチオシのグループをいくつかを教えれば、退はむずかしい顔で唸った後に、あ、でもお通ちゃんは好き。と付け加えた。
「あまり興味ないんでござるか」
それならば少し残念だが、人に自分の趣味を強制するつもりはない。
「いや……なんていうか、最近のバンドって覚えられないっていうか」
「年寄りか」
「うっせぇわ」
退は口を尖らせたあと、あ、と口を開け、わざとらしくハッ、とシリアスな声を出してわなわなと震えだす。
「万斉が教えてくれたら俺も最先端を取り入れられる……!?」
「他人頼みか。てか付け焼き刃で取り入れられるつもりでござるの」
拙者の正論に耳をふさいで聞こえなーいのジェスチャーをとる退に、でこぴんをしておいた。
「マジ痛い……。何。ケンカ強いって、邪魔するやつは指先一つでダウンさせてんの?」
「退が貧弱ゥ! なだけでござろう」
ふっと指に息をふきかける拙者を涙目で睨みながら、退は反論する。
「なめんな! こう見えてバドミントンの部大会ではいいとこいったし……いや、うん」
最初の勢いは最後まで続かず、ごにょごにょとフェードアウトした。バドミントンの腕とケンカは関係ないことに気づいたのだろうか。しかし、バドミントン部などあったであろうか。今まで部活自体に興味がなかったゆえ、まったく思い当たらない。
「あー、まあ、そりゃ万斉のほうが強いよ……」
退はどこか諦めた声で机につっぷした。
「まあ気にするな。強いのでござろ。バドミントン」
「蒸し返すな」
丸い頭がすねている。
「拙者も一緒にしとうござる」
「……あーはいはい」
投げやりな返答がきた。割と本気だったのだが。
「早くレポート終わらせろよ」
首を曲げ、顔だけを持ち上げた退は、途中で止まった文にじと目を向けてきた。
「やる気がなくなったでござる」
「正直かよ」
「ああそうだ。終わらせたら退からの褒賞がほしい」
「将軍かよ」
俺が。退は起こしていた顔をこてんと横たわらせて、ちら、と目だけこちらに向けてきた。聞く気はあるとみなして続けた。
「新しいギター」
「ガチのほしいもの! しかも高い!」
間髪入れず身体を起こしてつっこんでくる。予想通りの展開に笑みがこぼれた。
「冗談にござる」
「そりゃそうだよ……」
「退はないのか」
ほしいもの。脱力し、ずるずると背もたれに身体を預けていた退に問うた。彼は眼鏡のずれをなおすと、あー、と間延びした声をあげる。
「……ないかも」
「無欲でござるな」
そういうわけじゃないけど、と前置きしてから退がこちらを見た。
「まあもともと諦め早いほうっていうか。見てるだけでも満足できちゃうほうだったから」
「……それを無欲というのでは?」
「そうかなあ」
目をいちど細めてから、彼はへらり、と笑った。
「そうでもないよ。割りと」
ドキッとした。止まった呼吸を再開させて、ゆっくりつばを飲み込んでから、眼鏡の奥の瞳を見据える。
「退にほしいものがあるのなら――拙者が叶えたい」
退が口を薄く開いた。机上であまったカーディガンの袖を自分で握りこんでいる。耳が赤くなっていた。
「……ありがとね」
小さな声が拙者の耳に届く。拙者が一方的な想いを寄せているようで、退もこちらに少なからず好意を向けていると確信していた。
お互い好きだ。口に出さずにまた会うだけで。
拙者と退のレポート第一稿は、教師に小さなケチをつけられて返却された。そのことを退に愚痴ると、これを出したら返す理由も向こうにはなくなると思うし、と真っ当をいうものだから気に入らない。
「出来ているものを、体面や出席日数増やしの小細工などで返されてはたまったものではない」
全部書き直してやろうかとすら思う。思うだけで、実際はとてもする気にはなれないのだが。ちまちまとした直しに見落としがないか目を通してくれる退は、困った顔で笑っていた。
「まあそれはそうだよね。実際、無駄だとは思うよ」
「ムダでござる」
思う、などではなく。ぶった切れば、彼は眉尻を下げた。同調もツッコミもないのが、さらに拙者を苛立たせる。
「今の安楽にあぐらをかき、傲慢に振る舞うような輩は気に入らぬ」
退は応えなかった。
「傲りと怠惰は、恥だ」
そこまで言い切ってから、ふと自分の語気が荒くなりすぎていると気づいた。今まで退が拙者に対して怯えた様子を見せたことはない。しかし、自分のものでもない怒りを一方的にぶつけてしまった。
「……万斉は、ロックだなあ」
退は、顔を下に向けていた。わずかに震えた声がした。
「そうだよね。そういう大人は、かっこ悪いもんなあ」
カーディガンからのぞく指が、拙者のレポートをめくる。急に彼の顔が持ち上がって、何故かこちらの肩がはねた。
「ほら、さっさと終わらせちゃおう」
目に入ったのは、退の穏やかな笑みだった。
それから二人でせっせと仕上げる日々があって、冬休み手前にレポートから解放された。教師が自分を毎日学校に来させるための言い訳だったレポートのおかげで退に会えたのだから、そこだけは感謝してやってよかったかもしれないと今は思う。
今は何もなくても、退に会いたい。会えるはずだ。
――拙者の勘は、はずれた。
会えないまま冬期休暇、そして自由登校期間へと季節は移行した。
進路はもう決まっており、卒業に向けて学校ですることなどたかが知れている。しかし、拙者は図書室で待ってしまっていた。指定席にひとり、よくわからない書籍を開かないまま置いて扉を眺めた。
お互いに好きなのは分かっていたから、明日もまたこの学校にいるものだと。現状を動かしていなかったのは拙者の方だった。
――傲って、怠けていた。
自分で深く刺した棘が抜けない。居心地の良い空間に甘え、退に好きと言わなかった。すべてが、そうであってほしいと思っていた自分の夢だったかもしれない。退にとっての拙者はただ、図書室で話して、レポートを手伝ってあげた友達。終われば会う理由もなくて、卒業すれば縁も切れる。ただそれだけの――
「退」
名を呼んだ。
「さがる」
なんだよ、万斉。という返事はない。静寂に音が溶けていった。
拙者の勘がはずれつづけて一ヶ月、もう卒業も間近に迫っていた。
「おい万斉。これ」
校内で久しぶりに親友を見た。図書室が閉館し、学舎を後にしようとした拙者に向け、プリントをひらひらと落とす。
「こいつじゃねえか」
落とされたプリントを受け取ると、『学校通信』と表題されていた。胡乱な目になる拙者をスルーして、親友は黙って下方を指す。『ありがとうございました』の装飾文字の下に、退職や転任する教師の一覧が記してあった。ずらりと並ぶ見覚えのあるようなないような名前たちのひとつに目が引き寄せられた。
『一年教育実習生 山崎退』
プリントをつかんだまま、一年校舎に駆けだした。
いる保証はなかった。でも動かずにいられなかった。肩で息をしながら職員室の扉をあけると、まばらな人影の奥に見えた。くせのある黒髪、地味な眼鏡とカーディガン。
「山崎先生」
こちらを見て口を引き結んでいた彼の肩が、はねたような気がした。
「はい。どうしたの?」
しかし、彼はふっと表情を崩すと、ごくごく自然にこちらに歩む。気さくそうな微笑みで、ああ普段はこういう笑い方だったのかと、今はじめて知った。
「質問が」
「あ、うんうん。もう校舎にいちゃダメだからね」
職員室を出る。斜め前に先生、後ろに生徒の拙者、ふたりで日のとうに落ちた廊下を歩く。冬の寒さと静けさがコンクリートを通して染み入って、校舎にはもとから二人しかいなかったような錯覚がした。外に出て、人気の更にない裏手にまわる。
澄んだ空気の下ですーっと深呼吸をすると、斜め前からも同じ音がした。背を向けたままの彼から、言葉があった。
「――ごめんなさい」
聞きたくなかった言葉だった。だが、言わなくては始まらない言葉だとお互いに分かっていた。
「最初は先生として困ってる生徒の力になれればと思ってた。でも、どうやら普通に生徒に勘違いされてるなって思って、それなら短期間だしこっちのほうが親しみやすくて都合がいいのかって」
淡々と彼は言い訳を述べながら、振り返った。
「――ほら、大人って、傲慢だから」
さっきまであんなに上手に大人をしていたのに。もう退は笑えていなかった。
「河上くん、君をだましてました。君の勘違いにあぐらをかいて、傲って、本当のことを伝えるのを怠けてました」
本当に、ごめんなさい。退が背を曲げて頭を深く下げた。拙者も退も嘘はつかなかったが、本当のことも伝えなかった。プリントがなければ拙者は気づかなかった。ふたりはただ、お互い勘違いをしたまま、図書室で会話をして一緒にレポートを仕上げた。まだ、ここで引き返せるのだ。
――これで終わりにしよう。
と、退の丸い頭が告げていて、それに腹が立った。そして、自分が情けなかった。退があの空間を守っていたこと。ずっと言わないままで、拙者にも言わせなかったこと。何もなく退がることで、拙者に傷をつけまいとしたことが分かってしまったからだ。
拙者の傲りと怠惰は退に護られていた。ぬくぬくとした空間で、口だけの反骨を気取っていた自分が恥ずかしくなる。
だからこそ、ここで踵を返すのは矜持に反した。拙者、ロックでござるから。
「退が好きでござる」
退の顔が上がって、拙者を見つめた。黒い瞳が揺らいで、口がきゅっと結ばれている。
――ほしがってほしい。叶えるから。
「好きでござる。本を取ってもらったときから」
一歩を踏み出す。拙者は傲慢だから、知っている。
「退も、退の気持ちを教えてくれ」
サングラスを外して、ダメ押しに目を合わせた。退の口周りが歪む。
「……知ってるくせにぃ」
半泣きの声に微笑んでしまった。
「……ああ、知っておる」
退がうつむいた。丸い頭も握られたこぶしも震えている。
「言わせんのかよぉ……」
「ぜひに」
「俺、二十二なんですけどぉ……」
ふ、と口に出して少し笑ってしまった。
「最初は下級生かと思うた」
「マジかよ……!」
どうやら下級生発言のほうがショックだったらしく、がしがしと頭をかきむしる。一通り髪を乱してから、ぼそ、と今までよりワントーン低めに退が発声した。
「……卒業してからで」
「今」
「いや今はまずいし」
「ほかは卒業まで我慢できるでござる。だが返事だけは今でなくては」
「何そのこだわりポイント」
「聞きたいんでござるもん」
「もんって」
ぷすっと押し殺しそこねた笑いが聞こえた。耳まで真っ赤な笑顔と目が合う。
「俺、万斉が好きだよ。本を取ったときから」
「ああ」
『――知ってる』
互いの声が調和した。