君と初めての朝を。 そのいち。 七月のある日、夜の十時近くになった高杉重工本社ビルの通用口。ここで高杉重工の代表取締役である高杉晋作と、彼の秘書を務める藤丸立香が社屋から出る手続きをとっていた。すでに正面玄関から出入りできる時間ではないため、警備員に社員証を見せて退社する。
「今日は申し訳無かったね、藤丸。金曜日なのに残業をお願いして」
「気になさらないでください、社長。業務の方が優先ですから。社長も本日は遅くまでお疲れ様でした」
二人が社屋を出て歩いていると、高杉が立香に対して申し訳なさそうに声をかける。けれど立香は高杉に対し、にっこりと笑って彼をねぎらった。
高杉と立香は仕事は早い方で、残業は社内の平均以下の時間にとどまっている。けれど今週は普段の業務に差し障りが出るほど会議や来客が多く、時間外勤務をしないと業務が追いつかない程だった。今日は会議も来客も無いから早く帰ろうと思っていたけれど、翌週の月曜日に緊急の会議が開催される事になったので会議資料を作成していたのだ。
「僕は気にするぞ、恋人同士になったっていうのに。付き合ってから初めて一緒の食事が定時後の社員食堂だなんて、何とも味気ないじゃないか」
「……それも仕方の無い事ですよ。それに、お付き合いの話はここで話すのはよろしくないのでは」
「金曜日のこんな時間に会社の近くにいる社員はいないよ。気にしすぎだ」
高杉は笑いながら言うと、立香は恥ずかしそうに抗議をした。社外とはいえ、会社も近いこの場所で交際の話を誰かに聞かれたら良くないと思ってしまう。
二人は先週末に高杉が立香に告白をしてから交際を始めたけれど、お互いのプライベートや仕事の都合で恋人らしい事はメッセージのやり取りしかしていない。
今日は定時後に初めてのデートの約束をしていたけれど、急な仕事でデートはキャンセルになってしまった。デートをするはずの定時後は、二人で社員食堂で白身魚フライをのせたカレーを食べてから書類作成という、かなり寂しいものだった。
立香が一歩先を歩く高杉の長く伸ばした薄紅の髪を見ながら歩いていると、徐々に駅が近くなってくる。立香の住む家は高杉が住んでいる家とは反対の方面にあるため、改札を抜けたらそのまま彼と別れなくてはいけない。
立香はだんだんと大きくなる駅の看板を見ていると、少し寂しい気持ちになった。立香だってせっかくの初めてデートが残業でキャンセルになって、恋人と談笑しながら職場でカレーを食べただけというのも面白くないのだ。
――せっかくおしゃれしてきたのにな……。もう帰るのか……。
金曜日の夜の賑わいの中、立香が溜息を吐く。
今日の立香が着ているのは夏用のスーツでは無く、ネイビーのシャツワンピース。綺麗なデザインでスカートの丈も膝下まであるので、私服勤務の職場でも浮かない立香のお気に入り。しかも高杉との初めてのデートだから下着も新しく買った淡いピンク色のものを身につけてきたし、化粧もいつもより頑張ったのに。
彼に帰りたくないと言おうか、このまま帰る方が良いのか。立香は歩きながら考える。一緒に居たいと伝えるのも良いけれど、もしかしたら高杉は明日予定が有って一緒に居られないかもしれない。そうなったら立香は寂しく一人で家に帰るしかないから、何も言わずにこのまま帰った方が良いのだろうか。
「……どうしたんだい?立香」
「え、あ、あの……」
「何かあったのか?立香、すごく真剣に考え事をしてたみたいだから」
難しい表情をしながら歩いていると、高杉が心配そうな表情で声をかけてきた。立香は考え事をしていたところに声をかけられた事と、彼が自分の事を初めて名前で呼んだ事に慌ててしまった。
「あ、社長、いえ、何でも無いです!名前を呼ばれてびっくりしたのと、このままお家に帰るのはちょっと、いやすごく寂しいなって思ったので!……あ」
「……え?」
高杉に声をかけられた立香は慌ててしまい、早口でまくし立てた。しかも話している途中で頭の中にあった全て事を高杉に話した事に気がつき、みるみる頬が赤くなる。
恐る恐る顔を上げると、目が点になっている高杉と視線が合った。彼の驚いた表情を見た立香はとても恥ずかしくて、この場を離れてたくなってくる。
「も、申し訳有りません社長!変な事を言ってしまって!駅に着いたので、わ、私、これで失礼し――」
「待って、立香」
駅に着いた立香はこの場に居たくなくて、頭を深々と下げてから改札に向かおうとした。すると、高杉が立香の腕を掴んで引き留めてくる。引き留められた立香が驚いて高杉の方を向くと、彼は嬉しそうな笑顔で立香を見つめていた。
「社長……?」
「……まだ二人で居たいと思ってたのが、僕だけじゃないって事が嬉しくてさ」
「本当、ですか……?」
「当たり前だろ。残業してカレー食べて帰るだけなんて、僕は嫌だぞ。せっかくの金曜の夜だし、恋人らしいことをしたいじゃないか」
「ありがとうございます……。すごく嬉しい、です」
立香は高杉の言葉を聞くと、自然に笑みがこぼれる。付き合い始めてから一週間、した事と言えばメッセージのやりとりだけ。だから高杉との交際は自分の勘違いではと思っていたところもあったのだ。
でも、目の前に居る恋人は優しい笑顔で立香を見つめ、手を握ってくれている。立香は高杉が自分と一緒に居たいと言ってくれた言葉が嬉しくて、彼の手を握り返した。
「立香、僕と今夜一晩一緒に居てくれないかな?」
「はい……。私も社長と一緒にいたいです」
「じゃあ決まりだ。行こう」
立香の返事を聞いた高杉は今日一番の笑顔を見せ、立香の手を引いて改札へと向かった。