化物と探偵 ~台牧記~【夢の欠片】
愛する家族を乗せた船は蒼穹の向こうへ遠ざかって行く。
すべてが終わった訳ではない。それでもホッとした。
自分のしてきたことが無駄にはならなかったこと。やれるだけのことはやれたこと。それだけでホッとした。
後はこの男に託すしかない。
もう自分に残された時間は後僅かであると知っている。
「まあ、付き合えや」
あれほど怯えた〝死〟を目前にして、なのに心は酷く安らかだった。
ここはかつて暮らした自分にとってたった一つの——楽園。
最期の瞬間をこの場所で迎えられるとは何という僥倖だろう。
舞台装置のようにそこにあったソファーへドカリと身を預けたその瞬間、僅かに残されていた最後の力が急速に失われていくのを感じた。
これでやっと休めるのだ。
これでやっと終われるのだ。
(いや、まだや)
努めて平静を装おうとしている傍らに座る男に傾けた酒瓶と、ショットグラスを持つ手の力だけでも、せめてまだ失われてくれるな。
そして、乾杯を。
最後の杯を。
器官という器官はすでにほぼ機能していない。飲み下した酒の味などわかろうはずもなかった。
けれど、今までで一番美味い酒だった。
ひらり。
ひらり。
ひらり。
ふと見上げた空。
おかえりなさい——と、白く優しい想いが降り注ぐ。
(ああ、愛してる)
愛してる。
愛してる。
愛してる。
(お前達を愛してる)
ただいま——と、告げることは叶わなかったけれど、もういい。
こんなにも青い空の下で、お前達のあたたかな優しい想いに包まれて終わろうとしている自分の〝生〟は、きっと幸せだった。血と硝煙の臭いに塗れ罪で穢れたこの身だけれど、生きてきてよかった。生まれてきてよかった。
自分などには充分過ぎるほどの幸せな幕引きだから、もう満足だ。
だから、行け。
お前達は明日へ繋がる希望のある未来へ行け。
(ああ、せやけど……お前を残して逝くことだけが……)
人を愛する人に非らざる赤いコートの優しい死神——お前を残して逝くことだけが、どうしても悔やまれてならない。
だから、望む。
叶わないと知りながら——望む。
(もしも、もう一度お前に逢うことができたら、今度は〝お前のためだけに〟ワイは……)
そして永遠に鼓動が止まったその瞬間、一滴だけ流れたこの涙を、どうか見ない振りをして欲しいと思った。
◆
「ちょっと! ウルフウッド! 何うたた寝してんの⁉ 大事な話してるのに!」
「んあ?」
ウルフウッドは自分の顔を覗き込んで自分の肩を揺すっているヴァッシュの顔を、間抜けな声を上げながら寝惚け眼でボケッと見返した。
(うたた寝? ——ああ、そうか)
どうやら、自分はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。そういえば、夢を見ていたような気がする。何も思い出せないけれど。
「もう夜も遅いし、仕事で疲れてんのもわかるけどさあ」
不満げにブツブツ言っているヴァッシュの声を他人事のように聞きながら、ウルフウッドは先程まで見ていた夢の内容を思い出そうと寝惚けた記憶を探ってみた。何となくだが、何か大事な思いが込められた夢だったような気がしたからだ。
しかし、やはり思い出せない。掴もうとしても掴めない漠然としたそれに、酷いもどかしさを感じる。
(ま、夢なんぞそんなモンか)
ウルフウッドは密かに溜息を吐いて、とりあえず夢の内容を思い出すことは諦めることにした。
そんなことより、今はヴァッシュとの話に集中するべきだろう。これ以上、ヴァッシュの機嫌を損ねてしまうと面倒臭いことになる。この男、一度拗ねるとしつこいのである。
実は、前々からいつかはと考えていた、『二人で旅』の相談をしていた最中だったのだ。けれど、書店で購入してきた関東地方を網羅している外国人向けのガイドブックをヴァッシュが真剣に眺めている僅かな間に、あろうことか自分は非常に浅かったとはいえ寝入ってしまったのである。
ちなみに、〝前〟ならば絶対にこんな隙など見せはしなかったし、万一見せたとしても、近付かれた時点で牽制するか攻撃するかしていたことだろう。そうしなかった理由はわかっている。こちらの世界に来てから随分と関係が変わったヴァッシュの存在に、うっかり気を抜いていたせいだ。
(あかんなあ。二人きりの空間やと、どうも腑抜てまうわ)
後は、あまりにも生温いこちらの世界の空気のせいでもある。こちらの世界はノーマンズランドと違って緊張感が足りない。
とはいえ、これは危険な傾向だ。気合を入れ直さなければならない。ウルフウッドはヴァッシュには気付かれないようにスッと〝前〟の己に切り替えた。
微かに残っている眠気を誤魔化すため、ウルフウッドはローテーブルの上に無造作に置いておいた煙草のパッケージから煙草を取り出してマッチで火を点ける。そして、己の中の腑抜けた気分ごと煙を吐き出した。
「うーん、静岡もいいけどやっぱり山梨がいいんじゃないかな? だって、富士山五合目までは車でも登れるんだよ!」
ウルフウッドの意識が完全にこちら側へ戻ったことを感じ取ったのだろう、ヴァッシュはマグカップの中のカフェオレを一口飲むと、腰かけていたリビングのソファーから身を乗り出して、『二人で旅』の相談の続きを再開した。
「富士山てアレやろ? 確か日本で一番高いちう山やろ?」
ヴァッシュの向かいのソファーに凭れかかっていたウルフウッドは、煙草を吸いつつショットグラスに注いだ酒——アルコール度数88%のバルカン176——をゆったりと回しながらヴァッシュに問い質した。
ちなみに、ローテーブルの上の灰皿は新しく買ってきたもので、以前風見からもらった携帯灰皿はもう家の中では使ってはいない。
「そう! それでね、富士山五合目はドライブで立ち寄るだけでも楽しめる観光スポットなんだって。標高約2300メートルから眺める景色は最高らしいよ。あとね、エリア内には富士山小御嶽神社ってのがあってね——何と! 縁結びのご利益があるんだって! 縁結びだよ!縁結び! 絶対に参拝して『俺とお前が結ばれますように』って日本の神様にお祈りしなくっちゃ!」
「……おい、最後。何やその見え見えの下心。緑豊かな景色観に行くんちゃうんかい」
「もちろん、景色も楽しむに決まってるじゃん。富士山五合目からの景色の他にも富士山の周辺には緑がいっぱいあるみたいだよ! しかも、緑に囲まれた富士五湖っていう湖もあるんだって!」
「湖って何なん?」
海はわかる。伝承としてノーマンズランドにも残っていたからだ。ただ、湖は伝承としてノーマンズランドには残っていなかった。確かに、聖書の中には海の記述も湖の記述もあるのだが、やはり伝承として残っているものと残っていないものとではその理解度も違ってくる。ウルフウッドは首を捻ってヴァッシュに問うた。
「うーん、俺もよくわからない。小さい海みたいなものなのかなあ? でも、塩水じゃなくて真水みたいなんだよね」
「ふーん。ほな、その何とか神社ちうのはともかくとして、山梨ちうとこに行ってみよか。ところで、日帰りできるん? 明後日には普通に仕事やで?」
ヴァッシュには老人介護施設のヘルパー、ウルフウッドにはルーテル教会の見習い牧師としての仕事がある。
「もちろん、日帰りできる距離だよ。だから、レンタカーを借りてお前の運転で行こうよ。お前、交通ルールと道路標識と案内標識は問題なく覚えたって言ってたじゃん。それに、案内標識はローマ字でも表記されてるから迷子になる心配もないんだろ? そもそも、この世界の車にはカーナビってのが付いてて、行きたい場所を入力するだけで音声案内してくれるらしいじゃん。せっかく透が俺達の運転免許証を作ってくれたんだし、どんどん活用しないともったいないよね!」
「おい! ワイが運転するんかい⁉」
何の相談もなしに当然のように「お前の運転で」と言われたことに、ウルフウッドが抗議の声を上げる。
「えー、だってー、お前俺が運転下手なの知ってるだろー?」
「おんどれ、百年間何しとった⁉ 運転技術くらい研いとかんかい!」
「そんなこと言ったって、誰にでも向き不向きはあるんですー」
ヴァッシュは唇を尖らせて拗ねた子供のような顔をしたが、二百五十歳超えのジジイがそんな顔をしたところでカワイくも何ともない。ウルフウッドは吸い終わった煙草を灰皿で揉み消しながら、冷めた視線をヴァッシュに送った。
「それにまだ交通ルールも道路標識も案内標識も曖昧なんだもん」
「おんどれ、スマートフォンとかゆーんやったっけ? こんなけったいな端末操作には強いんに、何でテキスト丸暗記すればええだけの単純作業には弱いん?」
「端末類に関しては子供の頃に身近にあったから得意なの! ——て、お前ってテキスト丸暗記とか意外と得意だよね? 俺だって別に記憶力悪くないのに何でかそっち方面ではお前に負ける」
「あんなあ、鈍器としても使える聖書を丸暗記しとる牧師をナメんとき」
「鈍器としても使えるって……仮にも聖職者が言っちゃダメなセリフなんじゃないのか? 相変わらず物騒極まりない聖職者だなあ」
「やかましわ」
いくらウルフウッドとて、さすがに聖書を鈍器として使おうなどと本気で思っている訳ではない。単なる物の例えだ。まあ、例え物の例えだとしても、聖職者が言っていい台詞なのかどうかは置いておいて。
「記憶力ちうと、おどれの場合はアレやろ。人の顔と名前と思い出に全振りしとるんとちゃうか? 何しろ二百五十年分や。それだけで膨大やろしな」
「ひ、否定できない。——まあ、それは置いといて。本当はね、〝前〟みたいにバイクがいいなって思ったんだ。サイドカー付けてさ。それに、お前には車よりバイクの方がやっぱり似合うよ。すごくカッコイイもん」
確かに、この男と旅をしていたあの頃は、干からびながら徒歩で行くかバイクで行くかのどちらかだったなと、ウルフウッドは懐かしく思い出す。
(金貯めてバイク買おか)
実は、ヴァッシュに「すごくカッコイイ」と言われて内心悪い気はしない——というか、ちょっとソワッているウルフウッドであった。
「だけどさあ、この世界って車は車道っていう車専用の道を走らなくちゃいけないって決まりがあるだろ? そのせいで、車道って車の密集率が半端ないだろ? 高速道路なら尚更だろ? だから、バイクだと他の車のエンジン音が煩くてお前と会話ができないんだよ——‼」
「さ、さよか」
「だって、せっかくこの世界に来て初めての旅なんだよ⁉ 楽しく会話しながら行きたいでしょ⁉ 行きたいだろ⁉ 行きたいよな⁉」
「そ、そうやな」
さっきからヴァッシュの目が血走っている。ウルフウッドは思わず身を引いていた。
「だから、涙を飲んで車で行こうと思いマス!」
「……運転すんのワイやんか」
「それはそれ。これはこれ。——さあ、今日はもうお風呂に入って早く寝よう。俺のスマホで今から車の予約を入れておくけど、朝8時にはステーションを出発できるように手続きしておくからね」
「その辺はワイにはわからんし任せるわ」
とりあえず、話はこれで終わりだろう。
ウルフウッドは風呂に入って寝る前に、目の前を片付けてしまおうと、酒瓶とショットグラスを持ってソファーから立ち上がった。その時、ヴァッシュがウルフウッドに向かって再びにこやかにそれを告げる。
「いやあ、本当に楽しみだよねえ、ウルフウッド! 早く富士山小御嶽神社で『俺とお前が結ばれますように』って日本の神様にお祈りしなくっちゃ!」
「——て、緑はァァァァァ⁉」
夜の静寂にウルフウッドの盛大な突っ込みが響き渡った。
~中略~
【猫が居る家】
終わらない……。
「はあ」
渡された原稿とパソコン画面を交互に見遣り、僕は今日何度目になるのかもわからない絶望的な溜息を吐いた。まあ、溜息を吐いたからって仕事が捗るワケでもないんだけど、それでも一向に進まない仕事を前に途方に暮れてしまいそうなこの現状を思えば、溜息の一つや二つ吐いたって仕方ないでしょ?
「はあ」
また溜息。
「だって、解説書くのがこんなに大変だなんて知らなかったんだヨ~」
そう、僕に溜息を吐かせているコレ、実はさる若手作家——まあ、僕も若手作家なんだけどね——の新刊の解説なんだよね。
作品の出来はよかったと思う。ただ、正直に言っちゃうと凡作で、どこから切り込んでいけばいいものか非常に悩んでるんだ。
締め切りは明日。
どう頑張ったって今日中に書き上げるなんて無理としか思えないこの状況に僕は頭を抱えたくなる。や、実際、頭を抱えてるんデスけど。
「な~んで引き受けちゃったかね。僕のバカ」
ちなみに、僕は今まで解説を書いたことがない。だから、知らなかったんだ。解説がこんなに大変だったなんて。知ってたら絶対に引き受けなかったのに。いや、どうだろう?
ところで、本来ならコレは僕の仕事じゃなかったりする。なのに、何で僕が書くことになったかというと、当初予定していた作家さんが酷いインフルエンザで撃沈したとかで、僕の飲み友達兼担当編集者のマーロンに泣き付かれたからだ。
正直、気が進まない仕事だったから本音は断りたかったんだけど、他でもないマーロンの頼み——というか、半ば押し切られた——だったし、丁度ウルフウッドとの週末の逢瀬が急遽お流れになって他に予定もなかった僕は仕方なく引き受けてしまって……ああ、内心嫌々だったくせに、軽々しく引き受けてしまったあの時の自分を呪いたい!
「覚えてろよ、マーロン」
マーロンに密かに理不尽な復讐を誓いつつ、ふと、僕のベッドの上で気持ち良さそうに丸くなっている黒い塊に視線を向ける。僕の視線に気付いたのか、黒い塊がちらりとこちらに金色の目を向けてきた。
「手伝ってくれる? 黒猫様」
思わずそんな戯言が口を衝いて出てしまう。
「て、無理だよね」
君、猫だし。
「ああ、猫相手に何言ってんだろうね、僕は……」
にゃー。
黒猫様が鳴く。何か「まったくだ」とでも言われてるみたいだ。
ちなみに、『黒猫様』と言うのはこの黒猫のフルネーム。ついでに、ウチで飼ってはいるけれど、この子の本当の飼い主は僕じゃなくてウルフウッドだ。この子を拾って来たのも名前を付けたのもウルフウッド。
「雨の夜にずぶ濡れの君を胸に抱えてさ、突然ウルフウッドがウチに来た時は驚いたよねえ」
——なあ、こいつ、預かってくれへん?
ドアを開けた僕を見て開口一番にウルフウッドが言ったのはそんな言葉。
「預かれなんてさ」
ウルフウッドの下宿ってば、ペット禁じゃん。この子を拾った時点で僕に押し付ける気満々だったとしか思えないよね。素直に「代わりに飼ってくれ」って言えばいいのに。君の頼みを僕が断るワケないじゃない。
優しい君。
どうせ雨の中で震えて鳴いているこの子を見捨てられなかったんだろう。半端な優しさは却って残酷なんだっていつもいつも僕に言ってるのは君のくせに。偽悪的な現実主義を装う恋人を思って苦笑が浮かぶ。本当は誰よりも優しいのにね。
それにしても、『黒猫様』ってどーゆーネーミングセンスなの?
そう言えば、どうしてこんな名前にしたのかって聞いた時……。
——んー。何かなー、黒猫様ってカンジせえへん? そー呼ばなあかんって気ぃせえへん?
そんなこと言ってたっけ。ワケわかんないね。まあ、いいけど。
「……てかさ、僕今、現実逃避してない?」
思わず遠い目。
その時。
ガチャ——と、玄関の鍵が開く音がした。
双子の兄のナイブズにさえ渡してないウチの合鍵、持ってるのってウルフウッドだけなんだよね。恋人なんだし合鍵は基本。てことはさ、つまり……。
「おーい、トンガリー。居るかー?」
やっぱり!
「ウルフウッド‼」
慌てて部屋から飛び出して玄関へ向かうと、そこには会えないはずだったウルフウッドの姿が——‼
「何や、居るやんか。実はな、今日の結婚式な、急に嫁はんの身内に不幸があったとかで延期になってん。時間空いたで、おどれとメシでも……」
「ウルフウッドォォォ~~!」
ああ、いつもは不良牧師の君が、この時の僕には天使に見えました! ウルフウッドの姿が光輝いて見えるよ! ——あ、ごめん。君はいつでも天使だし光輝いてるよネ!
僕は嬉しさと愛しさが溢れだして止まらなくなり、玄関先でウルフウッドをきつく抱き締めた。
こういう降って湧いた幸運で会えた時の喜びって別格なんだよね。しかも、今の僕は仕事が捗らなくて精神的に弱ってるし。
「な、何やねん⁉ いきなり!」
「ウルフウッドォォォ~~!」
ああ、腕の中の温もりがまるで奇跡のように思える。夢じゃないよね? これ夢じゃないよね? 現実だよね?
「抱き付くな! 離れ! コラッ‼」
「ウルフウッドォォォ~~!」
僕の腕の中でじたばたもがくウルフウッドを無視して、僕は歓喜と感動の包容に夢中になっていた。けれど……。
「ええかげんにせえ!」
ゴン!
殴られました。
「なあ、トンガリ」
リビングのソファーに着て来たコートを放ると、ウルフウッドはきょろきょろと周囲を見回してから僕を振り返った。
はいはい。何が言いたいのかなんてわかってますよ。
「君の愛猫黒猫様は僕のベッドの上でお休みになられております」
先回りして教えてあげる。
腰を落ち着けるよりもまず先に、黒猫様の顔を見ないと気が済まないんだよね、君は。
案の定、いそいそと僕の部屋へ向かうウルフウッドの後姿に、僕は密かに笑みを漏らす。可愛いなー。もー。身長も体格も僕とほぼ互角で、むしろ僕より男前に見えるのに、ふとした瞬間たまらなく可愛いんだよね、ウルフウッドってさ。言ったら手痛いしっぺ返し——ぶん殴られる——に合うから言わないけど。
「おー。黒猫様ー。元気にしとったか?」
ぴくり。
ウルフウッドの声に、寝ていた黒猫様の耳が反応する。
にゃー。
もぞりと顔を上げてご挨拶。
「最近あんま構いに来てやれんでカンニンな?」
黒猫様はウルフウッドが来るとご機嫌だ。ゴロゴロと喉まで鳴らして大歓迎。てか、なんでさ⁉ 僕には絶対に喉鳴らしたりしないのに! ——まあ、いいけどね。君とじゃれ合ってるウルフウッドが可愛いからさ。
うん、眼福眼福。
それに、やっぱり命の恩人がわかるのかもだし。
「トンガリに苛められたりしてへんかったか?」
「僕が苛めるワケないでしょ⁉」
失礼な! ラブ&ピースが信条の男だよ⁉ 僕は!
「冗談やって。おどれがこいつ大事にしてくれとるんはちゃーんと知っとる。おおきにな」
ニカッと屈託の無い笑顔。
うわ! なにソレ⁉ その笑顔反則なんですけど⁉ ああ、もう! 今すぐキスしたい! てか、ぶっちゃけ今すぐ押し倒したい! だが! しかし!
「……」
僕はちらりと机の上に視線を向けた。
そう、アレがあるんデス。
「はあ」
思い出してまた溜息。
「何やねん、辛気臭いやっちゃな」
黒猫様の喉を撫でていたウルフウッドが僕の溜め息に顔を上げた。
「ん? 何やおどれ。何かやっとったんか? 仕事か? 今はな~んも締め切り抱えとらんとか言うてなかったか?」
机の上の様子に気付いたらしく、ウルフウッドがそう言って首を傾げる。……あ、その角度可愛い。
そんなウルフウッドについふらふらと誘われてしまいそうになる己の欲望を制しながら、
「あー……、うん、それがねー」
と、僕はこれまでの経緯を簡単に説明した。
~中略~
【春爛漫】
枕元に気配を感じたが、ウルフウッドはまだ目を開けずにいた。この気配に危険はないことを知っているから。
ざらりとした感覚がウルフウッドの頬を撫でる。
何と可愛いらしい起こし方をするのだろうか。自然とウルフウッドの口元に優しい笑みが浮かんだ。
誘われて目を開けたウルフウッドは、そして頬を撫でた——いや、舐めた正体と目を合わせる。
「おはよーさん。黒猫様」
黒猫様と呼ばれた小さな黒猫は答えるようににゃーと鳴いた。
◆
「あ、おはよう。ウルフウッド」
身支度を整えてからリビングに向かうと、先に起きて朝食の支度をしていたらしいヴァッシュが、キッチンからひょっこり顔を覗かせて朝の挨拶をしてきた。
「おう、おはようさん」
ウルフウッドがヴァッシュに挨拶を返すと、ヴァッシュが嬉しそうに笑う。一緒に暮らし始めてからいつもそうだ。そうやって嬉しそうに笑う。おはようの時もおやすみの時も、行ってきますの時も行ってらっしゃいの時も、ただいまの時もお帰りの時も。まあ、この笑顔があるなら——ヴァッシュが嬉しいなら、ウルフウッドは何も問題はない。少しだけこそばゆいけれど。
「ごめん、ウルフウッド。黒猫様に朝ご飯あげちゃった」
ヴァッシュはウルフウッドの足元でお座りしている黒猫様に穏やかな視線を送ってから、今度は申し訳なさそうにウルフウッドに視線を向けてそう告げた。
まあ、そうだろう。頬を舐められた時にペットフードの匂いがしたから食後なのはわかっている。そんなことより、だ。
「何で謝んねん? この子はウチの子なんやから、どっちがメシあげようが別にええやろが」
黒猫様を飼おうと言い出したのはヴァッシュだが、拾ってきたのはウルフウッドだ。だからだろうか、ヴァッシュの中では飼い主はウルフウッドという認識らしい。その飼い主を差し置いてご飯をあげてしまったことをヴァッシュは謝るが、ウルフウッド的には二人で飼ってるという認識なので謝られる覚えなどない。
(名付け親のくせに)
それに、拾ったばかりの頃、怪我をしていた黒猫様の通院だって、ウルフウッドが連れて行けない時はヴァッシュが連れて行っていたのに。
(二人で飼っとるんも同然やんか)
ウルフウッドはそこが少し不満だ。
「ウチの子……」
ヴァッシュはまるでその言葉をじっくりと噛み締めるかのように呟いた。それはまるで、何やら感動しているかのようにウルフウッドには見えた。
実際、ヴァッシュは感動していた。『ウチの子』というフレーズに。特に『ウチ』という言葉は何より特別な言葉に思えた。
(まるでウルフウッドと家族になれたみたいだ)
ウルフウッドが意識してその言葉を選んだ訳ではないことくらいもちろんわかっている。けれど、ヴァッシュの胸の内は感動のあまり春の木漏れ日のようにぽかぽかとあたたかくなっていた。
ヴァッシュは知らず柔らかく微笑む。
「ウルフウッド、朝ご飯にしよう」
ヴァッシュは今日はいつもよりも幸せな気持ちで過ごせる日になると思った。まあ、こちらの世界に来てから幸せでない日などなかったけれど。
「おう、今日のメニューは何や?」
「今日はねえ——」
そして、食事を共に。
今日もいい朝だ——。
◆
「ねえ、ウルフウッド。花見に行かない?」
食後のコーヒーを飲んでいた時、ヴァッシュはウルフウッドに今日の予定を提案した。
「花見? 何やそれ?」
「日本の春の風物詩なんだって。桜を見に行くんだよ」
「桜?」
「春の花でとても綺麗らしいよ。去年の春には俺達もうこっちの世界に来てたから、多分どこかでその花を見てるんじゃないかなとは思うんだけど……」
その頃は花の種類など区別が付かなかった。ヴァッシュが知っている花はゼラニウムだけだったから。
「花ならあちこちに咲いとるけど、桜ちうのは特別な花なんか?」
ノーマンズランドでは——いや、〝自分達の知っている地球〟でも、これはあり得ないことだった。こちらの世界には多種多様な花があちこちに咲いているのだ。ウルフウッドは初めて本物の花を見た時の感動を覚えている。そんなこちらの世界でも、〝特別な花〟があるというのだろうか。
「特別、なのかな? 普通に毎年咲いてる花らしいんだけど、どうも日本人は桜を特別視してるみたいでね、大好きなんだって」
「へー」
「その花を見に行くから〝花見〟なんか」
「そうそう。俺達が住んでる下田馬場や隣の杯戸でも桜はたくさん咲くらしいけど、米花では今桜祭りってのがやってて屋台とかも出てるらしいんだ」
「屋台……」
「そう。桜を見ながら食べたり飲んだりできるみたいだよ」
「さよか。ほな花祭りとやらに行ってみよか」
今日は日曜日だ。ヴァッシュもウルフウッドも仕事は休みである。ならば、この休日をこちらの世界——いや、この国の風物詩を楽しむことに費やすのも一興ではないか。
「よかった! じゃあ、早速出掛ける支度しよう!」
ヴァッシュが嬉しそうに——また笑った。
~中略~
【僕が泣いた日】
ヴァッシュはシャワーに打たれながら、両手で頭を抱えてしゃがみ込み、一人悶々としていた。
ヴァッシュがこんな状態になっている理由はウルフウッドにある。
あれはそう、三カ月前のこと。
ヴァッシュはウルフウッドに告白されたのだ。
『お前の気持ちに追い付いとるかは正直わからん。せやけど、ワイはお前が愛おしい。せやから、もう待たんでええで』
——と。
夢を見ているようだった。いや、夢なんじゃないかと思った。ウルフウッドが自分の気持ちに応えてくれるなんて。
確かに、以前二度ほど唇を奪っているが、抵抗も拒否もされなかったので、ウルフウッドが自分を憎からず思ってくれているのはわかっていた。それでも、言葉があるのとないのとではその重みが全然違う。
(ウルフウッド……)
ウルフウッドを想って下半身に熱が集まっていく。
(ハッ! いかんいかん!)
ヴァッシュは頭をぶんぶん振って立ち上がると、勃ち上がりかけた己のペニスを落ち着かせるために、シャワーを水に切り替えて頭から水を浴びた。
冷水にガチガチ歯が鳴る。そして、どうにか落ち着いた下半身にヴァッシュはふうと安堵の息を吐くと、冷えた体を温めるために浴槽に浸かった。
何となく浴槽のお湯を掬い、ヴァッシュはまた考えに耽る。
最初はよかった。
ただ嬉しくて嬉しくて、舞い上がっていられたから。けれど……。
(普通セックスって付き合ってどれくらいでするワケ?)
今、ヴァッシュが悶々としている理由はこれだ。
正直、ヴァッシュはすでにウルフウッドを抱きたくて仕方ない。しかし、まだ早いのではないかとも思うし、いやでも、付き合い始めてもう三カ月も経つのだからそろそろいいのではないかとも思うし……。
ヴァッシュは特定の誰かと付き合ったことなどない。だから、付き合ってどれくらいでセックスをするのかがわからなかった。
まるで童貞だ。
もちろんヴァッシュは童貞ではない。相手は女性だがセックスの経験はある。ぬくもりが欲しくて何度か女性と関係を持った。けれど、それも一夜限りでしかない。しかも、その道のプロの女性とだ。
(キスはもう何度もしてるけど……)
ウルフウッドのキスは最初はぎこちなかった。けれど、今はノリノリだ。ウルフウッドはキスが好きらしい。というか、「キスがこないに気持ちええなんぞ知らんかったわ」とウルフウッドは言ったのだ。その時、ヴァッシュは思わず言ってしまった。「まるでキスしたことがないみたいだな」と。そして知った。実は、ウルフウッドは自分としかキスをしたことがないという意外な事実を。
(俺がファーストキスの相手……‼)
ヴァッシュはそれを聞いた時の嬉しさがまたぶり返してきて、浴槽の中で「ウオー‼」と声なき声を上げ、両手——あちらの地球産の義手は防水加工が施されているので、昔と違って風呂の度に外す必要はない——を高く掲げた。阿呆だった。
残念ながら、セックスの経験はあるらしい。とても言い難そうにしていたが、「ま、任務でな。女抱く必要があったんや」とそれだけ答えてくれた。
(ウルフウッドはどんな風に女性を抱いたんだろう)
ウルフウッドが〝前〟に抱いたという女性に対する嫉妬が首をもたげる。もうその女性は居ないにも拘らず。
(ていうか、そもそもウルフウッドが俺に抱かれることを良しとしてくれるだろうか)
以前、「俺が夫」とか豪語しておきながら、ウルフウッドが男に抱かれることに忌避感を抱くのではないかと今更ながら不安が込み上げる。
(やっぱりちゃんと話し合った方がいいかな)
ヴァッシュはセックスに対するウルフウッドの率直な気持ちをやはり聞いておくべきだと考えた。
先走ってウルフウッドに拒絶されたくない。傷付けたくない。
だって、ウルフウッドはヴァッシュの長い人生でただ一人そういう意味で愛した人なのだから。
~中略~
—END—