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    腐/成人済み/文字書き/TRIGUN(台牧固定)/牧師命/

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    コナン君、哀ちゃん、少年探偵団、赤井さんとの出会い

    化物と探偵【中編】どうかそっとしておいて——。





    コナンはその時ポアロに居た。蘭は園子と連れ立って米花駅前に最近できたことで話題となっているショッピングモールへ行くため、小五郎は身辺調査の依頼が入ったために二人揃って朝から留守にしていたので、いつものようにポアロのカウンター席で昼食を摂っていたのだ。
    ポアロの店内は一番奥のテーブル席以外、カウンター席も含めほぼ満席状態だった。さすがは日曜日である。まあ、ほぼ女性客なところを見るに、安室効果が多大に発揮されているのだろうが。
    ちなみに、一番奥のテーブル席だけが空いているのには訳がある。時代の流れ——健康増進法に従って、ポアロも終日禁煙制を導入していた。しかし、安室の話によると「カフェの名を掲げているならともかく、喫茶店の名を掲げているのに喫煙ができないのはおかしい」と喫茶の意味を履き違えている苦情が何件も入ったようで、苦肉の策として大きな換気扇の真下にある一番奥のテーブル席だけを喫煙席にしたそうなのだ。その話を聞いた時は、『何という詭弁』とさすがのコナンも呆れてしまった。まあ、喫煙者である小五郎は喜んでいたが。
    昼食を済ませ、何か新しい黒の組織の情報はないものかと探りを入れるため、黒の組織へ潜入しているトリプルフェイスの手が空くのを待ちながら、コナンはのんびりと食後のコーヒーを飲んでいた。そんな時だ。その男がポアロに来店してきたのは。
    来店を知らせるベルの音と共に現れたのは、一人の外国人の男。コナンはその外国人の男に対する驚きのあまり、コーヒーカップを持つ手が一瞬震えてしまった。コナンがここまで驚いてしまったのは、その外国人の男の全身が黒ずくめだったからだ。
    (黒ずくめの男! まさか奴らか⁉)
    瞬時に湧き上がってきたのは、コナンの宿敵である黒の組織の構成員ではないかとの疑念。
    こんな時に灰原が居てくれたらと、コナンはもどかしい思いに駆られた。徐々にその感覚は鈍くなってきてはいるが、黒の組織に属する者を判別する嗅覚を持つ灰原が居れば何かわかったかもしれない。だが、灰原はここには居ないし、居てはいけない。居ない者を求めても仕方のないことだ。ならば、自分で確認するよりほかはない。
    (正体を暴いてやる!)
    謎は解かなければならないのと同じで、疑念は払拭しなければならないのだから。
    コナンは盗聴器を仕掛けるタイミングを計るため、カウンター席から気付かれないように密かに外国人の男を観察した。
    黒いスーツ。黒いサングラス。黒い髪。健康的な肌。身長はかなり高い。百九十センチ近くはあるだろう。あれだけの長身でありながら見事なスタイルの持ち主だ。確実に体を鍛えている。鷲鼻の良い横顔。正直同じ男の目から見ても男前だ。年齢は二十代後半から三十代前半。手荷物は何もない。
    黒髪の外国人の男は、入り口に立ってサングラス越しに店内を見回している。誰かを探しているのだろうか。
    「あれ?」
    その声を発したのは、キッチンで洗い物をしていた安室だった。
    「よう、兄ちゃん」
    「ニコラスさん! お一人ですか? ヴァッシュさんは?」
    「あいつなら、ドーナツ屋に置いてきたわ」
    「ああ、そういえば、近くにドーナツ屋の移動販売車が居ましたね」
    (何だ? やけに気安いな)
    黒髪の外国人の男の態度の方もそうだが、何よりコナンが気になったのは安室の態度の方だ。キッチンから顔を覗かせて黒髪の外国人の男に声をかけている安室が、妙に親しげな態度だったのである。しかも、彼の対応は自分がするからと梓に告げると、洗い物の続きを頼んでまでわざわざキッチンから出て来たのだ。トレーに水とおしぼりを用意して。
    「それにしても、今日はどうしてこちらに?」
    「最近ようやっと生活も落ち着いてきたやろ? せやから、今日は米花町を散歩がてら兄ちゃんのバイト先に遊びに行ったろてあいつが言い出しよってな」
    「それは嬉しいですね。——いらっしゃいませ」
    「おう。何や兄ちゃんの作るハムサンド有名らしいやんか。あいつがどうしてもそれ食うてみたいゆーもんやから、ワイらまだ昼飯食うとらんねん。せやから、それ頼むわ。あとコーヒーも」
    「ハムサンドにコーヒーですね? かしこまりました。ヴァッシュさんが到着する頃合いを見計らってお二人分ご用意しますね。まあ、ヴァッシュさんのことですし、ニコラスさんの姿が見えないって気付いたらきっとすぐにここへ駆け付けるでしょうけど」
    「……行動パターン読まれとるやんか、あいつ」
    黒髪の外国人の男が呆れたように言うと、安室が男に向かってにこやかな表情を浮かべて笑う。
    「まあ、これだけの付き合いですからね。——さあ、ニコラスさん、こちらへどうぞ。あそこのテーブル席なら、最近〝煙草を吸えるようにした〟んですよ。今日は喫煙席が空いててよかったです」
    「何や〝気遣わせてしもて〟すまんな、兄ちゃん」
    「どういたしまして」
    「いや、外で吸えへんのキッツいわあ。喫煙所やったっけ? なかなか見付からへんし。そもそも、何で外やのに吸えへんねん」
    「すみません。そういう国でして。——そうだ。今度の煙草はどうでしたか? 口に合いましたか?」
    憮然として文句を付けた黒髪の外国人の男に、申し訳なさそうな顔で謝った安室は、おそらくわざとなのだろう、急に話題を変えた。
    「ああ、アレは美味かったで。ええモン選んでくれて、おおきにな」
    「それはよかった」
    「兄ちゃんの喫煙者の知り合いにも礼ゆーといてや。ワイの吸っとった煙草わざわざ吸うて、味の近いモン探してくれたんやろ?」
    「ええ。でも、これが意外と見付からなくて……。それにしても、ニコラスさん、どれだけキツい煙草を吸っているんですか? 知り合いがあまりのキツさにむせていましたよ?」
    「すまんなあ。酒も煙草もキツないと、この体には効かへんねん」
    喫煙席となった一番奥のテーブル席へ案内しながら、安室が黒髪の外国人の男と繰り広げる親しげな会話に注意深く耳を傾けていたコナンは、安室がキッチンへ戻って来るのを逸る気持ちを抑えてじっと待ち続けた。
    そして、テーブルに水とおしぼりを置いて、黒髪の外国人の男がテーブル席に着いたのを見届けてから、やっとキッチンへ戻って来た安室に、コナンはすかさず潜めた声で話しかける。
    「ねえ、安室さん」
    「何だい? コナン君」
    「あの黒髪の外国人の男の人は誰? 安室さんとすごく親しそうだったけど」
    「あの人は僕の友人だよ」
    「友人? 安室さんの? ねえ、あの黒髪の外国人の男の人まさか——」
    「関係ないよ。あの人は僕の個人的な友人なんだ」
    「ふーん」
    そんな説明で納得できるようなコナンではなかった。何故なら、安室があそこまで親しい友人を作るとは到底思えないからだ。そう、降谷零の仮の姿である安室透の姿で。
    では、あの黒髪の外国人の男はいったい何者なのか。随分と日本語が堪能なようだが、どう見ても外国人の男が日本の公安警察の関係者であるとは思えない。
    しかし、安室が友人だと言うのならば、自分が話しかけに行っても何ら不自然ではないだろう。盗聴器を仕掛けるにも情報収集をするにもまさに打って付けだ。
    コナンは早速カウンター席から飛び降りると、黒髪の外国人の男が座っているテーブル席へ向かった。安室の何か言いたげな視線には気付かずに。
    「ねえねえ、お兄さん」
    「何や、坊主?」
    黒髪の外国人の男は、コナンがテーブル脇に立って声をかけると、何故かまだ半分も吸っていない煙草を灰皿でぎゅっと揉み消し、店内だというのにサングラスも外さずにコナンへ顔を向けた。
    低い、けれどどこか甘い残響を持った、心地良い声だと思った。
    「お兄さん、安室さんの友達なんだってね! ボクも安室さんの友達なんだ! ボクは江戸川コナン! お兄さんのお名前は?」
    「ニコラス・D・ウルフウッドや」
    「カッコイイお名前だね! ミドルネームは何て言うの?」
    「ドコノクミノモンジャワレスマキニシテシズメタルカコラ」
    「は?」
    「冗談や」
    「お、お兄さんって面白い人なんだね!」
    「さよか。——で? 坊主はワイに何の用なんや? 安室の兄ちゃんがワイと友達やゆーても坊主には何も関係あらへんことやし、ワイに何ぞ用でもあるんやろ?」
    「え、ええっと……」
    コナンは内心で焦った。こんな切り返しをされるとは予想していなかったからだ。
    (正論で返してきやがった! 子供ってのは知り合いが親しくしてる人間には好奇心で近付いてくもんだろうが!)
    「ワイのこと、怪しい奴やとでも思ったんか?」
    「あ、怪しいなんて思ってないよ! ただ……そう! お葬式に行くのかなって思って!」
    「葬式?」
    「お兄さんの服が真っ黒だから! 真っ黒な服はお葬式の時に着るんでしょ?」
    「ああ、ちゃうちゃう。黒い服着とんのは葬式行くからやのうて、あくまでお仕事上の理由や。ま、葬式も関係あるお仕事やけどな」
    「お仕事?」
    (葬式が関係ある仕事って——‼)
    その言葉は、更にコナンに懐疑の念を抱かせた。まさか、殺し屋なのか。やはり、黒の組織の構成員なのか。そんな、疑念を。だが、ニコラス・D・ウルフウッドと名乗った黒髪の外国人の男の次の言葉で、コナンは一瞬思考停止させられてしまった。
    「おう。牧師や」
    「——は?」
    「そんな露骨に驚くなや」
    「え、だって、そんなヤ……服装の牧師さんが居ると思わなかったから」
    危うく、「そんなヤ○ザな見た目」と言いそうになってしまったのを、コナンはぐっと堪えて当たり障りのない言葉を選んだ。
    「主よ。世間は偏見と思い込みに満ちています」
    「あ、あはは」
    「あんな? 坊主。いくら牧師かて、プライベートでまで牧師服なんぞ着ぃへんねんで?」
    「そ、そうなの? じゃあ、十字架持ってる?」
    「持っとるけど?」
    「ねえ、見せてもらってもいい?」
    「構へんで」
    黒いスーツの懐から十字架を取り出したニコラス・D・ウルフウッドは、コナンの小さな手にそれを手渡した。じっくりと観察してはみたが、何ということはない極普通の十字架だ。いや、かなり年季の入ったと付け加えるべきか。
    「ありがとう!」
    すぐに興味を失くしたコナンは、笑顔で礼を言ってニコラス・D・ウルフウッドに十字架を返すと、無邪気な子供を装って男の素性に近付くための質問を続ける。まだ、疑心が晴れた訳ではない。
    「お兄さん、外国の人なのに日本語が上手だね! 何でか関西弁だけど。しかも、エセ関西弁だけど。日本には旅行で来たの?」
    「いや、住んどる」
    「お兄さん、日本に住んでるんだ! ねえ、いつから住んでるの?」
    「ちょお前からや」
    「へえ、だったらお兄さんは生まれた国には長く住んでたんだね! ボク、お兄さんがどこの国から来た人なのか知りたいなあ」
    「坊主の知らん所やから、坊主が聞いてもわからんで?」
    「ええー、ボクいっぱい勉強したから、いろいろな国をいっぱい知ってるんだよ? きっと、お兄さんの生まれた国も知ってるよ!」
    「さよか。ほな、これからも勉強頑張りや」
    「う、うん!」
    (チッ。答えねえか。だけど、あんまりしつこく聞いても警戒されちまうな。だったら、何とか上手く会話を誘導してこの男の素性を推理するしかねえ)
    「お兄さん、ちょっと前から日本に住んでるんだよね? どこに住んでるの?」
    「すぐそこや」
    「すぐそこってことは、米花町だね! 米花町ならボクとっても詳しいからどの辺りか教えてよ!」
    「米花町ちゃうで? せやから、坊主は詳しないな」
    (くそっ! いちいちはぐらかしやがる! それなら!)
    「そうなんだ! ねえ、お兄さんは生まれた国には長く住んでたんでしょ? お兄さんの生まれた国と日本はどんなところが違うの?」
    「……雨、やな」
    「雨?」
    「驚いたで。空から水が降ってくんねん。話には聞いとったけど、天の恵みちうモンはホンマにあったんやな」
    サングラスのせいで表情が隠れていてわかり難いが、コナンにはその口元がどこか悲しげな微笑みを湛えているように見えた。その微笑みが何を意味しているのか気にはなったが、やはりそれよりも、コナンが気になったのは男の生まれた国のことだ。
    (雨を見たことがない? 雨が降らない国? そんな国があるか? ワジ・ハルファでも確か年間平均降水量は0.5ミリあるはずだぞ)
    それに、この男の顔はアラブ系ではない。
    「そっか、お兄さんの生まれた国には雨が降らないんだね。ねえ、他にはどんなところが違うの?」
    「緑と……海、やな」
    「緑と海? お兄さんの国には緑と海がないの?」
    「緑やったら増えたかもしれへん。せやけど、さすがに海はないやろな」
    (海がないとなると、内陸国だな。内陸国で緑が少ない国には心当たりがいくつかある。だけど、まったく雨が降らないってのがわかんねえ! 本当にどこの国から来たヤツなんだ⁉ さすがに、パスポートを見せろなんて言ったら怪しまれちまうだろうし)
    こうなったら、質問の切り口を変えてみるしかない。
    ふと、コナンはニコラス・D・ウルフウッドと安室の会話を思い出した。そういえば、安室はこの男には連れが居るようなことを言っていなかったか。ならば、そこから更に会話を誘導していけば、何か掴めるのではないだろうか。
    「お兄さんは一人で日本に来て住んでるの?」
    「いや、連れが居る」
    「へえ! じゃあ、一緒に暮らしてるんだよね? その人はポアロに一緒に来なかったの? ポアロにはお昼ご飯を食べに来たんでしょ?」
    「一緒に来たんやけどな、あいつは先にドーナツ屋に寄っとんねん。ま、もう来よるやろ」
    「お兄さんと一緒に居る人はドーナツが好きなんだね。女の人?」
    「生憎男やねん。色気がのうてすまんなあ」
    (おいおい、子供に向かって色気とか言うか? オレだからよかったようなものの)
    コナンがニコラス・D・ウルフウッドの明け透けな物言いに内心で呆れたその時だった。
    「ウルフウッドォォォォォ」
    いきなり、背後から地を這うような低い声が聞こえ、コナンはびくりと肩を揺らして勢いよく背後を振り返った。
    そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。えんじ色のパーカーにデニムと至って普通の装い。左耳に銀のリングピアス。ツンツンに逆立てた金の髪。白い肌。翠碧の瞳。左目の下に泣きぼくろ。こちらは男前というよりは、どちらかといえば色男の類だ。身長はおそらくニコラス・D・ウルフウッドと同じくらいだろう。そして、こちらもまた見事なスタイルの持ち主だ。年齢は二十代半ばくらいだろうか。ドーナツ屋の袋を抱えている両手は、茶褐色のごついグローブで覆われている。
    先程、ニコラス・D・ウルフウッドが言っていた「連れ」とは、きっとこの男のことだ。やはり、明らかに外国人。安室は確か、「ヴァッシュさん」と言っていたか。
    それにしても、不覚だ。ニコラス・D・ウルフウッドに気を取られ過ぎていたからとはいえ、来店を知らせるベルの音に気付かなかったとは。
    「遅いで、トンガリ」
    「何で先に行くかなあ! すぐに買ってくるからお店の近くで待っててって言ったじゃん! なのに、どこにも居ないし! 慌てたんだぞ! 先に行くなら行くで、一言言ってからにしてくれる⁉」
    「アホ。あないな場所に居ったら、ワイまで甘ったるなってまうわ」
    「君のことだから、どうせ煙草吸いたくなっただけだろ」
    金髪の外国人の男は不貞腐れたような口調でそう言ったかと思うと、何故か次にはまるで痛みを堪えるかのような表情を浮かべた。
    「……なあ。僕の目の届かないところに黙って一人で行かないでくれよ」
    ぽつりと小さく呟かれたその言葉の中に、酷く苦しげな感情を嗅ぎ取ったコナンは、思わず金髪の外国人の男を見上げて声をかけようとした。しかし、コナンが口を開くよりも早く、金髪の外国人の男に向かって何かが飛来し、スカーンと音を立ててその何かが金髪の外国人の男の額に命中する。
    「痛い‼」
    何かが額に当たった反動で、首を後ろに仰け反らせて痛みに声を上げながらも、しかし金髪の外国人の男の右手はしっかりとその何かを胸の前でキャッチしていた。床に落とさないためだったのだろうが、それにしてもそうそう咄嗟にできることではない。たいした動体視力と反射神経だ。
    ちなみに、それはテーブルの上に置いてあるペーパーナプキンスタンドであった。ご丁寧に、ペーパーナプキンは抜かれてある。というか、ニコラス・D・ウルフウッドはいつの間にペーパーナプキンを抜いたのだろうか。
    「だ・か・ら・あ! どうして君はこう手が早いかなあ! 確かに、今のは僕が悪かったかもしれないけど!」
    「気にせんといてな、坊主。こいつ、ごっつ心配性やねん」
    金髪の外国人の男には見向きもせず、ニコラス・D・ウルフウッドがコナンに向かってそう言うと、非難も存在も無視された金髪の外国人の男が溜息を吐いた。
    ペーパーナプキンスタンドが当たった額を摩りながら、金髪の外国人の男はそれをテーブルの上にダンッと置いて傍らに居たコナンに視線を落とすと、やにわにコナンの前にしゃがみ込んだ。コナンの目線に合わせたのだろう。そして、金髪の外国人の男はコナンに向かってふわりと笑った。その笑顔はあまりにも優しく、先程見せた悲痛な表情が嘘のようだ。
    「君、ウルフウッドの暇潰しに付き合ってくれたんだね。ありがとう。ところで、ドーナツは好き?」
    「うん!」
    コナンはレモンパイは好きだが、ドーナツに興味はない。とはいえ、甘い物を拒む子供というのも何となく怪しまれそうな気がして、笑顔で肯定することにした。
    「そう! じゃあ、好きなの選んで。お礼だよ」
    そう言って、金髪の外国人の男はドーナツ屋の袋を開き、コナンに差し出す。ニコニコニコニコと擬音が付きそうなくらいの見事な笑顔だ。
    「わーい! ありがとう! ボクは江戸川コナン! お兄さんのお名前は?」
    「僕はヴァッシュだよ。ヴァッシュ・ザ・スタンピード」
    ドーナツ屋の袋の中から、適当なドーナツを選んで礼を言いながら、コナンはさりげなく金髪の外国人の男の名前を聞き出すのも忘れない。
    正直、ニコラス・D・ウルフウッドよりヴァッシュ・ザ・スタンピードと名乗った男の方が与しやすそうだ。コナンにはそう感じられた。
    ニコラス・D・ウルフウッドはコナンを相手にしているようで、実は相手にしていない。素性に近付くための核心に触れようとすると、無難な情報だけをちらつかせてするりと躱してくる。事件現場ならば容赦なく突っ込んだ質問をして揚げ足を取れるが、事件現場ではないためにあまり突っ込んだ質問をして揚げ足を取れないのが厄介だ。
    けれど、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの登場で風向きが変わった。先程の遣り取りを見るに、この二人は気の置けない仲のようだ。ならば、ヴァッシュ・ザ・スタンピードがニコラス・D・ウルフウッドの素性に繋がる情報を持っている可能性が極めて高い。それに、そんなヴァッシュ・ザ・スタンピードのことも気になる。そこで、コナンは、ターゲットをヴァッシュ・ザ・スタンピードに変えることにした。
    ところが、「よっこいしょ」と若者らしくないかけ声と共に立ち上がったヴァッシュ・ザ・スタンピードから、さあ情報を引き出そうとコナンが口を開きかけたその時。
    「ヴァッシュさん、いらっしゃいませ」
    「やあ、透。お邪魔してるよ。今、この子にドーナツあげちゃったんだけど、やっぱり店内でマナー違反だったかな?」
    「いいえ、構いませんよ。コナン君は〝子供〟ですから」
    二コリと笑って言った安室は、二人分のハムサンドとコーヒーが乗ったトレーをその手に持っていた。安室は先程、「ヴァッシュさんが来る頃合いを見計らって二人分用意しますね」と言っていたが、本当に完璧な頃合いを見計らって用意をしてきたものだ。できる男はこれだから。コナンは音もなく舌打ちをする。
    けれど、コナンはここは引き下がることにした。引き際を見誤るほど愚かではない。とはいえ、盗聴器は仕掛けるつもりだが。
    「黒髪のお兄さん、お話し相手になってくれてありがとう!」
    「おう、構へんで」
    「金髪のお兄さん、ドーナツをくれてありがとう!」
    「どういたしまして。君はちゃんとお礼が言えるいい子だね」
    「えへへ」
    コナンは照れて下を向いた演技をしてから、さもズレてしまったメガネを直しているかのように見える自然さで犯人追跡メガネの右のつるに触れると、素早く盗聴器の部分を外してニコラス・D・ウルフウッドとヴァッシュ・ザ・スタンピードのテーブルの下に気付かれないようにそっとそれを仕掛けた。この時も、コナンはやはり安室の何か言いたげな視線には気付くことはなかった。
    「じゃあ、ボクは席に戻るね!」
    コナンは知らなかった。元気よくそう告げて、ヴァッシュとウルフウッドから離れて行くコナンの背を見送りながら、安室がコナンの行動に内心で『この二人は国家機密に相当する重要人物だというのに何をしてくれているんだ』と溜息を吐いていたことを。
    しかし、そんなことはコナンに教える必要などない情報である。それに、盗聴器の件もコナンの性格と目的を思えば、予想の範囲内の行動だ。
    ところで、コナンがそんな人物に対して盗聴器を仕掛けたことについて、安室は特に心配などしてはいなかった。今はまだ盗聴器を回収するつもりもない。何故なら、ヴァッシュとウルフウッドならば、コナンはさりげなさを装ってるつもりだったのだろうが、見る者が見ればあからさまな不審な行動など、どうせ気付いているに決まっているからだ。
    そもそも、どれほどコナンが類稀な頭脳の持ち主であるとはいえ、ヴァッシュとウルフウッドの会話をいくら盗み聞きしたところで、ヴァッシュとウルフウッドの真実には、決して辿り着けるはずはない。こればかりは、自称探偵に相応しい現実主義が仇となるだろう。
    そして、それはコナンとその忌々しい協力者の興味を引くことは想像に難くない。コナンとその忌々しい協力者が真実には絶対に辿り着けないヴァッシュとウルフウッドの謎に踊ってくれるならば、こちらとしてはむしろ好都合だ。
    「ヴァッシュさん、どうぞ座ってください。ハムサンドとコーヒー、お待たせしました」
    安室はヴァッシュとウルフウッドの座るテーブルの上に二人分のハムサンドとコーヒーを配膳した。ヴァッシュには水とおしぼりも。
    「わーお! それが噂のハムサンド? 本当に美味しそうだね!」
    「ありがとうございます。僕はもうキッチンに戻らないといけませんが、お二人とも、ゆっくりしていってくださいね」
    「おおきに」
    「ありがとう!」
    明るい笑顔と共に手を振るヴァッシュが、ウルフウッドの向かいの席へ腰を落ち着けたのを見届けると、安室はキッチンへ戻って行く。
    そして、ようやくヴァッシュとウルフウッドのテーブル席が静かになると、ウルフウッドがふっと息を吐いてボソリと零した。
    「あー……、やっと煙草吸えるわ」
    「ああ、早く煙草が吸いたくて俺のこと置いてったくせに、吸い殻が全然ないなとは思ってたけど、それってさっきまで子供が傍に居たからだったんだ。お前、相変わらず子供には甘いよね」
    「やかましわ」
    「褒めたのに。——てかさ、最近その甘さを少しは俺に向けて欲しいなあと思うようになりました」
    「……ワイはな、トンガリ。糖分控えめ主義やねん」
    「えー、何その主義。糖分多め主義に転向しない? あ、もちろん俺限定で」
    「嫌や」
    「ちえっ」
    ヴァッシュの提案をスパッと拒否し、ウルフウッドは早速懐から煙草を取り出し火を点ける。やはり、美味い。
    存分に堪能した煙草を灰皿で揉み消したウルフウッドは、胸の前で両手を組んで目を閉じると、食前の祈りを心の中で捧げてからコーヒーカップへ手を伸ばし、中身を一口飲んだ。そして、そのあまりの美味さに驚愕する。インスタントなどとは比べ物にならない美味さだ。
    しかし、次の瞬間には目の前に飛び込んで来た光景に、ウルフウッドの眉間に皺が寄った。ヴァッシュがその美味いコーヒーに、砂糖とミルクをダバダバ入れていたのだ。
    「おんどれ、それはこの美味いコーヒーに対する冒涜やで?」
    「し、仕方ないだろ! 俺は苦いの苦手なんだから!」
    「要は、お子様舌やろ?」
    「お、お前より大人デス!」
    カフェオレと化してしまった贅沢なコーヒーを一口飲んでから、ヴァッシュはムッとした口調でウルフウッドに噛み付いてきた。
    「ああ、そーいえば、ごっつご老体やったな、おんどれ」
    「ご老体言うな! 肉体は新品だもん!」
    「体の傷消えてへんから新品ゆーても何やいまいち実感湧かんわ」
    「え? いつ俺の裸見たの? エッチ」
    「アホか。トレーニングの後とか風呂上がりとかに上半身裸で家ン中ウロウロしとるんは誰や」
    実は、ヴァッシュは未だに毎日の鍛錬を欠かしてはいないのだ。すでに習慣となってしまっているのだろうと、ウルフウッドは考えている。相変わらず、窓も開けずに鍛錬しているものだから、毎日毎日部屋が汗臭くて堪らない。正直、鼻が曲がりそうだ。いちいち換気をするこっちの身にもなって欲しい。せめてもの救いは、寝室ではなく書斎で鍛錬をしていることだろうか。
    ちなみに、ヴァッシュは鍛錬が終わると風呂場へ汗を流しに向かうのだが、行きも帰りも上半身裸のまま家の中を歩き回っているのだ。
    「おんどれホンマあれ止めろや」
    スエットパンツ姿の時はまだいい。けれど、パンツ一丁姿は本当に止めて頂きたい。
    「え? 俺の裸意識しちゃう? ねえ、意識しちゃうの?」
     ヴァッシュは食い気味に聞いた。
     実は、ヴァッシュはウルフウッドに意識させようとわざとやっているのだが、当然そんなことはウルフウッドは知る由もない。
    「いてもうたろか?」
    「遠慮しマス」
    「チッ」
    「コラ! 行儀悪いよ!」
    「やかましわ」
    風呂上がりの件について、ヴァッシュから言質を取れなかったことに、ウルフウッドは舌打ちをした。男の裸一歩手前姿などむさ苦しいだけなので、是が非でも止めさせたいのだが、ヴァッシュはふざけて躱すばかりだ。果ては、食事の席で舌打ちしたことを諫められる始末。
    (はあ、もうええわ)
     ウルフウッドは話にならないと、一旦は匙を投げることにした。
     ヴァッシュはウルフウッドに意識させようとした自分の思惑がまったく功を奏していなかったことに内心ガッカリだ。あれは、自分の精一杯のセクシャルアピールだったのだが……。
    (男同士のセクシャルアピールって難しい)
    「——と、とりあえず、食べようか?」
     何やら、場が白けてしまった。空気を変えようと、ヴァッシュは目の前の食事に意識を向けようとする。ウルフウッドは異を唱えることなく素直に頷く。
    「せやな」
    「いただきます」
    言うと、ヴァッシュはハムサンドに手を伸ばしてかぶり付いた。遅れて、ウルフウッドもハムサンドを口にする。
    「美味しい! これ、美味しいね、ウルフウッド!」
    「ホンマやな」
    「さすが噂になるだけのことはあるね」
    「……なあ」
    「ん?」
    「サーモンサンドとどっちが美味い思う?」
    「う、う~ん……」
    ヴァッシュの好物は、何もドーナツだけではない。実は、サーモンサンドも好物なのだ。甲乙付け難いのだろうか、真剣に頭を悩ませているヴァッシュに、ウルフウッドは呆れた目を向ける。
    「そこまで悩むことかいな」
    ふと、いつのことだったかはもう忘れてしまった——おそらく、旅の途中での何気ない会話だったのだと思う——が、ネブラスカ親子の賞金を全額アインプリルに寄付したことで、「あそこのサーモンサンドが無制限で食べられるんだぜ」とヴァッシュが嬉しそうに話していたなと、ウルフウッドはぼんやりと思い出した。
    「うん! どっちも美味しいと思う!」
    「さよか」
    確かに聞いたのは自分だが、所詮ただの思い付きで聞いてみただけだったため、悩みに悩んだ末のヴァッシュの結論を聞いたところで、ウルフウッドが返した返事は非常に素っ気なかった。
    「え? それだけ? もっと俺に興味を持って!」
    「せやったら、もっとワイが興味を示すような深~い回答せえや」
    「えー、だってこれが俺の噓偽りのない感想なんだもん。美味しいものは美味しいとしか答えられないよ」
    「あー……、ま、せやな」
     正論だ。それに……。
    (食えるだけでマシか)
    こちらの世界には天然資源が豊富にある。すべてがプラント頼みのノーマンズランドとは違うのだ。プラントの死が人類の死に直結するノーマンズランドとは。
    (ホンマ、贅沢な話やで)
    それが、ノーマンズランドを生き抜いてきたウルフウッドの嘘偽りのない感想だった。




    ~中略~



    どうかそっとしておいて——。





    コナンはその時ポアロに居た。蘭は園子と連れ立って米花駅前に最近できたことで話題となっているショッピングモールへ行くため、小五郎は身辺調査の依頼が入ったために二人揃って朝から留守にしていたので、いつものようにポアロのカウンター席で昼食を摂っていたのだ。
    ポアロの店内は一番奥のテーブル席以外、カウンター席も含めほぼ満席状態だった。さすがは日曜日である。まあ、ほぼ女性客なところを見るに、安室効果が多大に発揮されているのだろうが。
    ちなみに、一番奥のテーブル席だけが空いているのには訳がある。時代の流れ——健康増進法に従って、ポアロも終日禁煙制を導入していた。しかし、安室の話によると「カフェの名を掲げているならともかく、喫茶店の名を掲げているのに喫煙ができないのはおかしい」と喫茶の意味を履き違えている苦情が何件も入ったようで、苦肉の策として大きな換気扇の真下にある一番奥のテーブル席だけを喫煙席にしたそうなのだ。その話を聞いた時は、『何という詭弁』とさすがのコナンも呆れてしまった。まあ、喫煙者である小五郎は喜んでいたが。
    昼食を済ませ、何か新しい黒の組織の情報はないものかと探りを入れるため、黒の組織へ潜入しているトリプルフェイスの手が空くのを待ちながら、コナンはのんびりと食後のコーヒーを飲んでいた。そんな時だ。その男がポアロに来店してきたのは。
    来店を知らせるベルの音と共に現れたのは、一人の外国人の男。コナンはその外国人の男に対する驚きのあまり、コーヒーカップを持つ手が一瞬震えてしまった。コナンがここまで驚いてしまったのは、その外国人の男の全身が黒ずくめだったからだ。
    (黒ずくめの男! まさか奴らか⁉)
    瞬時に湧き上がってきたのは、コナンの宿敵である黒の組織の構成員ではないかとの疑念。
    こんな時に灰原が居てくれたらと、コナンはもどかしい思いに駆られた。徐々にその感覚は鈍くなってきてはいるが、黒の組織に属する者を判別する嗅覚を持つ灰原が居れば何かわかったかもしれない。だが、灰原はここには居ないし、居てはいけない。居ない者を求めても仕方のないことだ。ならば、自分で確認するよりほかはない。
    (正体を暴いてやる!)
    謎は解かなければならないのと同じで、疑念は払拭しなければならないのだから。
    コナンは盗聴器を仕掛けるタイミングを計るため、カウンター席から気付かれないように密かに外国人の男を観察した。
    黒いスーツ。黒いサングラス。黒い髪。健康的な肌。身長はかなり高い。百九十センチ近くはあるだろう。あれだけの長身でありながら見事なスタイルの持ち主だ。確実に体を鍛えている。鷲鼻の良い横顔。正直同じ男の目から見ても男前だ。年齢は二十代後半から三十代前半。手荷物は何もない。
    黒髪の外国人の男は、入り口に立ってサングラス越しに店内を見回している。誰かを探しているのだろうか。
    「あれ?」
    その声を発したのは、キッチンで洗い物をしていた安室だった。
    「よう、兄ちゃん」
    「ニコラスさん! お一人ですか? ヴァッシュさんは?」
    「あいつなら、ドーナツ屋に置いてきたわ」
    「ああ、そういえば、近くにドーナツ屋の移動販売車が居ましたね」
    (何だ? やけに気安いな)
    黒髪の外国人の男の態度の方もそうだが、何よりコナンが気になったのは安室の態度の方だ。キッチンから顔を覗かせて黒髪の外国人の男に声をかけている安室が、妙に親しげな態度だったのである。しかも、彼の対応は自分がするからと梓に告げると、洗い物の続きを頼んでまでわざわざキッチンから出て来たのだ。トレーに水とおしぼりを用意して。
    「それにしても、今日はどうしてこちらに?」
    「最近ようやっと生活も落ち着いてきたやろ? せやから、今日は米花町を散歩がてら兄ちゃんのバイト先に遊びに行ったろてあいつが言い出しよってな」
    「それは嬉しいですね。——いらっしゃいませ」
    「おう。何や兄ちゃんの作るハムサンド有名らしいやんか。あいつがどうしてもそれ食うてみたいゆーもんやから、ワイらまだ昼飯食うとらんねん。せやから、それ頼むわ。あとコーヒーも」
    「ハムサンドにコーヒーですね? かしこまりました。ヴァッシュさんが到着する頃合いを見計らってお二人分ご用意しますね。まあ、ヴァッシュさんのことですし、ニコラスさんの姿が見えないって気付いたらきっとすぐにここへ駆け付けるでしょうけど」
    「……行動パターン読まれとるやんか、あいつ」
    黒髪の外国人の男が呆れたように言うと、安室が男に向かってにこやかな表情を浮かべて笑う。
    「まあ、これだけの付き合いですからね。——さあ、ニコラスさん、こちらへどうぞ。あそこのテーブル席なら、最近〝煙草を吸えるようにした〟んですよ。今日は喫煙席が空いててよかったです」
    「何や〝気遣わせてしもて〟すまんな、兄ちゃん」
    「どういたしまして」
    「いや、外で吸えへんのキッツいわあ。喫煙所やったっけ? なかなか見付からへんし。そもそも、何で外やのに吸えへんねん」
    「すみません。そういう国でして。——そうだ。今度の煙草はどうでしたか? 口に合いましたか?」
    憮然として文句を付けた黒髪の外国人の男に、申し訳なさそうな顔で謝った安室は、おそらくわざとなのだろう、急に話題を変えた。
    「ああ、アレは美味かったで。ええモン選んでくれて、おおきにな」
    「それはよかった」
    「兄ちゃんの喫煙者の知り合いにも礼ゆーといてや。ワイの吸っとった煙草わざわざ吸うて、味の近いモン探してくれたんやろ?」
    「ええ。でも、これが意外と見付からなくて……。それにしても、ニコラスさん、どれだけキツい煙草を吸っているんですか? 知り合いがあまりのキツさにむせていましたよ?」
    「すまんなあ。酒も煙草もキツないと、この体には効かへんねん」
    喫煙席となった一番奥のテーブル席へ案内しながら、安室が黒髪の外国人の男と繰り広げる親しげな会話に注意深く耳を傾けていたコナンは、安室がキッチンへ戻って来るのを逸る気持ちを抑えてじっと待ち続けた。
    そして、テーブルに水とおしぼりを置いて、黒髪の外国人の男がテーブル席に着いたのを見届けてから、やっとキッチンへ戻って来た安室に、コナンはすかさず潜めた声で話しかける。
    「ねえ、安室さん」
    「何だい? コナン君」
    「あの黒髪の外国人の男の人は誰? 安室さんとすごく親しそうだったけど」
    「あの人は僕の友人だよ」
    「友人? 安室さんの? ねえ、あの黒髪の外国人の男の人まさか——」
    「関係ないよ。あの人は僕の個人的な友人なんだ」
    「ふーん」
    そんな説明で納得できるようなコナンではなかった。何故なら、安室があそこまで親しい友人を作るとは到底思えないからだ。そう、降谷零の仮の姿である安室透の姿で。
    では、あの黒髪の外国人の男はいったい何者なのか。随分と日本語が堪能なようだが、どう見ても外国人の男が日本の公安警察の関係者であるとは思えない。
    しかし、安室が友人だと言うのならば、自分が話しかけに行っても何ら不自然ではないだろう。盗聴器を仕掛けるにも情報収集をするにもまさに打って付けだ。
    コナンは早速カウンター席から飛び降りると、黒髪の外国人の男が座っているテーブル席へ向かった。安室の何か言いたげな視線には気付かずに。
    「ねえねえ、お兄さん」
    「何や、坊主?」
    黒髪の外国人の男は、コナンがテーブル脇に立って声をかけると、何故かまだ半分も吸っていない煙草を灰皿でぎゅっと揉み消し、店内だというのにサングラスも外さずにコナンへ顔を向けた。
    低い、けれどどこか甘い残響を持った、心地良い声だと思った。
    「お兄さん、安室さんの友達なんだってね! ボクも安室さんの友達なんだ! ボクは江戸川コナン! お兄さんのお名前は?」
    「ニコラス・D・ウルフウッドや」
    「カッコイイお名前だね! ミドルネームは何て言うの?」
    「ドコノクミノモンジャワレスマキニシテシズメタルカコラ」
    「は?」
    「冗談や」
    「お、お兄さんって面白い人なんだね!」
    「さよか。——で? 坊主はワイに何の用なんや? 安室の兄ちゃんがワイと友達やゆーても坊主には何も関係あらへんことやし、ワイに何ぞ用でもあるんやろ?」
    「え、ええっと……」
    コナンは内心で焦った。こんな切り返しをされるとは予想していなかったからだ。
    (正論で返してきやがった! 子供ってのは知り合いが親しくしてる人間には好奇心で近付いてくもんだろうが!)
    「ワイのこと、怪しい奴やとでも思ったんか?」
    「あ、怪しいなんて思ってないよ! ただ……そう! お葬式に行くのかなって思って!」
    「葬式?」
    「お兄さんの服が真っ黒だから! 真っ黒な服はお葬式の時に着るんでしょ?」
    「ああ、ちゃうちゃう。黒い服着とんのは葬式行くからやのうて、あくまでお仕事上の理由や。ま、葬式も関係あるお仕事やけどな」
    「お仕事?」
    (葬式が関係ある仕事って——‼)
    その言葉は、更にコナンに懐疑の念を抱かせた。まさか、殺し屋なのか。やはり、黒の組織の構成員なのか。そんな、疑念を。だが、ニコラス・D・ウルフウッドと名乗った黒髪の外国人の男の次の言葉で、コナンは一瞬思考停止させられてしまった。
    「おう。牧師や」
    「——は?」
    「そんな露骨に驚くなや」
    「え、だって、そんなヤ……服装の牧師さんが居ると思わなかったから」
    危うく、「そんなヤ○ザな見た目」と言いそうになってしまったのを、コナンはぐっと堪えて当たり障りのない言葉を選んだ。
    「主よ。世間は偏見と思い込みに満ちています」
    「あ、あはは」
    「あんな? 坊主。いくら牧師かて、プライベートでまで牧師服なんぞ着ぃへんねんで?」
    「そ、そうなの? じゃあ、十字架持ってる?」
    「持っとるけど?」
    「ねえ、見せてもらってもいい?」
    「構へんで」
    黒いスーツの懐から十字架を取り出したニコラス・D・ウルフウッドは、コナンの小さな手にそれを手渡した。じっくりと観察してはみたが、何ということはない極普通の十字架だ。いや、かなり年季の入ったと付け加えるべきか。
    「ありがとう!」
    すぐに興味を失くしたコナンは、笑顔で礼を言ってニコラス・D・ウルフウッドに十字架を返すと、無邪気な子供を装って男の素性に近付くための質問を続ける。まだ、疑心が晴れた訳ではない。
    「お兄さん、外国の人なのに日本語が上手だね! 何でか関西弁だけど。しかも、エセ関西弁だけど。日本には旅行で来たの?」
    「いや、住んどる」
    「お兄さん、日本に住んでるんだ! ねえ、いつから住んでるの?」
    「ちょお前からや」
    「へえ、だったらお兄さんは生まれた国には長く住んでたんだね! ボク、お兄さんがどこの国から来た人なのか知りたいなあ」
    「坊主の知らん所やから、坊主が聞いてもわからんで?」
    「ええー、ボクいっぱい勉強したから、いろいろな国をいっぱい知ってるんだよ? きっと、お兄さんの生まれた国も知ってるよ!」
    「さよか。ほな、これからも勉強頑張りや」
    「う、うん!」
    (チッ。答えねえか。だけど、あんまりしつこく聞いても警戒されちまうな。だったら、何とか上手く会話を誘導してこの男の素性を推理するしかねえ)
    「お兄さん、ちょっと前から日本に住んでるんだよね? どこに住んでるの?」
    「すぐそこや」
    「すぐそこってことは、米花町だね! 米花町ならボクとっても詳しいからどの辺りか教えてよ!」
    「米花町ちゃうで? せやから、坊主は詳しないな」
    (くそっ! いちいちはぐらかしやがる! それなら!)
    「そうなんだ! ねえ、お兄さんは生まれた国には長く住んでたんでしょ? お兄さんの生まれた国と日本はどんなところが違うの?」
    「……雨、やな」
    「雨?」
    「驚いたで。空から水が降ってくんねん。話には聞いとったけど、天の恵みちうモンはホンマにあったんやな」
    サングラスのせいで表情が隠れていてわかり難いが、コナンにはその口元がどこか悲しげな微笑みを湛えているように見えた。その微笑みが何を意味しているのか気にはなったが、やはりそれよりも、コナンが気になったのは男の生まれた国のことだ。
    (雨を見たことがない? 雨が降らない国? そんな国があるか? ワジ・ハルファでも確か年間平均降水量は0.5ミリあるはずだぞ)
    それに、この男の顔はアラブ系ではない。
    「そっか、お兄さんの生まれた国には雨が降らないんだね。ねえ、他にはどんなところが違うの?」
    「緑と……海、やな」
    「緑と海? お兄さんの国には緑と海がないの?」
    「緑やったら増えたかもしれへん。せやけど、さすがに海はないやろな」
    (海がないとなると、内陸国だな。内陸国で緑が少ない国には心当たりがいくつかある。だけど、まったく雨が降らないってのがわかんねえ! 本当にどこの国から来たヤツなんだ⁉ さすがに、パスポートを見せろなんて言ったら怪しまれちまうだろうし)
    こうなったら、質問の切り口を変えてみるしかない。
    ふと、コナンはニコラス・D・ウルフウッドと安室の会話を思い出した。そういえば、安室はこの男には連れが居るようなことを言っていなかったか。ならば、そこから更に会話を誘導していけば、何か掴めるのではないだろうか。
    「お兄さんは一人で日本に来て住んでるの?」
    「いや、連れが居る」
    「へえ! じゃあ、一緒に暮らしてるんだよね? その人はポアロに一緒に来なかったの? ポアロにはお昼ご飯を食べに来たんでしょ?」
    「一緒に来たんやけどな、あいつは先にドーナツ屋に寄っとんねん。ま、もう来よるやろ」
    「お兄さんと一緒に居る人はドーナツが好きなんだね。女の人?」
    「生憎男やねん。色気がのうてすまんなあ」
    (おいおい、子供に向かって色気とか言うか? オレだからよかったようなものの)
    コナンがニコラス・D・ウルフウッドの明け透けな物言いに内心で呆れたその時だった。
    「ウルフウッドォォォォォ」
    いきなり、背後から地を這うような低い声が聞こえ、コナンはびくりと肩を揺らして勢いよく背後を振り返った。
    そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。えんじ色のパーカーにデニムと至って普通の装い。左耳に銀のリングピアス。ツンツンに逆立てた金の髪。白い肌。翠碧の瞳。左目の下に泣きぼくろ。こちらは男前というよりは、どちらかといえば色男の類だ。身長はおそらくニコラス・D・ウルフウッドと同じくらいだろう。そして、こちらもまた見事なスタイルの持ち主だ。年齢は二十代半ばくらいだろうか。ドーナツ屋の袋を抱えている両手は、茶褐色のごついグローブで覆われている。
    先程、ニコラス・D・ウルフウッドが言っていた「連れ」とは、きっとこの男のことだ。やはり、明らかに外国人。安室は確か、「ヴァッシュさん」と言っていたか。
    それにしても、不覚だ。ニコラス・D・ウルフウッドに気を取られ過ぎていたからとはいえ、来店を知らせるベルの音に気付かなかったとは。
    「遅いで、トンガリ」
    「何で先に行くかなあ! すぐに買ってくるからお店の近くで待っててって言ったじゃん! なのに、どこにも居ないし! 慌てたんだぞ! 先に行くなら行くで、一言言ってからにしてくれる⁉」
    「アホ。あないな場所に居ったら、ワイまで甘ったるなってまうわ」
    「君のことだから、どうせ煙草吸いたくなっただけだろ」
    金髪の外国人の男は不貞腐れたような口調でそう言ったかと思うと、何故か次にはまるで痛みを堪えるかのような表情を浮かべた。
    「……なあ。僕の目の届かないところに黙って一人で行かないでくれよ」
    ぽつりと小さく呟かれたその言葉の中に、酷く苦しげな感情を嗅ぎ取ったコナンは、思わず金髪の外国人の男を見上げて声をかけようとした。しかし、コナンが口を開くよりも早く、金髪の外国人の男に向かって何かが飛来し、スカーンと音を立ててその何かが金髪の外国人の男の額に命中する。
    「痛い‼」
    何かが額に当たった反動で、首を後ろに仰け反らせて痛みに声を上げながらも、しかし金髪の外国人の男の右手はしっかりとその何かを胸の前でキャッチしていた。床に落とさないためだったのだろうが、それにしてもそうそう咄嗟にできることではない。たいした動体視力と反射神経だ。
    ちなみに、それはテーブルの上に置いてあるペーパーナプキンスタンドであった。ご丁寧に、ペーパーナプキンは抜かれてある。というか、ニコラス・D・ウルフウッドはいつの間にペーパーナプキンを抜いたのだろうか。
    「だ・か・ら・あ! どうして君はこう手が早いかなあ! 確かに、今のは僕が悪かったかもしれないけど!」
    「気にせんといてな、坊主。こいつ、ごっつ心配性やねん」
    金髪の外国人の男には見向きもせず、ニコラス・D・ウルフウッドがコナンに向かってそう言うと、非難も存在も無視された金髪の外国人の男が溜息を吐いた。
    ペーパーナプキンスタンドが当たった額を摩りながら、金髪の外国人の男はそれをテーブルの上にダンッと置いて傍らに居たコナンに視線を落とすと、やにわにコナンの前にしゃがみ込んだ。コナンの目線に合わせたのだろう。そして、金髪の外国人の男はコナンに向かってふわりと笑った。その笑顔はあまりにも優しく、先程見せた悲痛な表情が嘘のようだ。
    「君、ウルフウッドの暇潰しに付き合ってくれたんだね。ありがとう。ところで、ドーナツは好き?」
    「うん!」
    コナンはレモンパイは好きだが、ドーナツに興味はない。とはいえ、甘い物を拒む子供というのも何となく怪しまれそうな気がして、笑顔で肯定することにした。
    「そう! じゃあ、好きなの選んで。お礼だよ」
    そう言って、金髪の外国人の男はドーナツ屋の袋を開き、コナンに差し出す。ニコニコニコニコと擬音が付きそうなくらいの見事な笑顔だ。
    「わーい! ありがとう! ボクは江戸川コナン! お兄さんのお名前は?」
    「僕はヴァッシュだよ。ヴァッシュ・ザ・スタンピード」
    ドーナツ屋の袋の中から、適当なドーナツを選んで礼を言いながら、コナンはさりげなく金髪の外国人の男の名前を聞き出すのも忘れない。
    正直、ニコラス・D・ウルフウッドよりヴァッシュ・ザ・スタンピードと名乗った男の方が与しやすそうだ。コナンにはそう感じられた。
    ニコラス・D・ウルフウッドはコナンを相手にしているようで、実は相手にしていない。素性に近付くための核心に触れようとすると、無難な情報だけをちらつかせてするりと躱してくる。事件現場ならば容赦なく突っ込んだ質問をして揚げ足を取れるが、事件現場ではないためにあまり突っ込んだ質問をして揚げ足を取れないのが厄介だ。
    けれど、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの登場で風向きが変わった。先程の遣り取りを見るに、この二人は気の置けない仲のようだ。ならば、ヴァッシュ・ザ・スタンピードがニコラス・D・ウルフウッドの素性に繋がる情報を持っている可能性が極めて高い。それに、そんなヴァッシュ・ザ・スタンピードのことも気になる。そこで、コナンは、ターゲットをヴァッシュ・ザ・スタンピードに変えることにした。
    ところが、「よっこいしょ」と若者らしくないかけ声と共に立ち上がったヴァッシュ・ザ・スタンピードから、さあ情報を引き出そうとコナンが口を開きかけたその時。
    「ヴァッシュさん、いらっしゃいませ」
    「やあ、透。お邪魔してるよ。今、この子にドーナツあげちゃったんだけど、やっぱり店内でマナー違反だったかな?」
    「いいえ、構いませんよ。コナン君は〝子供〟ですから」
    二コリと笑って言った安室は、二人分のハムサンドとコーヒーが乗ったトレーをその手に持っていた。安室は先程、「ヴァッシュさんが来る頃合いを見計らって二人分用意しますね」と言っていたが、本当に完璧な頃合いを見計らって用意をしてきたものだ。できる男はこれだから。コナンは音もなく舌打ちをする。
    けれど、コナンはここは引き下がることにした。引き際を見誤るほど愚かではない。とはいえ、盗聴器は仕掛けるつもりだが。
    「黒髪のお兄さん、お話し相手になってくれてありがとう!」
    「おう、構へんで」
    「金髪のお兄さん、ドーナツをくれてありがとう!」
    「どういたしまして。君はちゃんとお礼が言えるいい子だね」
    「えへへ」
    コナンは照れて下を向いた演技をしてから、さもズレてしまったメガネを直しているかのように見える自然さで犯人追跡メガネの右のつるに触れると、素早く盗聴器の部分を外してニコラス・D・ウルフウッドとヴァッシュ・ザ・スタンピードのテーブルの下に気付かれないようにそっとそれを仕掛けた。この時も、コナンはやはり安室の何か言いたげな視線には気付くことはなかった。
    「じゃあ、ボクは席に戻るね!」
    コナンは知らなかった。元気よくそう告げて、ヴァッシュとウルフウッドから離れて行くコナンの背を見送りながら、安室がコナンの行動に内心で『この二人は国家機密に相当する重要人物だというのに何をしてくれているんだ』と溜息を吐いていたことを。
    しかし、そんなことはコナンに教える必要などない情報である。それに、盗聴器の件もコナンの性格と目的を思えば、予想の範囲内の行動だ。
    ところで、コナンがそんな人物に対して盗聴器を仕掛けたことについて、安室は特に心配などしてはいなかった。今はまだ盗聴器を回収するつもりもない。何故なら、ヴァッシュとウルフウッドならば、コナンはさりげなさを装ってるつもりだったのだろうが、見る者が見ればあからさまな不審な行動など、どうせ気付いているに決まっているからだ。
    そもそも、どれほどコナンが類稀な頭脳の持ち主であるとはいえ、ヴァッシュとウルフウッドの会話をいくら盗み聞きしたところで、ヴァッシュとウルフウッドの真実には、決して辿り着けるはずはない。こればかりは、自称探偵に相応しい現実主義が仇となるだろう。
    そして、それはコナンとその忌々しい協力者の興味を引くことは想像に難くない。コナンとその忌々しい協力者が真実には絶対に辿り着けないヴァッシュとウルフウッドの謎に踊ってくれるならば、こちらとしてはむしろ好都合だ。
    「ヴァッシュさん、どうぞ座ってください。ハムサンドとコーヒー、お待たせしました」
    安室はヴァッシュとウルフウッドの座るテーブルの上に二人分のハムサンドとコーヒーを配膳した。ヴァッシュには水とおしぼりも。
    「わーお! それが噂のハムサンド? 本当に美味しそうだね!」
    「ありがとうございます。僕はもうキッチンに戻らないといけませんが、お二人とも、ゆっくりしていってくださいね」
    「おおきに」
    「ありがとう!」
    明るい笑顔と共に手を振るヴァッシュが、ウルフウッドの向かいの席へ腰を落ち着けたのを見届けると、安室はキッチンへ戻って行く。
    そして、ようやくヴァッシュとウルフウッドのテーブル席が静かになると、ウルフウッドがふっと息を吐いてボソリと零した。
    「あー……、やっと煙草吸えるわ」
    「ああ、早く煙草が吸いたくて俺のこと置いてったくせに、吸い殻が全然ないなとは思ってたけど、それってさっきまで子供が傍に居たからだったんだ。お前、相変わらず子供には甘いよね」
    「やかましわ」
    「褒めたのに。——てかさ、最近その甘さを少しは俺に向けて欲しいなあと思うようになりました」
    「……ワイはな、トンガリ。糖分控えめ主義やねん」
    「えー、何その主義。糖分多め主義に転向しない? あ、もちろん俺限定で」
    「嫌や」
    「ちえっ」
    ヴァッシュの提案をスパッと拒否し、ウルフウッドは早速懐から煙草を取り出し火を点ける。やはり、美味い。
    存分に堪能した煙草を灰皿で揉み消したウルフウッドは、胸の前で両手を組んで目を閉じると、食前の祈りを心の中で捧げてからコーヒーカップへ手を伸ばし、中身を一口飲んだ。そして、そのあまりの美味さに驚愕する。インスタントなどとは比べ物にならない美味さだ。
    しかし、次の瞬間には目の前に飛び込んで来た光景に、ウルフウッドの眉間に皺が寄った。ヴァッシュがその美味いコーヒーに、砂糖とミルクをダバダバ入れていたのだ。
    「おんどれ、それはこの美味いコーヒーに対する冒涜やで?」
    「し、仕方ないだろ! 俺は苦いの苦手なんだから!」
    「要は、お子様舌やろ?」
    「お、お前より大人デス!」
    カフェオレと化してしまった贅沢なコーヒーを一口飲んでから、ヴァッシュはムッとした口調でウルフウッドに噛み付いてきた。
    「ああ、そーいえば、ごっつご老体やったな、おんどれ」
    「ご老体言うな! 肉体は新品だもん!」
    「体の傷消えてへんから新品ゆーても何やいまいち実感湧かんわ」
    「え? いつ俺の裸見たの? エッチ」
    「アホか。トレーニングの後とか風呂上がりとかに上半身裸で家ン中ウロウロしとるんは誰や」
    実は、ヴァッシュは未だに毎日の鍛錬を欠かしてはいないのだ。すでに習慣となってしまっているのだろうと、ウルフウッドは考えている。相変わらず、窓も開けずに鍛錬しているものだから、毎日毎日部屋が汗臭くて堪らない。正直、鼻が曲がりそうだ。いちいち換気をするこっちの身にもなって欲しい。せめてもの救いは、寝室ではなく書斎で鍛錬をしていることだろうか。
    ちなみに、ヴァッシュは鍛錬が終わると風呂場へ汗を流しに向かうのだが、行きも帰りも上半身裸のまま家の中を歩き回っているのだ。
    「おんどれホンマあれ止めろや」
    スエットパンツ姿の時はまだいい。けれど、パンツ一丁姿は本当に止めて頂きたい。
    「え? 俺の裸意識しちゃう? ねえ、意識しちゃうの?」
     ヴァッシュは食い気味に聞いた。
     実は、ヴァッシュはウルフウッドに意識させようとわざとやっているのだが、当然そんなことはウルフウッドは知る由もない。
    「いてもうたろか?」
    「遠慮しマス」
    「チッ」
    「コラ! 行儀悪いよ!」
    「やかましわ」
    風呂上がりの件について、ヴァッシュから言質を取れなかったことに、ウルフウッドは舌打ちをした。男の裸一歩手前姿などむさ苦しいだけなので、是が非でも止めさせたいのだが、ヴァッシュはふざけて躱すばかりだ。果ては、食事の席で舌打ちしたことを諫められる始末。
    (はあ、もうええわ)
     ウルフウッドは話にならないと、一旦は匙を投げることにした。
     ヴァッシュはウルフウッドに意識させようとした自分の思惑がまったく功を奏していなかったことに内心ガッカリだ。あれは、自分の精一杯のセクシャルアピールだったのだが……。
    (男同士のセクシャルアピールって難しい)
    「——と、とりあえず、食べようか?」
     何やら、場が白けてしまった。空気を変えようと、ヴァッシュは目の前の食事に意識を向けようとする。ウルフウッドは異を唱えることなく素直に頷く。
    「せやな」
    「いただきます」
    言うと、ヴァッシュはハムサンドに手を伸ばしてかぶり付いた。遅れて、ウルフウッドもハムサンドを口にする。
    「美味しい! これ、美味しいね、ウルフウッド!」
    「ホンマやな」
    「さすが噂になるだけのことはあるね」
    「……なあ」
    「ん?」
    「サーモンサンドとどっちが美味い思う?」
    「う、う~ん……」
    ヴァッシュの好物は、何もドーナツだけではない。実は、サーモンサンドも好物なのだ。甲乙付け難いのだろうか、真剣に頭を悩ませているヴァッシュに、ウルフウッドは呆れた目を向ける。
    「そこまで悩むことかいな」
    ふと、いつのことだったかはもう忘れてしまった——おそらく、旅の途中での何気ない会話だったのだと思う——が、ネブラスカ親子の賞金を全額アインプリルに寄付したことで、「あそこのサーモンサンドが無制限で食べられるんだぜ」とヴァッシュが嬉しそうに話していたなと、ウルフウッドはぼんやりと思い出した。
    「うん! どっちも美味しいと思う!」
    「さよか」
    確かに聞いたのは自分だが、所詮ただの思い付きで聞いてみただけだったため、悩みに悩んだ末のヴァッシュの結論を聞いたところで、ウルフウッドが返した返事は非常に素っ気なかった。
    「え? それだけ? もっと俺に興味を持って!」
    「せやったら、もっとワイが興味を示すような深~い回答せえや」
    「えー、だってこれが俺の噓偽りのない感想なんだもん。美味しいものは美味しいとしか答えられないよ」
    「あー……、ま、せやな」
     正論だ。それに……。
    (食えるだけでマシか)
    こちらの世界には天然資源が豊富にある。すべてがプラント頼みのノーマンズランドとは違うのだ。プラントの死が人類の死に直結するノーマンズランドとは。
    (ホンマ、贅沢な話やで)
    それが、ノーマンズランドを生き抜いてきたウルフウッドの嘘偽りのない感想だった。



    ~中略~



    未だ原罪を知らぬ清らかなる者は、神の御使いの腕の中で夢を見る——。





    赤井は困っていた。まさか、近所の夫人から乳飲み子を預かることになってしまうとは思ってもみなかったからだ。
    自分の腕の中で顔を赤くして泣き声を上げている乳飲み子を見つめながら、赤井はどうすることもできずにただ途方に暮れていた。



    □□□



    それは、ニコラス・D・ウルフウッドに牽制された次の日の月曜日のことだった。学校が終わったその足でコナンが工藤邸の赤井の元へやって来たのだ。コナンは数日前——正確には三日前の金曜日——にヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドと偶然公園で再会したことを赤井に話して聞かせた。そして、その後に起こった交通事故の話も。
    交通事故の際、コナンはニコラス・D・ウルフウッドがどんなトリックで事故を収めたのか、そしてヴァッシュ・ザ・スタンピードがどんなトリックで子供達を守ったのか見抜けなかったそうだ。しかも、その謎は未だに解けていないそうで、コナンは非常に悔しそうだった。赤井もコナンの話から自分でも推理を試みてみたが、残念ながら謎は解けなかった。まあ、直接目撃していない上に、又聞きともなれば仕方がないだろう。だが、コナンからその話を聞いたことによって、赤井はヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドへの興味をますます深めた。何しろ、あのコナンを出し抜いてみせたのだから。
    それはさて置き、赤井はニコラス・D・ウルフウッドに牽制されてしまったので、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドの監視を止めることにした。だが、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドの正体を掴むことを諦めた訳ではない。監視をするよりも直接的に接触を図る方針へ変えたのだ。まだ、これといった明確な策を講じてはいないのだが。
    赤井の調べによると、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドの出勤日は火曜日と木曜日と土曜日である。そして、今日は金曜日。可能性は低いだろうとは思いながらも、赤井は沖矢昴の姿でコナンがヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドに偶然再会したという公園へ来ていた。同じ時間帯に。
    (やはり居ないか)
    公園にはヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドどころか誰も居なかった。いつもなら、放課後を謳歌する子供達が居るのだが。まあ、たまにはこんなこともあるだろう。
    とりあえず、ベンチで読書をしている振りを装って、一時間くらいは待ってみることにした。その間、赤井はつらつらと考えに耽る。
    ニコラス・D・ウルフウッドに牽制されたあの夜、工藤邸に戻った赤井は、まず自分の首に薄っすらと残っていた索条痕を調べた。何によって首を絞められたのかを特定しようとしたのだ。沖矢昴の姿だったら索条痕を調べるのは困難——チョーカー型変声機を隠すための襟の詰まった服装のため——だっただろうが、あの夜は赤井秀一の姿だったので開襟シャツを着ていた。お陰でと言うのも何だが、どうやら使われたのは細いロープのような物だったということはわかった。
    (ロープ・ファイティング……日本では縄術と言ったか?)
    攻撃や防御、捕縛や制圧に使われる戦闘技術——それが、ロープ・ファイティングだ。近接戦闘技術としては、赤井の得意とする截拳道のように拳足などの肉体を用いる格闘技術と比べてしまえば地味に感じられてしまうが、とんでもない。ロープ・ファイティングは、実は恐ろしい近接戦闘技術なのだ。何より、ロープはある意味では最高の武器でもある。携帯の容易さ——法的に——という拳銃にはない利点があるからだ。それに、ロープ・ファイティングはベルトで代用さえできる技術でもある。おそらく、ニコラス・D・ウルフウッドはベルト代わりにロープを腰に巻いて隠していたのだろう。
    赤井が調べたのはもちろん索条痕だけではない。翌朝早朝には襲撃現場周辺も調べてみた。そして、不自然な物が道端に転がっているのを発見したのだ。それは、パチンコ玉だった。それも、二つ。赤井は確信した。あの夜、自分の両の肩口を撃った物はこれだと。そこで疑問なのが、どうやってあれだけの威力でパチンコ玉を撃ったのかだ。考えられるとしたら——スリングショット。しかし、同時に二発を撃つことならまだともかくとして、それを片手で撃てるスリングショットなど赤井は知らない。故に、スリングショットはあくまでも可能性の一つとして考えている。何故なら、あの時ニコラス・D・ウルフウッドの片手は確実に塞がっていたはずだからだ。
    (そう、俺の首を絞めるために)
    例えば、両の肩口を撃たれたのが先だったのならば、赤井もスリングショットと断定していたかもしれない。けれど、間違いなく首を絞められたのが先だったのだ。では、片手でどうやって自分の両の肩口を撃ったのか。それが、どれだけ考えてもわからないのだ。
    赤井はハンカチでパチンコ玉を包みポケットに入れると、その足で例のコンビニにも行ってみた。防犯カメラの件を確認するためだ。しかし、一足遅かった。防犯カメラはすでに取り外されていたのだ。それとなく店員に話を聞いてみたところ、何でも防犯カメラが何かによって——店員は自分のシフト外の出来事なので詳しいことは知らないと言っていた——破壊されているのを、夜間のパトロール中だった警察官によって〝たまたま〟発見されたのだとか。コンビニ側は電子計算機損壊等業務妨害罪の疑いがあるとして警察に被害届を出し、防犯カメラはその証拠品として警察官によって持ち去られた後だった。つまり、赤井の予想通り防犯カメラが無力化されていたことはわかったが、それが何によって無力化されたのかはわからず終いという訳である。
    (俺の肩を撃った物と防犯カメラを無力化させた物はおそらく同じ物だろう。だが、本当にいったい何を使った?)
    防犯カメラの件が実質空振りに終わってしまったため、赤井は唯一の物証であるパチンコ玉を工藤邸に持ち帰り、指紋検出キットを使って指紋の検出を試みた。だが、パチンコ玉から検出された指紋は複数人分。どうやら、どこかのパチンコ店から適当に持ち去ってきた物だったらしい。ちなみに、検出された指紋のいくつかが、まるで上から手袋をはめた手で触ったかのように途切れていたことから、あの夜のニコラス・D・ウルフウッドが手袋をはめていた可能性も出てきた。そのため、ニコラス・D・ウルフウッドの指紋は今のところは不明である。
    結局、ニコラス・D・ウルフウッドについて正確に判明した事実は、近接戦闘技術——ロープ・ファイティングの使い手であるということのみ。
    赤井はニコラス・D・ウルフウッドを——おそらくはヴァッシュ・ザ・スタンピードも——安室と協力関係にあるNOCなのではないかと考えているため、キールを通じて密かに黒の組織を探らせてはいるのだが、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドが黒の組織に属しているという証拠は今のところ何も見付かってはいなかった。
    (そう簡単には尻尾を掴ませないか……)
    もしや、実力を隠して末端の構成員として属しているのだろうか。そんな地位に収まっていて、何の益があるのかなど思い付かないが。けれど、もしもそうだとすると非常に厄介だ。何故なら、末端ともなればその存在は数え切れないほど居るからである。だが、キールに探らせ始めてからまだ一週間と経ってはいない。まだまだこれからだと、赤井は気を取り直した。
    読んでもいなかった小道具の本から視線を外し、腕時計で現在時刻を確認する。考えに耽っている内に予定していた一時間が経っていたようだ。
    (わかっていたことだが、無駄足だったな)
    まあ、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドに、もしも運よく遭遇できたとしても、まだこれといった明確な策を講じてはいない——沖矢昴の姿で知り合いになり、少しずつ距離を詰めていくことで、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドの懐の中に入り込むという、プランとは呼べないようなプランくらいしか思い付いてはいなかった——現状、正直これは行き当たりばったりの賭けのような行動だった。あわよくば、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドと知り合いになる切っ掛け作りになれば御の字だろう程度の。しかも、どうやら賭けには負けたようだ。
    今日のところは帰ろうと、小道具の本を持ってベンチから立ち上がりかけたその時だった。元気よく公園に走って来た三歳くらいの男の子の後に続いて乳飲み子を抱いた若い女性が公園にやって来たのは。
    (あれは……)
    確か、工藤邸の近所に住んでいる一家——その夫人と子供達だ。今日は非常に過ごしやすい陽気ということもあって、子供達を連れて公園へ散歩にでも来たのだろう。夫人は乳飲み子をあやしながら、早速砂場で遊び始めた男の子を傍らで優しく見守っている。
    気にせず帰ろうとした赤井だったが、またその機会を失ってしまった。近所の工藤邸に住んでいる沖矢昴がベンチに座っていることに夫人が気付いたのだ。夫人は赤井に軽く会釈をすると、挨拶のついでのようなものだろう、儀礼的に話しかけてきた。
    「こんにちは、沖矢さん」
    「こんにちは、奥さん。お子さん達とお散歩ですか?」
    「ええ、そうなんです。今日はとてもいいお天気ですから。沖矢さんは読書をしてたんですね。大学はもう終わりですか?」
    「いえ、自主休講です」
    「あら、そうなんですか」
    顔を合わせた時に挨拶を交わす程度の相手でしかないが、それでも工藤邸に沖矢昴として居候している以上、近所付き合いは大切にしなければならない。沖矢昴の評判は世話になっている工藤一家の近所での評判にも関わるのだ。だから、赤井は偽りの顔に偽りの笑顔を浮かべると、夫人の儀礼的な会話に形式的に乗っかった。
    赤井にはこれ以上会話を続けるつもりはないし、夫人もこれ以上会話を続けるつもりはなさそうだ。子供達に集中したいのだろう。
    今度こそ帰ろうとした赤井だったが、またしてもその機会を失ってしまった。唐突に茂みから飛び出して来て公園の向こうへ走り去って行った猫の後を、男の子が嬉しそうに追いかけて行ってしまったのだ。夫人の制止の声を振り切って。その素早さたるや、見事なものだった。あの男の子の将来はきっと有望だ。
    ちなみに、赤井は完全に虚を突かれた形となってしまったため、男の子の行動に反応することができなかった。
    不幸中の幸いと言うべきか、男の子が向かったのは車道側ではなく住宅街側だ。それでも、早く追いかけて連れ戻さなければ危険であることに変わりはない。赤井は乳飲み子を抱いたままでは走れないだろう夫人を気遣い、座っていたベンチから立ち上がると、自分が追いかけて連れ戻して来ることを夫人に申し出ることにした。乳飲み子の頭を下手に揺すると命に関わることくらい赤井とて知っている。
    「私が追いかけて連れ戻して来ますよ」
    「いえ、あの子、人見知りの激しい子だから他人が行ったらきっと逆効果で……。ああ、そうだわ。工藤さん家の沖矢さんなら安心してお任せできるわ。すみません。すぐに戻りますからこの子をお願いできますか? 大丈夫です。大人しい子ですから」
    「え? あ、はい。わかりました」
    夫人の有無を言わさぬ空気に思わず頷き了承してしまった赤井に乳飲み子を預けると、夫人は男の子の後を追いかけるために走って行ってしまった。
    後には、ほぼ問答無用に預けられてしまった乳飲み子を腕に抱いた赤井だけが、呆然とその場に残される。
    これは、要するにあれだろう。近隣住民の工藤一家に対する信用が、赤井に対する信用にも繋がっているという証明なのだろう。偽装身分で潜伏する者にとって最も重要なことは、近隣住民の中にどれだけ自然に溶け込めるかだ。沖矢昴としてここまで近隣住民の中に溶け込めているということは、赤井にとってはとてもよい傾向である。それでも、だ。
    「どうしてこうなった」
    赤井はぽつりと呟く。次の瞬間だった。まるで火が付いたように乳飲み子が泣き出したのは。
    真っ赤な顔で泣き声を上げる乳飲み子に、赤井は困惑することしかできない。赤井には年の離れた妹の真純が居るが、こんな風に真純をあやした経験などないのだ。
    「待ってくれ。どうしたらいいんだ? 大人しい子なんじゃなかったのか? どこが大丈夫なんだ?」
    「あんた、何してん?」
    突然、背後から声をかけられ、赤井は反射的にバッと背後を振り向いた。そして、そこに居た人物に驚愕する。驚愕のあまり、危うく顔に出してしまうところだった。
    (ニコラス・D・ウルフウッド⁉)
    そう、そこに居た人物とは、紛れもなく赤井の待ち人の内の一人——ニコラス・D・ウルフウッドその人だったのだ。赤井は思った。まただ、と。また足音どころか気配すら感じなかった。また、この自分が声をかけられるまで背後に立たれたことに気付かなかった。いくら慣れない乳飲み子に困惑していたとはいえ、培ってきた経験からどのような状況にあろうとも周囲の警戒だけは怠っていなかったにも拘わらずだ。
    (だが、これはチャンスだ)
    驚愕の表情を抑え込むことに成功した赤井は、次に冷静さを取り戻して思考を回転させる。これはまさに〝プランとは呼べないようなプラン〟と考えていたプランを実行する絶好の機会だと。赤井は負けたと思った賭けに勝ったのだ。
    (まずは、ニコラス・D・ウルフウッドの懐の中に入り込む)
    とはいえ、この状況で声をかけられてほいほいと友好的な態度を見せるというのは、あまりにも不自然だろう。だから、赤井は状況を踏まえた自然な態度を見せる。〝知らない相手に急に話しかけられて少し驚きながら戸惑っている〟という体を装った態度を。
    しかし、内心ではニコラス・D・ウルフウッドが自分に話しかけてきた理由について考えていた。そして、すぐに察しをつける。おそらく、この乳飲み子が理由だろうと。赤井はコナンから聞いて知っていたのだ。ニコラス・D・ウルフウッドは子供に優しいということを。つまり、ニコラス・D・ウルフウッドの弱点は——子供。弱点は利用してこそ価値があるのだ。ならば、この乳飲み子という弱点を利用することによって、ニコラス・D・ウルフウッドの懐の中に入り込むことができるのではないだろうか。
    頑是ない乳飲み子を利用することに特に躊躇いはない。これまで、赤井は目的のためであれば、利用できるものは何でも利用してきた。当然、それは今でも変わらない。例え、そのためにどれほどの罪悪感に苛まれることになろうともだ。
    (急ぐな。少しずつだ。少しずつ段階を踏んでこの男の懐の中に入り込むんだ)
    偶然とはいえ、ニコラス・D・ウルフウッドの弱点が腕の中に居る状況で遭遇できたことによって、事態は自分の有利な方向へ進んでいる——そう思った。だが、この時の赤井はまだ知らない。話は予想外の方向に進んでいくことになるということを。
    「あの、どちら様ですか?」
    「は? 何言うてんねん、あんた」
    「そちらこそ何を言っているんですか? 私は貴方とは会ったことがないんですが……。もしや、誰かと勘違いしているのでは?」
    「あんな? 何週間もワイらの監視しとったくせに、何を今更しらばっくれとんねん。白々しいわ」
    (何だと?)
    赤井は内心で咄嗟に身構えた。ニコラス・D・ウルフウッドの口から、思ってもみなかった言葉が飛び出してきたからだ。
    (どういうことだ? 何故バレている?)
    あの夜のニコラス・D・ウルフウッドの台詞から、監視をしていたことがとうにバレていたことはわかっていたが、赤井には姿までは見られていないという自信があった。それに、例え見られていたとしても何も問題はないはずだったのだ。何故なら、監視をする際は沖矢昴の姿ではなく、常に赤井秀一の姿だったからである。それは、こういった場面を想定し、先を見越してのことだった。あの夜の諸事情とはつまりはそういうことだ。そう、赤井秀一の姿を見られていたとしても、沖矢昴の姿で接触を図れるようにするための——保険。なのに、これはいったいどういうことだ。
    (いや、待て。本当にバレているのか?)
    もしかしたら、この発言は鎌掛けということもあり得るかもしれない。ニコラス・D・ウルフウッドが確証を持って発言しているとは限らないではないか。ここで対応を間違えたら、相手の思う壺である。とりあえず、赤井は空っ惚けてみることにした。
    「監視ですか? まるで警察か探偵のようですね。しかし、私は警察でも探偵でもありませんよ。私は沖矢昴といって、東都大学大学院工学部博士課程の大学院生——」
    「いやいや、顔と名前と身分を変える前に、まず気配を変えろや。バレバレやで」
    赤井の言葉尻を奪ってそう言うと、ニコラス・D・ウルフウッドは赤井に呆れた視線を向けてきた。いつものサングラス越しではあったが、あからさまなその視線くらいさすがに感じ取れる。
    そして、赤井は完全に理解した。自分が監視者であったことを完全に見抜かれているということを。
    (予想外だ……)
    まさか、気配で見抜かれるとは思いもしていなかった。何故なら、赤井は赤井秀一の姿の時と沖矢昴の姿の時では気配を変えていたからだ。
    ところで、赤井にはニコラス・D・ウルフウッドの発言から確信したことが五つある。ニコラス・D・ウルフウッドは赤井の本当の顔を知っているということ。本当の名前を知っているということ。本当の身分を知っているということ。しかし、本当の声は知らないということ。顔と名前と身分のことは指摘されたが、声のことまで指摘されなかったのがその証拠だ。それから、やはりニコラス・D・ウルフウッドは〝犯罪者側〟ではないということ。赤井の本当の身分——FBI捜査官であることを知っていたのなら尚更、あの夜に始末されなかったのがその証拠だ。
    ちなみに、これはまだ確信した訳ではないことなのだが、安室にも沖矢昴の正体が赤井秀一であることがバレている可能性が非常に高い。何しろ、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドは安室と協力関係にあるかもしれないのだから。いや、むしろニコラス・D・ウルフウッドの情報源が安室であると考えた方が妥当だろうか。沖矢昴の正体が赤井秀一であることは、工藤優作を替え玉に使って誤魔化しはしたが、あの優秀な男をいつまでも誤魔化し切れるとは赤井とて思ってはいないのだから。
    (ここまで知られているのなら、これ以上茶番を続けるのは無意味か)
    赤井は沖矢昴の姿のまま、スッと眼鏡の奥の細目を開いて赤井秀一に切り替えた。けれど、赤井の鋭い眼光と、その腕の中で泣き声を上げている乳飲み子の存在が、絶妙にアンバランスである。
    「気配なら、変えてたんだが?」
    「あんたが変えてたんは気配やない。ただの雰囲気や」
    赤井は怪訝に眉根を寄せた。ニコラス・D・ウルフウッドの言葉の意味がわからなかったのだ。繰り返すが、赤井は赤井秀一の姿の時と沖矢昴の姿の時では気配を変えていたからだ。それも、完璧に。なのに、ニコラス・D・ウルフウッドは自分が変えていたのは気配ではなく雰囲気だと言った。これは、どういう意味なのだろうか。
    もしや、ニコラス・D・ウルフウッドの前では、どんなに特殊メイクで姿を変えようと、どんなに気配を変えようと、何の意味も成さないということなのだろうか。何を以てして個の特定を可能にしているのかまではわからないが、もしもそうだとすると、それは自分のように潜伏生活をする者にとってはとんでもない脅威だ。赤井は得体の知れないその能力に薄気味悪さを覚えた。
    その時、不意に赤井の脳内にとある可能性が閃く。ニコラス・D・ウルフウッドならば、あの魔女——ベルモットの変装すらも見抜けるかもしれないという可能性だ。その可能性に思い至った瞬間、赤井はより一層、ニコラス・D・ウルフウッドを、そしてヴァッシュ・ザ・スタンピードを味方に引き入れたい気持ちが強くなった。
    「なるほど。やはり君は興味深い。……欲しいな」
    「ワイ、そーゆー趣味ないんで。他当たってくれまへんか? そんで二度とワイに近寄らんといてや。お婿に行けへんようになってまうわ」
    「妙な勘違いは止めてくれ。欲しいと言ったのはその能力のことだ」
    「ないものねだりは止めとき。後な、冗談をクソ真面目に返さんといてや。——ところで、その子あんたの子なんか?」
    「違う。近所の奥さんに少し預かってくれと頼まれてしまったんだ」
    「ふーん」
    気のない返事をしたかと思うと、ニコラス・D・ウルフウッドは未だに泣き止む様子のない乳飲み子の小さな口元に指で触れ、その行為によって何かを悟ったように頷いた。赤井にはその行為の意味はわからない。
    「腹空かしとるんとちゃうな。糞尿の臭いもせんちうことはオシメもキレイやろ。せやのに、この子がぐずっとるんはあんたのあやし方が悪いんやな。しっかりあやさんかい」
    「あ、赤ん坊のあやし方なんて知らないんだ」
    赤井は思わず泣き言を漏らしてしまった。情けないが、こればかりは仕方がない。誰にだって、できないことの一つや二つはあるのだから。内心でそんな言い訳をしていたその時、赤井はふと気付いた。ニコラス・D・ウルフウッドが常に纏っている飄々とした空気が、何かを迷うかのようにほんの僅かに揺れたことに。
    (どうしたんだ?)
    怪訝な顔をした赤井を余所に、ニコラス・D・ウルフウッドが溜息を吐く。そして、おもむろにサングラスを外し、それを黒いスーツの懐に仕舞った。
    「——!」
    赤井はそこにあった瞳に軽く息を呑む。サングラスの下から現れたその瞳が、世界的にも希少価値が非常に高いゴールデン・イエローの瞳だったからだ。だが、ニコラス・D・ウルフウッドが教会で働いている様子も密かに監視——バレていたけれど——をしていたが、その瞳の色は黒かったはずだ。それにヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドが卒業した神学校の卒業アルバムの写真も見たが、その瞳の色は黒かったはずだ。
    (そうか! カラーコンタクトか!)
    つまり、これがニコラス・D・ウルフウッドの本来の瞳の色なのだろう。しかし、正直この瞳は目立ち過ぎる。だから、普段は頑なにサングラスをかけているのだろう。この、世界的にも希少価値が非常に高い瞳を隠すために。
    赤井がニコラス・D・ウルフウッドのサングラスの理由に内心で納得していると、ニコラス・D・ウルフウッドが赤井に向かってぶっきらぼうにこう言った。
    「——貸してみい」
    一瞬、何を貸せと言われたのか理解できなかったが、すぐにこの乳飲み子のことかと理解する。言われた通りに、赤井はニコラス・D・ウルフウッドへ乳飲み子を恐る恐る渡した。
    そして、赤井は唖然とする。あれほど泣き止まなかった乳飲み子が、ニコラス・D・ウルフウッドがその腕に抱いたその瞬間、嘘のようにピタリと泣き止んだからだ。しかも、ようやく安心できる場所を見付けたかのように、乳飲み子は落ち着き安らいだ表情を浮かべているではないか。
    「よしよし。ええ子やな。嬢ちゃんはえらい器量よしさんやから、将来は男を手玉に取って振り回すんやで。べっぴんさんは男を振り回してナンボなんやからな」
    (女の子、だったのか……)
    赤井には乳飲み子の性別などまるでわからなかった。乳飲み子が男の子とも女の子とも取れる服装をしていたからだ。服装に性別の特徴もないというのに、よく女の子だとわかったものだと、思わず感心してしまった赤井は、次の瞬間そんな自分に内心で突っ込みを入れていた。
    (ちょっと待て)
    それ以前に、乳飲み子に向かって何というとんでもない入れ知恵をしているのだ、この男は。それも、まるで今日の陽気のようにとても朗らかな口調で。
    (だが、赤ん坊の扱いは見事なものだな)
    ニコラス・D・ウルフウッドのよろしくない発言はとりあえず置いておいて、乳飲み子の扱いは本当に堂に入ったものだった。
    赤井の調査によると、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドが育ったイタリアのルーテル教会の修道院は孤児院の真似事もしていたはずだ。ニコラス・D・ウルフウッドのこの乳飲み子の手慣れた扱いは、もしかしたらその時に身に付けたものなのかもしれない。そんなことを考えていた時だった。ふと、赤井の耳を小さな囁きが撫でたような気がしたのは。
    (——? 何だ?)
    どうやら、ニコラス・D・ウルフウッドが乳飲み子を見つめながら小さく何かを囁いているようだ。乳飲み子がまだ言葉もわからないのをいいことに、また何かとんでもない入れ知恵をしているのではとも思ったが、それにしては先程とは明らかに様子が違う。静かなのだ。乳飲み子を見つめるその金色の瞳があまりにも。
    何を囁いているのか気になった赤井は、聴覚を研ぎ澄ませてその囁きに耳をそばだててみた。
    そして、気付く。
    それは、祈り。祝福の祈りだ。

    願わくは 主があなたを祝福し
    あなたを守られるように
    願わくは 主がみ顔をもって
    あなたを照らし あなたを恵まれるように
    願わくは 主がみ顔をあなたに向け
    あなたに平安を賜わるように

    腕の中の乳飲み子に祝福の祈りを捧げるその姿は、侵し難い崇高なる者のように見えた。神聖な聖堂を彩るフレスコ画に描かれた聖人の如く。
    赤井はその光景にただただ魅入られた。
    そして、思う。自分を遥かに凌ぐ恐ろしい戦闘能力を持っていて、化け物だとさえ思った男だというのに、けれどその姿はまるで……。
    (まるで……)
    そう、まるで——聖ニコラウスのようだ。聖ニコラウスは無実の罪に苦しむ人の守護聖人として知られているが、実は子供の守護聖人でもある。図らずも、ニコラウスを英語で読むとニコラスなのだ。
    だからだろうか、赤井の胸の奥にそんな聖人を前にした時の崇敬の念にも似たような厳かな感情が湧き上がってきたのは。
    「……本当に牧師だったんだな」
    「あ?」
    この静謐な空気を壊すつもりなどなかった。しかし、無意識に言葉が口を衝いて出てしまったのだ。案の定、自分の言葉にニコラス・D・ウルフウッドが冷めた視線を向けたことで、静謐な空気は一瞬にして霧散してしまう。赤井は自分の無意識の発言を少なからず後悔した。今、自分は冒してはならない何かを冒したのだと。
    「喧嘩売っとるんならいくらでも買うたるで。お代は拳やけどな」
    「いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。今のがあまりにも様になっていたものだから……」
    「今の? 何のことや?」
    言葉の通り、ニコラス・D・ウルフウッドは何を言われているのかまるでピンときていない顔をしている。瞬いたその眼差しの中には、本当に不可解そうな感情が宿っていた。そのことに、赤井は軽く驚く。
    (まさか、今の祝福の祈りは無自覚だったのか?)
    この反応を見るに、おそらくはそうなのだろうと判断する。
    そして、赤井は困惑した。
    (この男は何なんだ?)
    ——と。
    確かに、ニコラス・D・ウルフウッドはイタリアのルーテル教会の修道院で育っている。日本のルーテル教会の神学校を卒業している。現在も日本のルーテル教会で見習い牧師をしている。だが、赤井はニコラス・D・ウルフウッドの牧師という身分は偽装身分だろうと考えていたのだ。先程の無意識の発言はそのせいである。けれど、そう考えてしまっていたのも仕方がないではないか。何しろ、この男は自分を遥かに凌ぐ恐ろしい戦闘能力を持った化け物なのだから。
    しかし、その自分を遥かに凌ぐ恐ろしい戦闘能力を持った化け物は、無自覚に乳飲み子へ祝福の祈りを捧げる聖人の如き牧師であることを知った。
    赤井にはもう、ニコラス・D・ウルフウッドという人物がわからない。
    そんな赤井の内心の困惑を余所に、ニコラス・D・ウルフウッドは己が無自覚に祝福の祈りを捧げたその乳飲み子を、赤井にそっと返してきた。
    「ほれ。眠ったで。もう泣かさんときや」
    「あ、ああ」
    反射的に返された乳飲み子を受け取り、見れば乳飲み子は本当に健やかに眠っている。
    あれほど泣き止まなかった乳飲み子をあっさりと泣き止ませて、あまつさえあっさりと寝かし付けてしまうとは。その手慣れた扱いには改めて感服するしかない。
    赤井はまた乳飲み子を泣かせてしまわないようにと、先程のニコラス・D・ウルフウッドの乳飲み子の抱き方を真似してみた。
    「あんな? 赤ん坊を抱く時はこう心臓の音が聞こえるように抱いたれ。そうすると、赤ん坊は安心すんねん」
    「詳しいんだな。君達が育ったイタリアのルーテル教会の修道院が孤児院の真似事をしていたことと関係があるのか?」
    この質問は釣りだ。
    実は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドの経歴を調べていたことまで知られているのか、そこまでの確証を赤井は持っていなかったのである。だから、赤井は一か八かで餌を付けて竿を投じてみることにしたのだ。もちろん、これが危険な行為であることくらいはわかっている。場合によっては、自分に対する警戒意識だけならまだしも、敵対意識を生む可能性さえあるだろう。けれど、赤井はその可能性はかなり低いと考えている。何故なら、相手は自分がFBI捜査官であることを知っていたからだ。ならば、その情報網を使って経歴を調べていたことは知られていると考えて然るべきだろう。それを、確認する必要があったのだ。
    「何や? ワイらのこと調べとったて隠さんでええんかいな?」
    (やはり知られていたか)
     赤井は自分の考えが正しかったことを知った。けれど、それを顔にも態度にも出しはしない。それどころか、最初からそんなことは見抜いているという体を装う。
    「知られていると知っていて、隠す意味はないだろう?」
    「ま、せやな」
    「君がここに来たのは、また俺を牽制するためか?」
    「ちゃうわ。今日あんたに会うたんは偶然や。偶然。あれ以来あんたワイらの監視止めたやんか。また面倒なマネする必要なんぞあらへんやろ。……今のところは」
    「そっちも俺を襲撃したことを隠さなくていいのか?」
    「アホかい。隠そう思っとったらあん時に声なんぞかけとらんわ」
    そんなことはわかっている。そもそも、自分達の周りをチョロチョロするなと牽制してきた時点で、ニコラス・D・ウルフウッドには襲撃者が自分であることを隠すつもりなど更々なかったのだ。あれは、正しく牽制——実力を見せ付けることによる脅しに他ならない。
    「君は……いや、君達は何者なんだ?」
    監視をしていたことや経歴を調べていたことを知られていただけならまだしも、本当の顔や名前や身分までも知られている以上、もはや沖矢昴の姿で知り合いになり、少しずつ距離を詰めていくことで懐の中に入り込むというプランは事実上不可能となった。ならば、ここは一旦引いてキールの調査を待つのが賢いやり方だろう。しかし、赤井は敢えて直球勝負という愚かな行動を取った。
    「調べとったんやから知っとるやろ?」
    「ああ、君達の経歴は真っ白だった。だが、少なくとも君は戦闘の——プロだ」
    「ま、そう思うとるんなら、勝手にそう思うとけばええんちゃうか? あんたがワイのことをどう思うとろうと、ワイにはどうでもええことや」
    「俺は真実を知りたい」
    そう、知りたいのだ。ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドが何者なのかを。安室との、そして黒の組織との関係を。
    そんな赤井に、ニコラス・D・ウルフウッドは溜息を吐いてみせた。そして、白けた目を向けてくる。
    「知りたがりはこれやから嫌やわ。——で? またワイらの監視でも再開するんかいな?」
    「いや、もうあんな恐ろしい体験は懲り懲りだ」
    「そらよかった。アレで懲りてくれへんかったら、ホンマに実力出さなあかんかったとこやで」
    (何……だと……?)
    その言葉に赤井は戦慄した。背中に冷たいものが流れていくのを感じる。何故なら、ニコラス・D・ウルフウッドのその言葉は、あの程度は実力の内にも入らないと言っているも同然だったからだ。
    (馬鹿な‼ あの時、俺は手も足も出なかったんだぞ⁉)
    だから、否定したかった。けれど、赤井は直感で理解できてしまったのだ。その言葉が欺瞞や虚勢や自惚れではなく、紛れもない事実であるということを。では、ニコラス・D・ウルフウッドの本当の実力とは、いったいどれほどのものなのだろうか。思わず、密かに懐に忍ばせている拳銃に手を伸ばしたい衝動に駆られた。ニコラス・D・ウルフウッドの本当の実力を見たいという欲求のためではない。目の前の脅威を排除したいという生物が持つ本能のためだ。だが、赤井は意志の力でそれを抑え込む。拳銃に手を伸ばした瞬間、それが自分の最後だと感じ取ったからだ。
    (落ち着け)
    畏怖に憑り付かれながらも、赤井はゆっくりと息を吐くことで頭を冷やす。
    (やはり、何としても味方に引き入れるべきだ)
    あの夜、味方に引き入れたいと考えた自分は正しかった。さもなくば、この男の存在が——いや、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの存在も含めて、いずれ何らかの形で自分の目的の脅威となるかもしれない。ならば、脅威となる前に協力関係を結んで、その強力な戦力を得るべきだ。そう思った。
    しかし、この時も赤井はやはり自分の思考がいかに危うく迂闊であるかに気付いていなかった。そう、あの夜と同じく。ニコラス・D・ウルフウッドは〝犯罪者側〟ではないという一点のみに思考を囚われ、最も肝心なことに都合よく蓋をしてしまっていたのである。だからこそ、スルリと自然にこんな言葉が出てきてしまったのだ。
    「俺は君達と協力関係を結びたいと思っている」
    「はあ? あんたアホなんか? ワイはあん時ワイらの周りをチョロチョロするなてゆーたよな? 目障りやてゆーたよな? せやのに、何でそんな言葉が出てくんねん。あんた、どんだけ面の皮が厚いんや」
    面の皮が厚い——その言葉に頭を鈍器でぶん殴られた気分だった。ニコラス・D・ウルフウッドの言うことがもっともだったからだ。
    (俺は……何を言っている)
    赤井は自分の厚顔無恥も過ぎる発言に吐き気を覚えた。何故なら、自分はあの夜から間違いなくその可能性を考慮に入れていたはずだったからだ。ヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドが安室と協力関係にあるのではないかというその可能性を。そして、もしも自分のその考えが正しかった場合、自分の今の発言は日本の公安警察と協力関係を結びたいと言ったも同然なのだ。その程度のことは少し考えればわかることであったのに、黒の組織の壊滅という願望、そしてこの男の強さに対する畏怖に駆られるあまり、自分の発言の迂闊さに考えが及ばなかった。
    そもそも、未だに正確な正体すら判明していない相手に向かって、協力関係も何もあったものではないだろう。何故、そんな簡単なことに思い至らなかったのか。
    スッと息を吸うと、赤井は冷静に自分を分析する。
    思い返してみれば、自分の思考の迂闊さはあの夜だけに限ったことではない。最近の自分の思考、そして行動を振り返ってみると、迂闊なだけではなく、形振り構っていなかったり、行き当たりばったりだったりの傾向が見られる。そして、それがどんどん顕著に表れていっていることを再認識させられてしまった。
    (もしかすると、俺には黒の組織の壊滅に固執するあまり、判断能力が狂ってしまう欠点のようなものがあるのかもしれないな)
    そう、実は正しくその通りなのだ。本来、赤井は非常に優秀な男なのである。でなければ、いくらスナイパーとしての腕が優秀であろうが、FBI捜査官にまで昇り詰めることなどできる訳がない。だが、赤井は黒の組織の壊滅という渇望に目が眩んで、無意識に傍若無人、専横跋扈、視野狭窄になっていたのである。厚顔無恥と罵られても致し方ないことをしてきてしまった。
    (そうだ。本来なら俺のやっていることはすべて違法だということを忘れてはいけない)
    ここは日本なのだ。そして、自分は目的のためとはいえ、他国の縄張りを許可なく勝手に荒らしている。違法滞在、違法捜査、銃の違法所持、捜査妨害、そして死体損壊罪に死体遺棄罪まで犯してしまった。何より、あの正義感の強い小さなホームズに自分のために犯罪教唆と犯罪幇助と死体遺棄の罪まで負わせてしまった。犯罪者にさせてしまった。もしも、これが逆の立場であった場合、自分はどう思うだろうか。もちろん、許せないと思うだろう。何様だと思うだろう。だというのに、自分はそのことを考えもしなかった。いや、おそらく心の底では考えてはいたのだ。ただ、無意識に日本警察を見下して舐めていたのだ。
    (安室君が怒るのも当然だな。俺は俺の立場をもう少し弁えるべきだった)
    自分のそんな傲慢さに気付き、赤井は何だかスッキリとした気分だった。そして、ニコラス・D・ウルフウッドに頭を下げる。
    「どうやら俺は冷静じゃなかったようだ。コソコソと後を付け回していたことも含めて謝罪する。すまなかった」
    「あー……、ま、あんたが鬱陶しいことしたせいやし、やり過ぎやったとは思っとらんけど、ワイもちょおおいたしてもうたんは事実や。せやから、これでおあいこゆーことにせえへんか?」
    「ああ」
    気になってしまうのは仕方がない。それでも、もうヴァッシュ・ザ・スタンピードとニコラス・D・ウルフウッドの正体を無理に探ることは止めにしよう。もちろん、キールに探らせるのもだ。ただ……。
    「お。帰って来たみたいやで。その子のおかん」
    「え?」
    唐突に、ニコラス・D・ウルフウッドが住宅街の方へ視線を向けて、そんなことを言った。赤井もその視線の先を見遣ってみたが、夫人の姿などどこにも見えない。ニコラス・D・ウルフウッドは何故気付いたのだろうか。疑問に思っていると、ニコラス・D・ウルフウッドは懐から取り出したサングラスをかけ、あっさりと赤井に背を向けてしまった。
    「ほな。ワイはもう行くわ」
    「ま、待ってくれ!」
    「まだ、何ぞあるんかいな?」
    立ち止って振り向いたニコラス・D・ウルフウッドに内心で安堵しながら、赤井は一縷の望みを賭けてニコラス・D・ウルフウッドに提案する。
    「たまにで構わないんだ。会って話をしてくれないか? もちろん、君達のことを詮索するようなことはしないと約束する」
    赤井のそんな殊勝な提案に、ニコラス・D・ウルフウッドは少し考えてから頷いた。
    「ワイらのこと嗅ぎ回らんでくれんなら考えてもええで。ほなな」
    そして、今度こそ振り向きもせずにニコラス・D・ウルフウッドは公園を歩き去って行く。その後ろ姿を眺めながら、赤井は笑みを浮かべて思う。
    (ああ、もう嗅ぎ回らないとも)
    正し、それはもう関わらないという意味ではないが。
    赤井の口元が意味ありげに弧を描く。
    やがて、赤井にも猫の後を追いかけて行ってしまった男の子の手を握って戻って来る夫人の姿が、遠くに見えてきた。




    ~中略~



    どうか生まれてきたことを嘆かないで——。





    その日、ウルフウッドは朝から一人だった。
    朝飯は昨日の夕食の残り物を適当につまんで済ませることができたが、さすがに昼食は自分で作って済ませるしかない。けれど、結局ウルフウッドが昼食を作ることはなかった。
    ウルフウッドは別に食事を作れない訳ではない。孤児院に居た時には毎日厨房を手伝っていたのだから。そもそも、ヴァッシュとの同居もすべてが当番制だ。それは、食事も同様。しかし、どうしても昼食を作る気にはなれなかった——実は、精神的にそんなゆとりがなかった——ウルフウッドは、安室がバイトをしているポアロで昼食を済ませることにしたのだ。
    平日ということもあってか、店内にコナンの姿はない。お陰で落ち着いて昼食を済ませることができた。正直、コナンを適当にあしらうのは食事を作るよりも面倒だ。
    ちなみに、安室の姿もなかった。おそらくは仕事だろう。
    (忙しい兄ちゃんやなあ)
    降谷としてなのか、安室としてなのか、それともバーボンとしてなのか。どちらにせよ、仕事であることには変わりはないだろう。いや、休暇という可能性もなくはない。だが、あの男のことだ、可能性としては限りなく低いことくらいウルフウッドもすでに知っている。
    ところで、ウルフウッドが朝から一人だったのには理由があった。別に、大した理由ではない。ただ単に、ヴァッシュが仕事で居ないだけだ。
    ヴァッシュとウルフウッドは、ヴァッシュの希望でなるべく休日を合わせるようにしているのだが、それでもお互いの休日が擦れ違ってしまうことも稀にあった。ウルフウッドが時々教会の急な手伝いに駆り出されることがあるように、ヴァッシュも時々施設の急な手伝いに駆り出されることがあるからだ。そして、今日はヴァッシュが急な手伝いに駆り出されてお互いの休日が擦れ違ってしまった、そんな日だった。
    ポアロで昼食を済ませたウルフウッドは、ひと月ほど前にヴァッシュと共にコナンから友達だと言って紹介された〝三人の子供達〟と知り合い、そしてそのすぐ後に個人的にFBI捜査官の赤井と再会——あの日、ウルフウッドが一人だったのも今日と同じ理由だ——をした、今は誰も居ない静かな公園のベンチに座って、気晴らしと手慰みにアーミーナイフで木片を削っていた。あることでひたすらに悩みながら。果たして、ウルフウッドが悩んでいるあることとは、ヴァッシュのことについてである。
    事の起こりは昨夜だった。本来ならば、休日であるはずの水曜日——基本的に、火曜日と木曜日と土曜日がヴァッシュとウルフウッドの出勤日だ——に急遽仕事が入ったため、出勤スケジュール表を兼ねたカレンダーに『仕事』と書き込んでいたヴァッシュが、不意にこんなことを言い出したのだ。「今月は五日と明日の十九日、それから今度の金曜日の二十一日でお前と休みが擦れ違っちゃうのは三度目かあ。休日出勤は休日手当てが出るからそりゃ嬉しいけど——て、ん? 二十一日? 七月二十一日? あ、俺の誕生日だ」と。
    (七月二十一日が誕生日とか、もっと早く言えや。あと、二日しかないやんか)
    要するに、ウルフウッドはヴァッシュの誕生日をどうしたらいいのかと悩んでいたのだ。悩み過ぎて昼食を作る気になれないほど。
    (誕生日ちうとケーキにプレゼントが定番やねんなあ? せやったら、ケーキ……は面倒やからパンケーキでも作ったればええか? ああ、あいつの場合はパンケーキよりドーナツの方がええかもしれへんな。せやけど、プレゼントて……プレゼントて……どないしたらええねん?)
    いや、ケーキだのプレゼントだのと考える前に、まず考えるべきことがある。
    そもそも、ヴァッシュが自分の誕生日を祝って欲しいのかどうかだ。ヴァッシュが自分が生まれた日を喜ばしい日だと思っているのか、正直に言うと疑問だった。むしろ、忌まわしい日だと思っている可能性がある。以前、山梨へドライブに行った時に、化け物に価値は『無い』などと言っていたくらいだ、その可能性は非常に高いだろう。何しろ、ヴァッシュ曰く、『化け物』の生まれた日なのだから。そして何より、七月二十一日はあの男がロストジュライを引き起こした日でもあるのだ。例え、喜ばしい日だと思っているとしても、その心中は複雑だろうし、それにヴァッシュはもう二百五十歳超えだ。誕生日を祝われることを、果たして喜ばしく思うのだろうか。気恥ずかしく思うのではないだろうか。
    (せやけど、どっちにしてもやっぱり祝ってやりたいやんか)
    ヴァッシュが自分の誕生日を、忌まわしい日だと思っているのなら、生まれてきてもよかったのだと伝えてやりたい。喜ばしい日だと思っているのなら、生まれてきてよかったなと伝えてやりたい。
    ふと、何故自分がこんなにも悩まなければならないのだろうかと、ウルフウッドは情けなさを通り越してむしろ腹立たしくなってきてしまい、思わず木片を持っていた右手で頭をガリガリと掻きむしっていた。
    (もうええ。悩むのは終いや)
    ヴァッシュが何を言おうとも思おうとも、誕生日は決行してやる。ウルフウッドがやけくそ気味にそう決めた時だった。ウルフウッドは遠くからこちらへ向かって来る足音と気配を察知する。
    ウルフウッドは黒いスーツの懐からスッと取り出したサングラスをかけた。
    どうやら、相手は歩幅と足音の軽さからしてまだ子供のようだ。まあ、ここは公園なのだから子供が遊びに来るのは自然なことなのだが。ただ、少し気になる気配だった。
    (ホンマに子供か?)
    ウルフウッドは感覚を研ぎ澄ませて、足音の主の気配を読んだ。そして、ウルフウッドは気付く。この気配はコナンとはまるで違う気配ではあるが、けれど〝ある理由〟でよく似ているということに。自分はこの気配に一度は会ったことがあるということに。
    暫くして、案の定の相手が公園の入り口に姿を見せた。キャップを目深に被り、人目を避けるような格好をしている。彼女を知る者が見てもすぐに彼女だとは気付かないだろうが、その程度の変装などウルフウッドには通じない。
    軽く変装をしているくらいなのだ。相手は自分だと気付かれたくはないのだろう。だから、ウルフウッドは声をかけるべきか少しだけ躊躇った。しかし、一度は会ったことがある相手を無視するというのもどうにも据わりが悪かったため、タイミングを見計らって声をかけてみることにする。まあ、惚けるならそれはそれでいい。
    「よお、あん時の嬢ちゃんやないか」
    「‼ ……あ、あら、こんにちは。ニコラスさん、だったかしら?」
    平静を装って挨拶を返してきたが、一瞬気配が揺れたのをウルフウッドは見逃さなかった。きっと、何故気付かれたのかと動揺したのだろう。
    コナンとよく似ている〝ある理由〟とは、コナンと同様に年齢後退化しているということだ。面倒なことになりそうだったのでヴァッシュには話していないが、初めてこの場所で会った時からウルフウッドはそのことに気付いていた。名前は確か灰原哀といったか。
    「ワイの名前覚えとってくれたんやな。おおきに」
    「いいえ。隣、いいかしら?」
    「構へんで」
    「ありがとう」
    礼を言うと、灰原はウルフウッドの隣に座った。
    そして、木片を削るウルフウッドの手元を興味深そうにじっと見つめたかと思うと、今度は何かを言いたげにウルフウッドの全身を上から下までそっと眺める。灰原は気付かれないように密かに視線を向けているようだが、生憎ウルフウッドの感覚神経は人外だ。気付かない訳がない。それに、灰原が言いたいことも予想が付いている。
    ウルフウッドは灰原を驚かさないように自然に灰原の方へ顔を向け、それでも一応は訊ねてみることにした。
    「ワイ、何ぞ変か?」
    「……あ、あの、暑くないのかしらと思って」
    やはりそれか。思った通りだ。
    「それほどでもないで。生まれ的に暑さには慣れとんねん」
    暑くはないのか——ヴァッシュとウルフウッドが最近よく聞かれる台詞である。何故なら、ヴァッシュは常に顔と首以外の肌を絶対に晒さない姿だし、ウルフウッドは常に黒いスーツ姿だからだ。そんな二人の格好は、ノーマンズランドにはなかった季節というものと合わないらしい。特に、夏と呼ばれる今の季節には。だが、ヴァッシュにもウルフウッドにも理由があるため仕方がない。ヴァッシュには全身の傷痕と義手の継目を隠す必要があり、ウルフウッドには隠し武器の性質上の都合があるのだ。
    ちなみに、慣れているというのは嘘ではない。ヴァッシュとウルフウッドは二つの太陽にジリジリと焼かれていたノーマンズランドを生きてきたのだ。この程度の暑さ、然程苦には感じない。ただ、日本の夏の風物詩らしいこのジメジメ感だけはなかなか慣れないが。
    「生まれ……。立ち入ったことだったわね。ごめんなさい」
    「別に謝らんでもええて」
    「——あ! そうだったわ。あの時のこと、まだちゃんとお礼を言ってなかったわね。あの時は助けてくれてありがとう。正直、何が起こったのかまったくわからなかったけど、ただあなたが居なかったらみんな危なかったのは確かだわ。本当にありがとう」
    「おう。誰も怪我がのうてよかったわ。——それよりまだ学校の時間とちゃうか? ズル休みかいな?」
    「ええ、そうよ。ちょっと行き詰まっちゃってね。学校は病欠ということにしたの。ここへは気晴らしに散歩に来たのよ」
    「ワイと一緒やな」
    「あなたも散歩?」
    「そっちやのうて行き詰まってる方や」
    そう言うと、ウルフウッドはこういうことは人の意見を参考にしてみるのもいいのではないだろうかと思い付いた。
    「嬢ちゃんは誕生日プレゼントもろたことあるか?」
    「……あるわ」
    灰原は何か痛みを伴う記憶を思い出しているかのように表情を暗くして短く答えた。おそらく、そこには何か深い理由でもあるのだろう。けれど、ウルフウッドは詮索するつもりなどないので気付かなかった振りをする。
    実はこの時、灰原はある人物との思い出を振り返っていたのだ。その人物は自分の誕生日に毎年必ずプレゼントを用意してくれていた、今は亡きただ一人の——姉。
    「さよか。せやったら参考までに聞きたいんやけど、嬢ちゃんなら何もろたら嬉しいんや?」
    「あら。行き詰まってるって、誰かへの誕生日プレゼントについてなの?」
    「……ま、せやな」
    「それでいいんじゃないかしら?」
    「それ?」
    「あなたが今作ってる手作りの木彫りのオブジェ。それ、鳥でしょ? 上手いものね」
    「プレゼントて、こんなモンでええんか?」
    「手作りなんて心が籠っていていいじゃない。それに、それくらいのサイズなら紐を付けて首飾りにもできるわよ」
    (なるほど)
     自分がたまに気晴らしと手慰みに作っていた物が、まさかプレゼントになるなど考えもしなかった。そういえば、メイリーンも紐を付けて首飾りにしていたことを思い出す。やはり、人の意見も聞いてみるものだ。
    自分の悩みにヒントを与えてくれた礼に、ウルフウッドは灰原が何に行き詰まっているのかを聞いてみることにした。それで、自分が灰原に何らかのヒントを与えられたのなら御の字だと思って。
    「おおきに。参考になったわ。それで嬢ちゃんは何を行き詰まってたんや?」
    「それは……」
    「ああ、別に言いたなかったら答えんでもええんやで? 無理に聞こなんぞ思っとらん」
     しばらく躊躇いをみせた後、灰原が重い口を開く。
    「……ねえ、あなたは人を殺したことある?」
    「あるで」
    「——っ‼」
    おそらく、灰原は何の疑いもなく否と答えが返ってくると想像していたのだろう。ところが、日常のほんの些細な出来事でも語るように平然と自分が然りと返したものだから、ウルフウッドは隣に座っている灰原から息を呑む気配と驚愕の視線を向けられてしまった。しかし、別に気にはしない。どうせ〝同じ穴の狢〟だ。
    「殺し屋やっとったからな。ま、それは〝前〟のことで今はやっとらんけど」
    「う、嘘よ! あなたからは組——裏のにおいなんてしないわ!」
    「あんな? 気付かれるようじゃ三流やで? 嬢ちゃん」
    「‼ ……そう」
    殺し屋をやっていた——そう聞かされた灰原は、ウルフウッドのことを黒の組織に属していた者だったのではないかと疑った。けれど、続いた言葉も含めて考えてからその疑いを否定する。確かに、自分の黒の組織に属する者を判別する嗅覚は鈍くなってきてはいる。だが、それでもわかってしまったのだ。この男は違うと。この男は黒を纏っているがそれでも違うと。何故なら、続いた言葉「三流」とはおそらく黒の組織を指しての言葉だと察してしまったからだ。
    この男がどこかの組織に属していた暗殺者だったのか、はたまたフリーの暗殺者だったのか、そんなことまでは灰原にはわからない。しかし、もしもどこかの組織に属していたのだとすれば、それは何と恐ろしいことだろうか。つまり、あの黒の組織を三流呼ばわりできるような組織ということなのだから。そんな組織が存在するなど、想像したくもないというのに。それにしても、だ。
    (やっぱり何も感じない……)
    裏の世界に属する者は同じく裏の世界に属する者にはどうしたってその気配を隠せない。なのに、隣に座って器用に木片を削っている男からはまるで何も感じないのだ。そして、灰原はゾッとした。気付いてしまったのである。本当に恐ろしい者とは、そうとは気付かせない者なのだということに。
    灰原は改めて自分の置かれている状況を振り返り、思い出したように恐怖心に支配された。今、自分はそんな男の隣に無防備に座っているのだ。灰原の額にジワリと冷や汗が浮く。心臓が嫌な音を立てる。
    (逃げたい!)
    けれど、灰原は逃げなかった。それどころか、ウルフウッドに慎重に探りを入れてみることにしたのだ。もちろん、それがどれほど危険な行為なのかはわかっているが、灰原はウルフウッドの「今はやっとらん」という言葉に賭けてみることにしたのである。
    「それなら、あなたは一流の殺し屋だったということね。まったく気付かなかったもの。どこかの組織にでも属していたのかしら? ……よかったら聞かせてくれない?」
    「ミカエルの眼ちう暗殺組織や。……ま、探したかてあらへんし、そんなに緊張せんでも大丈夫やで? 嬢ちゃん」
    探してもない——その言葉に灰原はホッとした。それは、すでにその組織が存在していないことを意味しているからだ。
    ミカエルの眼。黒の組織に居た時にも聞いたことがなかった組織である。だが、聞いたことがなかったからこそ、尚更に恐ろしい。同じ裏の世界に在りながらも存在を周知されていなかったということは、それだけ完璧な隠蔽行動を取っていたということなのだから。それほどの組織が、何故すでに存在していないのか、灰原には何一つとしてわかりはしないが。
    そんなことよりも、灰原にはウルフウッドにどうしても聞いてみたいことがあった。だから、灰原は躊躇いがちに震える唇を開く。
    「ねえ、どのくらい人を殺したの? 罪悪感はないの?」
    「数え切れへんな。罪悪感? ない思うんか? 人殺したんやで? 罪なら未来永劫背負うたる。地獄にかて〝何度でも〟堕ちたるわ。ま、〝何度堕ちることになるんかわからへん〟けどな。それにしても、何で嬢ちゃんそんなこと聞くんや? 嬢ちゃんは人殺したことあらへんやろ? 嬢ちゃんからは血の臭いがせえへんし」
    「殺したわ。だって、薬を作ったんだもの。人を殺せる薬を」
    「は? もしかして、嬢ちゃんはそれで自分が人殺しになったつもりでおるんか?」
    「人殺しになったつもりって! 実際に人が死んでるのよ⁉ 何人も! 何人も! 私が作った薬で! 立派な人殺しじゃない‼」
    「人殺せる薬作っただけで、何で嬢ちゃんが人殺しになんねん?」
    「え……? 何を、言っているの?」
    ウルフウッドの言葉が予想外だったようで、灰原が困惑を滲ませた声音で聞き返してくる。だが、ウルフウッドからすれば灰原の言葉の方こそ予想外で、思わず首を捻ってしまった。正直、「何を言っている」はこちらの台詞である。どうやら、自分と灰原の認識には決定的な齟齬があるらしい。なので、ウルフウッドは自論を語ってみることにした。
    「せやな、わかりやすくゆーたろか? 銃あるやろ? アレは人殺せるモンや。せやけど、人殺せる銃作った人間は人殺しなんか? 銃なんてモンは引き金を引く人間が居らんとただの鉄塊に過ぎへんねやで? つまり、銃が人殺すんやない。銃の引き金を引く人間が人殺すんや」
    「じゃあ、あなたは人を殺せる薬を作った人間ではなくて、人を殺せる薬とわかっていて使う人間こそが人殺しだと言うの?」
    「実際そうやろ? それがホンモンの外道やで。薬があるだけじゃ人は死なん。銃があるだけじゃ人は死なん。そこに人殺そうちう意思を持ってそれを使う人間が居らんと人は死なん」
    「……でも、そもそもそんな物を作ったりしなければ人が死ぬことはないじゃない。やっぱり作った人間にも罪があるわ」
    「そんなん、使い方次第なんちゃうか? 薬も銃も使い方によっては人救えることかてあるやろ?」
    「使い、方?」
    「ワイの知ってるヤツにな、人救うために銃を使うとるヤツが居んねん。想像もつかん壮絶な鍛錬と地獄の果てに、ヤツは人殺す銃をそうやって使うとる。嬢ちゃんの作った薬もそうやって使うてくれるヤツが居るかもしれへんで? 現に、人殺せる薬なんぞ山ほどあるんに、使い方次第で人救える薬も山ほどあるやんか。確か、変毒為薬とかゆーんやったか? な? 使い方次第やろ?」
    「あ……」
    灰原は大きく目を見張った。ただ自論を語っただけに過ぎないウルフウッドは知る由もない。この時、ウルフウッドの言葉という火種によって、灰原の心に灯った小さな希望の灯りを。
    自分の作ったAPTX4869はあのままでは決して人を救える薬にはならない。だが、もしも誰かが人を救うための薬としてAPTX4869を改良してくれたならば、それでどれだけの人間が救えることだろうか。できることならば、その『誰か』が自分であればいいのだけれど。あれは両親の、そして自分の研究なのだから。
    「わ、私……」
    胸の奥から急に熱いものが込み上げてきて、灰原の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出す。そして、気付いた時には必死で事実を訴えていた。恐怖心を抱いていたはずの隣に座る男に。
    「私、毒薬なんて作ってるつもりはなかったの! だって、もともとは毒薬として開発していたものなんかじゃないんだもの! でも、実験で死んだマウスの体内から何も検出されなかったことで、組織に完全犯罪の毒薬として利用されたわ!」
    「何や。やっぱり嬢ちゃん人殺しちゃうやんか。ゆーたやろ? 殺そうちう意思を持っとるモンがホンモンの外道やて。ここに居るホンモンの外道がゆーんや。信じてええで」
    「そんな物騒な『信じていい』は初めて聞いたわ」
    「ワイは元殺し屋やで? そらもう、物騒は十八番——」
    ふと、ウルフウッドは中途半端に言葉を切った。灰原が訴えてきた言葉の中に、引っ掛かる何かを感じたような気がしたのである。ウルフウッドは灰原の言葉を反芻した。どこだ。自分はどこに引っ掛かりを感じたのだ。
    (あ……!)
    やがて、ウルフウッドはその回答へと辿り着いた。
    「嬢ちゃん、さっき毒薬なんぞ作っとったつもりないゆーたな? もしかして、嬢ちゃんが作っとった薬ちうんは年齢後退化と関係ある薬とちゃうか?」
    「‼ ど、どうしてそのことを⁉」
    「やっぱりそうなんか。これで疑問が解けたわ。ま、たいして気にしとったワケやないけど。あのコナンちう坊主と嬢ちゃんの年齢後退化は嬢ちゃんの作った薬が関係しとったんか」
    「——なっ! あ、あなた! 江戸川君と私の幼児化に気付いていたの⁉」
    「さすがに、実際年齢まではわからへんで? せやけど、中身と外身が合ってへんのは気付いとった」
    自分とコナンが秘め隠し続けている、決して暴かれてはならない真実。それを、いとも簡単に暴かれたことで、灰原の涙は驚きのあまり止まってしまう。
    そして、灰原はようやくその事実に思い至ったのだ。
    (そうよ……そうだったじゃない)
    何故、自分は気付かなかったのだろうか。ウルフウッドはあからさまにヒントを与えてくれていたというのに。
    「さっきまでのあなたとの会話は思い返してみればおかしなことばかりだった。あなたは私が裏の世界に居たことを、そして子供じゃないことを前提に私と話をしていたもの。この前の事故の時のことといい、あなた本当に只者じゃないのね」
    「ま、否定はせえへん」
    「私の作った薬——APTX4869は極稀に細胞の自己破壊プログラムの偶発的な作用でDNAのプログラムを逆行させてしまうの。神経組織を除いた骨格、筋肉、内臓、体毛などのすべての細胞が幼児期の頃まで後退化するわ」
    「思った通り、ワイとは似て非なるモンやったか」
    「あなたとは似て非なるもの?」
    「嬢ちゃんにばっかり秘密を話させるんは不公平やな。せやから、嬢ちゃんにだけワイのとっときの秘密を教えたるわ」
    「殺し屋だったって以上の秘密があるの?」
    「あるで。ワイのホンマの年齢、十九やねん。ま、数え年で二十一ちうことにしとるけどな」
    「ま……まさか!」
    灰原は血の気が引いて行くのを感じた。
    ウルフウッドの外見年齢はどう見ても二十代後半から三十代前半だ。しかし、本人は十九歳だと言う。もしや、黒の組織がAPTX4869のデータを基に新たな薬を開発したのではないか、ウルフウッドはその新薬の被験者なのではないか、灰原はそう考えてしまったのだ。
    (あ、これ勘違いさせてもうたパターンか?)
    灰原の顔色が変わったことから、灰原が考えただろうことを何となく察したウルフウッドは、その見当違いも甚だしい勘違いに声には出さずに軽く笑ってしまった。
    (おっと、はよ勘違いを正してやらな)
    このまま勘違いさせたままでは可哀想だ。
    「安心しい。ワイの年齢促進化は嬢ちゃんの作った薬とはまったく関係あらへん。ミカエルの眼ちう暗殺組織に居ったゆーたやろ? そん時にちょお、な」
    「つまり、あなたも何らかの薬の被害者なのね」
    「ちょおちゃうねんけど……。ま、似たようなモンとだけゆーとくわ。びっくりしたやろ? ワイ、三十くらいのおっさんにしか見えへんし。——あ、このことはホンマに嬢ちゃんだけの秘密にしといてな? 特にトンガリ……ヴァッシュには絶対に話さんといてや。あいつはワイの年齢促進化のことは知っとんねやけど、実際年齢までは知らんねん」
    困ったように、「あいつ絶対ショック受けよるわ」と呟くウルフウッドを見つめながら、灰原は元の体に戻ることに執念を燃やすコナンのことを思った。
    「……ねえ、今から聞くことがもしも気に障ったならごめんなさい」
    「ん? 何や?」
    「何だか私にはあなたが元の体に戻りたいって思っているように見えないの。それはどうして?」
    「そら、戻りたいなんぞ思ってへんし、戻りたいなんぞ思ったらあかんからや。ま、そもそも方法がないねんけどな」
    「私は今、私の薬のせいで幼児化してしまったある人の体を元に戻すための薬の研究をしているの」
    「さよか」
    ある人の体を元に戻すための薬の研究——そう語った灰原の瞳、そこには隠し切れない憂いがあった。けれど、やはりウルフウッドは詮索するつもりなどないので気付かなかった振りをする。だが、ウルフウッドは気付いていた。その「ある人」とはコナンのことであるということに。どうやら、灰原はコナンの年齢後退化に酷く責任を感じているようだ。だから、薬の開発者としての責任感と罪悪感から、コナンの体を元に戻すための薬の研究をしているのだろう。
    そして、知りたいなど思ってもいなかったというのに、ウルフウッドは物語の全貌などと大きなことは言わないが、それに近いものが見えてきてしまっていた。
    (要はこーゆーことやろ?)
    灰原はどこかの組織で薬を作っていた研究者。しかし、何らかの事情があって組織から逃亡した裏切り者なのだろう。でなければ、あれほど裏の世界の気配に怯えたりはしないはず。それに、ウルフウッドは組織を裏切った逃亡者を何人も見てきたため、そういった気配は嫌でもわかってしまう。
    コナンは灰原の居た組織に何らかの事情で選ばれた暗殺対象者。そして、実行には灰原の薬が使われたのだろう。先程、灰原は年齢後退化を偶発的と言った。つまり、コナンは偶発的に年齢後退化したことによって九死に一生を得たのだ。大した強運である。
    (嬢ちゃんの年齢後退化の理由まではさすがにわからんけど)
    おそらく、年齢後退化は本当に稀にしか現れない効果なのだろう。そのため、その組織とやらはまだその効果に気付いていないのだ。でなければ、コナンは本来であれば存在してはならない暗殺失敗という暗殺者にとっては最大の汚点であり最優先に暗殺しなければならない対象者であるにも拘らず、灰原は組織を逃亡した裏切り者であるにも拘らず、未だに組織の目を欺いていられる理由が説明できない。
    ところで、ウルフウッドはその組織とやらに心当たりがあった。降谷が潜入している組織である。
    以前、ウルフウッドはコナンのことはおそらく降谷が追っている犯罪組織が絡んでいると考えたが、灰原と話してみて改めてその考えが正しかったのだと確信した。
    ウルフウッドが思うに、コナンは復讐のつもりなのかもしれないが、その組織を追っているのだ。公安警察官である降谷やFBI捜査官である赤井や組織の裏切り者である灰原と繋がりを持っているのはそのためなのだろう。
    (あかん。関わりたない)
    正直、頭が痛い。
    ヴァッシュと共にこちらの世界で静かに暮らしていくつもりだったのに、どうしてこういう面倒な事情を抱えた人間とばかり知り合うのだろうか。もしかして、ヴァッシュのトラブル体質が伝染したのだろうか。いや、ヴァッシュが引き寄せたトラブルを自分が拾っているのかもしれない。
    「それで、あなたさえよかったらあなたの体を私に診させてくれない? 今はまだある人の体を元に戻すための薬の研究をする方を優先しなければいけないから無理だけど、私あなたの体を元に戻すための薬をいつか作ってみせるわ。だって、あなた本当はまだ私と変わらない歳じゃないの! それなのに……!」
    「おおきにな、嬢ちゃん」
    ウルフウッドはここまで慰めの言葉など一言だって言ってはいなかった。ただ、事実を淡々と語っていただけだった。それでも、何かの言葉が灰原の心に響いたのかもしれない。それとも、自分と同じくあるべき姿からかけ離れてしまったこの姿に同情でもしたのかもしれない。だから、きっとこんなことを言い出したのだろう。おそらく、本人もそんな「いつか」など来ないと承知の上で。
    そして、ウルフウッドはキャップの上から灰原の小さな頭をそっと撫でた。灰原は「私と変わらない歳」と言っていた。だから、ウルフウッドは灰原を子供扱いして頭を撫でたつもりはない。ただ、灰原が自分に向けてくれた善意に対して感謝を伝えたくて頭を撫でたのだ。その思いが伝わったのか、その手は払い除けられはしなかった。
    「せやけど、ワイはええねん。嬢ちゃん、ワイのこと『只者じゃない』ゆーたやろ? これはな、その〝代償〟なんや」
    「代償?」
    「ワイには守りたかったモンがあった。せやけど、タダで守れるほど世界は優しない。どんな願望にも対価が……代償が必要や。ワイは代償を支払った。そこに後悔なんぞあらへん。後悔なんぞしたら守りたかったモンを否定することになる。せやから、ワイはええねん。それに、嬢ちゃんがいくら頑張ってくれてもワイの体を元に戻すんは絶対に無理や。薬でどうこうなる次元とちゃうねん。ワイの体のことはこれ以上詳しくは言えへんねや。すまんな」
    「あなたちょっと達観し過ぎだわ。どんな修羅場を潜ってきたら十九歳でそこまで達観できるのよ。バカじゃないの?」
    「バカは止めてや。せめてアホにしてくれへん?」
    「あら、ごめんなさい」
    灰原がくすりと小さく笑った。そういえば、これが灰原が初めて見せた笑顔ではないだろうか。おそらく、灰原はあまり笑わない人間なのだろう。無理もない。人を殺した——ウルフウッドからすれば、灰原は人殺しではないが——時から、正常な倫理観を持っている人間ならば、心の底からの笑い方など忘れるものだ。ウルフウッドはそれを身を以て知っている。
    「あなたが私に色々と話してくれたのは、私が裏の世界に居た人間——同じ穴の狢だということに気付いていたからよね? だから私、あなたの秘密を誰にも言わないわ。あなたが元殺し屋だってことも、あなたが本当は十九歳だってことも。もちろん、江戸川君にも言わないわ」
    「ホンマ? あの坊主に知られたら面倒そうやから助かるわ」
    「間違いなく面倒なことになるでしょうね。江戸川君は探偵だから、あなたの事情を知ったら探らずにはいられないはずよ」
    「や、初対面で根掘り葉掘り探り入れてきよったで? あ、そや、ちょお聞きたいんやけど、坊主は何でワイのこと詮索してきたんや? あん時は疑わしい行動なんぞしとらんかったんやけど」
    「多分、江戸川君はあなたのことを私の居た組織の人間の関係者と疑ってるんだと思う」
    「何でや?」
    「あなたが黒ずくめだからよ。黒ずくめは私の居た組織の構成員の特徴なの」
    「は? たったそれだけで詮索されたんか?」
     ウルフウッドは思わず目を丸くした。黒い服を着ている人間などそれこそいくらでもいるではないか。
    (いや、もしかして、安室の兄ちゃんと仲良うしとったせいなんか?)
    おそらくこの推理は当たっている。降谷の話では、コナンは降谷の正体を知っているそうだから。
    「まあ、探偵の性ってやつかしら? 彼は疑わしきは探らなければ気が済まないのよ」
    「さよか。難儀なこっちゃ。それにしても……探偵、なあ」
    ウルフウッドは「探偵」という言葉を幾度か口の中で転がしながら、少し前に降谷から聞いたある話を思い出していた。実は、聞いた時から気になっていたのだ。だから、ウルフウッドは顎に手を当てて暫し思案に耽る。
    コナンに話したところで望みは薄いだろう。無駄に終わるのが目に見えるようだ。何故なら、コナンはどれほど頭が良かろうが、精神的にはまだ子供だからである。けれど、コナンよりも余程精神的に大人な灰原ならば、望みはあるかもしれないと考え、ウルフウッドは話してみることにした。
    「なあ、嬢ちゃん。この前の子供らと嬢ちゃんと坊主は少年探偵団言われとるそうやな。しかも、色んな事故や事件に関わっとって、相当有名らしいやんか」
    「え、ええ。それがどうかしたのかしら?」
    この時、どことなく深刻そうなウルフウッドの様子に、灰原は何故か胸騒ぎを覚えた。
    「坊主と嬢ちゃんはともかく、あの三人はまだ子供や。きっとヒーロー気分でおるんやろ。ヒーローは子供の憧れや。自分がそのヒーローなんはさぞかし気持ちええやろ。せやけど、少年探偵団の功績は坊主と嬢ちゃんが居るお陰とちゃうんか? 坊主も嬢ちゃんもいつまでもあの子供らと一緒に居てやることはできへんねやろ? 元の体に戻ろ思っとるようやし。ヒーロー気分の気持ち良さだけ残して、坊主と嬢ちゃんがあの子供らの前から居らんようになった後、あの子供らが自分の実力を過信して、身の丈に合わん事故や事件に首突っ込んでしもたらどないすんねん? あの子供ら、死ぬで?」
    灰原の喉がヒュッと鳴る。灰原とて何度も抱いたことがある危惧の念。それをウルフウッドから容赦なく突き付けられたのだ。
    「あの子供らが事故や事件に首突っ込んでまうんは坊主の影響なんやろ? どうも坊主はトラブル体質みたいやし。なあ、嬢ちゃん、これ以上あの子供らが首突っ込まんように説得できへんか?」
    「……私もそれはずっと気にしていたの。だから、江戸川君に話してみるわ」
    「いや、そらあかんわ。坊主からゆーたところで無駄や。どうせ、坊主の暴走に釣られてあの子供らも首突っ込んでまうんやろ? せやから、嬢ちゃんからゆーてやれへんか? 嬢ちゃんかてあの子供らが死んでまうんは嫌やろ?」
    灰原は重々しく頷いた。
    元太も光彦も歩美も灰原にとって大切な存在なのだ。何故なら、初めてできた友達だから。その子供達を喪うなど耐えられる訳がない。
    「正直、坊主のことは死にさえせんかったらどうでもええねんけど、子供らは不憫や。せっかくこんな平和な世界で生きられとるんに、好奇心で自分から死地に向かっとるなんぞ。ま、好奇心だけやのうて正義感もあるんやろけどな。せやけど、力なき正義は無力やで」
    平和な世界で生きられている——ウルフウッドのその言葉から、灰原はウルフウッドが平和な世界で生きられずに死んでしまった多くの子供をその目で見てきたのだと察した。だからこそ、子供達を死なせないように、自分から死地に向かわないように、灰原に子供達の説得を求めてきたのだろう。たった一度会っただけの子供達のために。それに比べて自分はどうだ。子供達の危険性に気付いていたにも拘らず、今まで見て見ぬ振りをしてきてしまった。灰原はそんな自分を恥じ、そしてこれからは見て見ぬ振りは止めようと決意する。
    「わかったわ。私から説得してみる。——そういえば、理由はわからないんだけど、最近あの子達妙に大人しいのよ。江戸川君も不思議がってたわ。もしかしたら、今のあの子達なら素直に聞き入れてくれるかもしれない」
    「さよか」
    灰原の返事に頷いて、ウルフウッドは後は灰原に任せることにした。ここから先は自分の出る幕ではないからだ。
    ちなみに、ウルフウッドはコナンと灰原がずっとあの子供達と共に居られるならば、ここまで言うつもりはなかった。例え言ったとしても、「気を付けてやれ」くらいだっただろう。しかし、灰原は先程体を元に戻すための薬の研究をしていると言った。灰原がどうするつもりでいるのかはわからないが、少なくともコナンは元の体に戻る気でいるのだ。ならば、最悪コナンと灰原が居なくなった後のことも考えておいた方がいいと思ったのである。あの子供達のためにも。
    「余計な口出ししてもうてカンニンな」
    「そんなことないわ。あの子達のことを思って言ってくれたんでしょう? そこまで言ってくれる人なんて今まで居なかったの。本当にありがとう。——ところで少し気になったことがあるんだけど聞いてもいいかしら?」
    「何や?」
    「あなた、もしかして、江戸川君が嫌いなの?」
    先程、ウルフウッドはコナンが死にさえしなければどうでもいいとさらりと酷薄なことを言っていた。灰原はそれが気になったのだ。
    「あー……、嫌いゆーかキモいねん。特にあの違和感ありまくりな子供演技が。あれを見とるとな、気色悪うて寒イボ立ってまうんねや」
    「……ッ」
     ウルフウッドの言い分を聞いた灰原は、口に手を当てて声には出さずに肩を震わせている。つまり、笑いを必死に堪えているのだ。
    「嬢ちゃん、笑いたいなら笑った方がええで。我慢し過ぎて体プルプルゆーとるやん。大丈夫か? 息しとるか?」
    「……だ、大丈夫よ。確かに、江戸川君はあなたと比べてしまうと外見年齢と違和感なく振舞えているとは言えないかもしれないわね。私も時々あの過剰過ぎるぶりっ子演技には『ちょっとどうかと思う』と言いたくなる時があるもの」
    「せやろ」
    ウルフウッドは妙に情感たっぷりに頷いた。しかし、それも仕方がないではないか。ウルフウッドは本当にコナンの子供演技が気持ち悪いのだから。
    「ああ、ついでやからゆーとこか。嬢ちゃんは子供演技がちょお足らへん。ま、過剰な坊主よりはよっぽどマシやけどな。年齢後退化隠したいんやったらもうちょい気ぃ付けた方がええで?」
    「ええ、気を付けるわ。でも、私これでもウソ泣きは上手いのよ?」
    「そらまた。たいそうな武器持っとるやんか。使える武器はどんどん使こたらええで」
    「ふふ。そうね。そうするわ」
    微笑を浮かべながら頷いた灰原は気付いていなかった。ウルフウッドが灰原の質問を有耶無耶にしたことを。演技の話題で誤魔化したことを。
    「さて。ワイはそろそろ行かな。思いがけず楽しい気晴らしになったわ。おおきに。嬢ちゃんはホンマええ子……ああ、すまん。嬢ちゃんはホンマええ人やな。ワイも嬢ちゃんの秘密は誰にも言わんから安心してええで。ここでの会話は二人だけの秘密にしとこや」
    「二人だけの秘密? 随分と魅力的な提案ね」
    「おう。こーゆーのもええモンやろ? せや、嬢ちゃんにこれやるわ」
    そう言って、ウルフウッドが灰原に手渡したのは、アーミーナイフで木片を削って作っていた小さな木彫りの鳥のオブジェだ。いつの間に完成していたのだろう、その翼を広げた鳥のオブジェは、灰原には自由を欲して飛び立とうとしているかのように見えた。
    (まるで私ね)
    だから、灰原はその鳥をそっと両掌の中に閉じ込める。自分はまだ、飛び立つ訳にはいかない。自分にはまだ、やらなければならないことがあるのだから。
    ふと、灰原は『そういえば』と思い出し、ウルフウッドを見上げる。
    「これ、私がもらってしまっていいの? 誰かへのプレゼントにするんじゃなかったの?」
    「あいつにはあいつ用にちゃんと作るからええねん。別に要らんかったら捨ててもええで?」
    「いいえ。捨てるなんてとんでもない。大切にするわ。ありがとう」
    これは自分にとって比護のストラップと同じくらい大切な物になるだろうと灰原は思った。今度は失くしたりしないように今日の思い出と共に大事に仕舞っておかなければ。
    「どういたしまして。嬢ちゃんはまだここに居るんか?」
    「もう少しここに居るつもりよ」
    「さよか。帰り道、気ぃ付けてな」
    「ええ、わかってる。私も楽しかったわ。ありがとう、ニコラスさん。……あなたの連れの人、ヴァッシュさんにもよろしく伝えておいて。あの人の腕の中はとてもあたたかかった」
    「しっかり伝えとくわ。ほな。ええ風が吹けばまた会うこともあるやろ。神のご加護が嬢ちゃんと一緒にあらんことを」
    ウルフウッドはベンチから立ち上がると、後ろ手に灰原に手を振りながら公園を後にした。背中に灰原の見送る視線を感じながら。
    (あかんなあ)
    米花駅へ向かうウルフウッドの足取りは僅かに重かった。正直、面倒事には関わりたくはないのだ。けれど、あの灰原のことは何となく放っておけないと思ってしまった。
    これはきっと、裏の世界に属していた過去という名の束縛から、おそらくは一生解放されることがない同じ穴の狢に対する同情だ。
    (こんなん、トンガリのこと言えへんわ)
    ウルフウッドはそんな自分の愚かさを、ただ嘲笑った。



    ~中略~



    おわり
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    Replies from the creator

    vwmuteking

    MENUコナン君、哀ちゃん、少年探偵団、赤井さんとの出会い
    化物と探偵【中編】どうかそっとしておいて——。





    コナンはその時ポアロに居た。蘭は園子と連れ立って米花駅前に最近できたことで話題となっているショッピングモールへ行くため、小五郎は身辺調査の依頼が入ったために二人揃って朝から留守にしていたので、いつものようにポアロのカウンター席で昼食を摂っていたのだ。
    ポアロの店内は一番奥のテーブル席以外、カウンター席も含めほぼ満席状態だった。さすがは日曜日である。まあ、ほぼ女性客なところを見るに、安室効果が多大に発揮されているのだろうが。
    ちなみに、一番奥のテーブル席だけが空いているのには訳がある。時代の流れ——健康増進法に従って、ポアロも終日禁煙制を導入していた。しかし、安室の話によると「カフェの名を掲げているならともかく、喫茶店の名を掲げているのに喫煙ができないのはおかしい」と喫茶の意味を履き違えている苦情が何件も入ったようで、苦肉の策として大きな換気扇の真下にある一番奥のテーブル席だけを喫煙席にしたそうなのだ。その話を聞いた時は、『何という詭弁』とさすがのコナンも呆れてしまった。まあ、喫煙者である小五郎は喜んでいたが。
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