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    降谷さんとの出会い

    化物と探偵【前編】あり得ないなんてことはきっとないのだ——。





    その日、私立探偵・安室透——いや、警察庁警備局警備企画課所属の公安警察官・降谷零は、郊外にある陵丘状の雑木林の中を奥へ奥へ黙々と歩いていた。向かう先は、木々の影に隠されるようにぽつりと建っている平屋である。
    まだ陽は高いというのに雑木林の中は薄暗く、聞こえてくる音といえば、冷たい風が木々を渡る音と野鳥達の美しい囀りくらいだ。
    降谷がこんな場所を歩いている訳は、警察庁警備局警備企画課情報第二担当理事官・黒田兵衛——表の顔は警視庁刑事部捜査第一課管理官だ——の命によるものだった。
    先日、黒田から突然の呼び出しを受けた降谷は、警察庁の一室で緊張した面持ちで黒田と対面した。おそらく、重大な任務を与えられるのだろうと気を引き締めて構えていた降谷だったが、何と黒田は降谷の顔を見るなり溜息を吐いて、「さすがに働き過ぎだ」と渋い顔を歪めたのだ。
    そして、黒田は降谷に問答無用の三日間の休暇を言い渡したのである。
    陵丘状の雑木林の中にあるその平屋は、警察庁が極秘に管理しているセーフハウスで、トリプルフェイスとして活動する降谷にとっては、誰の目も気にせずに気兼ねなく休暇を過ごせる打って付けの場所といえた。まあ、いずれはこのセーフハウスも処分することになるのだろうが。
    後少しでセーフハウスに到着することを目視で確認して、ほっと息を吐いたまさにその時だった。降谷の視界の隅を鮮やかな赤が過ったのは。
    目にしたのは一瞬だったが、あの鮮やかな赤は血ではない。おそらく、服か何かだ。
    誰かが居る。降谷にも気配を悟らせない誰かが居る。
    まさか、潜入捜査中の黒の組織にまたNOCと疑われて、追手でも差し向けられたのだろうか。だが、そんな情報は降谷の耳には入ってきてはいない。
    (それに組織の構成員に赤を纏う者は居ないはず……)
    では、逃走中の犯罪者だろうか。警察官として不甲斐ない思いだが、残念ながら逃走中の犯罪者は少なくはないのだ。
    いや、黒の組織の構成員に赤を纏う者は居ないというのも、単に降谷が認知していないだけという可能性も捨て切れない。何しろ、何が原因で何者によってNOCとして追われるかわからないのだから。かつて喪くした幼馴染みのように。
    一瞬、忌々しい男の顔が脳裏を過って思わず顔を顰めたが、頭を振ってすぐさまその男の影を振り払う。
    どちらにせよ、決して油断はできない。 
    降谷は完璧に気配を殺しながら、粘り強く相手の気配が動くのを待ち続けた。
    ところが、待てども待てども相手の気配が動くのを感じ取れない。というより、そもそも相手の気配自体が感じ取れない。相手は降谷以上に隠匿行動の達人なのだろうか。降谷の全身に緊張が走る。
    (チッ!)
    降谷は音もなく舌打ちをした。
    このままただ探りを入れ続けているだけでは埒が明かない。逃してしまっては元も子もないのだ。何者だかは知らないが、危険人物であるならば排除する。それが、公安警察官なのだから。
    しかし、由々しきは陽が傾きかけていることだった。相手が黒の組織の構成員あるいは逃走中の犯罪者であった場合、戦闘は必至。今の自分はバーボンでも安室透でもなく降谷零なのだ。けれど、降谷は現在休暇中の身である。当然ながら、夜間戦闘装備など持ち合わせてはいない。装備もない夜間戦闘など自殺行為に等しいと言える。雑木林のお陰で遮蔽物には困らないが、それは相手もまた条件は同じなのだ。
    そうこうしている内に陽はどんどんと傾いていく。
    (マズいな)
    これ以上は待てない。
    気は進まないが、ここは自分から先に動くよりほかはなさそうだ。優先すべきは相手の正体の確認である。
    とはいえ、相手が意識を失っている遭難者の可能性もなくはない。この陵丘状の雑木林は、警察庁が極秘に管理している区域のため、一般人の立ち入りは禁止——私有地のため立ち入り禁止という偽りの立て看板によって——とされているのだが、そうと知ってか知らずか、山菜取りや山歩き——山ではないが——などに来ては遭難者が出る例も稀にあるのだ。あるいは自殺者。救命処置の必要性も考慮に入れておくべきだろう。まあ、どちらも確率としては限りなく低いが。
    降谷はいつも以上に慎重に行動した。
    拳銃の構えを解かないまま、降谷は鮮やかな赤を目にした方へ向かってゆっくりと近付いて行く。もちろん気配は殺したまま。
    そして、降谷は鮮やかな赤の正体を見た。
    それは——真紅のコートだった。真紅のコートの男が地面に両膝を突いていたのだ。容姿からして紛うことなき外国人。
    真紅のコートの男を視認した瞬間、黒の組織の構成員あるいは逃走中の犯罪者、はたまた遭難者あるいは自殺者という線は消えた。
    というのも、黒の組織の構成員あるいは逃走中の犯罪者が纏う逸脱性が真紅のコートの男からは欠片ほども感じ取れなかったからだ。そして、遭難者あるいは自殺者が纏う危急性も真紅のコートの男からは欠片ほども見受けられなかったからだ。だが、楽観視はできない。降谷には確信があった。この真紅のコートの男は明らかに一般人ではないと。それは、漠然とした直感に過ぎなかったが、降谷は真紅のコートの男から、百戦錬磨の強者を前にしているような緊張感を覚えたのだ。一般人ではないと断じたのはそのためである。
    相手からは見えないように、しかし万一の場合には咄嗟に抜けるように、降谷は背中のウエストバンドに拳銃を挿し込んだ。
    そして、わざと気配を殺すのを止めて、わざと足音を立てながら歩くと、真紅のコートの男から三メートルほど距離を置いた場所で一旦立ち止まる。
    真紅のコートの男は一人ではなかった。黒衣の男と共にそこに居た。正し、黒衣の男には生命あるいは意識がないのか、ぐったりと地面に横たわっている。その手足はだらりと地面に落ちているが、その頭は真紅のコートの男の腕の中にあった。まるで壊れ物のように、真紅のコートの男は黒衣の男の頭を抱え込んでいたのだ。静かに涙を流しながら。
    (何だ……このただならぬ様子は?)
    降谷の優秀な頭脳が考え得る推測を次々と弾き出していく。真紅のコートの男と黒衣の男がこの状況に至った経緯を。だが、どれもこれも的外れのような気がした。真紅のコートの男から感じる得体の知れない何かが、悉くそれらを否定するのだ。
    降谷に気付いているのかいないのか、真紅のコートの男はこちらを見ようともしない。ただ、腕の中の黒衣の男だけをひたすらに見つめている。不安を抱いた表情で。悲痛を帯びた表情で。悔恨を滲ませた表情で。恐怖に満ちた表情で。しかし、降谷はそんな複雑な表情の中にどこか狂気を孕んだ歓喜を感じ取って、正直その異様さに背筋が寒くなった。
    異様なのはそれだけではない。真紅のコートの男と黒衣の男の傍らに無造作に置かれている、それは全長百九十センチ近くはありそうな巨大な十字架。白い布で覆われて、まるで封印の如く幾重にも黒いベルトで巻かれているその巨大な十字架は、降谷にはさながら巨大な墓標のようにも思えた。
    (気味が悪いな)
    いや、だからこそこの真紅のコートの男と黒衣の男の正体を突き止めねばならない。繰り返すが、今の自分はバーボンでも安室透でもなく降谷零なのだ。日本を守る公安警察官としての職務を果たす義務がある。異様さに呑まれている場合でも、気後れしている場合でもない。
    (この状況に至った経緯の当て推量はとりあえず置いておくとして、現状この二人は密入国者か不法滞在者の線が濃厚だな。それも何らかの訓練を受けた人間)
    これはあくまでも勘だ。公安警察官として様々な犯罪者を見てきた経験によって磨き上げられた勘。それは、いつだって降谷を裏切らなかった。
    (国テロに任せるか。まあ、身柄を抑えられたらの話だが)
    降谷は背中のウエストバンドに挿し込んだままの拳銃を意識する。相手が丸腰とは限らないからだ。最悪、攻撃してくるのであれば射殺もやむなしと腹を決めると、降谷は真紅のコートの男と黒衣の男に向かって、ようやくその一歩を注意深く踏み出した。
    その時、初めて真紅のコートの男の濡れた視線が黒衣の男から逸れる。降谷は絶え間なく流れる涙で潤んだ瞳の中に、自分の姿がぼんやりと映っているのを見た。
    今のところ、殺意も敵意も害意も悪意も何も感じない。
    (まずは意思の疎通を試みてみるか)
    最初から外国人なのはわかっていたが、さすがに国籍までは不明だ。とりあえず、降谷は英語で話しかけてみることにした。
    [英語は話せますか?]
    [……ああ、そうか。ここは僕達の世界の言葉が通じる世界なのか]
    答えは淡々とした流暢な英語で返ってきた。しかし、降谷は内心で戸惑う。降谷の質問に、真紅のコートの男が零した言葉の深意を測りかねたからだ。
    (僕達の世界の言葉が通じる世界? 何かの謎かけか?)
    降谷の優秀な頭脳を以てしても、その言葉に込められた真意を推理することは難しかった。果たして、意味を問うべきかと思案していると、不意に真紅のコートの男がコートの袖でゴシゴシと乱暴に涙を拭う。先程まで涙でぼんやりとしていた視線がはっきりとした視線へ変わっていく。
    [情けないところを見せちゃったね]
    真紅のコートの男は僅かに口角を上げて微笑んだ。それは、見ているこちらが寂しくなるような微笑みだった。
    [その人は大丈夫なんですか? 病院を手配しましょうか?]
    [ありがとう。でも、こいつのは怪我でも病気でもないから病院に連れて行く必要はないよ。まだ創り直した細胞が不安定みたいでね。安定するまで自己防衛本能が働いて強制的に休眠状態に入ってるだけだから。安定すれば自然と休眠状態から覚めるから大丈夫だよ。だけどできれば風を凌げる場所で休ませてやりたいんだ。君、どこか良さそうな場所を知らないかな? 壁さえあればどんな廃墟でも構わないんだけど]
    (創り直した細胞、だと?)
    ほんの一瞬、降谷の視線に鋭さが混じる。
    (前言撤回だ)
    たった今、真紅のコートの男の言葉によって、警察庁警備局国際テロリズム対策課ではなく、警察庁警備局警備企画課が対応すべき必要性が生じた。
    創り直した細胞——その言葉から降谷が連想したことなど一つだ。人体実験。そう、黒の組織で行われているようなそれ。もしや、黒の組織とはまた別の新たな犯罪組織が、この日本を犯罪で汚そうとしているのか。そして、この真紅のコートの男と黒衣の男は、その組織の関係者なのか。ならば、断じて看過する訳にはいかない。
    都合のいいことに、真紅のコートの男は黒衣の男を休ませる場所を探している。これは、情報を得る絶好のチャンスだ。まさに奇貨居くべし。
    [この寒空の下で野宿紛いの行為はいただけませんね。下手をすれば凍死してしまいますよ。近くに僕が借りている部屋があります。ご迷惑でなければそちらでゆっくりとされては?]
    [それは……とても助かる提案だけど、僕達みたいな得体の知れない連中をそんな簡単に家に招き入れたりしていいのか? 僕達が君に危害を加えないなんて保障はないんだよ?]
    降谷は真紅のコートの男の目の前に、これ以上はないだろう甘い蜜を垂らす。実際、その瞳の中に降谷は安堵の色を見た。ところが、真紅のコートの男は降谷の危機感のなさを案じるかのような、降谷に迷惑をかけることを厭うかのような、そんな複雑そうな口調で逆に問うてくるではないか。
    (これは……お人好しなタイプだな)
    ならば、こちらもお人好しを装おうではないか。通りすがりのお人好しを。その性格に存分に付け入らせてもらうために。
    [本当に危険な人間はわざわざ自分から自分は危険な人間だなんてご丁寧に教えてくれたりはしませんよ。しかも、そんな縋る相手を探すような子供みたいな顔でね]
    [⁉ 君は……君の物言いは何だか少しだけこいつに似てるな]
    上っ面だけは人当たりのいい笑みを浮かべてみせる降谷に、真紅のコートの男は笑おうとして失敗したような歪んだ表情でそう言った。まるで泣き出す寸前の子供のような顔だ。それに降谷は少しだけ罪悪感を覚えた。だが、これは仕事である。罪悪感などという不要な感情は握り潰さなければならない。
    [でも、本当にいいのか? 僕達がお邪魔しても]
    [もちろんです]
    [ありがとう。——とにかく今の君には休息が必要だもんね]
    真紅のコートの男は降谷に礼を言ってから、腕の中の黒衣の男へ視線を戻して穏やかに告げると、右手を黒衣の男の頬にそっと伸ばした。けれど、その指先が黒衣の男の頬に触れることはなかった。触れる寸前でぎゅっと握り締めてしまったからだ。真紅のコートの男のその一連の動作を観察していた降谷には、それはまるで自分には黒衣の男に触れることを赦される資格などない、そんな葛藤に苛まれた仕草のように見えた。触れようとしていた指先は、微かに震えてさえいたのだ。
    (この二人はいったいどんな関係なんだ?)
    降谷はこの真紅のコートの男と黒衣の男の正体の解明だけではなく、関係についても疑問と興味が湧いた。だが、降谷は内心の疑問と興味を故意に無視する。何よりも優先すべきは、正体の解明だからだ。そのための目下の優先事項は、いかに真紅のコートの男を警戒させずにこちらにとって有利な場所——セーフハウスへ連れて行くかである。
    [とはいえ、タダでとは言いませんよ? 代わりに少しだけ世間話に付き合ってもらえませんか? 実は恥ずかしながら僕は寂しい独り身でして。ちょうど世間話に付き合ってくれる相手が欲しかったところなんですよ]
    降谷は敢えて見返りを要求——つまり、交換条件を出すことにした。それも他愛もない条件を。何故なら、互恵関係を明確にしておいた方が警戒され難いからだ。人間は一方的に親切にされるだけでは、却って疑心を抱いてしまうことの方が多い。
    [うん。僕にも聞きたいことがたくさんあるし、それは別に構わないよ]
    [では、そろそろ行きましょうか。あなたはその人を抱えて僕の後に付いて来てください]
    [わかった]
    真紅のコートの男が頷いたのを確認すると、降谷はあたかも雑木林の中を歩いて来たせいで乱れてしまった服装を直すかのように装って、その実さりげなく背中のウエストバンドに挿し込んでいた拳銃を上着で隠した。
    [ところで、この巨大な十字架はあなた達の荷物ですか?]
    [ああ]
    [他に荷物は?]
    [僕のバッグだけだよ]
    [そうですか。それならあなたは自分の荷物とその人を抱えるだけで限界でしょう。この巨大な十字架は僕が運びますよ]
    [いや、それは君じゃ持てないと思う]
    [まさか。そんなことは——]
    言いながら、降谷はその巨大な十字架に巻き付く黒いベルトを掴んで持ち上げようとした。
    そして、降谷は言葉を失くす。
    それは、常人が持てる重量を遥かに超えていたのだ。降谷はどちらかといえば常人のカテゴリーには収まらない規格外の男。それでも、その巨大な十字架を持ち上げることは叶わなかったのである。
    おそらく、この巨大な十字架の重量は数トン。これでは、さすがの降谷でも持ち上げることなどできない。これを持ち上げるためには、重機が必要となるだろう。だが、こんな鬱蒼とした雑木林に重機など入れられるだろうか。入れられたとしても、降谷としては目立つような行為は困るのだ。さて、どうしたものかと考えていると、真紅のコートの男がさも当然のようにこう言った。
    [僕が運ぶから大丈夫]
    その言葉に、内心で『正気か⁉』と驚く降谷を尻目に、真紅のコートの男は自分の荷物だと言っていた縦型のドラムバッグの縄状の持ち手部分を、巨大な十字架の縦のアームの短辺側に引っかけた。そして、黒衣の男を対面状に自分の肩へ凭れかけさせて右腕の上に座らせるように乗せると、左手で巨大な十字架のベルトを掴んであっさりと立ち上がったのだ。
    (馬鹿な! どんな膂力だ⁉ 普通じゃない!)
    降谷には持ち上げることも叶わなかったそれを、引き摺りながらではあったが平然と片手——しかも、右腕の上には黒衣の男を抱えてまでいるのだ——で運ぶその姿に、降谷は戦慄と畏怖を覚えずにはいられなかった。しかし、そんな負の感情など顔には出さない。表情一つ取り繕えないようでは、トリプルフェイスなど務まらないのだ。
    [こっちです]
    降谷は真紅のコートの男を先導して歩き出した。一応、用心のために攻撃されても反撃できるだけの距離を置いて。
    (それにしてもまったく警戒心を見せないな。いっそ不気味なほどに)
    いや、これは何があろうと捻じ伏せられる自信の表れなのかもしれない。それも、あの膂力を見せ付けられてしまっては頷ける話だ。
    (だが、まあいい。こちらは応援を呼ばせてもらうとしよう)
    降谷は真紅のコートの男からは見えないように、上着の内ポケットから密かにスマホを取り出すと、素早く〝ある人物〟へ〝今からすぐにこちらへ向かうように〟と短くメールを送ったのだった。



    ~中略~



    声が聴こえたような気がした。自分の名を呼ぶ、懐かしく、そして悲しい声を——。





    最初に感じたのは、酷く頼りない剥き身のままの心をあたたかな腕に優しく抱かれているような、そんな感覚だった。
    不思議と抵抗感はない。
    どうしてそう思ったのかはわからないが、何故かこの腕の中は安全だと思ったのだ。安心だと思ったのだ。
    暫くそうして抱かれていたかと思うと、守る殻のなかった酷く頼りない剥き身のままの心が、徐々に徐々にやわらかな殻のようなものに覆われていくのを感じた。
    そして、酷く頼りない剥き身のままの心を覆ったやわらかな殻のようなものにふわりと慈悲深い光が纏わり付いてきたかと思えば、いつの間にかやわらかな殻のようなものごと真っ白な羽根のようなものに包まれていたのである。
    それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
    ふと、気付いた時には真っ白な羽根のようなものは消え失せていて、酷く頼りない剥き身のままの心を覆ったやわらかな殻がどくりと力強く脈動を始めた。

    もしも、この現象を敢えて言葉にするならば、今確かに自分は新たに〝誕生〟したのだ。



    □□□



    最初に視界に映ったのは平坦で無機質な乳白色。ぼうとした思考でそれを眺めながら数度の瞬きを繰り返して、ウルフウッドは弾力のある物に沈んでいた頭を無意識にのろのろと動かした。
    そして、次に視界に映ったのは〝そこに居るはずがない男〟の姿。
    それが呼び水となった。
    迷い込んだ砂嵐の中から不意に抜け出したかのように思考が晴れる。怒涛のように蘇る記憶、記憶、記憶。
    ウルフウッドは大きく目を見開いた。
    自分は死んだ。ならば、ここは地獄のはずだ。自分のような者の逝き場所など地獄以外あり得ないのだから。なのに何故。
    (何故お前がここに居る⁉)
    ヴァッシュ・ザ・スタンピードはこんな場所に居ていい男ではないというのに。光に満ちた優しい場所で阿呆みたいに笑っているのが似合う男だというのに。そうであるべき男だというのに。
    ウルフウッドは狼狽のあまり自分でも何を言おうとしたのかもわからないまま、無意識に言葉を発しようとした。けれど、ふと自分の内から聞こえてくる信じ難い音に気付いて、その言葉を失う。
    違う。自分は生きている。自分の心臓が鼓動を刻んでいる。あの時、永遠に止まったはずの心臓の鼓動が聞こえてくる。
    その事実を認識した瞬間、ウルフウッドは反射的にガバリと体を起こした。
    (あり得へん!)
    そうだ。あり得ない。戦闘不能まで破壊された肉体に、文字通り止めを刺したオーバードーズ。あの状態の自分が生きている訳がない。しかし、実際に自分は生きている。
    ゾワリ。
    何か恐ろしい予感が込み上げてきた。それを、無理矢理飲み込むように手で口を覆うウルフウッドに、ヴァッシュは神に赦しを乞う敬虔な信者のような表情を浮かべて、「体は何ともない? 大丈夫そうならリビングで飲み物でも飲みながら話をしよう」と穏やかに声をかけてくる。
    (リビング?)
    そこで、初めてウルフウッドは周囲を見回した。
    なるほど、自分はどこかの部屋のベッドの上で目が覚めたらしい。乳白色は天井の色で、弾力のある物は枕だったようだ。混乱していたとはいえ、状況確認を怠るとは何という失態。だが、そんなことはどうでもいい。今はベッド脇で膝を突いて自分を見つめているヴァッシュの話の方が重要だ。何かを知っているとしたらこの男だろう。
    ウルフウッドの思考がそこまで辿り着くのを待っていたかのようなタイミングで、ヴァッシュはベッド脇からサッと立ち上がった。付いて来いということだろう。
    ウルフウッドはベッドから降りると、誘導するように先を行くヴァッシュの後に続いて歩いた。記憶にあるグズグズだったはずの体は嘘のように何ともない。
    ヴァッシュの案内で行き着いたリビングは、ヴァッシュが故郷と呼んでいた場所——重力プラントに守られて〝外〟と隔絶されていたシップの居住区に、どことなくだが似ているような気がした。洗練された部屋。正直、居心地が悪かった。骨身に染み付いている馴染み深い砂漠の村や街特有の草臥れ荒んだ空気の方が余程居心地が良い。
    (そもそも、ここはどこや?)
    ウルフウッドがリビングの入り口で立ち止まって胡乱に目を眇めると、ヴァッシュがソファーへ座るように促してきた。言われた通りに、ソファーへ腰かけたウルフウッドを見届けてから、ヴァッシュはどこかへ消えて行く。
    程なくして、戻って来たその手に持っていた物は二つの白いマグカップだった。どうやら、キッチンへ行っていたらしい。漂ってくる匂いで中身がコーヒーなのがわかった。おそらく、ウルフウッドにはブラックを、自分には砂糖とミルクたっぷりのカフェオレだ。
    やはりウルフウッドの前にブラックを置き、自分の前にカフェオレを置いたヴァッシュは、やっとウルフウッドの対面側のソファーに腰を落ち着ける。
    そして、少しだけ上を向いて静かに目を閉じてしまった。
    室内に重い沈黙だけが流れる。
    ウルフウッドから口火を切らなかったのは、ヴァッシュの纏う深刻な雰囲気に呑まれて口を開くことを逡巡していたからだ。いや、もしかしたら聞きたくなかったのかもしれない。そう、何か恐ろしい予感がするから。
    やがて、ヴァッシュは何かの覚悟を決めたようにスッと目を開けて、ウルフウッドを真っ直ぐに見つめながらキッパリと言い放った。
    「俺がお前を生き返らせた」
    瞬間、ウルフウッドの思考が停止した。頭の中が本当に真っ白になった。
    ヴァッシュの言葉に頭の中の白濁が晴れるまで数分を要してから、ようやく正常な思考能力が戻ってきたウルフウッドの胸の内で、どす黒い怒りがグツグツと沸き立ち始める。
    (何や! 何なんや! ソレ‼)
    正直、酷い裏切りに遭った気分だった。
    確かに、思い残すことが何もなかったのかと問われたら、それは否だ。愛する家族がこれから先も無事に生き延びていけるのかという憂わしさ、最後までこの男の手伝いをしてやることができないという悔しさ、残していく者にすべてを託すことしかできないというもどかしさ、そんな思いと共に自分は死んだのだから。
    けれど、矛盾しているようだが、自分は自分なりにやれることはやってきたと満足して死を受け入れたのだ。なのに、この男はそんな自分を身勝手にも「生き返らせた」のだと言う。どのような方法で以てして自分を生き返らせたのかなど、そんなことは知ったことではない。そう、今はそんなことは知ったことではないのだ。ただただその傲慢さが許せない。
    「おんどれは……おんどれは神にでもなったつもりか‼」
    ウルフウッドはソファーから身を乗り出し、憤怒の形相でヴァッシュの胸倉を掴み上げた。抵抗も反論もせず静かな表情で自分を見つめるヴァッシュを、ウルフウッドは激情のままに殴り付けようと拳を握る。
    しかし、見てしまったのだ。ともすれば無表情ともいえる静かな表情だというのに、不安を抱いた瞳を。悲痛を帯びた瞳を。悔恨を滲ませた瞳を。恐怖に満ちた瞳を。
    「——‼」
    殴れない。そんな瞳で自分を見る者を。
    ウルフウッドは硬く握り締めた拳を震わせ、砕けんばかりにギリッと奥歯を食い縛った。殴り付けてしまいそうになる衝動を意思の力で必死に抑えながら、強張った指を一本また一本と強引に抉じ開けていく。
    当然、胸中には激情が渦巻いたままだ。けれど、精神と肉体を食い潰さんばかりに暴れているこの憤怒に任せてヴァッシュを殴り付けたところで、本当にそれで憤りを払拭させることができるのか、怒りを鎮静させることができるのか、ヴァッシュの複雑な感情で彩られた瞳を睨み付けながらウルフウッドは自問する。
    もちろん、まだ何一つとして納得できてはいない。けれど、とりあえず荒れ狂っている感情は理性で押し殺して、まずはヴァッシュの話を聞いてみようと思った。納得がいかなかったその時には、躊躇した分も含めて容赦なく怒りのままにぶん殴ってなじればいい。
    そして、掴んでいたヴァッシュの胸倉から少しだけ手の力を抜いたその時だった。ヴァッシュがぽつりと言ったのは。
    「あのね、ウルフウッド。俺、死んだんだ」
    「——‼ なん、やて?」
    ウルフウッドは呆然と呟いた。
    ヴァッシュが不死身ではないことくらい、ウルフウッドとてとうに知っている。けれど、ウルフウッドはヴァッシュの死というものを何故か想像できなかったのだ。故に、ヴァッシュの口から語られたその事実は、自分が思っていた以上にウルフウッドに衝撃を与えた。
    「ナイブズと決着がついた後、俺はもうほとんど【力】を失くしてた。だからヴァッシュ・ザ・スタンピードの名前を捨てて静かに暮らしてたんだ。完全に黒髪化してたからそう長くは生きられないと思ってたしね。でも、俺って結構しぶとかったみたい。百年。なかなか長い余生だったよ。色んなことがあったし、色んな場所にも行ったし、色んな人達にも出会えた。これでもね、頑張ったんだ。お前の最期の言葉通りに笑って生きた。うん、悪くない余生だったと思う」
    「……さよ、か」
    百年。決して短くはない時間だ。それを、満足そうな表情を浮かべて語るヴァッシュに、ウルフウッドは名状し難い思いに駆られながらも短くそう返した。笑って生きたのだと、悪くない余生だったのだと、ヴァッシュは言ったが、この男のことだ、おそらく言うほど平穏な百年ではなかっただろう。それでも、ヴァッシュにそう言われてしまっては、ウルフウッドはそう返すよりほかはなかった。そもそも、最期に「笑え」と無茶を言ったのは他ならぬ自分なのだから。
    ウルフウッドは掴んでいたヴァッシュの胸倉を放すと、その体を突き飛ばすようにソファーに向かって放り出した。そして、自分もまたドカッとソファーへ座り直す。
    ふと、口が寂しいと思った。無意識に指先で唇をなぞって、ウルフウッドはその理由を悟る。煙草を咥えていないのだ。
    (煙草吸いたいわ)
    けれど、ローテーブルの上に灰皿はなかった。それに、掃除が行き届いた清潔な部屋に平気で灰と吸い殻を落とせるほど、ウルフウッドは礼儀——まあ、外ではポイ捨て上等だが——というものを捨ててはいない。煙草は諦めるしかないだろう。いや、灰皿の有る無し以前に、そもそも黒いスーツの懐には煙草が入っていなかった。それも当然だろう。生き返ったばかりの自分の懐に都合よく煙草など入っている訳がない。入っていたらそちらの方が逆に驚きだ。
    ウルフウッドがそんなことを考えていると、ヴァッシュはすとんと感情が抜け落ちたような表情を浮かべて口を開いた。
    「俺が人間じゃないから……プラントだから」
    「? 何ゆーとるんや?」
    ウルフウッドは訝しんでヴァッシュへ問いかけた。当然だ。ヴァッシュが人間ではなくプラントなのは今更な事実である。ヴァッシュは何が言いたいのだろうか。
    実はこの時、ヴァッシュはその無表情の下で自分が死んだ時のことを思い出していたのだ。
    それは、まるで虫の知らせのようだったとヴァッシュは思っている。ある日、不意に自分の死期を悟ったヴァッシュは、百年間一度たりとも行くことのなかった——否、行けなかったウルフウッドの墓へ行ったのだ。自分の最期はこの場所で。ずっとそう決めていたから。
    そして、ウルフウッドの墓に「案外長い余生だったよ」とぽつりと語りかけると、あの日と同じ相変わらずの青い空の下で、あの日と同じふざけた銘柄の酒で乾杯をして、ヴァッシュはその場で一人静かに朽ちて逝ったのだ。『これでようやく——』と微笑んで。
    「会えなかったんだ」
    「誰にや?」
    「……会えなかったんだよ」
    「せやから誰にやねん」
    「お前に」
    「ワイに?」
    「プラントである俺は人間であるお前と同じ場所には逝けなかった」
    ウルフウッドは死後のことを何も覚えてはいない。けれど、生あるものが最後に目指す場所はきっと天国か地獄だ。
    ヴァッシュは自分と同じ場所には逝けなかったと言った。ならば、ヴァッシュはヴァッシュにこそ相応しい場所——天国へ逝けたということだろうか。
    (いや、ちゃう)
    ヴァッシュが言っていることは、おそらくそういう意味ではない。どうやら、死後のことを覚えているらしいヴァッシュは、プラントであるが故に天国にも地獄にも逝けなかったと言っているのだ。
    「おどれは……天国にも地獄にも逝けへんかったんか?」
    「うん」
    ヴァッシュが頷いてそれを肯定した。では、ヴァッシュはどこへ逝ったというのか。ウルフウッドが密かに眉を顰めた時、答えはすぐに返ってきた。
    「俺が逝ったのはね、プラントの集合意識のような世界だったんだ。絶望したよ。終えた命の辿り着いた先で『これでようやくお前に会える』と思ってたのに」
     ヴァッシュの言うところのプラントの集合意識のような世界というものがどのような世界であるのか、ウルフウッドには想像もつかない。けれど、やはりプラントとは人間とは次元の異なる存在なのだという現実をまざまざと思い知らされる。だが、思い知らされた現実はそれだけでは終わらなかった。それ以上にウルフウッドを驚倒せしめる現実をヴァッシュが告げたのだ。そう、自分が生き返ったその過程を。
    「悲しくて、苦しくて……。俺は無意識に暴走してしまった。気付いた時には、時空も次元も歪めてお前の魂を俺の元へ【持ってくる力】で召還してしまった。お前の魂の器となる肉体を【プラントの大元の力】で創造してしまった。自分自身の肉体も再構成してしまった」
    (何やそれは……)
    ウルフウッドはただ呆気に取られることしかできなかった。それは、すでに神の御業の如き所業だったからだ。先程、「神にでもなったつもりか‼」とヴァッシュに怒鳴ったが、実際これはかなり的を射た罵倒だったらしい。
    これから先は、ウルフウッドの理解の及ぶところにはない次元の話——つまり、何故ヴァッシュにそのような神の御業の如き所業が為し得たのかについての話である。
    非常に簡潔に纏めると、プラントという偶然の重なりの末に人類が作り出した因果律を操作することで万物の崩壊と創造を可能とする新たなる生命存在——それが生み出した更に新たなる生命存在である自立種という未知の可能性を秘めた〝モノ〟が、肉体という枷から解放された魂だけの状態となったことによって為し得た所業だった。それすなわち、魂には疲労の蓄積による生命機能の劣化という概念が存在しないため、プラントの全能力を無尽蔵に振るうことができるということである。魂だけの状態となったヴァッシュを敢えて言葉にするならば、高次元の存在——人類が偶発的に作り出した神に非ざる神の【力】の執行者だ。
    「ごめん。ごめん、ウルフウッド」
    今まで淡々と語っていたヴァッシュの表情の起伏のなさが、あたかも強力な砂嵐で瞬く間に防砂堤が決壊したかのように崩れ落ちた。
    「俺はお前の命を冒涜した。あれは絶対にやっちゃいけないことだった。あれは禁忌だった。それでも……それでも俺は……どうしてもお前に会いたかった」
    その瞬間、ウルフウッドは気付いた。だからだったのかと。目覚めたばかりの自分を、ヴァッシュが神に赦しを乞う敬虔な信者のような表情を浮かべて眺めていたのは、これが理由だったのかと。つまり、これは懺悔。犯してしまった自罪の告白。
    「本当にすまない!」
    そして、恥も外聞もなく自分の罪の証であるウルフウッドに向かって土下座したヴァッシュの姿を眺めながら、ウルフウッドは愕然と思うのだ。
    (……卑怯や)
    ——と。
    そんな姿を見せられたら……見せられてしまったら、怒れるはずなどないではないか。殴れるはずなどないではないか。なじれるはずなどないではないか。何故なら、断罪される瞬間を待つ科人のように自分の目の前で背中を震わせて謝るこの男は、ウルフウッドにとってただ一人の大切な友達だったのだから。誰よりも傷付いてきた分、誰よりも悲しんできた分、誰よりも苦しんできた分、誰よりも泣いてきた分、誰よりも頑張ってきた分、誰よりも足掻いてきた分、誰よりも笑顔でいて欲しいと願っていたただ一人の大切な友達だったのだから。
    (そないに寂しそうな背中してんなやアホが)
    ウルフウッドは声に出さずに力なく笑った。ヴァッシュが自分に対して行った傲慢極まりない所業への怒気が、さながらグラスの中の氷のようにゆっくりと溶けていくのを感じ、そんな自分自身に呆れてしまったからだ。
    無意識に黒いスーツの懐を探る。サングラスで顔を隠そうと思ったのだ。いつものように。自分が酷くみっともない顔をしているだろうことを嫌って。しかし、目的の物など入っている訳がない。ウルフウッドは音もなく舌打ちをすると、すかさず無表情を取り繕った。隠せないなら取り繕うまでだ。表情を取り繕うことなど慣れている。
    「ええ加減顔上げぇ。大の男が軽々しく土下座なんぞするもんやないで?」
    「軽々しくなんて、ないよ」
    俯いたまま床に突いた両手をぎゅっと握り締めて、ヴァッシュは無理に感情を抑えたような掠れた声で言う。顔はまだ上げようとはしない。ウルフウッドは理解する。ヴァッシュはきっと断罪されるのを待っているのだと。
    けれど、もう無理だ。ウルフウッドにはもうこの男を断罪することなどできはしない。これ以上、この酷く優しい男が自分のことで苦しんでいる姿など見たくはない、悔やんでいる姿など見たくはない、そんな愛憐の情にも似た思いを抱いてしまったのだから。
    (それに……起こってしもたことを今更ゴチャゴチャゆーてもしゃーないわ)
    そうだ。仕方がない。
    自分の本意ではなかったが、この男の【力】によって自分は生き返った。今更それをなかったことにはできない。ならば、自分は選ばなければならないのだ。限りある選択肢の中からただ一つを。ウルフウッドはずっとそうして生きてきた。そうして生きてきたのだ。
    やがて、選択は為った。
    その時、ウルフウッドが浮かべていた表情は、取り繕った偽物の表情などではなく、腹が据わった本物の表情だった。
    そして、ウルフウッドは告げる。ヴァッシュが待っているであろう言葉とは正反対の言葉を。
    「ワイはもう怒っとらん。せやから、そないに自分を責めんなや」
    「——‼」
    ヴァッシュがバッと顔を上げた。その顔はウルフウッドが選んだ〝この男を許し受け入れる〟という選択への驚きと戸惑いに染まっている。
    「……何で? お前は俺のエゴを押し付けられたんだぞ? お前はもっと俺に怒っていいんだ。殴っていいんだ。なじっていいんだ。お前にはその権利があるのに、なのに……何で……何でそんな簡単に俺を許してくれるんだよ。何でそんな簡単に俺を受け入れてくれるんだよ」
    (簡単なワケあるかいボケ)
     けれど、ウルフウッドは余計なことは言わない。代わりに、わざとかつてのような軽口を叩くことにした。そうすることで、もういいのだと教えてやるのだ。
    「おどれが相変わらずどこまでも阿呆で大馬鹿のままやからそないな気ぃも失せてもうたんや。伝説の男が聞いて呆れるわ」
    「お前だって偽悪的なリアリストを気取るくせして相変わらず深いところでは優しいままじゃないか」
    「偽悪的なリアリストを気取るてどーゆー意味やコラ。ちうかワイが変わっとらんのは当たり前やからええねん。ワイからすれば時間なんぞ経っとらんも同然やねんで? 変わろうにも変われへんがな。問題はおどれや。あれから百年もあったんに、ちいとも成長しとらんのはどーゆーワケやねん」
    「し、してるよ! 俺だってちゃんと成長——て、そうじゃなくて! 俺はお前に何されたって文句は言えない立場なんだ。俺はそれほどの許されない大罪を犯したんだ。そう思うのに……思ってるのに……お前が目の前に居ることが……お前とまたこんな風に話ができることが……どうしよう……こんなにも嬉しい」
    言うと、ヴァッシュは顔をくしゃりと歪ませて、子供のようにボロボロと泣き出した。それは、他人のために動かした感情から流している涙ではなくて、自分のために動かした感情から流している涙だ。そんなもの、ウルフウッドは初めて見る。
    (なるほどなあ)
    成長したというのもあながち嘘ではないらしい。自分のために泣けるようになったのだから。
    (せやけど、こいつの泣き顔て笑っとるみたいやな)
    かつては共に旅をしていた仲だったというのに、背中を合わせて共に戦っていた仲だったというのに、自分はそんなことも知らなかった。けれど、それも仕方がなかったのだ。何故なら、あの頃の自分達は文字通りお互いの腹を探り合う旅をしていたのだから。少なくとも、ウルフウッドはそうだった。
    「メソメソすんなや。辛気臭い。泣き虫はリヴィオだけで間に合うとるわ」
    あの頃のデタラメな旅に一瞬だけ心を飛ばして苦笑を浮かべたが、それを敢えて無視してウルフウッドは軽口を叩くことを止めない。
    例え、それが他人のためであろうと自分のためであろうと、どちらにせよこの男の涙は重過ぎる。いつまでも見ていたくなどないのだ。
    (泣き止めアホが)
    「あのな……ウルフウッド、ムチャなこと、ゆーな。嬉し涙くらい見逃してくれ。……なあ、今度は『笑え』なんて言わないでくれよ」
    ウルフウッドには百年という時間の経過に実感などまるでないというのに、聞き覚えのあるその台詞——記憶に間違いがなければ、それは〝前〟の自分が聞いたこの男の最後の言葉だ——が酷く懐かしく感じた。あの時、この男はどんな思いで自分の隣に居たのだろうか。よりにもよって、〝誰の命も等しく尊ぶ男〟に最期を看取らせてしまったことへの罪悪感に、ウルフウッドの胸の奥がツキリと痛んだ。
    けれど、涙を拭って泣き止もうとしているヴァッシュの姿を見て、ひとまずの安堵を覚える。しかし、だ。
    (わからんな)
    この男が自分を生き返らせたことについては、もう自分の中で消化できているので別にいい。ただ、ウルフウッドにはどうしても疑問に思わずにはいられないことがあるのだ。それこそ、最初から。
    本人に伝えるつもりなど微塵もないが、ウルフウッドにとってヴァッシュはただ一人の大切な友達——特別な存在だった。けれど、ヴァッシュにとっても自分が特別な存在だったのかと問われたとしたら、ウルフウッドは首を傾げるだろう。
    確かに、この男と自分は共に旅をした。背中を合わせて共に戦った。それは、自分にとっては異例のことではあったが、しかしこの男の二百五十年という長過ぎる生涯を思えば、旅を、戦いを共にした人間など自分だけのはずがない。
    (ワイはこいつが出会ってきた大勢の中の一人に過ぎん)
    そう、自分はヴァッシュの惑星中に居る数多の身内の一人に過ぎなかったはずだ。自分はヴァッシュの膨大な記憶の一端に残る思い出の影の一つに過ぎなかったはずだ。それなのに、何故この男は明らかに神の領域を犯す【力】を使ってまで、それほど特別な存在であったとは思えない自分などを生き返らせたのか。自分などを選んだのか。そこが疑問なのだ。
    (会いたい人間がワイだけのはずあらへんし……)
    相互理解において相手の主義・主張が仇となることがある。ウルフウッドの場合は、ヴァッシュの平等主義や博愛主義がそれだった。故に、ウルフウッドは想像し得なかったのだ。ヴァッシュが死後に何に〝絶望〟して、何を〝渇望〟したのかなど。
    だから、ウルフウッドはヴァッシュに問うた。ウルフウッドにとっては当然の疑問を。
    「何でワイなんや?」
    「え?」
    「せやから、何でワイやったんかて聞いとんねん。道連れが欲しいんやったら他にもぎょうさん居ったやろ? おどれを好いとったシップのおさげの嬢ちゃんとか保険屋の小っさい嬢ちゃんとかワイが知らん誰かとか。それこそ、おどれには惑星中に身内が居ったやんか」
    「それは……」
    ウルフウッドの問いに、ヴァッシュが唇を開いて何かを言いかけた。けれど、ヴァッシュは躊躇いがちに視線を逸らして、きゅっと唇を引き結んで押し黙ってしまう。その態度にイラッとしたウルフウッドが軽く舌打ちをすると、ヴァッシュの肩が微かにビクリと震える。その態度にまたイラッとしたウルフウッドは今度は拳を握ろうとしたが、しかしその拳は収めることにした。このままでは話が進まないからだ。
    (それにしても、何でこいつこないにビビっとんねん?)
    訳がわからない。何故、この男はいちいち自分の反応にここまで怯えるのだろうか。自然の摂理を曲げてまで自分を生き返らせたことについてなら、先程「ワイはもう怒っとらん。せやからそないに自分を責めんなや」とはっきり言ってやったはずだ。自分の許容の言葉だけでは、ヴァッシュの免罪符にはならなかったのだろうか。だが、それはまあいい。問題はそれではない。
    「説明せえ」
    有無を言わせぬ口調で、ウルフウッドはヴァッシュに向かって鋭く言い放った。



    ~中略~



    君のあたたかな手を掴める幸福を——。





    その後、降谷と風見は書斎にある四畳半程度の広さしかない狭い隠し部屋——重い書斎机を動かすと、人一人が辛うじて通れる隠し部屋の扉が現れるという仕組みだ——へヴァッシュとウルフウッドと共に向かい、地下の保管庫の存在を知らない者には発見できないように作られた隠し部屋の床の隙間にある鍵穴に特殊な鍵を差し込んで開けると、ヴァッシュとウルフウッドを伴って地下の保管庫へ続く階段を懐中電灯の明かりだけを頼りに降りて行った。
    ヴァッシュとウルフウッドは本当に約束を守ってくれる気があるようで、それぞれ拳銃及び予備弾薬を身に付けることでしっかりと持ってきている。そして、何故かヴァッシュは全身を覆い隠せるほど巨大な砂色をしたマントも持ってきていた。
    それにしても、驚愕させられたのはウルフウッドだ。
    あの巨大な十字架——個人で持つことなど不可能である数トンはある超重量兵器をあまりにも軽々と、しかも聖職者が持つ普通の十字架の如く平然と片手で取り回すウルフウッドに、降谷は冷や汗が止まらなかった。正直、ヴァッシュが同じく片手で平然と引き摺りながら運んでいた時よりも遥かに戦慄したし畏怖したと思う。
    (ヴァッシュさんもそうだったが、本当にどんな膂力だ)
    今、ウルフウッドは黒いベルトを片手で掴んで、その巨大な十字架を背負っている。降谷は何故かウルフウッドのその姿がとてもしっくりくると感じて、なるほど確かにウルフウッドの言う通りあの巨大な十字架はウルフウッドの得物なのだと実感した。だからこそ、ヴァッシュが持っているよりウルフウッドが持っているほうが戦慄と畏怖を感じたのだろう。
    実は、その巨大な十字架を背負うウルフウッドの姿に、ゴルゴタの丘を登るイエス・キリストを幻視してしまったのだが、ウルフウッドがあまりにも苦もなくその巨大な十字架を背負っているものだから、そんな幻視など一瞬で降谷の脳内からは消え失せてしまった。
    そういえば、あの巨大な十字架は昨日は寝室に置かれていたはずだ。ヴァッシュがウルフウッドをベッドへ寝かせる前に床に置いたのを降谷は見ている。しかし、それが今日は隠し部屋のある書斎の壁に立てかけられていたのは何故なのかと、降谷は疑問に思った。まあ、大した疑問ではないのでわざわざ聞くことでもなかったが。
    「うわー、本当に広いんだね」
    地下の保管庫の扉の前まで辿り着き、先程とはまた別の特殊な鍵を差し込んで扉を開けると、ヴァッシュが室内を見回しながら感嘆の声を上げた。
    この地下の保管庫の広さは四十畳はある。ヴァッシュが驚くのも無理はない。
    ウルフウッドはというと、何故か壁を拳でコンコンと叩いている。おそらく、壁の強度の確認でもしているのだろうと、降谷はそう結論付けた。
    壁の強度の確認——確かにそれは間違いではない。けれど、実はウルフウッドはそれだけではなく反響音から壁の厚さも確認していたのだ。降谷もさすがにそこまでは気付かなかった。
    (これならパニッシャーやったら軽くぶち抜けるな)
    何しろ、パニッシャーのロケットランチャーは、バンカーバスター——大型貫通爆弾——を軽く凌駕する貫通力を誇っているのだ。まさに超兵器である。ヴァッシュのリボルバーでは鍵を破壊することは可能でも、この壁を破壊することは不可能だろう。まあ、あの右手の能力を使えば別だろうが、ウルフウッドは今後ヴァッシュにあの右手の能力を使わせるつもりなどなかった。もうこれ以上、寿命を縮める【力】など使って欲しくはないのだ。
    それに、あの男はもう充分過ぎるほど戦ってきた。だから、万一緊急事態が起こった場合、ウルフウッドは自分が動くつもりでいるのだ。これは、その時のための確認である。
    (せやけどパニッシャーはしゃーないとしてもハンドガンは持っときたかったわ)
     拳銃を所持できないとは何だ。意味がわからない。
     だが、ここはまだ見ぬ世界であって、今のところ頼れるのは降谷達だけだ。この世界に順応できるまでは従順を装うのが得策だろう。拳銃を手放さなければならないのは不服だが。まあ、こちらの世界——いや、『国』は平和らしいので、危険ではあれどそれに賭けてみよう。どうせ、いつまでも拳銃の未所持を許容する気など、ウルフウッドにはない。
    「あの、ヴァッシュさん? 何をしているんですか?」
    ウルフウッドがそんなことを考えているとも知らず、ふと降谷はヴァッシュがいつの間にかマントを纏って全身が見えないように覆っていることに気付いた。ウルフウッドの行動に気を取られて、気付くのが遅れてしまったのだ。しかも、ヴァッシュはマントの中でゴソゴゾと派手に手を動かして、何かをしているようなのだ。
    「え? いや、このコートとアンダーは〝僕の知ってる地球〟のテクノロジーの塊だからさ。僕達の銃と同じくらい軽々しく表に出せないモノなんだよ。だから脱いでここに保管しとこうと思って」
    へらりと笑ってヴァッシュが言う。
    マントの中で手を動かしていたのは、どうやら真紅のコートとアンダーをマントの中で脱いでいたからだったらしい。それにしても、何故マントで隠しながら脱ぐ必要があるのだろうか。
    (裸を見られるのが恥ずかしいのか? 男同士で? いや、まさかな)
     実は、そのまさかであることを降谷は知る由もない。まあ、理由は恥ずかしいからではないが。
    (——あっ)
    そういえば、ヴァッシュの左腕には肩から二の腕の中程まで何ヶ所にも及ぶ無残に縫い合わされた傷跡と肉を抉り取られたような傷跡があったことを降谷は思い出した。
    (傷跡を見られたくないのか? いや、それもないだろう。だとしたらあの時も見せなかったはずだ)
    実は、そのまさかであることを降谷はやはり知る由もない。誰が想像できようか。あの尋常ではない壮絶な傷痕を。
    ちなみに、ヴァッシュはあの時は片腕——それも義手の方の左腕だから見せたのだ。あの程度ならそれほど驚かれることもないだろうと思って。けれど、あれでも思っていた以上に降谷と風見の反応が思わしくなかったので、さすがに全身は見せられないとヴァッシュは判断したのである。
    「それ、脱ぎ難く——いえ、何でもありません」
    降谷は聞こうとした言葉を引っ込めた。
    こうまでして、何を隠しているのか気になったものだから、ついいつもの癖でさり気なく会話を誘導して聞き出そうとしてしまったのだ。寸前で止めることが出来たのは幸いだった。
    (まだだ。まだそこまで深入りしてはいけない)
    そうだ。繰り返すが、余計な詮索をして、ヴァッシュを怒らせるのは得策ではない。それよりも、信用を得る方が先だ。ここまでの苦労を、好奇心などというつまらないもので台無しにしてどうする。
    「気になるんやろ? アレ。せやけどあんまり気にせんとき。あいつにはあいつの事情がある。それだけや」
     ウルフウッドがまるでこちらの思考を読んだようなことを言った。その言葉から、どうやらウルフウッドはヴァッシュが何を隠しているのか詳しく知っていることが明らかとなる。
    「そうですか」
    結局、降谷が口にしたのはそれだけだった。
    やがて、降谷と風見が見守る中、ウルフウッドがあの巨大な十字架を床に置いたのを合図に、ヴァッシュとウルフウッドはそれぞれの装備品と拳銃と予備弾薬を備え付けの金属製の棚に置かれた木箱に仕舞う。
    それを見届けると、降谷と風見はヴァッシュとウルフウッドを伴って地下の保管庫を後にしたのだった。



    ~中略~



    おわり
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    vwmuteking

    MENUコナン君、哀ちゃん、少年探偵団、赤井さんとの出会い
    化物と探偵【中編】どうかそっとしておいて——。





    コナンはその時ポアロに居た。蘭は園子と連れ立って米花駅前に最近できたことで話題となっているショッピングモールへ行くため、小五郎は身辺調査の依頼が入ったために二人揃って朝から留守にしていたので、いつものようにポアロのカウンター席で昼食を摂っていたのだ。
    ポアロの店内は一番奥のテーブル席以外、カウンター席も含めほぼ満席状態だった。さすがは日曜日である。まあ、ほぼ女性客なところを見るに、安室効果が多大に発揮されているのだろうが。
    ちなみに、一番奥のテーブル席だけが空いているのには訳がある。時代の流れ——健康増進法に従って、ポアロも終日禁煙制を導入していた。しかし、安室の話によると「カフェの名を掲げているならともかく、喫茶店の名を掲げているのに喫煙ができないのはおかしい」と喫茶の意味を履き違えている苦情が何件も入ったようで、苦肉の策として大きな換気扇の真下にある一番奥のテーブル席だけを喫煙席にしたそうなのだ。その話を聞いた時は、『何という詭弁』とさすがのコナンも呆れてしまった。まあ、喫煙者である小五郎は喜んでいたが。
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