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    Sui

    @Sui_Ivy

    表であげられないものや供養、まとめ

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    Sui

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    どむさぶ🌟🎈
    詳しい内容、中身の流れはTwitter参照下さい。
    まとめて読みたい方用。完結済み
    https://twitter.com/sui_ivy/status/1522518904136175616?s=21&t=CGCZQaKxBt6OMYS0TEZRbw 設定

    惹かれて縛って赤い糸「オレはDomだ!しかも重度のな!」
     ワンダーランズ×ショウタイムとして始動する前に司くんからそう宣言された。
     男女の他にダイナミクスという力関係が人の性別に加わる特殊な分類がある。主にSubとDomに別れるものだ。SMの関係に近いが、それより深く心の奥底までつながる関係のもの。効力も違うし、関係性が崩壊すれば死に至ることもあると聞く。SubはDomにコントロールされたい、DomはSubをコントロールしたいという本能的な欲求を持っており、この欲求が満たされないと抑うつ状態、自律神経の乱れに繋がるらしい。
     一重にDomだからSubだからと優遇されるものでは無いし、生きづらいという印象でしかなかった。どちらかといえば、街中でplayを行う輩がいたり、嗜好以上に虐げられたりなど肩身が狭いとネットニュースで噂や取り上げられていたような。
     僕自身はそういった性質は持ち合わせてないし、周りにもいなかったため司くんがそうなのかとやや実感のわかない心地がした。
    「ふむ、カミングアウトするだなんてびっくりしたよ司くん」
    「へぇ……驚いたアンタが」
    「どむ?それってどむどむドーナツ?」
    「違うわ!なんだそのどむどむドーナツと言うのは!?」
    「どむどむドーナツの歌のお店屋さんがあってね!!」
     えむくんの話で、スイーツの話に脱線しそうになったのを僕がたい焼きを口に入れることで修正する。
     どこか緊張した面持ちの司くんはいつもとどこか違って見えた。無理に背伸びをしている大人のような。
    「ごほん、ちゃんと病院に通って薬も貰っている。Glareが出ないよう訓練をしているがもし怯えさせるような真似をしてしまったら申し訳が立たなくてな」
     薬ケースを持って困ったように笑う司くん。カラカラと中の錠剤が揺れる音がしてたったそれだけの行為で、彼とは違うと僕たちとの境界線を感じて、ズキリと何故か胸が傷んだ気がした。
    「オレがカミングアウトしたからカミングアウトする必要は無いのだが、お前たちは不快感などないの――」
     こちらをうかがうような目つきの司くんの言葉を遮るようにたい焼きを食べ終わったえむくんが手を上げてぴょんと飛び跳ねる。
    「はいはーい!私はSwitchだよ!でもdomに偏ってるかな!」
    「なっ、ちゃんと知っているではないか!?」
    「私はNeutral」
    「ふむ皆は調べたりなんかしたのかい?僕はそっち方面は疎くてね多分寧々と同じなんじゃないかな。そういう気質はないし」
    「疎いというか知識として知ってても興味無いんでしょ」
    「おや?バレたかい」
    「類お前一応調べた方がいいぞ。万が一にもSubだとしたら大変だからな」
     その日はカミングアウトと、注意する点などを確認しあって解散になった。
     帰宅してソファに横になり、司くんの様子を思い出す。司くんの困った、どこか諦めたような顔を見て僕は笑顔にしてあげたいと強く思った。元々ショーで人を笑顔にしたいと思っていたが、今は司くんを悲しませたくない気持ちでいっぱいだ。
     胸に巣食ったもやもやした気持ちはどうしてなのかは分からず、演出案に没頭すればそのうち消え去るだろうと考えて僕は机に向かう。
     その時の僕は深く彼の人生には関わることはないのだろうなと思っていた。


     最近どうにも体調が優れない。
     元々寝食を疎かにしがちだが、疲れが抜けきらないというか常に徹夜してるような体のこわさがある。心配に思って徹夜もせず日をまたいですぐくらいには寝ても同じ。ここ数日キリキリとした頭痛までも出てきて、何かの病気にかかってしまったのではないかと不安になってきていた。
    「類!」
    「司くんじゃないかどうしたんだい?」
    「お前がどうにも体調が優れないような気がしてな」
     廊下を歩いていれば司くんが見慣れた金糸のような髪を揺らして駆け寄ってくる。彼の顔を見た途端酷く安心して、体の疲れやだるさがなくなった気がした。
    「そうかい?」
    「うーん、何となくなんだがな」
     司くんの指が僕の髪に触れたと思えばさらりと梳かれそれがまた心地よい。ずっと触れていて欲しいようなそのまま身を委ねてしまいたくなるくらい安心して。
    「……類?」
    「ん……つかさくん?」
    「少しいいか?すまないな」
     触れていた手が離れて寂しさを感じていれば、司くんの顔が近づいてきておでことおでこが合わさる。あまりに急でびっくりして呼吸をするのを一瞬忘れてしまった。
     目の前で瞬く星空の煌めきのような瞳に、ふせられた睫毛にきめ細やかな肌。トクトクと心臓が拍動し、体がポカポカと温かく司くんの熱と溶け合って満ちてゆく。
    「熱はなさそうだな」
    「う、うんっ」
    「ここ最近どこか不調そうだが、また無理して夜更かしか?」
    「……いや、1時前には寝ているよちゃんと。でも疲れがなんだか取れなくてね。ここ数日頭も痛くて気圧のせいかな」
    「今は大丈夫なのか?」
    「うん、なんか司くんと話したら楽になったみたいでね。不思議だ」
    「……そうか」
    「司くん?」
     難しい顔をして何かを考えていたが、すぐにいつものキリッとした笑顔に変わる。そして僕の頭に手を伸ばしたと思えばくしゃくしゃと撫でられて、擽ったいのにどこか気持ちよくて僕は笑ってしまった。
    「ふ、ふふ司くんどうしたんだい突然」
    「仲間で、友人であるお前が元気がなさそうに見えたからな、安心させてやりたくてな」
    「じゃあ、僕がいいって言うまで撫でてくれる?」
    「……類、屋上でなら良かったんだが生憎ここは廊下でな」
    「あっ」
     今僕は何を言って何をしようとした。司くんの厚意に甘えて、それももっとと強請って縋って。周りを見回せば、僕らを避けるように遠巻きに生徒が見ていて、顔が一気に熱くなる。周りから見てもわかるくらい真っ赤だっただろう。
    「つ、司くんっ!すまないねっ、じ、じゃあまた昼に!」
    「あっ、おい類!!」
     声は裏返ってしまい焦っているのがバレバレだ。あまりの羞恥心にいたたまれなくなり、逃げるように自分のクラスに駆け足で戻ったのだった。



     それから気味の悪い体調は良くならず、何故か悪くなる一方だった。最近日課にしてる体温測定でも、35.8℃と低めの平熱で熱はなく喉の痛みや鼻水なんかの風邪の症状すらないのだ。ひとつわかったことと言えば司くんの側では楽になるということだけだ。
    「よし!キリがいいな!ここで、一度休憩にしよう!」
    「えぇ〜!!まだ私飛べるよ?ほらっ!!」
    「ええいこらえむ止めろ!飛び込んでくるな!そう、これから熱くなるだろう!水分補給もショーのために必要な健康管理の一つだ!」
    「はーい了解しました隊長〜!」
     目の前ではえむくんと司くんが、わちゃわちゃと仲睦まじく兄と妹のように戯れている。多分司くんの休憩の合図は普段だったらないもので、キリが良かったのは本当だけれど、僕の不調を見てのものだった。気遣うような寧々と司くんの視線に申し訳なくなり目線を合わせられない。
     迷惑をかけてばかりだ僕は。どうしてこうなっているか分からなくて、尚更心配をかけてしまっている。ずっとこのままでは駄目だ。僕がちゃんとしなければショーの演出は立ち行かない。ずっとこの調子だと、ワンダーランズ×ショウタイムの存続すら危うくなって、僕はお払い箱になるかもしれない。
     あれ、僕は皆に必要とされているのか。
     いや、皆僕が不調でも気遣ってくれるように、演出が思いつかなくたって見限ったりなんてしない。
     でもそれが途方もなくずっとだとすれば――。
    「ねぇ、類大丈――、」
    「っ!!司くん、寧々ごめん。少し確認したい演出案を思い出して舞台裏の装置の確認に行ってくるね」
     また僕は逃げてしまった。
     必要とされる、されないそんなことを考えてしまう自分が嫌だ。僕を救ってくれた皆のことをそんな風に思いたくなくてないのにどうして。
    「あ、れ」
     おかしい地に足が着いてるはずなのに、地面がマシュマロみたいにふわふわで目の前の景色もぐにゃぐにゃと歪んでいる。くらりと目眩がして、体が暗闇の底に落ちていく感覚がしたと思えば膝をついていた。体が重くてだるくて上手く動かない。ぐらりと体は傾いて無機質な冷たい床に倒れてしまった。
    「はっ、はひ、はぁ、ぁ、は」
     息がうまく吸えない。苦しい。息は吐けるのに吸えなくてぽたぽたと床に涎が落ちてゆくのが見える。まるで水の中に溺れたように首を抑えてもかひゅかひゅとしたかすかな音しか出なくて、助けも呼べない。辛くて、苦しい。
     僕はこのままこの冷たい舞台裏で誰にも見つからず死んでしまうんだろうか。怖くて体も震えて、冷や汗が止まらない。ぐるぐるして気持ち悪くて吐きそうなのに吐けなくて辛い、苦しい。
    「っ、ぅ、ぐ、ひっ、っっ……」
     やだ、やだ。だれか、たすけて。こわいよ、ぼくをたすけて。

    ――つかさくん、たすけて。

    「類!!」

     光が差し込んできた。僕の一番星スター
     司くんに抱きしめられて、僕の意識はそこでぶつりと落ちた。



    Another√天馬 司

     多分だが、類はSubだ。
     最近どこか体調が悪そうにしていることが多く、それを本人が何故かと分かっていない。
     オレといると体調が良くなる、安心する、もっと触れて欲しいと強請って縋る類は、無意識下にDom天馬司を求めていた。
     早く病院に連れていき、適切な治療を受けられるようにするべきだったんだ。

    「類!!」

     いつまで経っても戻ってこない類が心配になり、舞台裏へ追いかければ無機質な冷たい床に横倒れになる荒く息をした類がいた。
     血の気が引いて、類がこのままだと死んでしまうと本能的に分かっていた。
    「たす、けて、ひゅ、やだ、こわいっ、つかさ、く」
    「類っ、類!!」
     躓きそうになりながら類に駆け寄り声をかけ揺さぶる。しかし目の焦点はあわずに黒く澱んで濁って、冷や汗で震える体。自分自身の体を抱きしめて吐き気もあるのか、嘔吐いてついには、涙がこぼれ落ちる。過呼吸になりながら必死に助けを、オレに求めていた。
    ――Sub dropだ。
     類はダイナミクスの検査をしたことがないという。こういった不安感や焦燥感、体調不良に見舞われることはなく今まで過ごせてきたらしい。けれど、こうしてSub dropしてしまっている。
     オレのGlareで威嚇や威圧した記憶はない。パートナーにあたるDomなんて無自覚Subの類にはいないだろう。なら、無理やりCommandを使ってplayを強要されたのか。
     違う。
     類はダイナミクス発現が遅かったのだろう。重度のDomに誘発されて発現してしまったとしか考えられない。
    「類っ!!類!!」
    「やだっ、や、は、はぁっ……ぼ、ぼくっみんなと、ひっ、いっしょ、に、しょー、は、したかっ、た……だけ、はぁ、はっ……は!」
     いやいやと首を振り自分を守ろうと、守れるのは自分だけなんだと自分の体を必死に抱きしめて縮こまってゆく。
     発現したのがオレのDomに誘発されたにしろ、類はいい意味でも悪い意味でも自分に対しての悪意には疎い。本当は傷ついている心を守ろうとしての防御反応だろう。だから、悪意のない言葉で傷ついたのを見えないふりをして、悪意のある視線や言葉に晒されても1人で“最高のショーと笑顔” のために頑張ってきたのだ。 
     だから、今までの悪意がDomによるものも含まれていたらPlayの役割を果たしていたら。
    「は、はぁ、ひ、くるしぃよ、こわぃ、ひっ、」

     ここで類を救う方法は一つだけだ。
    ――After careを行うこと。

     オレには正式なパートナーはまだいない。
     パートナー紹介制度を使って、この支配したい独占したいという強い欲求を解消できるようパートナーを探していた。けれどオレのDom性が重すぎて、仮パートナーのSubとバランスが取れない。
     DomとSubは、深い信頼関係からなる。そしてDomは絶大な信頼関係を向けられて自分の本能を優先せず、Subの安全と限界を優先するのだ。Domの采配ひとつでSub spaceにもSub dropにもさせてしまう。

     オレは類のことが、恋愛感情で好きだ。

     第2の性であるダイナミクスでのパートナーとは違い、恋人になれればと思っていた。その矢先に類がSubかもしれないと分かって、オレの中のDomは歓喜で震えていた。服従させたい、オレのものだと知らしめたいと。
     類のことは仲間として友人として大事にしたい。好きな相手としても疎かになんてしたくない。
     けれど、今類を救えるのはこのオレのDom性で。パートナーでもないSubにCommandを出してcareするのは良くない。最悪もっと酷いSub dropになるかもしれない。類のそばにいたDomがオレだけで、ヒナの刷り込みのように依存させてしまう形になるかもしれない。類が、将来付き合う人とパートナーを一緒にするタイプだとすれば、オレの欲で縛ってしまうことになる。
     でもオレは類を、救って守りたいから。
    「……類、ごめんな」
     恐怖で強ばって握りしめすぎた痛々しい手を、指を1本1本いたわるように開いてゆく。素晴らしい演出を生み出す魔法の手、元々手入れもしていなかったのか逆剥けもありカサついていた。
    「ぁ……」
     オレの触れた熱が伝わったのか、朧気な瞳がやっとこちらに向く。オレを目に写して安心したのか笑顔が綻んだ。
    「類、オレだ。天馬 司だ」
    「つ、かさ、くぅ、ん……?」
    「そうだ、えらいな類。ちゃんとオレを見てくれた」
     真っ青だった顔に少しづつだか赤みが戻り、手先も普段の類の温かさを感じるようになった。倒れた体を起こしてオレは類をもっと安心させるために、包み込むように抱きしめた。
    「ぁ、ふぁ……つかしゃ、く」
    「類今までよく1人で頑張ったな」
    「ぁっ、あ……」
     綺麗な類の紫陽花色の髪を撫でて、ぽんぽんと背中をたたく。どんどんとオレに身を預ける形で力が抜けてゆく。
    Good boyいい子だな
    「あっ……!」
    Good boyいい子だ
    「ん、んぅう……」
     微睡んで潤んだ金糸雀色の瞳がオレを見た。良かった、類が戻ってこれた。
    「あとは寝ていていいぞ、類」
    「ん……」
     そう静かに優しく耳元で囁けば暫くして寝息が聞こえてきた。取り敢えずこれで、Sub dropは回避できて、応急処置くらいにはなっただろう。これからパートナーではないがcareしたこと含めオレのかかりつけの病院に連れて行き説明、検査をしてもらわなければいけない。
     スマホの電話帳から通院先を探し出し、これから緊急で受診させたい人がいることを伝える。長年お世話になっている医者は快く返事をしてくれた。そして、寧々宛にと電話をかける。
    『もしもし、司?今どこに、』
    「寧々すまない事情は合流してから説明するとして、オレと類の荷物を持ってきてくれないか?」
    『え、類に何かあったの?』
    「類が倒れてな」
    『はっ!?類は大丈夫なの!?』
    「取り敢えず今はもう大丈夫だ」
    『今用意してすぐそっちに行くから待ってて。あ、えむが車出してくれるって言ってる』
    「すまないな」
    『……こういう時に頼ってなんぼでしょ、仲間って』
     慌ただしくやり取りしたと思えば最後にそう呟かれプツリと電話が切れた音がした。
    「ふ、ははっ」
     類もオレも仲間に愛されているな。
    「類、お前を1人になんてさせないからな」
     オレは眠る類を抱きしめながら寧々とえむが来るのを待った。



     くらい、くらい。光なんてなくて、ここが陸なのか空なのか海なのかすら分からない。ずっと落ち続けているような浮遊感、ぐらぐらと胸が締め付けられるように苦しい。

    ――類くん、急にこんな危ないことしようとするなんて、ヘンだよ……
    ――類くん、なんでそんな危ないことまだしてやりたいの?

     記憶の奥底で眠っていた僕がやりたいことは、理解されない嫌がられると分かった幼い日の記憶と声が過ぎる。
     ずっと昔のこと、もう今は気にしていない。司くんたちとできた垣根を越えるショーで僕は、こんな幸せなことはないって感じて。最高の仲間と出会えたことが嬉しくて。

    ――こんなのおもしろそうってだけでやれないよ!

     人と違うのは分かってる。みんなと話が上手くいかなくて、仲良くなれなくてショーでなら繋がれるって思ったんだ。

    ――そうだよ!類くん、おかしいよ!

     おかしいのなんて、自分が変わってるのだって分かってる。でも今はみんながいて。

    ――類くんっ、ダメ!!ケガしちゃうよ!!
    ――類、司が死んじゃう!やめて!!
    ――……すまない類、オレは限界みたいだ

     あれ映像にノイズが走って?何でワンダーランズ×ショウタイムの皆に?声がえむくんや、司くん?寧々?
     違う、寧々もえむくんも司くんもそんな事言わない。言われた記憶なんてない。ない筈なのにどうして不安が恐怖が拭えない?

    ――もう類と一緒にショーはできない

    「っ、まって……!」
     皆の声が遠ざかり、姿も消える。手を伸ばしたのに掴めなくて目の前に広がるのは深くて暗い暗闇だけ、僕はたったひとりで。
    「ちがうっ、ちがうよみんなはそんなことしない、言わないっ」
     じゃあなんでここには誰もいない?
    「ひゆっ、ぁ……やだ」
     うまく息が吸えない。苦しい。海の底?空の上?もうそんなの分かりっこない。僕はここでひとりでずっと、誰もいないこの場所で、迎えにこない誰かを待って、死んでしまうのかな。
    「やだっ、や、は、はぁっ……ぼ、ぼくっみんなと、ひっ、いっしょ、に、しょー、は、したかっ、た……だけ、はぁ、はっ……は!」
     僕はやっぱり、ひとりで――、

    ――類っ!!

     あれ、きみは誰だっけ。
     でもあったかくて、安心する。この誰もいない暗闇の中でキラキラ光る星みたい。眩しくて、僕を離さないって、ひとりにしないって照らしてくれる。
     僕の手に太陽のような温かい手が触れたと思えば、引っ張られた。目の前が瞬き意識が遠のいて。


    「……ん、」
     片手が温かい。ここはどこだろう。
    「え……、」
     周りを見渡して最初に目に入ったのは、司くんだった。手を離さないように握ってくれていたのも彼だ。木目調をベースにした落ち着く壁紙が見える。心地よい風が肌をなでて横を向けば揺れるレースカーテン。その側には点滴棒があって、管を辿れば僕の腕に繋がっていた。
    「なんで、病院に……?」
     僕の寝るベッドに片腕を枕にして寝ている司くん。起こした方がいいのかと迷っていた矢先、くぐもった声が聞こえて、微睡みから覚めたオレンジトパーズの瞳と目が合った。
    「……、類っ!?」
    「う、わっ!!司くん、どうしたのっ」
     なんとか体を起こしていた僕をぎゅっと抱きしめる司くん。今までこんな司くんから突然抱きしめられるようなことがなくてどうしたらいいか分からなかったけど、心がほわほわと温かくなる。恐る恐ると背中に手を回した。
    「良かったっ、よかった……っ」
    「司くんっ……?」
     抱きしめる力が強くなったと思えば、肩のあたりが濡れ初めて嗚咽まで聞こえたため、司くんが泣いているのが分かる。
    「司くんなんで、泣いて」
    「っ、類倒れたこと覚えてないか……?」
    「倒れた……?」
     泣いて目の端が赤くなった司くんが鼻をすすりながら僕を見た。まだ、強く抱き締めて欲しかったなって気持ちがわいて出たけどなかったことにした。きゅうきゅうと心が締め付けられるように苦しくて悲鳴をあげているのは気のせいだ。
     倒れた、確か僕は練習の休憩の合間に舞台裏に逃げてその後は――?記憶が酷く朧気で思い出そうとすれば頭痛がした。なにか暗くて怖いところにいたような。
    「類、大丈夫だからな」
     忘れた記憶を探り、見えない感情の答えを出すのが怖くて俯いていれば、司くんが両手を包み込むようにして握ってくれる。視線をあげて見えたのは満面の笑みで、心の奥底のもやが晴れて消え去ってしまった。太陽みたいでぽかぽかする。
    「……類、るーい」
    「ふぁ、……あれ僕今……?」
     気づけば僕は司くんの手に縋って、頬にあてながらぼんやりとした心地良さに身を任せていた。やっぱり、司くんに触れてそばに居るだけで僕が僕じゃなくなるような。
    「はぁ……正式なパートナーでないのにそれだけ信頼してくれてるのは、嬉しいんだが。目が覚めたらとりあえずどうしてこうなったか説明しようと思っていてな」
    「ぱーとなー……?」
     さっきとは違い困ったように笑う司くんは僕の頭を撫でた。
    「類、お前のダイナミクスの話だ」



    「え、僕がSub……?」
     司くんが診てもらっているという医者からの言葉は現実味がなかった。
     元々僕はSubで、発現が遅いタイプとそう説明された。そうしてDomとして影響力の強い司くんと出会って惹かれるように発現してしまったと。だからここ最近の体調不良もSubの欲求不満からくるストレスかく言う自律神経の乱れで説明がつく。
     司くんの側にいて体調が良くなっていたのは、相性のいいDomの上に元々信頼していたかららしい。そして、僕は昨日練習の休憩中に倒れて、Sub dropに陥り正式なパートナーではないが司くんにcareされて事なきを得たと。しかしそれも応急処置で、非常に不安定なため抑制剤を手渡されパートナーを見つけるよう紹介制度を勧められ話は終わった。
     取り敢えず今日は大事をとって一泊するようにと、後からまたSubとは何かの講義を受けることになった。こんな所で司くんのカミングアウト時の警告のツケが回ってくるとは思ってなかったなと、反省中だ。
    「すまない!!」
     不安だからと司くんと一緒に詳しい説明を受けて病室に戻るや否や司くんは僕に向かって土下座を披露する。
    「つ、司くん止めてくれ!!」
    「オレは意識の曖昧なお前に申しわけないことをした!!」
     病院の中なのに響き渡る声で、ネネロボなら『100デシベル 電車ガ通ルガード下ノ音デス』と言われていただろう。床に綺麗な髪を擦り付けて謝るまでのことを僕はさせたつもりはなかったので、肩を押して司くんを見る。本当に悔しそうに申し訳なさそうな顔をしてて、つい僕は笑ってしまった。
    「っ、あはは司くんっ、なにその顔」
    「なっ!?オレは真剣にっ」
    「何を謝られてるか分からないけど、僕は君に土下座させるほど酷いことをされたのかい?」
    「くっ、オレは正式なパートナーでもないのに何も知らないお前にCommandを出したんだぞ!?下手すると余計に酷くなっていた可能性だって、」
    「司くんがいなければ僕はきっと、息さえうまくできなかったよ」
     静かに告げれば、司くんの息を飲んだ音がした。だって本当のことだ。朧気な記憶が段々とハッキリしてきて、最初に思い出したのは天馬司という光スターの君だ。怖くて寒くて苦しい暗闇の中で、司くんだけが僕の全てだった。
     僕は覚悟を決めて、少し震える司くんの手を取る。
    「司くんがよければなんだけど、パートナーになってくれないかな?」
     司くんが目を見開いて、止まる。思考停止、パソコンならNow Loadingとぐるぐる回るエフェクトが頭上に出ているのだろう。そうして数秒やっと僕の爆弾発言を咀嚼できたのか、見る見るうちに般若の顔になり肩を掴んで揺さぶられることになったのだった。
    「は、はぁぁあ!?お前っ正気か!?」
    「ちょ、あっ、司くっ、あたま揺れっ」
    「まだ記憶が混乱してるのかっ!?」
    「司く、うぇ、聞いて、おねがっ、おぇ、きもちわる」
    「うぉお!類すまない!!!!」
     ぶんぶんと司くんの腕の力と遠心力で、三半規管を刺激され吐き気で嗚咽すれば司くん飛び退いて僕から離れる。普段は僕の隣に並びたって歩いて、時には手を引っ張ってくれるのに今日はてんでダメだ。
     僕は司くんがいいのに、何に臆病になっているの。
    「司くんは病人の僕を放っておくんだ」
    「なっ!?それはお前が」
     じりじりと逃げる司くんを床を這うようにして近寄って、捕まえる。逃げようったって逃がしはしないよ。司くんから諦めの悪さは学んだんだから。
    「先生も言っていたじゃないか。僕のSub性と司くんのDom性の相性がいいって」
    「それはっ、でもオレがお前のそばにいた唯一のDomだから本能が、」
    「それが、何か悪いのかい?」
     病室の壁際に司くんを追い詰めた。
    「なっ」
    「DomとSubは信頼関係の上に成り立つ。Sub dropから戻れたのは君のDomのおかげだ」
    「だからっ」
    「でも僕はDomだからSubだからじゃなくて、司くんだからパートナーがいいんだ」
     じっと、司くんを見つめて数十秒。顔に手を当て天を仰いだと思えば長いため息を吐いて、僕と同じように覚悟決めた意思の強い瞳がこちらを見た。
    「……分かった。パートナー契約を結ぼう」
    「っ、うん、うんっ!」
    「取り敢えず」
    「う、わっ!?」
     司くんが僕を軽々と持ち上げたと思えば、ベッドに下ろしてくれた。病院のパジャマについたホコリを払いながら笑う。あ、これは兄モードの司くんだ。
    「本当にお前はオレをよく困らせる。詳しい話は明日以降、退院してからにしよう。寧々やえむも心配してたぞ。昨日Sub dropしたんだからなお前」
    「あいたっ」
     デコピンをおでこに1つ。何をするんだと恨めしげな目で睨めば、司くんはそっと僕を抱きしめてきた。
    「本当に無事で良かったっ……!」
    「っ……!心配かけてごめんね」
    「謝るなよ、類。オレもお前も悪くないんだろう?」
     咲希くんのことで司くんは、失うかもしれない恐怖は1番身に染みて分かっていた筈なのに僕はやらかしてしまった。
     司くんには誰よりも笑顔でいて欲しいから。僕が司くんを笑顔にしたいから。
    「ありがとう、司くん。僕を助けてくれて」
     看護師が僕の体調を確認しに来るまで、2人でずっと抱きしめあって離れなかった。


     血液検査やら診察をして大丈夫とお墨付きを貰い、ダイナミクスの講義を受けて無事退院した。その足で律儀に迎えに来てくれた司くんと彼の家へ向かっている所だ。僕が倒れたのが金曜日で、目覚めたのが土曜日。今日は日曜日と休みでちょうど良かった。
    「体調はどうだ?」
    「ん、大丈夫だよ。司くんにcareして貰ったお陰で体が羽のように軽くてね!今なら最近控えていた演出案をこれでもかと」
    「やめろやめろ!病み上がりだろう!」
    「むぅ、そんなにヤワじゃないよ僕は」
    「倒れたやつの言うことか?」
    「不可抗力だよ」
     話の揚げ足を取り続けのらりくらりと交していれば、司くんの家に着く。どこか落ち着けるところで、パートナーになるにあたって今後のことを確認し話し合おうと司くんに提案されたのが彼の家だった。ダイナミクスは守秘義務もいい所、くつろげるカフェで話すなんてプライバシーもへったくれも無い。完全個室、防音としてカラオケもあったが集中できるかと言われれば程遠い。消去法というか、司くん的には家一択だったらしいが。
     僕はこういう形で司くんの家に訪れていいのか?という緊張と歓喜で昨日の夜は遠足の前のワクワクの如くあまり眠れていない。病み上がりで寝不足だなんて司くんに、バレたら良くないのである程度コンシーラーで隠している。
    「お邪魔します」
    「今日は丁度この時間誰もいなくてな」
    「挨拶出来ればと思っていたのだけれど仕方ないね」
    「なに用事があるなら伝えておいてやろう」
     両親には入院した下りやダイナミクス、パートナーになる司くんの事は一通り話しており菓子折を貰って手紙まで預かっていたのだ。そのなんと、司くんと司くんの家族用の2つ。気恥しさもあり、話が一段落してもし万が一司くんのご両親が帰ってくることを想定して最後に渡すことにした。
     司くんの家に足を踏み入れて早速空気が違った。司くんに包み込まれてるような安心感と幸福感。こんなドアを隔てただけで空気が甘くて美味しい、吸いやすいと感じるのか不思議だった。これもDomとSubが関係あるのだろうか。
     リビングのソファに通され僕は預かっていた菓子折渡す。
    「はい司くん」
    「なんだ、気遣わなくても良かったんだが」
    「僕の母さんからと、僕のケジメというかね」
    「ふふん、ではこの菓子折に合う紅茶を入れてきてやろう!」
     キッチンに去ってゆく司くんを見届けて、家をぐるりと見渡した。日当たりのいい構造、明るくて温かみのある家だ。家族写真が多く飾られており、その写真もみんな笑って仲の良さが分かる。何度か司くんの家に訪れたことはあるけれど、こうしてゆっくりくつろぐのは初めてだった。
     ソファには『TSUKASA』と書かれた青い星のクッションに、ペガサスのぬいぐるみがいてつい手が伸びてしまった。ふわりと彼の香りがして酔いしれる。
    「ふふっ、司くんのにおいだ……」
     ぽすりと、司くんの家なのを忘れてソファに横になってしまう。素晴らしい紅茶を淹れてくれると豪語する司くんを待っているのに何だか眠くなってしまい僕は少しだけならとゆるく瞼を落とした。

     ふわふわ、ゆらゆら。
     ぬいぐるみのペガサスくんのふわふわな毛並みの上に乗ってうたた寝してしまったのかな。スカイブルーの羽がパサパサと心地よい風を運んでくすぐったくて気持ちいい。
    『嘘ついたな、昨日夜更かししただろう』
    「ううん……つかさくんの、ふぁあ、いえがたのしみで……」
    『……隈だってまた』
    「んふふ」
     ペガサスくんの声、優しくて落ち着いた声だね。司くんに似てる。持ち主に似るのかな。
    『可愛いな、類』
    「…………えっ!?」
     僕はペガサスくんもとい司くんの声で夢見心地から意識を取り戻し飛び起きた。
    「うぉおっ!?類突然どうしたんだ?」
     司くんはソファの空いてる場所に腰掛け台本を読み込んでおり、僕はあのままペガサスのぬいぐるみを抱いたまま寝てしまったようだ。ブランケットまで丁寧にかけてもらって、僕は司くんの家にお邪魔して寝相を晒すという失態を犯してしまったのか。蕩けるような甘い声で可愛いって言われたのは夢なのか、現実なのか。ドキドキする心臓に知らないフリをして、優しげな顔をした司くんには聞き返せなかった。
    「……すまない司くん」
    「本調子じゃないのに無理するからだろう。このオレが入れた最高の紅茶で疲れを癒すといい」
    「ん、頂きます」
     紅茶は司くんが言うだけあって美味しかった。



    「それじゃあ類、パートナー契約を結ぶにあたって改めて説明と確認を行うがいいか?」
    「いいよ」
     ソファからテーブルに移動して、ルーズリーフを片手に向かい合って話し始める。
    「類は病院でどこまで説明された?」
    「うーんダイナミクスの大まかな流れと、Subの特徴や予測される僕のSubとしての傾向についてかな。血液検査とカウンセリングを軽くして抑制剤を処方してくれたよ一応」
     ごそごそと鞄を漁って、Sub専用の頓服での抑制剤を取り出す。欲求を抑えてくれる優れものらしいが、紛れもない投薬のため期間を開けずに飲むことや、一度に多量に飲むことで副作用が出てしまう。薬に頼りすぎるといつかは耐性ができてしまい、血液検査するのも薬の飲みすぎで検査の値で引っかかるからだ。本来発散させなければいけないものを無理やり薬で抑えているのだから当然だろう。
     そもそも内服に頼らなくてもいいように、パートナー契約があるのだ。
    「抑制剤は、一応SubやDomにあったものを出してくれるが、性質が強く重くなるほど欲求を抑えるのが難しくてな。強い薬ほど副作用も強いと言うだろ?」
    「じゃあ司くんも……?」
    「オレはまぁなんとか必要最低限にplayしてはいたからな」
    「……そっか」
     僕は司くんがパートナーとして、playをするのが初めてなのに司くんはこれまで知らない誰かとplayをしてきたってことか。司くんは重めのDomと言っていたし欲求を解消しないとSub同様に寝不足やイラつきなど体調不良に陥るから生きるのに必要なことだ。仕方がない、仕方がないんだ。なのに、どうしてこんなにも胸が痛むのか。
     これは僕が持ちかけたダイナミクスのパートナーの関係。それ以上でもそれ以下でもない。仲間で友人である司くんとの関係に、特別な心の結び付きであるパートナーが増えるんだ。これ以上を望んでしまっている僕はなんだ?司くんの全てが欲しい、苦しませたくない、笑っていてほしい、そばにいたいいさせてほしいこれはSubの性質なのかそれとも。
    「類?」
    「ん、あぁすまないね。ぼんやりしていたよ」
     僕は元々考えすぎてしまうきらいがあるから、司くんに声をかけられるまで俯いてしまっていた。
     僕が司くんに出会ってSub性を発現させSub dropしてしまったから、その負い目があるから司くんはきっとパートナーだって受け入れてくれたんだろう。

    ――なら、パートナーはいつか解消されるものなのだろうか。

    「類!!オレを見ろ!!」
    「つ、かさくん……?」
     机の向かい側から司くんは僕の頬を両手で優しく掴んで、僕を見つめてくる。きらきらと瞬く星の煌めきが瞳の奥に見えた気がした。
    「お前また変なことを考えていただろう!話しかけてるのにどこか上の空で、どんどん顔色が悪くなっていくからな」
    「いや、その僕……」
    「遠慮はしなくていい。オレはパートナーとしても、1人の友人としても類を大事にしたいんだ」
     今のこのたった一言で僕の胸を掬っていたもやもやは晴れてしまった。なんでか泣きそうで、嬉しくて仕方がない。
    「類まだ本調子じゃないだろう」
    「それは先生も言ってたかな。応急処置でのcareだからSubとして不安定な状況なのは変わらないって」
    「よし、じゃあこの確認が終わったら早速お試みたいでなんだがplayするか」
    「えっ」
     playについては病院で軽く教わったのと、どんな感じかと気になってしまいスマホでplayの内容が綴られたブログなんかに目を通してびっくりした。基本的姿勢であるkneel(おすわり)をさせてから、優しく愛でて世話をしてあげるものから、そこからハードなCommandで全裸になっていたりと多種多様で0か10みたいな内容だった。
     それもこれもdomとSubの欲求の違いから来るものだ。僕もよく自分自身の欲求はよく分からないけれど司くんとplayして行くうちに分かるのだろうか。
    「確認が途中だったなすまない。オレのDom性は重度なんだが類はどうだ?」
    「いや、僕はカウンセリングされたけどまだ発現したばかりだから、まだ何とも」
     トントンと司くんがボールペンのノック部分で机を軽く叩いたあとサラサラと書き始める。
    「オレの欲求としては、守ってあげたい、世話をしてやりたいという気持ちが1番強い」
    「僕は……うーん、確か甘えたい褒めて欲しいって気持ちが強めかもって言われたかな」
    「ふむそうか……」
     元々Subだとしても発現したのは昨日なので、長年自分のダイナミクスと付き合ってきた司くんと僕では捉え方ひとつ違うのだろう。前のめりになって書き出されてゆくルーズリーフを覗き込んでいれば、司くんが無意識なのだろうか僕の頭を撫でてくれた。
    「類されて嫌なことはあるか?例えば痛いのはダメだとかこれは怖いとかそういう」
    「そうだね、多分暗くて苦しいことは嫌かな?Sub dropしてた時の記憶がチラついて少し怖いかも」
    「playで言えば、目隠しや首絞めなんかのハードなものになるな。オレはそっちの虐めたい欲求は強くないからなそもそもしないつもりだから安心してくれ」
     司くんの手は大きくて温かくて気持ちいい。カリカリとルーズリーフに書き込まれていく音をBGMにして手に頭を預ける。
    「司くんは?」
    「オレか?過度なその性的な触れ合いとかになるとダメかもしれん。足にキスとかは許せるが舐められたりまでは申し訳なさがどうしても勝つ」
    「なるほど。僕も自分の欲求がSubのこれなのかって、何がいいかとかまだハッキリとしてなくてごめんね」
    「オレが手ほどきするから心配するな」
     わしゃわしゃと犬を撫でるみたいに髪を撫で回され、ニカッと満面の笑みが司くんから溢れる。
     心配なんてしていないよ。司くんから与えられる物は全て宝物みたいに尊くて、ずっと誰にも見せずにしまい込んでおきたいくらいなんだから。初めて君にあった記憶も、言葉も、向けられた想いも全て優しくて司くんを拒むなんて一生できないし、恥ずかしいことに自分が思っている以上に司くんに心を許して信頼しきってしまっているのだろうな。
    「まぁ、これから日常的に簡単なスキンシップから初めて何がダメかいいか探っていくから大丈夫だろう」
    「うん」
    「あとは、safe wordか」
    「Sub側からの中止の合図って聞いたよ」
    「概ね間違ってないぞ。DomであるオレがSubであるお前の限界を見誤ってしまい無理だと思った時に使うものだな」
    「多分使うことはないと思うけれど」
    「案外思ってもみない所にダメなことや嫌なことがあったりするものだぞ」
    「そんなものかぁ」
     司くんにされることならなんでも許してしまいそうな僕だけれど、深層心理までは流石に分からないから司くんのことも一理ある。先生にもDomに対して『なんでもいい』と身投げするのは自殺行為に近いと説明されていたのだった。DomとSubの第2性はそれじゃなくても一般受けはよくない。事件だって少なくはないのだ。
    「例えばよくあるのが赤(レッド)で、信号機の止まれを思い出させるものだな」
    「それだと面白みにかけるね」
    「面白みを求めて無闇矢鱈に使うものでは無いからな!?使う機会がないことを期待したいが何か他にいい案があるのか?」
    「うーん、ムカデとか」
    「っひ!?そ、それはやめてくれ!!」
     テーブルが動いて、ボールペンが司くんの手の中から転げ落ちる。青ざめて酷く怯えた顔をした司くんを見て効果抜群なのになと残念だ。ボールペンとルーズリーフを取って、《safe word ムカデ✕》と書く。
     Domもとい司くんにとって、苦手なものをsafe wordにすれば止まると考えてのチョイスだったのに他の虫ならいいのか掘り下げてみよう。
    「play中にそのムカデが出たのか出てないのかどっちか分からなくなるからな」
    「いい案だと思ったのになぁ、じゃあゲジゲジ」
    「やめろ!!」
     どんどん怯えて遠ざかっていく司くんを乗せたイス。面白おかしくてクスクスと笑ってしまえば、イスごとテーブルまで戻ってくる司くん。
    「面白がってるだろ類!!」
    「ふふっ、だって司くん面白くてはははっ」
    「類〜!!真面目な話をしているのにお前は〜!!」
     《ゲジゲジ✕》と書いた横に僕はこれなら大丈夫だろうという単語を書いて司くんに見せた。
    「ピーマン?」
    「そう君の苦手な野菜さ。僕も言うのが嫌だけれど、お互いに平等な関係ってことで痛み分けのつもりでね」
    「お前までダメージを負ってどうする……はぁ、じゃあそれにするかsafe word」
     《safe word ピーマン〇》と赤いインクに変えて花丸までつけてあげた。そうして2人で確認した内容をもう一度読み上げた。
    「よし、大体は確認し終えたな。それでだな、そのこれからオレの部屋でplayしても大丈夫か?類」
    「っ、うんっ」
     司くんが僕の手を引いて階段をゆっくり歩いてゆく。これから、司くんの部屋で精神的な繋がりを主にする欲求を満たすためのplayをするんだなと、鼓動が早くなったのを感じた。



     司くんの部屋に足を踏み入れて僕は、家に入った時以上の幸福感に包まれて最早座り込みそうになる足をなんとか動かす。
    「ソファとベッドどちらがいい?」
    「僕はどっちでも」
     早く司くんにCommand命令を出して欲しいと僕の中のSub性が疼いて今かと待ち望んでいる。やっぱり昨日のcareだけでは、僕の欲求不満は解消出来ていなかったようだ。
    司くんだけの神代類にして、僕だけの天馬司が欲しい。
    「ベッドにするか」
    「うん……」
    「類、safe wordは」
    「……ピーマン」
    「よし」
     まだベッドにたどり着いてないけれど、すぅっと息を吸った司くんが次に目を開ければ瞳の奥にみえたのは欲に濡れた1人のDomだ。ピリッと空気が変わった気がした。司くんが上から下と僕の体を見る。目がそらせない。見られているだけなのに、ぞくぞくと背筋に快楽が走った。
    「類、kneelおすわり
    「ひ、ぅっ」
     僕は司くんのその低くて深いその一言でかくりと、膝が力なく折れぺたりとお尻をつけて足を開いた形で床に座っていた。 足の間に手をついて、司くんを見上げる。
    「類、初めてなのによく出来たGood boyいい子だな
    「ぁ、はっ」
     頬をなぞってたどるように耳に触れて、頭に手をずらして撫でられる。慈愛のこもった瞳で僕を、僕だけを見て笑う司くん。いい子だって褒められて、それだけで嬉しくてもっと甘えて縋り付きたくてなって、司くんの足に近寄って頭を擦り付けた。司くんも僕でいっぱいになってほしい。
    「ふは、可愛いな類」
    「ん、んぅ司くんっ」
     司くんに撫でられてるだけでふわふわして気持ちよくて体がとけてゆく感覚がして、全部司くんだけになってゆく。
    「類、これは大丈夫か?Stay待て
    「ん」
     司くんはどんどん僕から距離を置く。それが寂しくて、でもCommand命令は絶対だからいいと言われるまで辛抱強く待つ。できたら司くんはいい子って褒めてくれるから離れるけど大丈夫、怖くない。
     ベッドに腰をかけて、2つCommand命令を出してくれた。
    「まず、Crawl 四つん這い
    「ん、」
     おすわりの姿勢から犬を連想させる四つん這いの姿勢になる。恥ずかしいけれど、嫌ではない。司くんによってこれからもたらされる幸せが、ご褒美が欲しくてこのまま犬のように司くんの所まで飛び込んでいきたいくらいなんだ。
    「大丈夫そうだな。よし類Come!来い
    「っ!!」
     はやる鼓動と呼吸。心臓を司くんに鷲掴みにされたかのように、目がそらせない。Look目を逸らすなとCommandをもらってないのに、司くんが光り輝いてみえる。心臓も呼吸も司くんによって動かされてるような錯覚に陥るくらいに僕は司くん1色だ。ゆっくり1歩ずつ這って、時間をかけてようやく司くんの元までたどり着く。おすわりして、膝に顎を乗せた。
    「つかさくんっ」
    「本当にお前は……Good boyいい子だな
    「ふ、ぁ」
     司くんに褒められて、触れられてぼんやりとしてゆく。ふわふわと雲の上にいるような、とけてしまいそうな幸せで満たされる。
    「類、初めてのplayでSub spaceに入ったのか?」
    「すぺー……す?」
    「……嬉しい。オレの、Sub
    「んふふ、ぼくのDom司くんだれにもわたさないよ……」
     僕だけの、お星さま。どこにもいかないでね。



    Another√天馬 司②
     
     気づいたら類を目でいつも追っていた。
     何を考えているか分からないとよく言われると話していたが、類ほど分かりやすいやつはいない。ショーに対する熱量は凄まじく、時には子供のようにはしゃいで愛くるしい。昔のことがきっかけでか、自分の心に疎くて臆病で寂しがり屋な類。自分よりも他人の幸せをと、優しすぎて傷ついてそんな類を自分の手で笑顔にして幸せにしてやりたいと思ってしまった。気付けば恋していた。
     けれど、オレの中のDom性が類を欲したのか、心の底からダイナミクスなしで愛を向けていたのかは今となっては分からない。支配欲と独占欲が渦巻いて歪んで判別できなくない。
     類が好きだと気づいた時、類の周りには案外人がいることに気づいた。秋山や冬弥、後輩に慕われ最近ではクラスメイトなんかとも仲がいいと聞く。これもそれもワンダーランズ‪‪✕‬ショウタイムでの活躍があってこそなのだろう。類の人を笑顔にしたいという演出が、やっと花芽吹いてきて祝福すべきことなのに、オレの中のdom性が邪魔をする。そんなこと思いたくなんてないのに。
     『類がSubならよかったのに』と思ってしまう自分が嫌だった。効果なんてなくてもCommand命令すれば、オレの元に来てくれないかとそう思ったのがいけなかったのだろうか。そうして、類はSub dropしてしまった。

    「パートナーでもないSubにCommandを出すなんて、良くないことでした。すみません」

     診察室でオレの担当医に頭を下げて謝罪する。
     あの後えむが着ぐるみたちに頼みオレと類はDom/Subの専門病院に来ていた。類はSub dropしてしまってオレによるcareはされているが、非常に不安定かつ肉体的にも影響を及ぼしていることからも検査含め1泊することに。
     病院でお世話になっている先生は、――君の強いDom性はSubに対したら毒になるかもしれない。でも君自身も苦悩しているその支配欲なんかは、影響力そうだね、人を呼び寄せる力があるのと同義でもあるんだよ。それだけ、魅力的な自分自身を、心を許して愛してあげて。それに、神代君がcareして戻ってこれたのは、君たちの信頼や絆によるものだから気に病まないでね――と話してくれた。
     類の様子を目が覚めるまで見守ってていいか確認を取った。不安と焦りで緊張する体を深呼吸でいさめ、そっと病室のドアを開けベッド横のイスに座る。
    「……類」
     目の前で人形のように眠る好きな人
     病衣に身を包み、片腕は点滴が繋がれている。規則正しい寝息と、触れた片手から伝わる温かさで気づいたらオレは泣いていた。
    「っ、類、類っ……!」
     もっとはやくサインに気づいていればと後悔しても仕方がないのは分かっている。オレが類をSub dropから救えたことは、良かったし嬉しかったのは確かだ。
     でも、好きなだけではどうにもならない。
    「……ははっ、domのオレはお前を壊してしまうかもしれないのにな……」
     そのうちオレは、類をcareしたことやショーの疲れでか気づいたら寝てしまったのだった。



    ――司くんがよければなんだけど、パートナーになってくれないかな?

     類が目覚めて、ダイナミクスの説明を受けたあと言われた一言だ。なんのタチの悪い冗談かと思ったか。
     オレが身近のDomだから、手頃な形でパートナー契約を結ぼうと思ったかと断れば類が頑固なのを思い出した。そうして泣き落としや揺さぶりなんかをかけて、気付けばオレの逃げ道はなくなっていた。
    「ありがとう、司くん。僕を助けてくれて」
    「……当然のことをしたまでだ!!」
     類が助かって良かったと思う反面オレの心の中は黒く澱んだ感情で埋め尽くされていた。
    ――これで、正真正銘オレのSub神代 類だと言えると。



     類が、オレとパートナー契約を結ぶために家にいる。自分のテリトリーにSubがいるだけで、こんなに気持ちが高ぶるのなんて知らない。今だってそうだ。
    「んんぅ……つかしゃ、く」
    「類……」
     オレが紅茶を入れてリビングに戻ってくれば、オレの名前が書かれたクッションとペガサスのぬいぐるみを抱きしめて類はすやすやとソファで眠っていた。
    「可愛いな、類」
     ぷくぷくと膨らむ頬や、ぬいぐるみを抱いて嬉しそうに緩む口元。その全てが愛おしくて、閉じ込めてしまいたい。オレだけを見て、オレだけになってほしい。
    「っ……違うオレはそんなこと望んでなんかっ!」
     紫陽花色の柔らかい手触りの髪を撫でて俺はなんとか、強い欲求を押さえようと紅茶でそばに置いていた抑制剤を飲み込んだ。
     オレは重めのdomだが、欲求が仮のパートナーで解消出来なくても抑制剤で抑えられる程の淡白さだと思っていたのだが。類とパートナーになると決めてから、類に触れれる権利を得れたと欲求が溢れて止まない。自分で作った料理を食べさせる――餌付けをして、オレが類の服を着せて脱がせて衣食住さえ管理したいと思ってしまった。
     類のSub性は軽めかもしれない。オレのこの、オレの手によって自分で何もかもできなくなってしまってほしい思いは重すぎる。
     ただ、好きでいれればよかった。
     DomとSubの関係でなんて縛りたくなかったんだ。


     
    「んふふ、ぼくのDom司くんだれにもわたさないよ……」
    「そう言ってくれると、嬉しいぞ類」
    「ん、んぅつかさくもっと、なでて、さわってぇ」
    「……っ、きょう、はだめ、だっ」
     類が頭をぐりぐりと太ももに擦り付けて強請ってくる。目に毒すぎて、でもSub spaceに入ったSubを遠ざけるなんて出来なくて、生殺しもいい所だ。オレの理性を試すような普段の類とはまた違う甘えたな姿で縋らないで欲しい。それがSubの性質だとしても、あどけなくてオレのDom性をくすぐる。
    「んぅ、いじわる」
    「きっ!きょうはっ、頭撫でるので許してくれ」
    「んふっ、いいよ……それすきだからぁ」
     オレの膝の上で類はくふくふと笑う。
     言い訳をさせてくれ、初めてのplayでSub spaceに入るとは思わなかったんだ。類はオレに絶大な信頼を置いてくれているのは知っている。オレの側に無意識に寄ってきて、気を許した猫のように甘えてきて、度重なる類の行動ひ知っていたはずだったのだが。
     カウンセリングでは甘えたい褒めて欲しいという思いが強めと言っていたが、想像以上だった。
    「つかさくん」
    「……類、なんだ?」
    「んー……つかさくんすきだよ」
    「っ……!そ、れは」
    「ふふっ」
     類の好きは友人としての好きだ。相性のいいDomだから、Subの本能でそう言っているだけなんだ。類が好きなだけなのに苦しい。
    「るい……オレもすきだっ、」
     Sub spaceに入っている時はぼんやりとしか覚えていないらしいから、言うだけ許してくれ。これ以上は望まないから。
    「うれしぃ、なぁ……」
     抑制剤、強いものにしたほうがいいかもしれないな。



     初めてplayをしてから数週間、抑制剤はなんとか使わずにすんでるというか、司くんの気遣いがあまりにも手厚すぎて使わないですんでいる。元々世話焼きがちな性格だったのがより拍車をかけたというか、欲求不満すら抱く暇がないくらいだ。
     そもそも僕は1回目お試しと司くんとplayしてからというもの、体調不良に見舞われることはなかった。体調不良になるようなことないか司くんが異様に目を光らせて、少しでも予兆があればplayとまではいかないものの形にして僕が必要だと示してくれる。
     それがあまりにも快適すぎて、今までの不調が嘘のよう。司くんに触れてもらって言葉をもらって僕は生きて、生かされている。まるで魔法みたいだ。
     司くんから与えられるものは、全て嬉しくて仕草一つ一つが優しくて甘い。Commandなんて使っていないのに、お疲れ様と頭を撫でてくれるのは癖なのか。僕も人形くん達によく撫でて欲しいと頼まれることはあれど身長や性格も相まってか撫でられることはなくて、司くんに頭を撫でられるのは別格だった。あまりにも心地よくてとろけてしまいそうだ。
     ある日は、キリのいいところと夜更かしをしてしまい寝不足の僕を見つけた司くんは昼休み僕の目元をタオルで温めたと思えば、寝かしつけられた。普段の司くんらしからぬ音色を奏でた子守唄は疲れた頭するすると入り込んで気付けば夢の国だったのも懐かしい。
     またあくる日は練習で疲れていただけなのに、抱きしめてくれたかと思えば『どうだ!疲れは吹き飛んだだろう!』と満面の笑みで僕を励ます司くん。疲れは一瞬で吹き飛んで、逆にあまりにも司くんは距離が近すぎて、胸がドッドッと早くなる。
     そう最近僕の心臓はおかしい。司くんとパートーナーになってからは前よりも近く司くんを感じることが多くて、体の調子はいいのに司くんへ抱く感情がよく分からなくて調子が悪い。
     この心の不調については分かるまではいやに聡い司くんに気づかれないようにしなければ。なんて大変なミッションなんだろうか、ショーと人を繋ぐより難しい。
    「司くんっ!!さぁ、さぁ!!このまま空を縦横無尽に駆けてみようじゃないか!!」
    「る〜〜いぃ〜!!これはっ、ちゃんと止まるのかぁぁあ!?」
    「勿論さ!!」
     放課後、ワンダーステージで考え抜いた装置で司くんには飛んでもらっていた。絶叫がフェニックスワンダーランドに響き渡って、いいアトラクションの導入にでもなっているだろう。
     司くんを誰よりも何よりも輝かせたくてたまらない。最近特に、そうした気持ちが止まらなくて溢れてしまって困ってしまうくらいだ。司くんが僕のこの気持ちに答えてくれてそれ以上をくれるから、僕は満たされてもっと司くんを輝かせたくなる。
    「司くん!!データは十分取れたからもう降りてくるかい?」
    「……っいいや!この天馬司、類の演出に12000%で答えると宣言した!求めるデータ以上の成果をあげてやろう!!」
    「ふ、ふふふふっ!それでこそ司くんだよ!!」
     その傍らで僕達の会話を聞いて様子を見ていた寧々とえむくんは、どこか安心したように笑っていた。
    「もう、本調子みたいだね類」
    「お陰様でね、心配かけたみたいで」
     僕がSub dropしてからplayもして体調は万全だったのに、座長命令とワンダーランズ×ショウタイムの練習は休止していた。ダイナミクスの発現が不安定だった僕の調子が練習中に何かの拍子に乱れる可能性も捨てきれないと、安定するまではとショーから離れていた。
     Sub dropした理由もこれじゃないかと司くんには聞いていたから、皆といる分にはまた倒れたりするようなことにはならないと返したが、首を縦に振らず頑なにだったのだ。体は万全で練習がしたくてうずうずして止まなかったのに数週間も待てをされるひどい仕打ち。溢れ出る演出案でお返しだ。
     寧々やえむくんには僕のダイナミクスと、司くんとパートーナーになったこと、倒れた理由も告げていた。倒れる前から心配をかけていたみたいで寧々には泣かれたんだっけ。パートーナーの件に関しては嫌悪も何も無くて、お似合いだと何故か祝福されたかな。
    「うん!!司くんも類くんもふわふわきゅぅーん!!ってしてる!」
    「え、それは恥ずかしいかな」
     えむくんにそう指摘されて寧々を見れば分かってますよとえむくんの言葉を解読しているのか頷いていた。
    「イチャつくにしても時と場所選んで欲しい」
    「イチャつく……?」
    「そこからなの……?」
     遠くの空か司くんの呼ぶ声が聞こえるが緊急事態だそれどころでは無い。寧々にもえむくんにも司くんへのこの甘酸っぱいような胸が締め付けられるような気持ちがバレているということは、司くんにも?
    「わわ!寧々ちゃん!類くんの顔が真っ赤になったと思ったら真っ青になっちゃった〜!私のせいかな!?」
    「類が他人に対しても自分に対しても気持ちに鈍感なだけだから」
    「類くん類くんごめんね〜!!」
     えむくんが泣きそうになりながら僕にごめんねのハグをしてくる。司くんから抱きしめられる時とは違って、年下の妹のじゃれ合いのような感覚。不快ではないし、好きな部類の触れ合いだ。でも脈は早くならないし、微笑ましい気持ちだけ。どういうことだろうか。
     こそこそと内緒話をする要領で、寧々とえむくんに小声で話す。飛んでいても司くんに万が一にでも聞かれたら恥ずかしいからね。
    「えむくんちなみに司くんにはバレてないかい?」
    「うーんどうだろ、寧々ちゃん?」
    「司にはバレてないと、思う」
    「……そうか良かったよ」
     ほう、と安心して一息つけば寧々が心配そうにこちらを覗き込んできた。
    「あんまり抱え込みすぎちゃダメだよ類」
    「うん……でも僕もまだ答えが出せてなくてね」
    「大丈夫だよ私達も相談に乗るし、司は類のこと1人になんてさせないから」
    「……!ふふ、そうだったね僕らのスターは」
     きらきらと降り注ぐ日差しの下で、青空を背景に飛び立つペガサスのような司くんを見上げて僕はまだ名前のない気持ちを抱いたのだった。



    「天馬くんとパートナーになったんです」
     月1回の通院日。あの日Sub dropしてしまい司くんのかかりつけに連れてきてもらってからはや1ヶ月。司くんの担当でもあった医者に引き続き診てもらっていた。本来は抑制剤も頓服であるし、年に2〜4回少なくて1回程度の血液検査や診察らしい。僕は発現が遅く不安定なsubだったための経過観察含めての月1回の受診だ。
    「ほう、天馬くんと」
    「僕からその持ちかけまして」
    「天馬くんも特定のパートーナーがいなくて、心配していたからそれは良かった」
     今回の血液検査の結果と軽いカウンセリングをした後、僕のダイナミクス――Sub性が安定したかどうか性質はどうかと話し始める。
    「うん、天馬くんのお陰でか抑制剤も飲んでないみたいだし、Sub性は1ヶ月で安定したみたいだね。性質的には、甘えたい・褒めて欲しいっていうのが強く出ているのは入院していた時と同じだけれども、神代くんは天馬くんに心の隅まで信頼しているみたいで、パートーナーを続けていくにあたって変化すると思う」
    「変化するとは……?」
    「君の天馬くんへの信頼度が高くて、彼から与えられるものなら何でも柔軟に吸収したい、受け止めてあげたいがあるから、躾やお仕置されたいと思うこともあるかもしれないね」
     確かに、僕は司くんにされるなら全て許してしまうだろうなと思っていた。司くんから貰えるものなら甘やかな毒のような躾やお仕置で縛ってくれても許せる気がしていた。
    「先生あの一つ」
    「うん?」
    「僕のSub性って重度になりますかね……?」
     僕が1番気にしていたのは自分の体調よりも司くんのこと。司くんが、影響力の強い重度のDomだと聞いていたから彼の欲求に答えることが出来るかが不安だった。
     僕は司くんから無償の愛をこれでもかというくらい貰っているのに何も返せてない。ショーを通じてすくい上げてくれた一等星。司くんが、自分のDom性に対してあまりいい思いがないのは何となく気づいていた。だから、僕がそのDom性ごと司くんを好きだと示してあげれたらいいなと自分がSubだと分かってから思っている。それに支えてあげらることが嬉しいからこそ、尚更気になってしまっていたのだ。
     目の前に座る担当医は、顎に手を当ててくるくるとイスを回転させたあと僕にこぼした。
    「うーん……そうだねぇ、分かりやすく重度だなんて説明はしたけれども明確には階級があったりはしないんだ」
    「え、じゃあどうして」
    「実際Dom特有のGlareの強さ、影響力の強さは関係はしてくるけれどそもそも抱える性質が違うから分けれないが正解かな。抑制剤で抑えきれないとか、周りに与える影響とか、あとは文献や診ている患者を比べて判断しているね」
    「そうなんですか……」
     そう僕は、司くんがDomと分かってからの苦悩を知らない。パートーナー紹介制度を使ったり、然るべき機関でplayをして欲求を解消していたとは聞いたが、それだけ。
    抑制剤だって飲んでいるかもしれないし、どれだけの強さのものかも分からない。パートーナー契約を結ぶ時も丁寧に、僕の意見を1番に尊重してくれていた。司くんは僕のためと、嘘は言ってないと思うが何か隠している気がするんだ。
     だから、もっと僕は司くんと話をしなければいけない。過去のこと、司くんの本音や、ダイナミクスについてどう思ってるか知りたいんだ。
    「ダイナミクスは、信頼関係からなる心の繋がりだ。簡単なようで難しい。特に君たち高校生の思春期だから特にね。playで繋がりあえる関係だとしても、だからこそ話し合うことは大切だよ」
    「……はい。天馬くんとまた話してみます」
     診察は終わり、今回は抑制剤の処方はなく次は2ヶ月後の定期受診となり、不調があれば電話か直接受診して欲しい旨を伝えられた。
     礼をして診察室から出ようとした所、ぽつりと担当医は一言呟いた。司くんが僕に話してくれてないことの1つだった。
    「そういえば天馬くん抑制剤より強いものにしたみたいだけれど、聞いてるかい?」
    「……え」



    「類、オレの顔に何かついているのか?」
    「いいや何もついてないよ司くん」
    「そうか」
     僕のサンドイッチとトレードした野菜を咀嚼し終えた司くんは、僕の視線に気付いていたのかそう尋ねる。僕は首を振って、彼から貰った冷めてもジューシーな唐揚げを1口食べた。うん、司くん絶賛なだけあって肉汁がじゅわりと口の中に溢れて涎が出てくる。唐揚げに舌鼓を打ちながら髪の隙間から司くんを盗み見た。
     昼休み、屋上で司くんと昼ごはんを食べながら僕はおかしな所がないか観察していた。見た感じ隈があったり、顔色が悪そうだったり、食欲がなさそうな様子はない。体が怠そうな疲れてる風には見えなかった。
     先日、病院でパートナーである司くんが何故か抑制剤を強くしていることを知った。パートナーになって1ヶ月あまり、司くん本人から何も聞いていない。
     Domである司くんは重度であり、これまでも仮パートナーを結んできたが欲求の解消もバランスが上手く取れず、本契約とまで行かなかったと聞いていた。だから僕じゃあやっぱり過去の司くんとのパートナーみたいに釣り合わないのかなと勘ぐってしまって一進一退している所なのだ。司くんとplayをする前に確認しあった時に嘘をついているような感じはない。
     
     司くんのDomの性質としては――『守ってあげたい、世話をしてやりたい』という気持ちが強いと言っていた。
     
     けれど、その司くんが話していた性質も、嘘をついてないだけでそれ以上の欲求を持っていて、言っていない可能性だってある。そう、僕が不安定な発現したばかりのSubだからか、優しい司くんのことだ。隠していないとは言いきれない。司くんは悩みを打ち明けるまもなく、自己解決してしまいそれもさも何事も無かったかのように振る舞うことがある。多分幼少期の頃の自分を優先せず、妹である咲希くんを優先していたことが関係しているだろう。
     頼ることや、自分のことで迷惑をかけるのを良しとしない所があるから。
     不意に隣で弁当を静かに食べていた司くんが僕を見つめたと思えば、ポケットからハンカチを取り出す。
    「ん?」
    「類、ついていたぞ」
    「……おや恥ずかしいねぇ。ありがとう、司くん」
     僕は口の端にソースをつけていたみたいで、司くんがハンカチで拭ってくれた。ちょっとした気配りが、さり気なく心地よい。だから皆司くんに惹かれる。神様みたいで、暗闇に一筋さした光のよう。でも、司くんも1人の人間で。1人で抱えきれるキャパは決まっているから不安で仕方がない。
     僕はご馳走様と弁当を食べ終わった司くんの肩に頭を預けた。
    「司くん最近疲れたりしてないかい?」
    「お前の際どい演出で毎日ヘトヘトだがな……」
    「……そういう意味じゃなくてね」
     抑制剤を強くするほどの欲求不満で体を壊していないかと直接聞ければ困らない。
     だって、司くんはそれを僕に隠しているのだから。
    「……これからショーの練習が前にも増してハードになるだろう?」
    「心配してくれたのか、類」
    「司くんは学校でもあちこちで引っ張りだこだからねぇ」
     信頼して信用しているから、僕のすべてを司くんに預けていいと思っている。司くんになら何をされても僕はいい。ダイナミクス関係なく本気で、本心でそう思っているんだ。
     司くんが僕を友人として、パートナーとして大事にして大切にしてくれているのは身に染みて分かっている。心地良さを感じて離れ難いくらいの、依存性のある僕にとっての特効薬みたいで。
     そんな司くんは僕に心を預けてくれているのだろうか。本心が何も見えない。司くんが、僕から離れて消えてしまいそうで怖い。
     ぎゅうっと胸が締め付けられて苦しい。僕は、司くんの全てを知りたい。綺麗な所だけじゃなく深いところまで。
    「類……胸を抑えてどうしたんだ?」
    「え?」
     心配げに揺れる司くんの瞳。そんな顔させたくないのに、嬉しいと思う僕がいる。今司くんの瞳の中にいるのは僕だけで、司くんが考えているのも今は僕だけ。
     パートナーである以上のことを、僕は何を求めているんだろう。
     分からない、分からないからこそ怖い。
     でも、分からないから逃げるのは、答えを出さないのはダメなんだ。
    「僕はとことん自分の感情に鈍いみたいだからね、次のショーの演出で感じた違和感をなかなか落としきれなくて自分に問いかけていたのさ」
     少しの嘘と本当を混ぜて、司くんに微笑めば彼の瞳は見る見るうちにキラキラと星のように瞬いて、笑顔が溢れた。
    「オレでよければ、いやオレが助言してやろう!」
     僕は司くんの眩しくて、救われるその笑顔を失いたくないから、見逃しちゃいけない。自分も司くんのことも。



     あれから数日、僕なりに司くんに勘づかれないように探っていて気づいたことが少しだけある。
     パートナーになって1ヶ月あまり、距離が異様に近い気がする。屋上で昼ごはんを食べるのは明確な約束をしていないけれども、ルーティン。それ以外で元々思いついた演出や脚本のやり取りで休み時間に教室に訪ねることもあった。
     その頻度が最近おかしいんだ。

    「神代!あのさ――、」
    「類!!」
    「司くん」
     チャイムが鳴ってガラリとドアが開いたと思えば、司くんが僕に駆け寄ってきた。クラスメイトに呼びかけられて、顔をあげて用件を聞くまでの少しの間だった。
    「あ、ごめんね何か用だったかな?」
    「い、いやっまた今度でいいわ!じゃ」
    「……?」
     机に座る僕から丁度死角になっていた司くんのほうをクラスメイトの彼が見たと思えば、慌てて教室を出ていってしまった。教室も何故か先程まで授業終わりでザワついていたのに、今は静寂に包まれている。何故か僕ら、いや司くんのほうを見て。
    「……類に用事があったんじゃなかったのか?」
    「司くん?」
     底冷えするような低い小声が聞こえて、顔をあげれば普段の人当たりがいい笑顔を浮かべた司くんで。
    「ん?どうしたんだ、類?」
    「いや、司くんこそ僕に用事があったんじゃなかったのかい?」
    「そうだ!少し勉強で聞きたいところがあってな!」
     教室に響き渡る元気いっぱいの司くんの声に、教室の喧騒が戻ってきた。視界の端でホッと胸を撫で下ろすクラスメイトに司くんの異変を突きつけられたのだった。
     それに、教室に入ってきた時の司くんの顔は、一瞬だったけれど見間違いだと思いたいくらいに表情は抜け落ちて、暗く瞳に光はなかったのだから。


     授業が終われば確実に毎時間僕のところに何かしらの用事があってくる司くん。委員会の仕事があったり日直だったりする時は何も無いかと思えば、スマホの通知がなりメッセージアプリに連絡があるのだ。ショーのことや、他愛ない日常のことと、クラスメイトと話している暇なんてないくらいに。
     放課後だって絶対に何があっても、僕を待っていて共にフェニックスワンダーランドへ向かう。『何かあっては困るからな!』と笑顔の司くんに、僕は君と同じ男で防犯対策だってしっかりしているんだよといい損ねていた。ドローンだって防犯カメラ代わりにになるのだ。
    「ねぇ、類」
    「なんだい寧々」
     ベンチに座り装置の調整をする僕の横に寧々が座る。
     ショー練習の休憩中、司くんは慶介さんと晶介さんに今後の方針について呼び出されて不在だった。
    「最近の司おかしくない?」
    「おや、寧々もそう思うのかい?」
    「……あんまりにも類にべったり過ぎる。見てられないくらい」
     呆れた顔をしながらも心配の眼差しを向ける寧々には申し訳ないけれど苦笑いしか出来なかった。
     司くんの異変というのだろうか、多分ダイナミクスが関係するのだろうけれど僕はこの束縛、支配のような、司くんから垣間見えるDom性にゾクゾクと快楽を感じているんだから。
     この仄暗いような司くんを、独占できて満たされる感情はなんなんだろうか。
    「ショーに影響出て来る前に、ちゃんと2人は話し合って」
     司くんが戻ってきたのを合図に練習を再開した。
     この時の僕は寧々の忠告をちゃんと聞いて、早く対応するべきだったんだ。お互いに秘密にして、誤魔化して隠していることを話す機会をちゃんと作っておけばあんなことにはならなかった。



     そういえば、司くんにおかしな所がないか探っていた僕は彼のセカイのことを失念していたことに気づいた。想いだけで、あれだけ広大なセカイを作りあげているから、何かしらの影響があるだろうと踏んで真夜中に電子の海に飛び込んだ。
    「あれ……?」
     夜の帳が下りたワンダーランドのセカイ。
     足を進めようとして拭いきれない違和感を感じて立ち止まってしまう。
     あたりをぐるりと見回してみて、何がと明確には分からいがズレているような不安に駆られた。夜だからぬいぐるみくん達は寝ているとして、今この辺りにいるのは僕1人だけ。
     ポップなアトラクションのBGMもライティングも寂しさを感じて歩いていれば、
    「あ、」
     アトラクションを彩る音が1つ飛んだ。
     1つ違和感に気づけばあとはもう次々と違和感が形になって、景色がゆがむ。
     目の前でチカチカと照明が電池切れのように点滅して、回り巡るアトラクションの動きがぎこちなく一瞬止まり、動き出す。オイル切れで錆びた玩具のように軋む音がした。
    「つ、司くん……っ」
     心地よいはずの音が、ちょっとずつズレて段々と不協和音になり不安が増してゆく。いつもなら軽やかに楽しげに歌う花や、手を貸してくれる木々を見れない。司くんに何が起こっている知らなきゃいけないのに、頭の中は警報が鳴ってぐわんぐわんと揺れる。
    「は、はぁ、」
     僕はワクワクするような司くんのセカイに底知れぬ恐怖を感じてしまっていた。司くんの心の中まで覗きみようとしたのは自分なのに。隠していることを暴こうとしているのは自分のくせに。
     すくみそうになる足をなんとか動かして、早くバーチャンシンガーの皆に会って安心したいと、アトラクションを横目に走り出した。
     がむしゃらに走りたどり着いたサーカステント。ここにならいるであろうと、足を踏み入れれば青と赤。良かったと安心してステージに向かえばチャームポイントである赤い猫耳を元気なく垂らしたミクくんと、寄り添うカイトさんが腰掛けていた。
    「……カイトさん、ミクくん」
    「こんばんは、類くん。こんな夜分遅くにどうしたのって言いたいところなんだけれども」
     顔を上げたカイトさんは困ったように笑って、僕を迎え入れる。カイトさんも少しやつれているよう見えた。
    「司くんのことで確認したいことがあって、ミクくんは……」
    「うん、多分類くんが想像している通りだと思うよ。ミクは感受性が豊かだからね、司くんからの感情に左右されやすいみたいで」
    「ばたんきゅ〜なのだ〜力が出ないよ〜」
    「ミクくん……」
     ステージ上で力なく倒れるミクくんに元気が出るショーでもと思ったけれどポケットを探っても生憎今は何も手持ちがなくて、僕も参っていることに気づいた。
    「司くんが何を思ってこうなってるかまでは分からない。けど、ミクや他のバーチャルシンガーをみて司くんが追い詰められてるのは分かるんだ」
    「追い詰められてる……」
    「我慢したり、見ないふりをしているかもしれないね」
     セカイ全体に影響するほど、それもバーチャルシンガーまでもが明らかに弱るほどに我慢して見ないふりをしている。
     抑制剤を強くするほどに欲求を解消できず、うまくバランスが取れていない。それとも欲求不満だとしても、ダイナミクス抜きで想いを歪めてしまっていることだろうか。
     セカイを歪める程の思いとはなんだろう。
     僕に司くんが話せないことで苦しんでいる。頼りになれないことが本当に本当に苦しい。
    「……僕は司くんに信頼されてないのかな、」
    「そんなことはないと思うわぁ、類くん」
     ふらり、と桃色の髪が揺らしルカさんがいつの間にかステージの上にいた。普段通り朗らかに微笑んでいるが、ハッキリと言葉を紡ぎ、眠そうな様子は無い。
     ルカさんが起きていることで司くんが余計に追い詰められていることが分かってしまった。悩んでいたり、危機的状況になければルカさんは会話が交わせても、夢うつつで基本寝ているのだから。
    「類くんはちゃんと司くんの拠り所になってるわよ〜ただね〜今司くんはちょっと本当の思いからズレちゃってるみたいでね」
    「ズレてる……」
    「類くんが司くんのために思っていること、隠さずに言ってあげればいいのよ〜」
     ルカさんは僕の頭を慰めるように撫でてくれる。
     司くんが僕を甘やかす時と同じような手つきで、自分の情けなさに泣きそうになってしまった。
    「っ、すみませんルカさん。弱気になってしまって」
    「いいのよ〜わたしも少しは力になれたかしら?」
     微笑んだルカさんに情けない所を見せてしまったが、頼りになったと頭を下げ、次はショーを見せにきますと別れを告げセカイを出る。
    「僕の司くんへの思い……うまく今は言葉にできてないけど、司くんが安心できて拠り所になれるようにもう少し何か……」
     司くんといる僕の気持ちや変化、司くんの様子をノートに書いていたら気づいたら寝落ちしてしまっていた。
     

     

    「青柳くんはいるかな?」
    「神代先輩?」
     セカイに行った次の日の昼休み、司くんは日直らしく遅れて屋上に来るということで僕は1-Bに訪れていた。入口から顔を覗かせると寧々はおらず、仕方なく近くの生徒に声をかければ、僕が呼んでいるの気付いて青柳くんに手を振る。
     用事があった青柳くんは授業終わりに復習していたのか開いていたノートと教科書を片付けて駆け寄ってきてくれた。
    「やぁ、青柳くんこんにちは」
    「神代先輩!1年の教室までどうしたんですか?」
    「少し聞きたいことがあってね、相談料としてコーヒーとクッキーなんて持ってきたのだけれど、おやつとしてどうかな?」
    「そんな俺でよろしければ、なんでも答えますよ。相談料もわざわざお気遣いなされなくても、」
    「出先で見かけてね美味しかったから、おすそ分けだよ。練習の休憩中にでも食べて、感想でも貰えたら嬉しいな」
    「では、ありがたく頂きます。今度ショー見に行きます」
    「それは嬉しいな」
     昼ごはんもまだ買っていなかったから購買に向かいがてら青柳くんは図書館に用事があるそうでそこまでの道中と並んで歩く。
    「それで、聞きたいことと言うのは」
    「司くんのことでね、最近なんとなく何処とは言えないんだけれど、様子がおかしそうで。普段と違うところはあるかなと」
    「司先輩の普段と違うと思うところ、ですか」
     購買でいつもの様に野菜入りサンドイッチを手に取り、青柳くんはのど飴を手にしていた。
    「うん。僕の主観からみた司くんと、弟のように可愛がってもらっている青柳くんからみた司くんは違って見えるだろうからね」
     ふむ、と顎に手を当てて考え始めた青柳くんは、しばらくして何か思い当たったのか顔を上げた。
    「そうですね……少し余裕がないように見えます」
    「余裕がない?」
    「俺もなんとなくなんですが、」
     青柳くんの続く言葉は聞けなかった。気づけば目の前には立ちはだかるように司くんがいたからだ。

    「類」

     背筋がぞくりとした。
     名前を呼ばれただけなのに、なぜか跪きそうになった。ここは学校なのに、司くんの足元に擦り寄って《おすわり》していい子で待ってなきゃいけないって頭がぐるぐるする。
    「類」
    「……ぁ、っかさく、ん」
     司くんに掴まれた腕が、熱くて痛い。
     廊下の喧騒が遠のいて、僕の早くなる鼓動だけが聞こえる。司くんが触れているところ以外は感覚がなくて、冷や汗が滴り落ちた。
    「っ、ひ」
     橙の目が、僕を許さないとばかりに捕らえて離さなくて、心の奥底まで支配しつくそうとしてくる。Playした時とは違う心地良さとは程遠い、有無を言わせない支配の目。司くんだけでいっぱいになる。
    「類」
     僕は、司くんのSubで、従うべきDomで。命令に背くのはよくない、SubはDomの命令を聞いて満たしてあげればいい。僕の感情なんていらないんだ。
    「っか、さく、」
     だから、早く僕を支配してくれるパートナーに膝まづいて貴方だけだって求めなきゃ。早く司くんだけで満たして欲しい。
     僕は意識も朧気のまま、ここが廊下だって忘れて司くんの足元にすり寄ろうとしていれば、
    「司先輩?」
    「……っ!!あ、類、冬弥すまない!」
    「……っぁ、はぁ……!」
     冬弥くんの澄んだ声が現実に僕たちを戻してくれた。
     次の瞬間にはギラギラと鋭く光る瞳は見えなくなり、僕を従わせようとする暑も霧散していた。痛いくらいに掴まれていた僕の手は、払い除けるように離されて司くんは驚愕を浮かべて僕から距離をとる。
     どうして、司くん離れていくの。
    「司く――」
    「ハーっハッハッハ!類すまない!冬弥との会話中なのに邪魔したな!つい類を見かけて声をかけてしまった!先に屋上に行っているぞ!」
     先程までの傷ついたような、苦悩に歪めた顔は笑顔の裏に隠されて嵐のように屋上へ続く階段へと消えてしまった。
    「神代先輩!?」
    「ぇ……あれ……?」
     気が抜けたのか僕は床に崩れ落ちていた。というよりかは、腰が抜けてしまっていた。早く脈打っていた心臓は今は落ち着きを取り戻しており、息もしやすい。
     司くんのあの視線は、身動きが取れずに《命令》もないのに従いそうになった想像でしかないけれども、あの圧はきっと。
     頭に過った仮説を否定して欲しくて僕は青柳くんに問いかけた。
    「……青柳くんに聞くのだけれど、プライバシーの侵害と言うなら答えなくても構わない」
    「神代先輩?」
    「君のダイナミクスについて、教えてくれないかい」
    「……司先輩と同じDomです」
    「そうか、Domだったんだね……青柳くん」
     予想は当たってしまった。
     さっき司くんがおかしかったのは、パートナーではない他のDomに取られるものかと、Glareを出していたんだ。いや、本気で出す手前だったのかもしれない。
     僕はGlareを真正面から浴びたことはないけれど、不機嫌になった時に浴びせる眼力やオーラのことだと聞いている。僕はあの司くんの目に見られて動けなくなり、司くんに身を委ねなければと思ったけれど、不思議と恐怖心は感じなかった。
     でも、それなら――、
    「どうして……」
     僕は司くん以外のDomなんて求めていないのに。
     何かそう見えるようなことをしでかしてしまっているのか、それとも司くんが僕に対する思いがすれ違っているということだろうか。
    「どうしてっ、司くん……!」
     すぐに屋上に司くんを追いかけるべきなのに、僕は追いかけて何を話したらいいか、理解できない感情でぐちゃぐちゃで答えが出せずにいたから、何も出来ず立ち尽くしているしかなかった。


     類が好きだ。
     好きだからこそ、抑えなければいけない。
     類を独り占めして閉じ込めたいだなんてダメだ。ダメなはずなのに、気づいたらオレの重いDom性が周りを威嚇してしまう。
     類の顔を少し見れたらと授業終わりに隣のクラスを横切ろうとしたところ、ガラス越しに類がクラスメイトに話しかけられるのを見たら止まらなかった。
     
    「類!!」
     
     類の名前を呼んで、一斉に振り向く生徒達。類の肩に伸ばそうとした手は宙ぶらりんになり、クラスメイトはあからさまに怯えていた。
     そそくさと立ち去る男はオレとすれ違いざま、やましい事があって気まずいのか知らないが目線すらも合わせずに教室を出ていってしまったのだ。
    「……類に用事があったんじゃないのか?」
     喉から出た思っていたよりも低い声。なんとなく自分が今笑えていないことは分かった。
     ――オレの類に、手を出すな。そんな汚い手で触れるな。
     ――いやらしい目で、値踏みするような悪意の塊のような瞳で類をうつすな。
     ――類の声も、髪も、涙も、思考だってオレのものだ。
    「司くん……?」
     類からの呼び声にハッとして笑顔を浮かべたつもりだったが、オレには普段通りを装えていたかは最早分からない。
     ――今、オレは何を考えた?
     自分ですらコントロールの難しくなってきた感情と本能にゾッとした。
    「……っ、は、は」
     乾いた笑いが喉からこぼれおちる。
     ――あぁ、あぁ、あぁ!なんて滑稽なんだろうか!
     もう自分ですら信用できない。コントロールできないDom性はただの暴力と一緒だ。類を守るだなんてほざいて1番傷つけてしまう可能性のあるのがオレだなんて皮肉でしかない。
     だからオレを類から遠ざけなければいけない。でも、類に怪しまれないように、自然にある一定の友人としての距離を取らなければ。
     そうしていつか、パートナー解消すれば類を守れるんだ。
    「そうだ!少し勉強で聞きたいところがあってな!」
     そのあと用事をでっちあげて、次の授業の予鈴が鳴るまでオレは類とイスを半分に分け合い話を続けた。類は何も言わずに譲ってくれた場所。パーソナルスペースが広い類が、心を許してくれる証。
     その距離感でさえオレにとっては優越感をもたらし歓喜に打ち震えるDom性。しかし同時に、信頼を裏切ってしまっているんだと、心は苦痛に引き裂かれそうな思いだった。
     何物でさえ、例えパートナーであるオレでさえ類のことは傷つけてはならないんだ。
     オレがどうなろうが、類が笑って幸せであればいい。オレが笑顔に出来ればいいが、出来そうにないから誰かが類を幸せにしてくれることを祈って。
     


     そう誓ったはずなのに、オレの体は勝手に動いてしまう。
     片時も類と離れないように、類がオレ以外を視界に入れて目移りしないようにと毎時間会いに行く。パートナーになる前は友人として仲間として、頻度は多くはなかった。どちらかと言えば類がオレのクラスに訪ねてくる方が多かったくらいだ。
     委員会など用事がある時はメッセージを送って他愛のない話をして、類の関心をオレに向けるようにしてしまっていた。
     独占して、支配してオレの管理下の元で類を閉じ込めていたいとオレのDom性が日に日に酷くなっていく。頭の中に響く本能に、最近強くしてもらった抑制剤を飲んでやり過ごした。飲んですぐは重たい類への歪んだ気持ちもなくなるのだが、数時間経てば元通り。
     ジャラ、と手に出した何錠かの薬を水なしで噛み砕いて飲むことにも慣れてしまった。頓服の薬で、一日何回、何時間ごとと説明は受けていたが従っていれば類に、周りにオレの凶暴なDom性が何をしてしまうか分かったものじゃなかったから、薬の袋はどんどんと軽くなっていく。
     ショーの練習や、本番の前には必ず飲んでいた。ショーが終わったあとに類がファンに好意的な感想を貰っている姿も、なんとか耐える。
     オレたちを繋いでくれた、ショーはこの邪な思いで汚したくなかったから。
    「好きだっ、好きなんだ、類。だけど、オレは……」
     ガンガンとズキズキとした頭痛が最近酷く、頭痛薬も飲んでいるが効果はない。気休め程度でしかなく、ダイナミクスを発散しないとどうにもならないとは分かっていた。
     
     類が好きだから傷つけたくない、傷つけたい。
     
     夢に見る。
     オレの手で類がColorをつけて、檻の中に飼われている姿を。類は寂しそうにそれでも嬉しそうに笑う。食事はオレの作ったものを、オレの手から食べて貰う。身の回りの世話だってオレが全部やって、手枷足枷なんてつけてないし、檻に鍵だってかけてないから出て行けるのに類は逃げない。オレだけをみてくれる。
     ショーで人々を笑顔にしていないのに、類の夢を壊してしまったのにオレは笑っていて。
    「――っ、はぁ!はぁ!!」
     夢見も悪く、飛び起きればまだ4時。でももう一度寝るには寝汗も動悸も酷くて、震える手でなんとか抑制剤を飲んでやり過ごす。
    「……オレは、類の自由を何一つ奪いたくないのにっ」
     その日の朝は咲希にも顔色が悪いと言われてしまったのだ。
     そうして騙し騙し不調がバレないように過ごしてきたが、類にバレるのも時間の問題だと思っていた矢先のこと。
     
    「司先輩?」
     
     やってしまった。
     目の前にいるDomは、冬弥がオレの類を奪おうとすると威嚇してしまったのだ。類の声は聞こえなかった。
     類の手を手を痕がつくほど握りしめて、こんな学校の廊下で跪くように従わせそうとしたオレはパートナー失格だ。
    「……っ!!あ、類、冬弥すまない!」
     まさに今オレに従おうと、廊下に《おすわり》しようとした類の瞳は甘くどろどろと溶けていた。
     ゾッとした。
     オレのDom性が、ダイナミクスが怖い。
     どうして、どうしてだ類。
     どうしてそこまで、こんなオレに心を全て預けられる。オレは本当のことを言っていないのに、支配欲と独占欲で狂ってしまいそうなのにどうして、従おうとするんだ。
     ダイナミクスが判明するまで類のこんな表情は見た事が無かったのに。
     ふとオレの脳裏にとある考えが過ぎった。
     
     ――オレの重いDom性は類の心まで操ってしまっているのではないのか?

    「……っ!!」
     すぐに、掴んでいた類の手を振り払うように離し距離をとる。
     オレのそばにいない方がいいんだ。
    「ハーっハッハッハ!類すまない!冬弥との会話中なのに邪魔したな!つい類を見かけて声をかけてしまった!先に屋上に行っているぞ!」
     そう言って、オレは屋上に逃げた。
     類の驚いて寂しそうに、苦しむ顔に胸が締め付けられながら、ピルケースに入れていた抑制剤をまた噛んだ。
     オレにはどうしたら、いいのかもう分からなかった。


     あの後、類はすぐ屋上に来た。
     先程の話は話題に上がらず、ショーの話も中途半端で何処かギクシャクしてしまった。放課後のショー練習ではなんとかスイッチを入れてこなし、類と普段通りに話せたがそれだけだ。
    「っ……くそっ、」
     家のベッドに寝転がりオレは布団を叩く。
     同じくDom性であった冬弥に威嚇してしまって、類とは上手くいかず今日は散々だ。
     こうならないように、していたことがオレの歪んだ想いで全部水の泡。
    「また、咲希の時のようにオレはっ……」
     握りしめた手に爪がくい込んだが痛みは不思議となかった。
     昔オレは咲希に不完全ながらGlareを出してしまったことがあるのだ。
     子供の癇癪に近かった。咲希が体調を崩して病院への通院や入院を繰り返し、ショーを披露するだけじゃ根本的解決にもならず、何も出来ないしてあげられない自分がもどかしくて、イライラとしていたんだと思う。そんな自分が悔しくて、情けなくて変わってあげられたらいいのにとも思っていた。
     ショーを見せて、ピアノを弾いてもっと元気に笑顔になるように一緒に遊んでいた時咳き込んだと思えばぐったりとしてしまった咲希。体調が悪くなったとその場にはいない両親に必死に電話して、帰ってくるのを待つ時間は苦しかった。
     ベッドに寝かせて拙い看病しかできない自分が情けなくて、そうして気づいたら無意識にGlareが出てしまったんだ。妹である咲希は幼くダイナミクスも未発現なため、少なからず浴びてしまったのだろう。
     余計苦しそうに魘される姿。夢うつつにオレや、両親の助けを求める姿に手を必死で握ったが、表情が和らぐことは無くその光景が今でもトラウマだ。
     放心したオレと単に体調不良だけじゃない咲希のうなされように両親はなんとなくダイナミクスの暴走だと分かったのだろうか、その後専門病院に連れていかれ重度のDomと診断された。咲希は高熱で覚えていないと言うが、覚えていたところでどっちにしろ大事な妹を追い込んだのは自分でしかなく後悔として残り続けている。それからは必死に無意識に出てしまいそうになる不安定なGlareを抑えるように練習を繰り返す日々。
     担当医から言われたのはそもそもDomの性質としての影響力が強く、誰よりも人を惹きつけやすいと。ショーをする身として人を惹きつけるのは願ったり叶ったりだとしても、こんな風にスターとしての能力を自覚なんてしたくはなかったが。
     そうして、幼少期から悩まされていたGlareもコントロール出来るようになり感情に左右されないまでにできたが、欲求のほうはどうしようもなかった。
     どうしても欲求が重いオレは、なんとか登録制のplayだけを行うやり取りはしていたが、しっくりこなくてパートナー関係にまでは至らない。パートナー紹介制度も同様だ。それなりに欲求があるくせに変に淡白というか、オレがダイナミクスの関係と恋愛関係とを一緒にしていたからだろうか。利害の一致でとどうしようもできず、欲求の解消不足で抑制剤は手放せなかったが体調不良に至るまでではなかった。
     類とパートナーになって、報われないと思っていた恋心も満たされ始めた結果、もう欲求がオレの手に負えなくなっている。同様にGlareも不安定だ。
    「ははっ、救いようがないな、オレは」
     もしもを考えてしまう。
     オレのこの強いDom性で類を傷つけてしまった時のことを。Sub dropさせてしまうかもしれないことを。

    ――お前は、傷つけることしか出来ないんだ。昔からそうだっただろう?

     オレの本能Dom性が話しかけてくる。
     
    「……う」

    ――妹である咲希にさえ攻撃してしまったオレのダイナミクスは、訓練したところで類を救えやしないぞ?なぁ、天馬司!

    「違うっ!!黙れ!!!!」

     部屋に響く大声は、誰にも聞かれず消えてしまう。イライラとオレは頭を掻きむしった。
     オレのDom性が断罪し、笑う。

    ――違わないだろう?オレの歪んだ愛情は類を救えやしない。痛いくらい分かっているはずだ。

    「……オ、レはっ」

    ――もう、道はひとつしかないだろう?

     オレは類のためだと言って、類と離れたくないという自分の想いからずっと答えを先延ばしにしてきたんだ。
     類を傷つけないためには、もうパートナー解消するしかないということを。



     司くんは怖いくらいいつも通りだ。
     あの冬弥くんをDom性で敵視し、その追いかけた屋上での司くん以外では。
     でもいつも通りを通り越して、無理をしているように感じるような脆さがあった。空元気のように感じるんだ。司くんの考えていることが、心がわからなくてもどかしい。
     それに抑制剤を強くした理由はついぞ司くんには聞けないまま。多分直接聞いたとしても教えてくれないだろうという確信があった。
     司くんのすべてが欲しいと思ってしまうのは、Sub性からくるものなのだろうか。
    「あ……そういえば」
     僕は簡単なことを見落としていたことに気がついた。
     抑制剤を強くしたというけれど、そういえば司くんとはしばらくプレイをしていない。僕はさほど欲求が満たされない気持ちはない。どちらかというと、司くんが満たされていない結果が抑制剤を強くしてる理由なのだろうか。
     僕では司くんに釣り合わない、欲求を我慢させているのではとじわりと胸の奥が傷んで、体が重くなる。
     色々と僕は考えすぎなんだろう。
     これまでも期待して、失ってしまうのが怖くて確信を持ってからしか動けない。直接聞けばいいのに関係性が壊れることを拒んで動けなくなる。
     でも、司くんはそれでも1度ならず2度も手を伸ばしてくれたから。
     今度は僕が。
     そう、決意を胸に昼休み。司くんにプレイを持ちかけてみたのに、司くんは何処か困った顔をするだけだった。
    「いや、オレもそこまでプレイしなきゃいけないほどではないんだ」
    「でも……」
    「欲求は強いが、1回のプレイで満たされてしまってな。そんなに回数をこなさなくても大丈夫なんだ!」
     太陽のような眩しい笑顔。僕の心を救ってくれるその笑顔が今日は見せかけの貼り付けた笑顔に見えた。勘なのに、何故か司くんの言葉は嘘だと確信を持って言える。
     でも普通にアプローチすると司くんは隠して演じてしまう。それだけはダメだ。だから、自分を使うことにした。
     犠牲とかではなくて、司くんとのより良い未来のため、僕にとっても悪くは無い提案だから。
    「司くん、僕がダメそうで」
    「調子が悪いのか!?っ、すまない、オレが見落としてしまって!」
    「っ、そ、そこまでのものじゃなくて、」
     あまりの司くんの剣幕にたじろいでしまう。やっぱり言葉の端や態度に違和感を覚える。普段なら夜更かしをしたのかどうか、野菜を食べないからと不摂生を怒ってくるのに今日は焦っているように見えた。心配も見え隠れしてるけれどその奥にあるのは恐怖。
     何に司くんは怯えているのだろうか。
    「でも、ショーに影響すると大変だから今日の放課後、司くんの家がダメなら僕の家でどうかな……?」
     司くんのことで不安で、本当に少しめまいがするだけだから。それが寝不足から来るものか欲求の解消不満から来るものかは分からないけれど。
     胸が苦しい。司くんと話しているのに、司くんが何を考えているか、気持ちが分からないからすれ違っている気がする。だから、今日プレイをして司くんの偽りない気持ちを聞き出さなければいけない。
     顔に手を当てていた司くんは、引く気のない僕を見て諦めたのかため息をついてさらりと、髪を撫でた。
    「……オレの家は家族が今日はいるからな、類の家でいいだろうか?」
    「……ん、うん、分かったよ。じゃあ放課後先に終わった方がクラスの前で待つでいいかい?」
    「そうしよう」
    「それじゃあ、司くん!僕のこのサンドイッチとそのジューシーな唐揚げ交換してくれないかい?」
    「なっ、またお前は野菜入りを買ってきおって!!」
     重苦しい空気を取っ払うように僕は手づかみで司くんの弁当から唐揚げを奪おうと動いたが阻止されてしまった。
     反応も、声色も、リアクションもいつもの司くんだ。
     どうして、パートナーとしては上手くいかないんだろう。
    「……司くんの心の奥底まで見せて欲しいなんて、欲張りなのかな」
     君はいくら手を伸ばしても届かない一番星みたいで、僕はずっと追いかけるだけの風船だ。
     
     

     
    「お邪魔します……って類」
    「いやぁ、物の置き場所が分かるし、これは散らかってるとは言わないよ」
    「1週間前に来た時には掃除を手伝ったはずなんだが?整理整頓するよと言ったのはどの口だったか?」
    「よよ……演出案が止まらなくてね」
    「う、ぐ、その目で見たらオレが毎回許すとでも!」
     司くんをガレージに招いてすぐに、物が乱雑している部屋を指摘されたが嘘泣きと上目遣いで司くんは陥落した。泣き落とし大作戦はお兄ちゃんな司くんには効果抜群なのだ。
     母屋のベッドのみある部屋でも良かったけど、僕が司くんだけしかいないスペースで慣れなくて緊張する気がしてそのままガレージを案内した。
    「む、なんだこれはー!足に絡みついて離れないぞ!?」
    「相棒を見つけてあげれば大丈夫だよ」
    「ぬわー!次は腕に!これが相棒か!?」
     怪訝な顔をしながら、時折叫びつつ演出案の束や演出の装置を優しく整えながら歩く司くんを横目に僕はソファ周りの物を避けて座れて動ける範囲のスペースを作る。
     ネジや工具が落ちて怪我しようものならプレイは中断してしまうだろうし、隈無く探して綺麗になったかなという所で髪が乱れて汗だくな司くんに見下ろされた。
    「おや、いい男になったじゃないか」
    「どこがだ!?何故ソファに辿り着くまでにこんな重労働させられた後にみたいになる!?」
    「ふふ、コツがいるのさコツが!」
    「そのコツを掴む前に整理整頓する努力をだな」
     ぼやきながらもカーディガンを腕まくりし、ボタンを外してネクタイを緩めてソファに腰掛けた司くんに、目が離せなくなった。普段とは違う装いで、これから僕は司くんにプレイをして支配されるのかと、嬉しくて体の奥底が熱く跪きそうになるのをなんとか耐えた。
     こんなにも惹かれるのは、司くんだからか。Domだからなのか、プレイする時にしか感じられない色気におかしくなりそうだ。
     無言の司くんに、どうしたらいいか分からずに視線をさ迷わせて数分。
     息を吸って、俯かせていた顔を上げた司くんの欲でドロドロな橙の瞳を見た瞬間、息の仕方を忘れてしまった。心臓を掴まれて、鼓動すら司くんの手で動かされ支配されているかのようで、僕はそれを不快には思っていなくて。
    「類」
    「っ、は、ぁつかさ、くん」
    「セーフワードは」
     カクカクとこの後に味わえる快楽に足を震わせながら、なんとかまだ《Command》命令されていないと《Kneel》お座りするのは耐えて、口の中に溢れる唾液を飲み込んで答える。
    「ぴ、ピーマン」
    「ちゃんと、言えていい子だな類」
    「ぁ、」
     まだ《Kneel》お座りと言われてないのに、僕はゆるく微笑んだ司くんに褒められて床に座り込んでしまった。
     腰が抜けてしまって、動けない。どうして。
     僕は司くんに弱いのだろうか。抵抗できない。
     《Command》命令されていないのに、期待して悪い子だと思われる。司くんDomに失望されたくないのに。勝手に目の前がぼやけて涙がこぼれそうになる。
    「ぁ、な、んで……?まだ、」
    「……っ、はぁ《Command》命令より先に《Kneel》お座りしてしまうなんて、類期待してたのか?」
    「ん、うん……」
    「類、《Good boy》いい子だな。それだけ、嬉しかったんだろう?可愛い」
    「あ、ぅ」
     頭を撫でられ、そのまま頬に司くんの熱い手が触れた。次に司くんからどんな《Command》命令がされるのか、口の動きや瞬きすら逃したくなくて、目が逸らせない。
     触れていた手が唇をなぞって、指が名残惜しそうに離れたと思えば。
    《LicK》舐めろ
     目の前に差し出された司くんの指。期待のこもった猛禽類のような瞳に見下ろされながら、僕は司くんの手首をそっと両手で掴んで、人差し指を舐めた。
     しょっぱくて、これが司くんの味なんだって分かったらドクドクと血液が巡って体が火照って血圧があがる感覚で浮ついた心地になる。
    「ん、ちゅ……」
     司くんの小麦色の指に赤い舌を這わせて、吸い付いて1本1本味わっていけば、
    《stop》止まれ
    「あ、つかさ、く、んぐっ!」
     足りないと尽くそうとしたところで制止の《Command》命令が降ってくる。仕方がないと思って待っていれば司くんの指がそのまま僕の頬側を撫でて、そして上顎を優しく擦られれば擽ったさに体が跳ねてしまった。じわじわと蝕むような心地良さ――快楽に閉じられない口の端からぼたぼたと溢れた唾液がこぼれてしまう。
    「はは、類《Good boy》いい子だな」
    「ん、ふはは、ふ」
     たっぷりと、司くんの指で舌と歯の間や舌をなぞられ、嬲られたあと、にちゅ、くちゅっと僕の唾液塗れの指が抜かれていやらしい音をたてていた。
    「もう、大丈夫だ、類動いていいぞ」
    「は、はひ」
     暫く口を開けたままだったためか、顎が痺れて上手く話せない。僕の灰色のカーディガンは垂れた涎で色濃くなっていて、恥ずかしい。
     前のプレイの時ではしなかった踏み込んだプレイだ。僕も司くんに命令されて褒められて嬉しいけれど、司くんはずっと楽しそうに嬉しそうに笑っている。
    「ふははくん」
    「類、涎が垂れてしまったな、ほら」
     涎を手で拭われて、司くんがそのまま舐めてしまった。僕の全ては司くんのもので、僕はそれを一切不快に思わない。もっと欲しいと欲張ってしまう。
     司くんの欲求は、『優しくしたい、守りたい』ではなく本当はもっと『支配したい、管理したい』という支配欲がもしかしたら強いのではないのだろうか。
     司くんでいっぱいにされるのは、怖くはないのに。君だけのSubとして支配されるのは本望なのに。
     でもこれは本当にSubとしての欲求だけなのだろうか。こんなにも1人に心酔してしまうのは、パートナーだから?
     もっと、ちゃんと考えて司くんと話さなければいけないのに、司くんが僕を撫でて褒めてぐずぐずにとろかしてくるから思考も上手くまとまらない。
    「類」
    「ん、ぁ、ぼく、つかさ、くんと、はなして、」
    「今はオレだけを見ていろ」
    「つかさく、んまって、」
     司くんでいっぱいで、呑まれてしまう。
     本能では嬉しいのに、頭が警鐘を鳴らしてる。心と体がチグハグで、なんとなく司くんもこのままだといけないと思った。でも、僕の体は陥落してしまってもうどうにもならない。
     司くんが、嬉しそうだからもう、いいのかな。
     僕は君になら全てを投げ出してしまえるから。
    「つかさくん、いい、よぜんぶ、あげる」
     手を伸ばして笑えば、司くんは口を動かした。

    《Stri―――》服を脱、」

     けれど、《Command》命令は形にならなかった。
    「ち、がう、違うっ!!オレは、類を、こういう風にしたかった訳じゃっ……!」
     今までの司くんの支配者のような絶対的なDomとしての気配がなくなって、顔を青ざめさせ苦しそうに呻く姿がみえる。
    「つ、つかさくん……?大丈夫かい……っ!?」
     珍しく取り乱す姿に、DomだSubだなんて関係なしに友人として心配で手を伸ばせば手を払われた。
    「え、」
    「っあ……すまない、類!用事を思い出してしまってな、また今度埋め合わせさせてくれ」
    「ま、待って司くん……!」
    「じゃあ、類また明日!」
    「待って……!!」
     司くんは、急いで荷物をまとめてガレージを飛び出すように居なくなってしまった。
    「ねぇ、なんで、司くん、どうして……?」
     なんでこんなにも、司くんとの想いがズレて拗れて雁字搦めになってしまったのかは僕にはもう分からない。
     胸が痛くて知らずのうちにあふれ出した涙は止まりそうになかった。



     司くんは今日は学校を休んでいた。体調不良らしい。
     メッセージアプリで今日の練習は出来ないと本番直前にすまないと連絡が入っていた。寧々やえむくんは心配の連絡をグループメッセージに返していたが僕はどう返事をしていいか分からず未読のまま。
     お見舞いの話も出ていたが、『世話をかける訳にはいかない、そこまででは無い』とのことで、僕らは通常通り練習をすることになった。
     この体調不良の原因は間違いなく、ダイナミクスによるものだろう。昨日のことが関係しているのは明らかだ。でも、なんであぁなってしまったのか、どうしたら良かったのか僕には分からない。いつもなら回る頭も今はうんともすんともいかなかった。
     お見舞いに司くんの家に行こうものなら、僕はきっとあの温かみのある司くんの家に入れない。入れてもらえない。パートナーであるDomの拒絶は心が引き裂かれそうになるが、それだけじゃなくてダイナミクス抜きにしても親友である司くんに拒絶されてしまえば僕は立ち直れる気がしなかった。
     怖い。
     Sub dropしたときのように目の前が真っ暗になって真っ逆さまに落ちそうで苦しい。
     
     ――臆病者だね、本当に僕は。怖がってばかりでいつも待ってばかり。
     
     中学生の頃の姿をした僕――弱い心が、僕を責める。
     
     ――1度で諦めて、逃げるのかい?

     さらりと流れる髪に隠れて表情は一切見えなかった。
    「……っ、あ」
     気づけば僕は寝てしまっており、手元のノートはぐちゃぐちゃに歪み、シャープペンの跡も螺旋を描いていた。
     授業も身にならず、溢れるほどの演出も何も浮かばなくてふらりと屋上を訪れた先には見慣れた腐れ縁。紙パックのジュースを飲みながら手を振り桃色の髪をたなびかせ瑞希は笑っている。
    「やっほー、類!こんな時間にどうしたの〜?類もサボり〜?」
    「やぁ、瑞希……そうだね」
    「あれれ〜?類何かあった?」
     重い体を引き摺るように瑞希の隣に腰を下ろす。いつもと変わらない、何処か不思議な響きを持った爽やかな声がするりと僕の口を開かせる。
    「聞いてくれるかい?」
    「ボクで大丈夫?」
    「瑞希だから話せるんだ。……僕と一緒のSubだろう?」
     こことは違う屋上で辛そうに1人でうずくまる瑞希の隣で何も出来ないながらに背中をさすって、他愛のない話を続けたのが懐かしい。僕がSubだと分かってからよく相談や、進展など聞いてもらうことが多くなった。
     パートナーを言う前に司くんだと、お似合いだと喜んでくれたのが驚いたけれど嬉しかったな。それも遠い昔のことのように思う。こんなに拗れてしまった司くんとの関係に呆れられるかもしれない。
     ぱちぱちと瞬きをしたあとに、気遣わしげにローズクオーツは僕を写す。
    「あ〜パートナー……司先輩のこと?」
    「うん……僕ももう何がどうしてこうなったか分からなくて。手詰まりでね」
     苦しそうな司くんの顔が頭から離れない。
     パックのジュースを飲みきったのか綺麗に折りたたんでいたずらっ子のような顔を浮かべた瑞希が笑う。
    「ボクでいいなら相談に乗ってあげてもいいんだよ〜?」
    「……ふふ、ぜひ頼みたいな」
     藁にもすがる思いだった。
     ふと見上げた空は雲ひとつなくて、僕の陰った心とは正反対の快晴だ。太陽の光が眩しくて目を細め、こんな時にでも司くんの顔を思い出してしまう自分に呆れつつ口を開いた。
    「僕が、1度Sub dropしてしまった話はしたと思うんだけど、その後パートナーになって欲しいと僕から言ったんだ」
    「あ、類からだったんだ」
    「そう僕から。詳しくは言ってなかったしね。それで何回かプレイはしたんだ。でも、多分司くんの欲求は満たせていなくてね」
    「え〜?ふ〜ん?なら満たせるようにプレイすれば良かったじゃん」
     飾りのない言葉が、そうであれればよかったと重くのしかかる。
    「……これは僕の憶測にしか過ぎないんだ。抑制剤を出してもらっている病院の先生に、司くんが抑制剤をより強いものにしたしか分からなくてね」
    「なるほど〜う〜ん難しいなぁ」
    「司くんは、Subだと分かった僕ばかりを優先するから、僕は司くんと一緒に、司くんも辛くないようにそばに居たかったんだ」
     笑っていて欲しいのに、僕は司くんを笑顔にできない。
     ショーを介さなければ僕はこんなにも、何も出来なくなる。
    「そっか」
    「……僕も色々原因は何かと周りの人との関係とか見て探ったんだ。目星をつけて昨日プレイしたんだけど、司くんと話をするどころか、僕にプレイした内容を後悔して苦しそうにその場からいなくなってしまってね」
     あんなに幸せな時間だったのに、一瞬でその幸せも崩れ去ってしまった。プレイなんて持ちかけなければ良かったのだろうか。でも、そんな見せかけの幸せなんて、夢うつつの司くんとの偽りの関係なんて違う。
    「……類は、そのいなくなった理由が分からないってこと?」
    「それもあるけれど、どうして、僕は司くんじゃなきゃいけないんだろうなってふと思ってね」
     パートナーを持ちかけた時もそうだった。相性がいいのであればと、司くんを丸め込むように情に弱い彼に訴えかけた。絶対的な信頼をおける司くんにならこの身全てを預けてもいいと思えたから、それに彼以外の誰かから命令されている未来が何も想像出来なかったんだ。
     Domであれば誰でも欲求の種類にもよるが、そつなくこなせる自信はある。これまでの処世術だ。
     でも僕は司くんしかいないと、司くんだけだと思った。
     友人以上に密接な、Subにとっては生きるために大事なパートナーの関係ですらまだ足りないと、司くんを求める心の正体が掴めそうで掴めない。司くんを思えば思うほど苦しくなる。水中にいるような溺れてしまいそうな、でも温かくなるような胸の締めつけ。
     司くんからくれる宝石みたいなキラキラした思い出、感情や言葉の数々は嬉しい。でも、司くんの弱いところ心の柔い所の奥底まで僕にとって預けて欲しいと思うのは欲張りなんだろうか。
     司くんの隣には僕がいたい、幸せに一緒になれればと思うのは、思うのは。
    「類にとって答えはもうでてると思うけどね」
    「瑞希……」
    「答えを出すのが怖いんでしょ、ボクもそうだもん」
     ぐっと、空に両手を伸ばして大きく息を吸った瑞希は青春ってやつかな、羨ましいねと言いながら影遊びをしながらのんびりと話す。
    「Subってのはさ、Colorがあったって明確にこの人しか最高のDomはいないって言えないんだよ」
     Color――そのDomのパートナーであるという首輪。プレイをしてお互いの相性や信頼関係を経て手渡される首輪。
     僕はまだ、手元に司くんからのColorはない。
    「そう、だね」
     Colorをしているから、パートナーがいるから絶対安全だなんて言えないのが世の中だ。Subだと周知の事実になってしまうから余計に危険で、犯罪に発展しSubの生命が危ぶまれるなんてザラにある。
     パートナーのDomだって司くん以外に相性の合う相手がいるかもしれない。司くんだってそうだ、これまでいなかっただけで。
     影絵はいつの間にか、瑞希の首元に両手を重ねていた。
    「ColorってそのDomのものっていう大雑把に言って、所謂結婚指輪みたいなものじゃん?でも結婚みたいに書類なんてないから効力は薄いでしょ? Subが拒否しちゃえばDomとの関係もそこで終わりでさ。まぁ、そこで無理矢理従わせちゃえば、パァだしね〜」
     パッと、瑞希の首元にあった両手は離される。
    「Colorを渡されたから渡されてないからって全てでもないと思うしさ、あんまり深く考えすぎも良くないよ〜?」
    「でも……」
    「ボクから見ても、多分類の周りのみんなも言うと思うけどさ!司先輩に大切に思われてるから!」
    「それは、なんだか恥ずかしいような」
    「それだけ、司先輩と類は一緒にいるってこと!ニコイチなんだってば!」
     司くんに大切に大事にされている自覚はあった。
     兄心か世話焼きなところのある司くんにとっては、僕は手のかかる弟のような扱いになるのだろうか。でも、いくらパーソナルスペースが狭い司くんだろうが、パートナーであったとしても距離感があまりにもおかしい。それに嫌だと思わない僕も。
     特別な所に置いてくれているのだろうとは思う。その真意が読めない。読めないから僕が無闇矢鱈に暴いて傷つけてしまわないか、失いたくないからこそ怖いから外堀を埋めている。証拠を見つけて確信を持って正解を選びたくて動いていたら、間違えてしまった。
    「……僕は考えすぎなのかな」
    「ん〜類は難しく考えがち、かも?」
     スカートの裾を叩いて瑞希は立ち上がりふらふらと、目的地なく屋上を踊るようにくるくる廻りながら歩く。校庭からの喧騒は不思議と聞こえなかった。
    「このダイナミクスのパートナーはさ、絶対的に恋人関係や将来の夫婦としてのパートナーと一緒にしなきゃいけないわけじゃないじゃん」
    「…………」
    「パートナーと、結婚した人がバラバラなんてザラにいるしこの性質はそういうものだって割り切ってるところはあるよ。だから、類が絶対的に司先輩とパートナーであり続けなきゃ行けない理由は無いしさ、それでも類が司先輩を求めて、離したくないって思うのはパートナーだけの気持ちだと思う?」
    「…………それは、」
    「類、そこは目を逸らしちゃダメだよ。類のためにも、司先輩のためにも」
     瑞希が僕に手を差し伸べ、ぼんやりとその手を掴めば僕は思ってもみない力で引っ張られ、立ちくらみしながら瑞希を見れば笑っている。
     ショーや小説の数々からそれに近い感情は分かっていた。キラキラした気持ちやドロドロとした気持ちと重ならない部分も多くて、僕にとってのこの気持ちは当てはまらないと思っていたから見ないふりをして。
     これが、この気持ちがそうだというのであれば、尚更言葉にするしかない。
    「ほら、類!司先輩にドーンとぶつかって来なよ!今度は類が手を差し伸べるんでしょ!」
     効果音と共にバンっと背中を叩かれ、そのまま僕はよたよたと屋上の扉の方へ前進してしまう。
    「……っ、瑞希!」
    「司先輩は何度も諦めずに類に手を差し伸べてくれてたんだから!ボクだってもどかしいの!2人には笑ってて欲しいから!」
     いつも僕は瑞希に助けられてばかりだ。いや、色んな人に助けられてここまで来てるんだろう。
    「類〜!いい報告待ってるよ!慰める準備もしておくからね〜!!」
    「お礼は司くんと2人で、ファストフード店でどうかな?」
    「ポテト大盛り今から予約しとくね!」
     屋上に来る前より軽くなった体で、階段を駆け下りる。司くんの心に僕の想いをぶつけるには、結局のところショーしかないんだ。
    「司くんが、僕の手を手放そうとしても、僕はもう間違えないから」
     何度だって手を差し伸べて、愛を叫ぶんだ。
     


    「天馬司!完全復活だ!!」
    「うるさっ、近所迷惑なんだけど」
    「わーい、司くん!」
    「ぐわー!えむ突撃してくるな!!」
     目の前では天高く手を掲げ『カッコイイポーズ』を決め笑顔を浮かべる司くんに飛びつく桃色の弾丸ことえむくんと戯れる姿があった。
     司くんは結局、2日間学校もワンダーランズ×ショウタイムでの練習を休んだ。昨日は体調も戻ったからと、万全ではないのに登校しようとしたところ家族に止められての休みだったらしい。咲希くんから聞いて、なんなら今日も無理しがちなお兄ちゃんを頼みますと連絡をもらった。
     今はワンダーステージで今週の土日に迫ったショーのために集まり柔軟体操をしたり各々個人練習時間である。僕は装置のメンテナンスと工具を出すところ、司くんとえむくんはじゃれ合いながら動いて体を温めているようなものだ。
     ぐるぐると回転木馬のように忙しなく動く2人を眺め、口が綻びそうになるのを我慢していれば、隣で発声練習の準備をしていた寧々が嘆息する。呆れつつもラベンダー色の瞳は優しさに満ち溢れていた。
    「ほんっと、2人とも元気ありあまりすぎじゃない?」
    「まぁ風邪で寝込んで2日間丸々ショーに打ち込めなければ内なるパッションがこう溢れてくるんじゃないのかな?」
    「でも類も、2日間上の空で寂しそうだったじゃん」
    「それはそうさ!僕は試したい演出も試せず、司くんの輝きが恋しくておいおい泣きそうだったのに!」
    「はぁ、これでも幼なじみなんだから誤魔化せると思ってるの?」
     しくしくと、目元を覆って嘆いていたが冗談で流せず、お見通しだったらしい。
    「……司となにかあったんでしょ」
    「うーん、痛いところをつくね。仲違いしているわけでも何でもないよ」
     学校の玄関先で出会って早々、大声で響き渡る挨拶と謝罪。僕は不意打ちすぎて何度か瞬きして司くんを見ていれば、昼ごはんの約束をされそそくさと嵐のように消えて行ってしまったのだ。休み時間も普通にショーの話をして、距離感も変わらず。
     ギクシャクするのかなと思えばそんなこともなく、違ったところと言えばダイナミクスについて一言も言及しなかったことくらいだ。
    「ボタンの掛け違いみたいで、ゾワゾワするからちゃんと話し合って」
    「心配をかけてしまってすまないね」
    「はぁ……あからさますぎるのに鈍すぎ。ショーのことでは以心伝心って感じなのに、それ以外てんでダメなんだから」
    「それは自覚してるよ、痛いくらいに」
    「考えてることなんて全部分からないんだから、それに自分の価値観が絶対じゃないでしょ」
    「……! 灯台もと暗しだったよありがとう寧々」
    「そ」
     寧々は僕を一瞥して発声練習を始めてしまった。寧々なりに慰めてアドバイスしてくれてるのだろう。確かに僕は行き詰まって、自分の価値観を司くんに押し付けてしまう所だった。
     僕が司くんに全部預けられるのと、司くんが僕に全てを預けられる前提は当たり前に違う。
     そんなこと昔の僕なら話し合う前に諦めてたのに、司くんに関しては諦めが悪い。欲張りになってしまったのかな。
    「よし」
     パチと両頬を手で軽く叩く。踏ん張り時だ神代類。
     司くんとのこともそうだけれど、今は取り敢えず今週末に迫ったショーを成功させるために司くんと最終調整しなければと演出ノートと台本片手に舞台へ上がった。



     土曜日。待ちに待った初日。
     今回は世界が平和になった後の世界、1人世界から弾かれた魔法の元に、勇者一味が旅をしながらみんな笑顔のハッピーエンドを掴むために赴いてという話だ。
     人間側も魔物側にも守りたい家族や場所があった。お互いにとってはお互いが悪で、自分が正義。信念を曲げなかった結果勝敗がついて人間が住みやすい世界の中で、魔物も幸せに生きていくためにはというテーマでショーを通して面白可笑しくしながら紡ぐ御伽噺。
     勿論司くんが勇者で、僕は魔王である。ヴィラン役は慣れたものであるし、魔王のいる古びて廃れた城にたどり着くまでは僕は演出とナレーションに集中できるからちょうど良い。
     えむくんと寧々は、姿を変え時には勇者一味の魔法使い、妖精を。過去の魔王軍の配下だった魔物としても動く。
    「類く〜ん!!お客さんいっぱーいいるよ!きゅ〜ってなってどーんってするね!」
    「ふふ、そうだね。やっぱり観客席が埋まっていると嬉しいと同時にドキドキするよ」
    「なんで類には分かるの……」
    「オレにも分からん……」
     4人で舞台袖から観客席を覗けば、ワンダーステージに座りきれなかった立ち見客もいる程に反響していた。チケットは完売御礼、宣伝大使の効果か、それよりも子供でも大人でも楽しめるような内容にしたのも一因だろう。
     キラキラとした笑顔と、ワクワクと高くなる話し声が聞こえてきてこちらまで高揚してきてしまう。開演前の緊張と興奮は何にも変え難いものがある。
     魔法使いの衣装に身を包んで大きなつば広帽につけた星や月の装飾品をシャラシャラと鳴らしながら飛び跳ねるえむくんは今にも舞台上に飛び出してしまいそうだった。やれやれと嘆息しながら勇者の剣片手に寄りかかり甲冑姿でいる司くんと、長い萌黄色の髪を編み込んで長い耳を持つ長命のエルフの格好をした寧々も目を輝かせているのはごまかせない。
     ここにいるのはショーバカと言われる僕と司くんに引け目を取らないくらいにショーが大好きな寧々とえむくんだ。
    「ふふ、もう少しで開演の時間だ。全力を、いや全力を超えてまで観客も自分たちも笑顔になれるショーをしよう!」
    「あぁ!最高のショーにしよう!」
    「みんなみーんな笑顔にしちゃおう!」
    「うん……!」
     上擦った声で、おどろおどろしくけれど優美な刺繍が魔王の漆黒の羽織を広げ皆に目配せし、円陣を組んで開演のブザーが鳴る前に各々の所定位置へ。
     始まりは魔王と勇者の戦いその勝敗と顛末のあらすじのシーン。司くんと僕は登場は上手と下手に分かれる。その前にと僕は司くんに声をかけた。
    「司くん、」
    「……っ、なんだ類!」
     振り向いた司くんの顔色は舞台裏のため分からない。集合して陽の当たる場所で見た司くんの顔は何処かやつれているように見えたから最終確認だった。
    「勇者は魔王に立ち向かえそうかい?」
     リハーサルでは剣技も完璧に、台詞も歌も間違えてはいない。演出家目線から見ても今日のために整えてきていることが分かっていた。
     まだ風邪で体調が本調子ではないのではないか、中途半端にプレイしたせいでダイナミクスが乱れているのではないかと辺に勘繰ってしまうのは癖だ。何処までも役を得るには貪欲に、自分を追い詰めてでも手にする役者だから尚更に。
     カツカツとブーツの踵をを鳴らして僕の前まで来た司くんは白い歯を見せて太陽のように眩しい笑顔を浮かべていた。
    「待っていろ!魔王も絶対に笑顔にしてみせるからな!」



     ブザーが鳴り、静まり返る客席。聞こえるのはフェニックスワンダーランドでアトラクションを楽しんでいる客の遠音だけだ。
     優雅なBGMが鳴り響き、ラッパの音がしたタイミングで僕と司くんが出る。煙幕や雷発生装置、プロジェクションマッピングなどを使いながら終わってしまった話を語り継ぐように演じる。
     そうして魔王の僕は倒され、そのまま舞台袖へ消える。これからは後日談である勇者達の話の始まりだ。暫くは魔王たる僕の出番はお預けだ。
    「ふぅ……掴みは上々かな」
     魔王の衣装は分厚く、コートが長いため陽の光を吸収して汗で蒸れる。水分補給をしつつ、衣装をパタパタと扇いでドローンで撮影したショーをモニターで確認しながら、演出を披露していく。
     舞台を縦横無尽に駆回る勇者の司くん。過去お世話になった街に訪れ、生き残りの魔物と対話してゆく。ゾンビロボット改良版を使って予め録音していた魔物の片言の声を流してするやり取りは、人と魔物の価値観が違うためズレて漫才のようで観客席からは笑いが湧き上がっていた。
    「流石は司くん。今は皆舞台の君に虜になっている」
     魅力して止まないスターの司くん。
     もっともっと僕の手で輝かせたい。高みに連れていきたい。限界を超えてもっと司くんを彩って、最高のショーを笑顔を届けたい。
     なんて幸福なことだろう。司くんと共にあって、一緒にショーを出来ているこの奇跡。君は類がショーを好きだったからオレがそれを見つけた1人になっただけだと言うが、当たり前じゃないんだ。手を差し伸べてくれたのは君が初めてだから。
     最近特に司くんを目で追ってしまう、ドキドキとゲリラショーをした時のような高鳴りに体が熱くなるのは、恋をしてしまったからだ。
     
     ――そう、屋上で手を差し伸べてあの時から僕は、司くんに惹かれていたんだね。
     
     やっと理解出来た。
     だから僕は司くんが良かったんだ。司くんじゃなきゃダメだったんだ。突然暗闇の底でさ迷った先にあった光――司くんがいたからパートナーがいいと思った。
     そのままこの昂った気持ちのまま舞台に上がって司くんに想いを告げたい気持ちをグッと堪えて顛末を見守る。
     司くんが僕に対して友人以上の気持ちを抱いていなかったとしても、両想いになれなくてもいい。両想いだったら嬉しいことこの上ないけれども。僕はもう十分司くんに無償の愛を貰って貰いすぎている。だから、司くんが抱えてることを解消するお手伝いは許されるかな。
    「……っ、今はショーが1番だ」
     ふわふわと浮ついた心地になり緩みそうになる頬を引き締めて、次の出番を待つ。
     暫くして厳かなBGMが流れ出し、舞台が暗転したと思えば一筋の光。雷の閃光に目が眩んだと思えば、暗雲が立ちこめた廃れた城が現れる。蔦は手入れもされず無造作に城壁に絡みつき、ジメッとした今にも雨が降りそうな城に引きこもる1人の魔王の心を表したかのような情景だ。
     煤で汚れた赤いベルベット生地の玉座に腰掛け、足を組んだ魔王である僕は不機嫌を隠さず勇者一味を睨みつける。勇者に倒される前は、愉快そうに笑っていたはずの魔王は今は身なりもボロボロだった。それでも佇まいは人々を恐怖に陥れた魔王のまま。
    『……今更何の用だ?殺しにでも来たか?』
     嘲り笑い、見下すその様に観客が息を飲んだのが見える。人を魔物を魅力する魔王が今は舞台を支配する役者アクターだ。
    『はっ、仲良しごっこをまだ続けているのだな』
     魔王を演じる僕は今ゾーンにでも入ったかのように、観客をどうしたら惑わせることができるのか、魔王が乗り移ったかのように身振り手振りする。
     次は勇者たる司くんの台詞だ。
     なのに、
    「…………、っは」
     静寂を破る声は聞こえない。
     リハーサルでは完璧だったため、本番に強いと豪語する司くんが台詞が飛ぶなんてことは珍しい部類だ。微動だにしない司くんの数分は経とうかという沈黙に、そばにいた寧々とえむくんを見れば目が泳ぎ困惑と焦りが見えた。
     司くんがどうしたかは分からないがとにかくアドリブで繋げなければと口を開こうとした瞬間ふらりと司くんの体が揺れた。
    「…………!」
     ガシャと、甲冑の金属がぶつかる音がしたと思えば折れそうになる両膝をなんとか剣を床に突き立てることで片膝をつくに留まっていた。台本には無い動き、本来であれば剣を投げ捨てて争いをしにきたわけではないと高らかに告げるシーンの筈。咄嗟のことで叫びそうになるのを司くんは、観客に見えるか見えないかの絶妙な位置に“待て”と手をかざす。
    『……っ、すまないな!久々に魔王と会ったものだから平和ボケしてしまったオレは武者震いをしてしまったみたいだ!』
    『……っ、私は何もしとらんぞ』
     類を見上げる司の顔は顔面蒼白で、目は朧気にしか焦点が合っていない。尋常じゃない汗がステージに落ちて、剣を持つ手も震えている。それでも命を削ってでもショーを中断させない意思を垣間見て、本来なら役者の異常事態に中止しなければいけないのに動揺を隠して台詞を続けた。
     
     ――ショーマストゴーオン、始まったものは最後までやり遂げなければいけない。

     これは司くんの限界を見誤って、ショーを決行してしまった僕のせいだ。
     

     
     類とパートナー解消の話をいつしようかと考えていたが、多大にストレスのかかる行為でありSub dropしかねないため切り出せずにいた。
     類がオレに何故か信頼を寄せすぎているから余計に話そうと思っても類の辛い顔が見たくないから、先延ばしにしてしまう。類を裏切る行為をしようとしている。類の為であれば早い方がいいのに、怖気付いて逃げてしまう自分が憎らしかった。
     特に約束したりはせず、昼休みは屋上で集まっていつものように類から野菜サンドイッチの野菜を貰い、弁当を分け与え食べていた時のこと。
    「司くん、僕と《プレイ》してほしいんだ」
    「んぐっ、ぷ、プレイ!?」
    「おや? 何を驚くことがあるんだい? 僕達パートナーで欲求の発散にはプレイだろう?」
     地団駄を踏んでいた所、食えない笑顔で何ともないように類にプレイを持ちかけられた。本当はプレイをした方が欲求解消不満なオレには良かったのだが。
    「いや、オレもそこまでプレイしなきゃいけないほどではないんだ」
     オレとしては自分の欲を抑えきれる自信がなく、暴走してしまってサブドロップなんてさせてしまったらもう類に触れられなくなる。
     断る気でいたのに類のあの縋るような瞳で見つめられ、しまいには類の体調が良くないと聞いてプレイせざる負えなくなり内心焦っていた。
     ――どうしたら強い欲求を抑えられるか、理性勝負だ天馬司。
     本当は家族は夜遅くならないと帰ってこない日であり、咲希も練習で放課後暫くは家には誰もいなかった。それでも誘わなかったのは自分の家である、テリトリーに類を入れてしまえばそのまま閉じ込めてしまいそうだったから。
     そうして放課後までオレはどんなプレイをすれば強い欲求が出てこないか、考えに考え抜き時間をかけてゆっくりと優しめのコマンドでプレイするしかないと結論づけてホームルーム終わりの類のクラスへ。
    「類!!」
    「……おや、司くん早いじゃないか」
    「約束しただろう! 早い方がいいと思ってな! 迎えに来た!」
     類の家はお邪魔したことがあったので、マイペースな類を引連れて歩き電車に乗り継ぎ、数十分。ガレージに案内されたはいいが相も変わらず部屋は汚い。
     セーフワードの確認も終わりいつも通りプレイをするため、類の好きな《おすわり》とコマンドを出すより先に類が座り込んでしまったのを見てオレは歓喜で震え、先程考えていた案を忘れてしまった。
     類が何かを言おうとしているのに、意識は別のところにあって、オレは本能でコマンドで類を従わせてしまう。類しか見えなくて、どこか非現実的な夢のような感覚だった。
     《舐めろ》と命令し、オレの命令に弱い類を従わせてそのままサブスペースに落としてしまおうと体は動く。
     オレはきっと笑っていただろう。やっとこの満たされない飢えが満たされる。類を虐めて褒めて、閉じ込めて優しくしてオレだけだと体の髄まで染み込ませてオレだけのモノにしたい。
    「……は、はは類、可愛いな」
     オレの指で口の中を刺激されぐちゃぐちゃになった類は淫らだ。涎を垂らして息も絶え絶えで、涙をこぼす姿は興奮した。早くこのSubを従わせてしまいたいと願う本能の奥で警鐘が鳴っている。
     類とのパートナーの関係は清くありたいのに、性欲が刺激されコマンドで類の体を奥底まで落としてめちゃくちゃにしようと口を開きかけた時。

    「つかさくん、いい、よぜんぶ、あげる」

     熱に浮かされたぼんやりとした瞳でオレを見上げ舌足らずに告げる類を見た瞬間一気に現実に引き戻される。肝が冷え、スラックスをキツくしていた反応しているモノも萎えた。
     
    ――プレイすべきじゃなかった。

     言いかけたコマンドを止めて、後悔で立ち尽くしていればきっと心配してくれたのであろう類がプレイを中断されたにも関わらず手を伸ばしてくれたのに。
     オレはその手を取れなかった。
     類の家から無我夢中で逃げて、類からなるべく離れなければ類を傷つけてしまうと走る。道中で抑制剤を数粒纏めて喉に流し込んで次第に揺らぎ始めた世界に口の内側を噛んで広がる鉄の味に意識をなんとか保ち、気付けば帰路についていた。
     厳重に鍵をかけて、階段を上がり部屋に入ったところで崩れ落ちるようにに横たわる。
     生憎と咲希も両親も誰もおらず安心した。
     今の自分は取り繕うことなんて出来やしないから。
    「っ、はぁ、はっ、は……!」
     酷く喉が渇いて、息を吸うだけで喉が焼けるようだ。ネクタイを緩めて喘ぐように空気を吸い込んでも目の前は歪むばかり。全身が冷や汗で濡れ、耳の中にまで響く鼓動。しまいには胸がムカムカと重くなり吐き気で、胃液が込み上げる。なんとか飲み込んで大きく息を吸って耐えた。
    「ぅ、ぐっ……」
     完全に抑制剤の過剰摂取による副作用だった。
     用法用量を守らずに、飲んだツケだ。
     本来なら数日に一個なのに、前回抑制剤を使用してから期間は空いていない上に一度に数粒飲んでしまった。
    「……は、みずっ……!」
     過剰摂取した薬を薄めるようにカバンに入ったペットボトルの水を一気に飲み干しても乾きは飢えない。
    「……は、るいっ、類……!」
     抑制剤はダイナミクスの欲求を抑える万能薬に見えて、諸刃の剣でしかない。元々薬の飲みすぎは体を、臓器を傷つけ、オーバードーズなんてしようものなら体のバランスが崩れ意識がなくなり死に至る。
     欲求を制御する薬は脳に働きかけるからか、己のダイナミクスに翻弄され追い詰められた若者がオーバードーズして運ばれてくることも稀じゃないと担当医に説明され、注意されていた。
    「は、はぁっ、は……」
     オレは特に欲求が強く、重いために再三注意されていのだ。パートナー紹介制度でもパートナーを作れず、欲求の解消に正規のダイナミクス専用のマッチングアプリを使っても心と体がつり合わずに欲求の解消不足で世話をかけていたから。
     毎月、抑制剤による中毒症状や体に異変がないか診察と採血をしている。その結果もう強い抑制剤は使えない、体を壊して君の大切なもの、例えばショーでさえ壊してしまうと最終勧告を受けていた矢先にオレに類というパートナーが出来た。
     最初はダイナミクスの関係としても類から絶大に信頼されており、その上好いている相手だからかプレイの満足度が高く抑制剤は弱めのもの、なんなら抑制剤を使わずにいれた。担当医にそれを告げるどひどく安心されたのを覚えている。
     久しぶりに体が羽のように軽く、類の演出で何処までも飛んでいける、月まで、宇宙の果てまでもと思った。類の笑顔で満たされて、頼って無意識にでも甘えてくれる類に優越感を感じていた。
     なのに、オレの中の欲求はもっともっとと強くなるばかりで、咲希のように類を傷つけまいと、パートナーがいるのに欲求解消不足で狂い始めた結果が今だ。
     担当医に嘘をついて、抑制剤をまた強いものへと戻してもらった。お互いのダイナミクスの重さや、ダイナミクスの判明もサブドロップから始まった類を苦しめたくはなかったから。
    「っ、ぉ、え……げほっ、げほ!!」
     吐こうにも上手く吐けずに気持ち悪さだけが残り、鼻にツンとくる胃液の味にむせてしまった。生理的な涙で視界がぼやけて上手く力が入らずベッドへ沈む。
     このくらいの苦痛はなんてことはない。そう言い聞かせて毛布の中で必死に耐えて、耐えて――。
    「……ゃん……――お兄ちゃ〜ん?」
    「はっ……!? さ、咲希?」
     コンコンと響くノック音と、心配そうな声色が聞こえたと思えば類が倒れる悪夢がぼやけて霧散する。
     ベッドから体を起こせば辺りはいつのまにか暗くなっており、リビングの明るさが眩しかった。気絶するように眠っていたらしい。
    「お兄ちゃんってば、さっきから呼んでるのに返事もないから心配したんだよ! もしかして体調悪い? 夜ご飯誘いに来たんだけど……」
    「ぁ、あぁ! すまないな! どうもオレは疲れた体にベッドが心地よくて一眠りしていたらしい! すまない咲希! 練習終わりに類達とファミレスで食べてきたんだ」
     慌てて理由と予定を取り繕う。
     胃液で喉がやられたのか少し声がかすんでしまっていたから、ドア越しに咲希に気づかれていないことを願うしかない。
    「あ〜またお兄ちゃん連絡忘れたでしょ!」
    「報連相がなってなかったな……」
    「ううん! じゃあ一応晩御飯作ってくてれるし、お腹空いたら食べられるようにラップして取っておくから!」
    「ありがとう」
    「全然!」
     タタタと、階段を軽快に降りる音を聞き届けたあとオレはベッドにまた横たわった。ズキズキと痛む頭と、胸焼けに食欲は一切わかない。
     きっと今食べれば吐いてしまう。家族に迷惑をかけ心配され、それがワンダーランズ×ショウタイムの皆へ、類へ伝わってたらダメだ。
     抑制剤の副作用はさっきよりマシになっている。それよりもずっとある欲求解消不満による体調不良は良くはならない。抑制剤によってなんとか動いて誤魔化せるくらいには閉じ込めることは出来そうだ。
    「……っ、類すまない、すまないっ……!」
     差し伸べてくれた手を振り払ってしまった。
     パートナーであるDomから拒絶された類に比べたらこんな苦しみはなんでもない。
     己の体調面を考えると醜い類への重い愛情とダイナミクスの欲求がごちゃごちゃになり体調が芳しくない時点ですぐにパートナー破棄を申し出るべきだったんだ。
     でも、オレはできなくて。
     類からパートナー破棄を申し出てくれるような酷いプレイをするパートナーを演じれば良かったのではないかと過ぎることもあった。でも類に無体を働くことは出来ない。好きな人だからこそ大切にしたい。類にはずっと幸せそうに笑っていてほしいのにオレの弱い心は希薄になりつつある繋がりに縋ってしまう。
     もう類を逃さないとオレが繋げた歪んだ赤い糸で類は雁字搦めになってしまった。
     最初からこの思いを、衝動を話せば良かったのだろうか。愛していると普段なら叫べた。でも類の心を誘導するような真似はしたくなくて、依存から結びつく関係は違うから。
     オレはどうすれば良かったんだ?


     朝起きて頭痛はなく体のだるさは残るが学校に行けると思ってベッドから降りようとしたところ上手く力が入らず毛布を巻き込んでドタドタと崩れ落ちてしまった。その音を聞き付けてやってきた咲希が、おはようの言葉を言い切る前に顔を真っ青にして泣きそうに両親を呼びに言ってしまって、オレは今ベッドに逆戻りである。
     珍しく起きるのが遅く寝坊かと咲希には心配されてしまっていたらしい。特にココ最近は週末に控えたショーがあるから早起きして台本読みや動きを再確認していたから尚更だ。
     熱はない多分疲れていたからと言っても聞かず、体温計を脇に挟み1分ほど。37.5℃。平熱が36.8℃で高めだが微熱であったため母さんが学校に休みの連絡入れていた。
     微熱と言っても動けないほどではなくじっとしているのが落ち着かなくなったオレは、氷枕を用意してくれた咲希に見つかり今怒られている。
    「お兄ちゃん! 今日はおやすみ!! ぜったいぜったーいに家から出ちゃダメ!」
    「咲希! オレは大丈夫だと、」
    「ダメー!! アタシが体調悪い時にもお兄ちゃん同じことしたんだから!」
    「だが、オレは本当に……」
    「立てないのにどうやって学校行くつもりだったの! お兄ちゃんのバカ!」
    「ば、バカ!?」
    「えむちゃんと何かあった時に連絡してくれって頼まれたるいさんに連絡して――、」
    「お、オレがする! さ、咲希はいい! ほら、早く学校行くにはギリギリな時間だぞ!」
    「あっ! 本当だ! お兄ちゃん無理はしないこと!」
    「すまない、咲希本当に」
    「行ってきます!」
    「行ってらっしゃい、咲希」
     ぷんぷんと怒っていた咲希に念を押されたためベッドでゆっくり休むこととした。それにしても咲希には痛いところをつかれた。体調管理には人一倍気をつけてはいたが、ダイナミクスの不順については別物だと捉えていたから心配をかけてしまったのは心が痛い。
     抑制剤が効いたのか頭はクリアで、類を支配したい独占したいという欲求も薄れた。ストレスで熱が出たのか、弱っていたところに風邪を貰ったのかは分からないが、体を酷使したのが原因だろう。
     昨日はどうかしていた。
     類を縛ろうだなんて追い詰められて、欲求に引っ張られて良くないことを思ってしまった。
     類をつれて病院に行こう。担当医に告げて頭を下げて類とパートナー破棄を申し出て、ケアを頼むんだ。
    「…………はは、身勝手なのは昔から変わらないな」
     起きていると良くないことばかり考えてしまうと、オレは布団にこもり目を閉じた。
     自然に目覚めれば十四時頃で小腹が空いており、そういえば昨日の夜から吐き気と食欲がなくて食べていなかったことを思い出す。ぐぅっと音がなり、昨日の今日であまり胃にものを入れようとは思わなかったが、キッチンへ向かい用意してあったお粥を電子レンジで温める。
     熱は下がっており、体の動きも元に戻っていた。
     温まるのを待っている間スマホを見ると、通知が凄いことになっていた。ワンダーランズ×ショウタイムのグループと特に類からの個人メッセージ。朝学校を休むこととショーには参加出来ないメッセージを送ったあと寝てしまったためこんなに心配されているとは思ってもいなかった。
    「……不甲斐ないなオレは」 
    『司くん最近しょぼぼーんって元気なかったからゆっくりお休みしてね☆』
    『アンタがいないと類が寂しがるし、ショーも味気ないんだから。早く治しなさいよね』
    『司くん、無理は禁物だよ。僕らはショーの準備をして主役の君を待ってるから』
    『わんだほーい!』
    『今日のわんだほいは元気になるおまじないかな?』『ふふ、えむっぽいね』
    『わたしの元気司くんに届けー!』
    『僕のドローンで届けてあげようか?』
    『類くん!』『司これでも体調崩してるんだから程々にね』……等々。
    「騒がしいやつらだな」
     何気ない会話や心配してくれる温かい言葉が沁みる。不覚にも泣きそうになった。
     オレは無意識だったが、ストレスと感じるほどに思う通りにいかない欲求に参っていたのかもしれない。仲間に助けられているのだなと自覚する。
     早くアイツらとショーがしたい。
    「天馬司、ここで弱っていてどうする」
     パンっと己の頬を叩き喝を入れる。
     丁度よく電子レンジで温め終わった音がして取りに歩く。ラップを剥がせばほかほかと湯気が立ち込め、少し冷まさないととお粥を口に入れる前に類からのメッセージを開ける。ポツポツと数時間おきに心配の言葉の間にショーや演出の話を挟めたメッセージだった。昨日のことには触れず、いや触れられないのだろう。
     類のせいではないことを弁明するためのメッセージ送ればすぐに既読がつく。返事がきて返答を考えていればポンポンポンポンと高速でメッセージが送られてきて、返せない。しまいにはお見舞いまで名乗り出られた。
    「今の姿を見せたらより心配させてしまうだろうな」
     授業をサボっているのは良くないことにいつも通りだが、喝を入れつつ気持ちだけ受け取って断る。
     心配しなくてもすぐに良くなると、次のショーのために演出を極めて待っていていくれ――と送れば微妙な顔付きの猫のスタンプが送られてきた。可愛いのか可愛くないのか半々な猫だ。
     納得していないといった主旨だろうか、オレもにらめっこのように犬のスタンプを送り返してお粥に口をつけた。
     卵がゆ、普段なら美味しいはずの母の手作り。あんまり味はしなかった。
     

     
     熱を出した日の夜には平熱に戻り、次の日体調は万全だったため学校に行こうとしたが咲希に念の為ともう押されに押されて1日休んでしまった。
     流石に暇でショーの練習を繰り返していたが、どうも上手くいかず体の調子は相変わらず良くない。日常生活には支障がない程度なのだろう。
     たが、最高のパフォーマンスを届けるため妥協するわけには行かないのだ。体が追いつくまで動かすだけだ。
     類の演出が恋しいと、早く動きたくて体がうずうずしている。類にあれだけ派手な演出に学校でも巻き込まれて怒っているのに(前髪も焦げたが)、オレも相当末期なものだ。類も物足りない学校生活を送っているのだろうか。
     次の日完全復活を果たし叫んだオレに類は病み上がりだからも演出を控えようとしたが遠慮はいらないと返せば、どこか安心したような困惑して口元をもにゅもにゅと動かしていた。
    「ちゃんと授業は受けていたか? 休んだ初日も返事が早かったからな」
    「君からのメッセージを無視するわけにいかないだろう? それに今度する予定のショーの試作品を作っていたら熱中してしまってね」
    「クラス担任も授業担当の先生も呆れているぞ? だがしかし、その演出とはなんだ」
    「おや、僕に劣らずショーバカな君は食いつくと思ったよ」
     そのあとまんまと爆発騒ぎに巻き込まれ教師に追いかけられて逃げ、結局捕まり反省文。
    「お前はまた何度爆発させる!?」
    「ふっ、ふふふ刺激は必要だろう! いかに派手に彩るかさ!」
    「オレは! 平穏な学校生活を送りたいだけなのだが!?」
    「変人ワンツーフィニッシュと呼ばれる僕らにはお似合いだろう? クラスメイトたちにはなんだかデイリークエストと言われていたね」
    「天馬、神代煩いぞ!!」
    「は〜い」
    「すみません!」
     見回りに来た教師に怒られ試行錯誤しながら反省文を書く傍らで既に終えた類が昼に行っていた試作品を取りだしていた。怒られたばかりなのに水に油を注ぐ神経がすごいと思いつつ、興味が湧いてしまいワクワクドキドキが止まらず試しに触れてみたところ辺り一面が光ったと思えばプラネタリウムが出来上がっていたものだから、感動して褒めれば類は嬉しそうに笑っていた。
     騒ぎを聞き付けてきた教師にまた怒られたが。
    「こら類!」
    「あははっ、司くんも共犯だよ!」
     類に対しての欲求は湧かない。
     愛おしいなと思うことはあれど、笑っている類を見てこんなに穏やかな気持ちでいられるのは久しぶりだ。
     友人として類のそばにいれる日々が続けばいい。
     そう思っていたのに、ショー当日。
     抑制剤が切れてきたのか、類への欲求でせっかく万全に整えてきた体調が不安定になってしまった。
     最後に抑制剤を飲んだのは副作用が酷かった数日前。強い薬で毎日は飲めない薬のため数日開けなければならないが、今日は大丈夫。万が一を考えて類と学校で話し、ショーで触れ合う度に高まる欲求をなんとか耐えて今日のために取って置いた最後の砦。
     バレないように隠れて薬を取りだし、水なしで含めば口にざらりと残る感触と喉を通る苦味。副作用はない。
    「司くん……?」
    「っ、類!? ど、どうしたんだ?」
     魔王の姿をした類が尋ねてくるのは予想外だった。抑制剤は飲んだあとだ。いつも通りを装えばショーは中止とならず滞りなく進む。
    「えっと、何かお取り込み中だったかな。少し変更点があってリハーサル出来ればと思ってね」
    「いや、本番前にいつもの天馬司流ルーティンをだな!」
    「……ふふ、カッコイイポーズかい?」
    「見ていくか? 勇者のオレの華麗なる姿を!」
    「是非とも。写真に撮ってもいいかい?」
    「勿論だ!」
     リハーサルを経て本番前。舞台裏で、最高のショーを築き上げようと類と最終確認をし別れ幕が上がる。
     魔法使いのえむと、剣士のエルフである寧々を再招集して旅へ出る。魔王討伐をした後日談。小さい子供たちも類が用意した魔物や、派手な魔法の演出、剣技に瞳をキラキラとさせている。一緒に見に来た親や大人も楽しめるよう類は工夫を凝らしていたから声援が飛んできたりと今のところ大盛り上がりみたいだ。
     オレもコメディな勇者として面白おかしく魔物達と対話し仲を深め魔王城を目指す。やっぱりこの温かな場所に魔王たる類がいないのは寂しい。どうしても孤独な錬金術師が頭をよぎる。
     だが、それもこのショーでは魔王も皆みんな救っちゃおうの魂胆なのだ。
     魔王城にたどり着いてからが勇者のオレの本領発揮点だ。

    『魔王ルイ! 話し合いに来た!!』
     
     そう高らかに告げた。
     ゴロゴロと雷が鳴り響き、暗雲立ち込めるステージ。先程までいた平和な世界とは違い、地続きの世界なのに魔界に訪れたような感覚に陥るほどの別世界。勇者だけが前を見すえ魔王と手を取る未来への希望を捨てずにいる。
    『……今更何の用だ? 殺しにでも来たか?』
     姿を現した魔王の姿は倒された時のままで、血で彩られ角も折れたまま、髪も乱れている。
     それでも魔王を演じる類は勇者に倒された所で生粋のカリスマ性は失われなかった。
     いや、違う練習でもここまで舞台を振るいあがらせる魔王ではなかった。魅了して惹かれて、全ての魔物を率いて統一してきた王が目の前にいる。
     そんな類と目があった。
    『よくできてるでしょう?』と嬉しそうに、褒めてほしそうに月色の瞳を輝かせていた。
    「……あ、」
     息が上がる。
     おかしい。何故、なんで。抑制剤で押さえ込んだはずの欲求が、出てしまう。
     ちがう、今じゃないのに。

    ――オレを、オレだけを見てくれ!
     
     誰もが見惚れそうな魔王を演じる類を支配して従えたいと欲求が、本能が全面に出てきてしまう。
     パートナーであるオレを差し置いて、魅力しないで欲しい。そんな類を閉じ込めてしまうだけの思いは違うのに、オレの中のDom性は暴走してしまう。
     オレだけの類なのに――と、グレアが出そうになりそれだけはダメだと意識して無理矢理に抑えた反動と、元々抑制剤を過剰摂取してしまい体調不良が相まって一瞬時が止まった。僅か数秒だったと思うが、明らかに倒れる寸前のような疾走感や分かっていてもショーの途中。
     ドクドクと心臓は高鳴って興奮しているのに、体が冷めていく。じわりと冷や汗が滲んで目の前が眩む。
    「…………、っは」
     息が吸いづらい。
     次のセリフを言わなければいけないのに。
     寧々とえむの心配そうな視線をヒシヒシと感じる。演出の一環として理由付けのない静寂が長すぎるとトラブルかと客がざわめき出すのはいただけない。
     リピーターもいるが、それでもその出会いは一期一会。天候や同行者、それにショーをする役者のちょっとしたアドリブや台詞などの加減で同じショーは二度とない。
     倒れてしまうなんてのはショーの失敗、以ての外だ。
     それに、オレのことを気にかけてくれた、類が彩ったショーを台無しにしてしまう。信頼を裏切ってしまう。
     また、あの時のハロウィンのようなことはしたくない。
     火事場の馬鹿力でいい。心配はかけてしまうのは分かっているが、皆の笑顔を濁らせたくない。
     最後まで楽しい一日であって欲しいから。
     次のシーンは剣を投げ捨てる敵意がないと表明する行為だ。投げ捨てようとしたところ、剣の重さに引っ張られるように体がぐらついた。
    「は……?」
     不味いと思うまに、咄嗟にその剣をステージに突き刺し片膝をつくだけですんだ。魔王である類が跪くオレを見下ろし冷徹無比な表情を装っていたが、瞳は不安と困惑でグラグラと揺れていた。あれは今にも中止にしてしまいそうな気配を感じて、類に対して掌を見せて静止を願う。
     吸えるだけありったけの空気を吸い込んで、高らかに魔王を立てつつ挽回できるような台詞をアドリブで叫んだ。
    『……っ、すまないな! 久々に魔王と会ったものだから平和ボケしてしまったオレは武者震いをしてしまったみたいだ!』
     ズキズキと止まない頭痛に、耳鳴り。寒いのか暑いかの感覚も曖昧で剣を持つ手は震えてカタカタと剣を揺らす。
     バランスが取れずにふらつきそうになる足を叱咤するように叩き、魔王と手を取って未来を築くために気合いを入れた風を装って、地に足をつけた。
     ショーの終わりまで体力と気力を振り絞ったオレはそこからの記憶が曖昧だ。
     いや、呆然としてどこか泣きそうにしていたひとりぼっちだった魔王――類の顔を見て、笑顔にしたいのにオレはまた悲しませてしまったと後悔を背に深い闇に包まれた。
     

     
    「天馬くん……! 衣装が分厚かったから熱中症の可能性が高いわね……」
    「早く担架持ってこい!」
    「司くん! 司くん! あのね、あのねっ、司くんの勇者すごかったよ! それでね、それで……」
    「司なんでっ、アタシで……!」
     慌てふためくスタッフ。喧騒はどこか僕には現実離れしてみえた。
     なんとかショーは終わらせた。
     どんどんと曇る司くんの顔色に、急遽アドリブで司くんに合図を送って台本より紆余曲折のないあっさりとしたハッピーエンドに導いてカーテンコール。司くんも気合いで乗り切って舞台袖にはけてからが目まぐるしかった。
     裏方で待機していたぬいぐるみくん達が今にも崩れ落ちそうな司くんを担架に乗せて運んでいく。司くんは大丈夫だと起き上がろうとしていたが静止され何か呟いたあと目を閉じてしまった。
     ショーの衣装も着替えぬまま、寧々とえむくんは魔王にやられた勇者を助けるかのように飛び回り指示を聞いて動く。僕だけは何故か世界で一人取り残されたかのように動けなかった。勇者に倒された魔王のように蚊帳の外だ。
     覚悟を決めたはずなのに、起きてしまったことに急に怖くなってしまったみたいで、あのハロウィンの事故が過ぎって軽く頭痛がした。
     どのくらい経ったか、そっと気遣うような暖かい手が一つ。僕のことを安心させようと精一杯いつものように微笑んでいたが、無理をしているのは分かっていた。
    「……類くん、行こう? 司くんなら大丈夫!」
    「こんなときまで、僕は、」
    「ううん、類くんも司くんも悪くなんてないよ!」
     えむくんに導かれ救護室へ歩く。道中、咲希くんにもお願いされたのに、約束破ってしまったなと何も守れなかったと後悔が止まなかった。
     (ごめん、咲希くん僕は……。)
     本番のショーの前、司くんの妹の咲希くんから突然長いメッセージが送られてきたのだ。ここ数日休んでいた間のことは聞き出そうにも、話してくれそうになかったのでびっくりした。
    『るいさんこんにちは!』
    『すみません、えむちゃんから教えてもらいました!』
    『るいさんにお兄ちゃんのことで伝えなきゃって思って』
    『お兄ちゃん、アタシが気づいてないと思ってるんですけど、そんなことなくて、ここ数日ご飯食べてないんです』
    『お兄ちゃんはみんなとファミレスに行ったって言ってたけど、えむちゃんは最近は忙しくてそのまま解散することが多かったって』
    『お兄ちゃんが何を隠してるかはアタシも全部は分かりません。でも、るいさんなら、お兄ちゃんのことお願いできるって』
    『るいさん、お兄ちゃんのことよろしくお願いします』
     司くんは役を理解するために同じ心境に立てるよう、経験して役柄を吸収して演じる役者だ。似たような点を探し出したりするのもそうだけれども、自分の中に落とし込むために追い詰めることになる危険なことだと、もしするのであれば相談してほしいと声をかけたのに、僕は知らなかった。
     それに今回の勇者の役は、食事を抜くほどの役柄ではない。魔王まで救おうとする魔物すら平等に、救いになる彼は司くんに似ていたからハマり役だったはずだ。
     だから、嘘をついてまで食事をとれていないことを隠したのには訳がある。
     ――そう、それこそダイナミクスに関係するものだ。
    「……司くん、」
     救護室で点滴に繋がれた眠る司くんに触れる。いつもは温かい手のひらは氷のように冷たくて、いなくなってしまいそうで怖かった。メイクの下にうっすらと隈が見えて、なんで気づけなかったのだろうと涙がこぼれた。
     僕が泣いたって意味はないのに。司くんは僕が辛い時苦しい時気づいてくれてそばに居てくれていたのに僕は。
     あぁ、悔しい、寂しい。
     司くんはパートナーである自分に頼ってくれなかった。僕もショーの前に無理矢理にでも止められれば、司くんが倒れかけるほど追い詰められやしなかったのに。
     だから、僕はこの後悔をバネにして司くんに拒絶されたって何度でも思いを伝えるんだと決心した。
     1度セカイに行って、サーカステント内のステージを貸してもらえないかとカイトさんへ交渉する。魔王の衣装そのままで言ったから驚かれたけれど。司くんが倒れたことやダイナミクスのことは掻い摘んで頭を下げれば、そんなことしなくていいよと。
    「司くんの類くんが2人とも笑顔になれることを祈っているよ」
     カイトさんは笑顔で了承してくれたけれどどこか元気はなく、セカイもこの前来た時よりも音がなくて寂しげになっていた。
    「はい、僕司くんのせいで欲張りになったので2人で、ちゃんと話し合って幸せになるんです」
    「司くんもびっくりするんじゃないかなぁ」
    「僕も司くんもあまり言葉にしてこなかった分、僕も自分に疎かったから拗れてしまった縁を結び直して司くんに想いをぜんぶ打ち明けるんですから」
     だってこれからするのはあの日の、リバイバルみたいなものだ。
     ショウタイムの始まりだ。
     演者は神代類一人、観客は天馬司。
     ぶっつけ本番のやり直しのきかないゲリラショー。
    「僕は、何度だって君の隣に立つために足掻くから君も――、」
     一番星、いや僕から逃げようとする流れ星の君を捕まえにいくんだ。



     海の深い底で漂っていれば海面から誰かが呼んでいる、いや泣いている声がして笑わせてやらねばと思い泳いで上がれば眩しい日差しが目を焼き、眩しさに慣れた頃目を開ければ、見慣れた場所だった。
     フェニックスワンダーランドの救護室。
     目線だけ動かし繋がれた点滴と、手の温かみを辿れば魔王の衣装を着たままの類が握りしめて寝ている。
     ぼんやりとあのショーの終わり、意識が途切れる前の出来事を思い出し、結末を変えさせてしまったこと、皆に結局迷惑をかける事態になったことに胸が痛い。
    「……ん、んぅ」
    「類?」
    「あ、れつかさ、くん……? 司くん!?」
     オレが目覚めて動いたことで衣装の甲冑の音が鳴り、類が身じろぎして、目が合った途端に抱きしめられた。
    「る、類!? どうしたんだ!?」
    「どうしたもこうしたもないよ! 司くん本当に心配したんだよ!!」
    「すまなかった、類。ショーも中途半端にしてしまった」
    「司くんはあの中でも全力で持ちうる限りの力で演じてくれていたから、僕が最後までハッピーエンドに導いただけだよ」
     本当に類に助けられてばかりだ。そんな類を、皆が笑顔になれる垣根をこえたショーを夢に思い描く彼を独り占めしてはいけないと分かっているのに。
     もう潮時だろう。倒れてしまったのだ。類にだってこんなパートナーは負担がかかる。2人で未来を歩めたら良かったが限界なんだ。
     類とパートナーになれて幸せだった。類にはオレ以上に最高のパートナーがいる。胸が引き裂かれそうな思いだが、病院に向かって打ち明けなければ。
    「……あのな、類オレ――」
    「司くん」
     そっと類はオレの背から手を離して、手のひらざ重ねてきた。
    「僕はね、ハッピーエンドが好きなんだ。誰かがバットエンドにならない話が」
    「類……?」
     痛いくらいに知っている。
     この魔王と勇者のショーだってそんな想いをみんなで共有して悪役も関係ないハッピーエンドへ導こうと提案した物語だから。
    「僕はね、司くんと一緒に幸せになりたい」
    「……は」
    「司くん、『これが僕の思い』だよ!」
     目の前にかざされたのは類のスマホで、キラキラチカチカとプリズムが散り、馴染みのあるオレ達の曲に包まれた。


     オレはセカイで見慣れたステージを見渡せる観客席に腰を下ろしていた。ブザーが鳴り響き辺りが暗転する。
     パッとスポットライトが照らす先には、ワンダーランズ×ショウタイムでの衣装を身にまとった類がいた。キラキラと星々のライティングが綺麗だ。
    『僕は一人魔力を持たない子供だった。僕が住む星降る街では、魔力を使っての生活が当たり前で、稀に魔力を持たない子がいた。魔力を持つ子供たちが差別なく話しかけてくれるが、同じ人は誰もおらず、ひとりぼっち』
     ミクやリン、レンがどこからともなく現れて、ポンッと手のひらに花を生み出したり、ぬいぐるみを動かし、動物の言葉を話して魔法を使い消えてゆく。
     類は180cmながらも普段より猫背を酷くして、ぼそぼそとしんどそうに話し悲しそうな顔をしている小さな少年に見えていた。
    『魔法が使えない僕は、ものづくりが得意で一人ロボットを作って魔法の代わりにしていた』
     寧々ロボが現れて少年と話すがどこか寂しそうだ。
    『そんな時、僕の家の裏にお星様が一つ落ちたんだ!』
     ピカッ!と辺りが瞬いた次には、家の裏側に星の輝きを纏ったカイトが立っていた。
    『初めまして、君の願いに答えに来たよ!』
    『僕の願い……? 僕に願いなんてないよ……』
    『じゃあ一緒に探そう!』
    『わぁっ!!』
     類はカイトに手を引かれて場面が変わる。
     スポットライトだけだったステージが一転。バーチャルシンガーやぬいぐるみ達が動いている街並みに早変わり。
     ワクワクするショーで、続きが気になるのに、類の最高の演出に答えると宣言したのにオレはあのステージにはいない。ズキズキと痛む胸に、横暴だなと嘆息して類がショーで何を伝えたいか探る。
     特に今オレが倒れてしまったことと、先日のプレイのことがあるから尚更に。
    『少年は魔法が使えないことで上手く人と渡り合えず、時折買い物くらいで山奥に引き篭っていたからか、星の青年と回る街並みは新鮮で新しい発見が多かったのです』
     カイトは類を引き連れて街を回る。
    『願いが分からない少年は星の青年と街で探して、魔法はないけれど機械は作れると、どんどんと人の輪が大きくなっていきました。少年が諦めたものが手に入ったのです』
     場面が変わって次は星々が光る夜。魔法がないから焚き火を囲むカイトと類だ。
    『僕、星の貴方に会えて良かった。貴方と会えたから僕はこんなに幸せで、世界が彩りに溢れて綺麗なんだ』
    『ううん、これは君の力だよ。僕は君のことをお手伝いしているだけさ』
     類の周りにはミクやレンリンと友達が増えていく。
    『僕は友達が増えて嬉しいはずなのに、星の君と話す時間が少なくなって、寂しく感じていたし、いつも彼は自分のことを話してくれなくて自分だけが彼を思っているのだと感じてしまった』
     パートナーになってから、オレは類と本音で話せていない。類を傷つけたくない、己のエゴで嘘で塗り固めていた。類はそれを苦しく寂しく思っていたのだろうか。
    『そして、僕は彼といると心がとても温かくなり安心することに気づいた』
     カイトがキラキラと星のようにまた光り輝いて眩しい。あぁ、オレと一緒だ。オレが類を愛おしく思い、笑っている姿を見ると嬉しくて、光り輝いて特別に見える。
    「……類も同じなのか?」
    『その感情は僕が知りたくてもよく分からなかった。彼のそばにいれば、あの一番星のそばにいれば高鳴る胸の鼓動は嬉しいからだと気づいたけれど、分からなかった』
     ルカやメイコに類が聞いているけれど、首を振って笑って去ってゆく。
    『誰かにそのことを聞いてしまうのは違う気がして、一応聞いてみたけれど教えてはくれなかった。それに彼に直接聞くのも違う気がした』
     悩む類の前にカイトが現れて手を取って笑いかけた。
    『君はもう僕がいなくても大丈夫だよ』
    『ま、待って! 行かないで!』
     星空の浮かぶステージの上。2人に当たっていたスポットライトはカイトの方だけキラキラと紙吹雪が舞い、神隠しにあったかのように消え去ってしまったのだ。
    『彼は僕に手を伸ばしてくれた。街で一人だった僕に。彼は僕の目の前から忽然と姿を消してしまったんだ』
     類の慟哭が暗闇から聞こえる。
     オレは同じことを類にしようとしていたから、類が演じる役から伝わる悲しみと苦しみと後悔にやるせない気持ちになった。
    『消えた星の彼を探し回っても見つからない。流れ星の落ちた先にたまたまいた同じ人だと思っていた。でも僕の住む街が、星降る街と言われていたのは本当に流れ星が願いを叶えるためにそばにいてくれる逸話があったからだ』
     サーカステントを見上げれば流れ星がどんどんと流れ、ミクやリンの傍にも落ちて望んだ願いの形を取っていく。
    『僕は孤独だと思っていたけれど、彼のおかげで街の人々が歩み寄ろうとしてくれていたこと、優しかったことに気づけた。拒んでいたのは僕だった。殻にとじこもり何も知らなかった僕』
     1度星空が消えて暗転、現れた類はハットを被りリュックを背負って山登りに行くかのように見えた。
    『僕は、一人で村の人々の反対を押し切って彼を探しに出る旅に出ることにした。行く宛てのない、無謀な旅だ』
     類の目に映るのは覚悟だけだった。
    『でも、僕は彼を絶対に見つけることを誓った。だってその一番星の輝きの彼を導くのは誰もいないから。だから、一緒にそばにいて歩いてくれる人が必要だって、辛いことや苦しいことがあっても一人じゃないように。彼が教えてくれたことを返すだけ』
     一歩。
    『幼なじみや、街の人、旅で出会った人にこの話をした。突拍子もないことで、信じてくれなかったり信じたとしても何故そこまでするのかと問われた』
     また一歩。
    『君の願いはその様子なら叶って、だから星だった彼は役目を終えて帰ったのだろう?と』
     類が近づいてくる。
    『僕はいつもこう返すんだ。まだ願い事は叶ってないんだと。一番大切なところが抜けてる。彼らしい』
     オレは客席に座って類から逃げられない。
    『僕の願いはきっと、僕を見つけてくれる誰かがいて欲しいだった。そしてその人と一緒に笑っていたい』
     オレにとっての流れ星は、類だ。こんなに熱烈に思ってそばにいてくれていたのは類だけだ。
     でも流れ星は流れて、手を伸ばしても掴めないんだ。届きそうで届かないもどかしさ。このステージと客席の距離のよう。
     類が近いようで、遠い。
     類との雁字搦めになった縁を手放そうとしたのはオレなのに。
    『僕は大好きな彼といつまでも一緒にいたいから、流れ星の彼にまた出会うために歩くんだ』
     パッと消えていたサーカステント内の照明がつく。そうしてステージにはただ一人。ショーに参加していたバーチャルシンガーは誰もいない。
    「…………ねぇ、司くん」
     類が舞台から手を伸ばすのはオレだった。
     今のショーは主人公は類だとして、手を差し伸べて救ってくれた一番星はオレだったのだろう。カイトは代役を頼まれていた。オレも覚えがある。だってこれはオレが類を連れ戻そうとしてショーと同じだから。
     でもオレは類にそんな大層なことはしていないんだ。
    「僕はね、ずっと待っていたんだ。僕を見つけてくれる誰かを」
     オレは手を取れない。
    「僕を見つけてくれたのは司くんだった。ワンダーランズ×ショウタイムが解散しかけた時もこうやって、ショーをしてまた手を伸ばしてくれた」
     でも類の覚悟の決まった瞳が、逃がしてくれない。
    「司くんが、ショー最中に倒れたことが怖かった。僕は分かっていたはずなのに止められなかった。ショーのためなら命を削ってしまえそうな君が」
     泣きそうに歪められた顔、泣いていたとしても涙をぬぐってあげるのもオレは相応しくない。どれだけオレは類を苦しめればすむのだろうか。
    「……違う、類あれはオレのせいだ。ショーは関係ないんだ、オレが」
    「Domの欲求が解消できなくて体調不良だったからだろう?」
    「……ちがう」
     あぁ、だから嫌だった。ダイナミクスなんて、自分が努力して築き上げてきたショーも、人間関係も壊してしまう。
    「嘘だ、抑制剤を強いものにして、食事も喉が通らないほどに追い詰められていたのに?」
    「……っ、なんで知って、いるんだ」
     抑制剤のこと、体調不良で休んでいた時のことを何故か類は知っていた。類に知れれば心配されるにきまってる。自分がオレの欲求に答えられないからだと悔やんで、苦しむ。
     だから、隠したんだ。
     なのに、どうしてこうも上手くいかない。
    「司くんのバカ、君はバカだよっ……!」
     顔をぐしゃぐしゃに歪めた類がステージを飛び降りて、観客席にいたオレの元へくる。足が床に張り付いたように動かないオレの隣で冷えきって震える手を取った。サーカステントに流れる音楽は終わってしまった。聞こえるのはお互いの鼓動と荒い息遣いだけ。
    「僕に遠慮するなって言ったのは司くんだよ。ダイナミクスは、信頼関係からなる心の繋がりで、僕は君の心を深くまで知りたい! 共有したいと欲張りにも思ってしまった」 
    「それは、オレが類のそばにいたDomだから、そう思ってしまっただけだ! オレが、類を縛ってしまった!」
     相性が良かっただけなんだ。きっと類にはオレ以上によいパートナーがいる。最初から間違っていた。類とパートナーにならない方が類はきっと幸せだった。
     そう何度だって思ってきたのに。手放そうとして手放せない。目の前にいる類を組み敷けばいい。コマンドで従わせれば思い通りだ――頭の中で訴えてくる。
    「僕はっ! 司くんにパートナーになって欲しいと言った時にも告げたはずだ! DomだからSubだから関係なしに司くんだからっ、」
    「類は! オレじゃなくたって大丈夫だ!!」
     観客席から立ち上がりオレは叫んだ。拒絶はSubにとって毒だ。それじゃなくても拒絶されて嬉しいことなんてない。
     類は一瞬たじろいだが声を張り上げて苦しそうに言い放つ。
    「っ、司くんの言う通り大丈夫かもしれないよ。それでも、僕の手を取ってくれたのは司くんだ!! 誰彼構わずパートナーになってくれなんて言わない!」
     一度振り払ってしまった手を類が痛いくらいに握ってきた。
    「あのとき、サブドロップしたときに助けてくれた、暗闇の中手を差し伸べてくれた司くんがいい」
     眼差しは揺るがない。どうして類は諦めないんだ。
    「は、ははっ。類はオレのことを聖人君子だとか何か勘違いしてるんじゃないか? 本当のオレはそんな優しいものじゃない」
    「……ぅ、わ!」
     類の手を引いて、観客席に類を押し倒す。突然のことにぼんやりとオレを見上げる類に嗜虐心が沸く。何も知らないような類に、噛み付くようにキスをして、類の尊厳をめちゃくちゃにしてしまえる距離だ。オレも類も男だからこそ、そういう関係にならないと安心される距離感。
     類からの信頼を今からオレは裏切るのだ。
    「オレは! 本当は!」
     押し倒しているのに逃げない類に歯噛みしながら吐き出した。
    「類をオレだけのものにしたいと思っている。組み敷いて従わせたい、自由を奪ってしまう欲求だ! 何度も何度も何度も思ってしまう! オレだけしか見ないで欲しいと、オレだけが類のことを分かればいいんだって、独占欲と支配欲でごちゃごちゃなんだ」
    「……っん、つかさく、」
     欲求と黒く澱んだ類への愛がおかしくする。
     類が弱いであろうピアスをしている右耳たぶに触れ耳孔に指先を入れて擽れば類は身悶え、喉をそらせて耐えていた。類がオレの手で良いようにされていることにゾクゾクと満たされる心と、冷静な自分が欲求をぶつけることでしか愛を確認できないんだなと嘲笑っていた。
     優しくしたいのに、相反する感情が邪魔をする。
    「類を傷つけたくない、類を笑顔にしたいのに、オレは類を閉じ込めたくてたまらないっ」
     消えない痕を、恐怖を刻み込んでしまおうと喉仏を噛み付こうとしてなんとかすんでのところで耐え、類から離れて吐き捨てるように言い放った。
    「だからオレは、類のパートナーには相応しくない。欲張りにももっとと求めて類をいつか、壊してしまうっ……!」
     上気する肌、滲む涙に、濡れる唇。その全てが扇情的で興奮して、満たされてしまう自分が嫌になる。
     なんとか呼吸を落ち着かせ、類の上から退こうとすれば、類の指が頬をなぞったと思えば、何故かだきしめられていた。
    「司くん」
     優しげに脳を揺らすテノールは強ばっていた力を抜くのには十分だった。
    「ごめんね、君にそんな酷いことを試すようなことをさせてしまって。今されたことも嫌じゃなかった。……あのね、僕は君に支配されたっていいと思ってる。司くんは僕に嫌なことなんてしないから、したいこと言ってほしい。叶えたい。僕がぜんぶ時間をかけてでもしてあげたいとしか思えないんだ。こんなに思ってくれているなんて幸せ以外ないんだから」
     類はオレの頭を撫でながら、耳元に口を寄せてどこか嬉しそうに話す。
    「司くんは、優しいよ。僕のこと大切にしてくれてるからこんなに苦しんでるんだろう? 僕そんなにやわじゃないし、嫌なことは嫌っていうよ。それが司くんと僕のためだから。そのためにセーフワードだってある」
     類の抱きしめる力は弱い、オレを止めようと思っての力じゃない。けれども類を拒む力は湧いてこなかった。
    「僕は司くんが誰かの手を取って新しくパートナーを作るのは見たくない。それとね僕だって、DomやSubなんて関係なく、司くんの特別が欲しいんだよ」
    「……類でもオレは、」
    「司くんの言葉は、パートナー以前に僕のこと好きだから傷つけたくないって聞こえるんだ。不思議だよね」
    「……っ、」
     隠そうとしても隠しきれていなかったみたいだ。否定することは、類への想いをなかったことにするようでできなくて黙ってしまえば、顔を上げた類は眉を下げて泣きそうに笑っていた。

    「司くん、僕はね君が好き、なんだ。誰にも君の心をゆずりたくない」

    「は、好きって、類どういう」
    「一生一緒に添い遂げたい意味の好きだよ。君に愛されたい」
    「好き、類がオレを……?」
     信じられない。類がオレを好きだなんて。
     類に好かれている自覚はあったが、それも友人としてだ。何かをするにも距離が近かったり、オレの名前をよく呼んで嬉しそうにする類。パートナーになる以前から甘えてくる類に、撫でられるのが好きだと話した甘い声色。
     そんな顔や、声、仕草なんなも他の人にしていたかと言われるとオレ限定だったような。
    「僕はね、司くんの全部が欲しい」
     頬を掴まれたと思えば、唇に触れる熱。少しかさついているけれど、温もりが伝わって一緒にふわりと類のオイルの匂いと制汗剤が混ざった匂いが鼻腔を擽った。
     驚いて見上げた先、ほのかに赤く染った類の頬。全身の血液が巡り体が熱くなる。Domのやるせない欲求からの興奮からは違った、純粋な好意で身体は歓喜していた。
    「類、今、お前キスして、」
    「……これでわかっただろう! 僕の好きが! 僕の心をあずけていいと思えるのは、司くんだけなんだ。きっと、パートナーになる前から司くんのことが好きだった。だから君が良かったんだ」
     類の頬を伝ってオレの顔に涙がこぼれ落ちてくる。
    「君に傷つけられたっていい。司くんと苦しいのも辛いのも一緒に乗り越えていきたい。嬉しいことは共有して一緒に笑っていたいんだ」
     また、泣かせてしまったな。
    「だからね、司くんは自分のことを許してあげてほしいな。その欲求も僕が全部愛してあげたいから。僕は君のせいで欲張りになったんだよ」
     類をこんな風にしてしまったオレは覚悟を決めて責任を取らなければいけない。
    「るい、」
    「うん、なんだい? 司くん」
    「オレも好きだ、類のことが好きなんだ」
    「うん、うんっ、うれしい、うれ、しぃ、つかさくん、つかさくんっ……!」
     類はどれだけ好きさせればいいんだろうか。愛おしい類を独占してしまいたい気持ちはあれど、満たされない思いは不思議とない。
     類からの言葉がオレが求めていた足りないもの、満たされないものの答えだったんだ。
     類が好きで好きだから、類が幸せになるためには想いを告げるべきではないと思っていた。だけれどもパートナーとしてはそばにいれると、中途半端に願いが叶ってしまったから、類を好きなのに満たされなくて欲求がごちゃごちゃになっていたんだ。
    「ほら、泣くなもう離さないからな、類」
    「手を取ってもらえないんじゃないかって、緊張して不安だったんだよ、司くんがいなくなる、離れて行ってしまうって!」
    「すまなかった、一生償うから許してくれないか? 類そんなに泣いたら目がとけてしまうぞ?」
    「僕怒ってないよ、償いなんかじゃなくて、ずっとそばにいてくれるだけで嬉しいよ。ふふふっ、司くんだって、泣いてるじゃないかっ……」
    「嬉し涙だ、スターだって泣く時はあるっ」
    「ふふ、じゃあ僕が一番君のとなりで泣く姿を見られるんだね」
    「ぐっ、オレはそんなに涙脆くはないぞ!」
    「あははっ! うん、それでこそ司くんだ」
     オレも類も泣いてるのに、笑っている。
     類はオレと出会って世界が変わったと言っていた。オレだって類に出会って世界がより輝いて見えるようになったんだ。全てが新鮮で、何気ないことも楽しくて嬉しくて、共有したいと思った。
     一度オレは類を手放しかけた。ダイナミクスで傷をつけてしまわないようにと。でも類はそんなオレもオレだと手を伸ばしてくれた。
    「類」
    「司くん」
    「好きだ、愛してる!」
    「ふふ、嬉しいな。最高のハッピーエンドだね」
    「いや、これからまだ類には幸せがいっぱい降ってくるぞ! オレと一緒にいるからには一生笑わせてやるからな!」
    「望むところだよ司くん、僕だって君への好きをいっぱい形にするんだから」
    「……それより、類」
    「ん?」
    「先程のショー、オレと一緒にやらないか……?」
    「……あはは! ふふっ、はは!」
    「な、なんだ類!」
    「いや、ふふ、それでこそショーバカと言われるだけあるなって、お似合いすぎないかい僕ら? だってね、僕も司くんと演じたいって思ってたから!」
     
     
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