風と手拭いその日は朝から風が強かった。
非番だった蜂須賀は、朝起きてから昼前までは厨番の簡単な手伝いや読み物等をしてのんびりと過ごした。
昼食後、腹ごなしに本丸内をぶらぶらと歩いていたら道場で手合せをしていた何振りかの刀達が声を掛けてくれ、少しだけ鍛錬に混ぜてもらった。
着替えもなかったので着物のまま軽く竹刀を振るっただけだったが、これがなかなか良い気分転換になった。
(いつもの戦闘服の時と同じとはいかないが、この着物でも戦おうと思えばそれなりに動けるものだ。いざという時のため、覚えておこう。)
思いがけず充実した時間を過ごせた蜂須賀は仲間たちに礼を言って道場を後にした。水場で軽く顔を洗い、手拭いを片手に外廊下をゆっくりと歩き、自室に戻ろうとした。
──それにしても、今日は本当に風が強い。
風がビュウと吹くたびに庭の木々がガサガサと大きく揺れ、本丸中の襖や雨戸がガタガタと音を立てて震えている。廊下の床板から足裏にビリビリとした振動が伝わってくるほどだ。
遠くからわあわあという賑やかな声が聞こえて、蜂須賀はふと足を止める。
どうやら、今日の出陣部隊が無事戻ってきたようだ。あの和やかな気配からすると、大きな怪我をした刀はいないのだろう。良かった。
仲間の帰還にホッと胸を撫で下ろしたその瞬間、一際強い風が蜂須賀目がけて吹き荒れた。
(──ッ!)
咄嗟に顔を庇うように両腕を前に出し、目に砂が入るのを危惧してぎゅうと目を瞑る。その刹那、
──ビュウッ
腕に軽く掛けていた手拭いが、風に煽られてふわっと宙へ舞った。
「あっ…!」
すぐに腕を空に伸ばすが、あと一歩のところで届かない。天高く舞い上がった手拭いは、そのまま庭の奥手へ向かってひらひらと飛んでいってしまった。
「困ったな…」
蜂須賀は突然の出来事に一瞬呆然として、手拭いが飛び去った方向を見つめていた。風はまだ止まず、ビュウビュウと大きな音を立てながら蜂須賀の頬を乱暴に撫でていく。風に散らされた木の葉が、先ほどの手拭いのように宙を舞って飛んでいくのを目にした蜂須賀は、ふう、と一つ息を吐いて再び廊下を歩き出した。
──このまま立ち尽くしていても仕方がない。探しに行かなくては。
もう少し行けば、沓脱石のところに共用の履物があるはずだ。
足早に歩いて目的の場所へ辿り着いた蜂須賀だが、沓脱石の上には何もない。いつも置いてあるつっかけが無くなっている。
間の悪いことに、他の誰かが庭に出ているようだ。
(仕方がない。少し時間はかかるが、玄関まで行って自分の草履を取って来よう)
蜂須賀が回れ右をして来た道を引き返そうとすると、
「どうした?」
聞き慣れた──今はあまり聞きたくはなかった低い声が、蜂須賀の名を呼んだ。
「長曽祢…」
反射的に発した声には、つい苛立ちの音が乗ってしまった。贋作を目の前にした際のこれは悪い癖のようなもので、蜂須賀自身にもどうしようもなかった。長曽祢もそれを重々わかっているようで、彼の冷たい態度に気分を害した様子はなかった。
そんな長曽祢の鷹揚な態度が、更に蜂須賀を苛立たさせる要因でもあるのだが、それも長曽祢自身の性分によるものなので、やはり当人たちにはどうしようもない。
「何かあったか」
「別に、大したことではない。庭へ出ようとしたら履物が無かったから、取りに行こうかと」
「今から外へ行くのか?もうじき日が暮れるぞ」
「少し庭に出るだけです」
「どうしても今行くのか?明日では駄目なのか」
「しつこいな。あなたに関係ないだろう」
「……蜂須賀」
わざとつっけんどんな態度で会話を終わらせようとした蜂須賀だったが、咎めるような声色で短くこちらの名前を呼ばれると、たったそれだけで何故かそれ以上食って掛かる気が失せてしまう。……本当に嫌な男だと思った。
「……風で手拭いが飛ばされたから、探しに行くんだ。明日まで待てない」
蜂須賀が素直に話すと、長曽祢はそうか、と短く頷いた。蜂須賀の行動の理由を理解し、納得したようだった。
「そうか。それなら早く探さねばならんな」
「わかってくれたなら結構。では、俺は急いでいるので」
早々に会話を終わらせた蜂須賀が足早にその場を去ろうとすると、背中から声を掛けられた。
「待て」
「…まだ何か?」
いよいよ苛々してきた蜂須賀が怒気を隠さずに振り返ると、思いの外至近距離に長曽祢が立っていた。え、と蜂須賀が驚いた瞬間、目の前にずい、と長曽祢の太い腕が伸びてきた。
「このほうが早い」
「えっ!うわ…っ!」
突然のことに反応出来ないでいた蜂須賀は、あっという間に長曽祢の腕に捕まり、そのまま横抱きに持ち上げられていた。裏腿と背中に回されたたくましい腕が、がっしりとその肢体を支えている。
「な…っなに…っ!一体何の真似だ!」
「おれも一緒に探そう。手伝うぞ」
「必要ない!いいから降ろせ!」
「手拭いが風で高く飛んだなら、木の上に引っかかっている可能性が高い。それなら、こうして高いところから見たほうが探しやすいだろう」
じたばたと藻掻く蜂須賀を難なく抱き上げる長曽祢は、涼しい顔で己の行動の正当性をそれらしく語ってみせる。そう言われても、蜂須賀にはこの男にいきなりこんなことをされる意味がわからない。
「いや、やはりこれはおかしい……っ」
「ほら、動くぞ。しっかり掴まっていろ」
「わっ……!おい、あまり揺らすな!」
「あまり暴れると落ちるぞ?」
「こら!話を聞け!」
わあわあと騒ぐ蜂須賀の動揺を意に介す様子もない長曽祢は、蜂須賀の身体をしっかりと抱きかかえたまま庭の林の中へずんずんと入っていく。長曽祢の腕から逃れようと藻掻いた拍子に上半身がぐらりと揺れて、とっさにその首に腕を回してその身体にしがみついてしまった。
蜂須賀がしっかりと掴まっているのを見て、長曽祢はよし、と満足そうに笑う。
──気配が近過ぎる……!
心臓がバクバクと脈打ち、顔がカッと燃えるように熱い。恥ずかし過ぎて、このまま消えてしまいたいくらいだった。
蜂須賀は一刻も早くこの状況を脱したい一心で、自分の手拭いを探すのに集中することにした。庭のをゆっくりと歩く長曽祢の腕の中で、早く見つかれ!と半ば祈るような気持ちで生い茂る木々の合間を睨みつけるように見上げる。
****
「あった……」
その数分後、庭の奥手に生えた高い松の木の枝に引っかかった手拭いが見つかった。
……本当に木の上に引っかかっているなんて。長曽祢の言う通りになっていたのが、なんとなく癪だ。
目的の物が見つかったのにもかかわらず機嫌が悪そうな様子の蜂須賀に軽く苦笑しながら、長曽祢は枝の先に引っかかった手拭いを見上げてあれか、と小さく声を上げた。
「このまま持ち上げるぞ。取れそうか?」
「あ、ああ……」
木の側まで近付いた長曽祢は一言声をかけてから、蜂須賀の身体をそのまま真っ直ぐ上に持ち上げる。
風にゆらゆらとはためく手拭いは下手をするとまたどこかへ飛んでいってしまいそうだったが、長曽祢が蜂須賀の身体をまた一段高くひょいと持ち上げてくれたおかげで、無事手繰り寄せることが出来た。
「見つかって良かった。では戻るぞ」
「……ええ」
それにしても随分高いところに飛ばされたものだ。確かにこれは、ひとりで探すのは骨が折れたかもしれない。長曽祢が通りがかってくれて、正直なところ助かった。
蜂須賀は素直にそう思ったが、それを長曽祢にそのまま伝える気にはなれなかった。
恥ずかしいし、情けない。
時間としてはほんの十分にも満たない間だったかもしれないが、それでも本丸の広い庭の中を男一人抱き上げたまま歩いているはずなのに、息も切らさず平然としているこの男に腹が立ったのもある。
蜂須賀は貝のように口を閉じて黙り込んだまま、長曽祢の腕に大人しく抱かれ本丸の廊下まで送り届けられた。
「ではまた夕餉でな。おれも部屋に戻る」
「え、はい……あ!」
蜂須賀を廊下の板の間へそっと下ろすと、長曽祢はそのままあっさりとその場を離れていってしまう。蜂須賀はとっさにその背中に声をかけた。ゆるりと振り向いた長曽祢をジッと睨みつけるように見つめながら、小さく口を開く。
「あの、その。あ……ありがとう」
形の良い眉をつり上げながらたどたどしく礼を言う蜂須賀に長曽祢はふにゃりと笑って、気にするな、と優しく言いながら今度こそこの場を後にした。長曽祢の広い背中が廊下の角を曲がって完全に見えなくなると、やっと肩の力が抜けた。
「……疲れた」
少し前まで充実した休日を過ごしていたはずなのに、この数分でドッと疲れが溜まってしまったようだった。
****
回収した手拭いを洗濯室に出して自室に戻ると、もう夕餉の時間になっていた。
先ほどの騒動のすぐ後に長曽祢の顔を合わせるのは気まずいという気持ちはあったが、食事を抜くような真似をすれば皆に心配をかけてしまう。なんとも重い足取りで食堂へと向かった。
食堂に着くと、もうほとんどの刀が膳の前に座って食事を始めていた。
蜂須賀が食事の乗った盆を手に辺りを見回していると、蜂須賀の存在に気付いた加州がこっちこっちと手招きをしてくれる。
誘われるままに加州の隣に座ると、向かいに座った歌仙と山姥切にも目線だけで挨拶をした。
二振りも軽く微笑んで、和やかな雰囲気の中で食事が始まった。
数メートル離れた先の席に座って食事している長曽祢の方は、意識して見ないようにしていた。
今日の任務の成果や万屋街に出来た新しい店の噂など、取り留めのない話に花を咲かせていた時、突然長曽祢が座っている席の方からワッと一際大きな声が響いた。
何事だ、と他の刀達が一斉に視線をそちらに遣ったのに釣られて、蜂須賀もつい長曽祢のいる方を見た。
長曽祢が、その両隣に座った陸奥守と和泉守に何やらやいやいとちょっかいをかけられているようだった。
「おんし、ようやったのう!」
「ヨッ!色男!まったく隅に置けないねえ!」
がはは、と大きな口を開けて笑う陸奥守と、ひどく機嫌の良い様子で長曽祢の背中をバシバシと乱暴に何度も叩く和泉守に挟まれた長曽祢はやけに小さく縮こまっているようだった。
自分達が周りの注目を集めていることにあまり気付いていない様子の彼らは、また大きな声を上げる。
「いやあ〜おんしらが仲良うなって、げにまっこと嬉しいぜよ!」
「あんなべったりくっついて何事かと思ったけどよ、ワケを聞いて納得したぜ」
優しいとこあるじゃねえか!
ほにほに!これでちっくとは惚れ直いてくれたらえいのう!
ワイワイと盛り上がる二振りに反して、長曽祢は背中を丸めて俯いたまま黙っている。
ちらりと見えたその横顔は遠目から見ても解るほどに真っ赤に染まっていた。
彼らに視線を向けていた他の仲間たちはすぐにその会話内容に興味を失ったのか、再びそれぞれの食事へと戻っていった。
ざわざわと普段と変わらない賑わいを取り戻した食堂内で、長曽祢と蜂須賀だけが顔を真っ赤にして俯いていた。
「……蜂須賀、あー…その、ドンマイ?」
加州から労りの言葉をかけられて、蜂須賀はますます顔を上げることが出来なくなる。
この口ぶりからして、加州もあれを見ていたのだろうか?もしかすると、他の仲間にも……?
加州の声掛けに返事も返せないまま、蜂須賀は
食事の間中ずっと俯いていることしか出来なかった。
同じように俯いたまま掻き込むようにして膳を空にした長曽祢がニヤニヤと冷やかしてくる仲間から逃げようとそそくさ食堂を出て行くのをちらと見て、その立ち去っていく背中に心の中で呪詛を吐く。
(そんなに恥ずかしがるくらいなら、最初からあんな真似するな!この贋作!)
あんなに強く吹いていた風は、夕餉が終わる頃にはすっかり止んでいた。