冬服を買いに行こう!(ミレ霧) 水色のキャミソール、穴の空いてしまった白いパーカー、デニムのノースリーブワンピース。
「霧香、あんたってほんとに冬服持ってないわけ?」
クローゼットに頭を突っ込んでミレイユは話す。ん、といって霧香はちょっとだれてしまったピンクのニットとクリーム色のニットをミレイユの前に突き出した。
「これ以外は?」
そうミレイユが詰めると霧香はさながらしょんぼりした子犬のようになって、だめ……?というふうに上目遣いで見つめてくる。ミレイユはこの目に弱い。
「……駄目!駄目よ!」
霧香に、というよりかは自分自身への叫びだった。一昨日、霧香の冬服がないんじゃないかというのに気がついたミレイユにより提案されたお買い物。霧香はどうやら寒いのがあんまり好きじゃないらしく、それから今日までやだやだと渋っている。こんなにかわいくおねだりされると、どうせ家から出たくないだけなのだけれど、もしかしたらあたしと家でいちゃいちゃしたいのかなとか、今日はそういう気分なのかなとか考えてしまって、耳の端が熱くなってくる。頬まで真っ赤になる前に慌てて妄想をかき消した。
「やっぱり、今日買いに行くわよ」
勝手に自分で妄想しておいてちょっぴりお怒りモードのミレイユにきっぱり言われた霧香。心做しかミレイユにはふわふわの白い尻尾がしゅんとしているように見える。いけない、襲ってしまいそう。セーターを無理やり被せ、厚手のタイツを履かせ、デニムのスカートを着せる。上からグレーのコートを羽織らせれば、あっ、あたしの霧香がこんなにかわいい。
今年一番の寒さにパリの街もすっかりやられてしまったようで、親子連れや道端で遊ぶ子供達は見当たらない。いるのは老夫婦と、露天商と、お熱い愛を育んでいるカップルだけ。誰もがきつく手を繋ぎ、よく見れば抱き合っているカップルもちらほら見える。霧香の手もかなり寒そうで、クローゼットに眠る小さくなっちゃった手袋、出してあげればよかったなぁと後悔する。あたしの手袋、貸したげよっかな……、と手元をさするミレイユ。その時、左手に柔らかな感覚。
「えっ?!」
「違う?」
違わない。全然違わないわ、霧香。手袋がどうだのごちゃごちゃ言ってたけれど、要するに霧香と、あのカップルみたいに手をつなぎたかったのだ。霧香はこういうところで、たまに大胆だ。
「それじゃあ、こっちの手袋取ってよ。それであんたの左手につけなさい」
ミレイユがひらひら左手を動かすと、霧香は手袋を外して、いや、外そうとして、俯いて、だんだん歩みがゆっくりになって、やがて止まった。
「何、外せないの?」
普段超人的な動きで銃を操っているようにはとても思えないほどおぼつかない手つきだった。少し震えているようにも見える。かじかんでいるのだろうか。
「ちょっと貸して」
ミレイユの手はお高めの手袋に包まれていたものだからとても温かい。霧香がひどく苦戦していた手袋をすぐに外して、さらに霧香の左手に被せる。
「ありがと、ミレイユ」
それから、どちらから出るでもなく、二人は自然にぎゅっと手を繋ぎなおした。霧香の手は氷のように冷たくて、ミレイユの手はぬくぬく温かい。凍った霧香の手を溶かすようにぎゅうぎゅう握ると、霧香のふっくらした頬が薄い赤に染まった。
ミレイユはデパートに入ったお店よりも街の個人店を好む傾向にある、というのが霧香の最近の発見だった。素性を知られたものは殺さざるをえないと言っていたけれど、多分本当はこうして人と仲良くなるのが好きなんだろうな、とミレイユがリンゴやらパンやらをおまけされる度に思う。
「ほら、これは?」
「いいわね、それなら青の方も似合うんじゃない?」
霧香がミレイユのことをぼんやり考えている間に、ミレイユはそれらしい洋服を見つけてきたようだった。白とペールオレンジのアーガイル柄ベストを霧香に合わせていると、二十代前半の店員がロイヤルブルーのほうも取り出してくれる。どうやらミレイユとは顔見知りらしく、初めてこの店にやってきた霧香にも良くしてくれている。
「こっちは?上着もないでしょう」
「随分必要なものが多いのね。お嬢さんは留学かなにかなの?」
「ええ、ちょっとあたしの家に居候しててね」
霧香はこの街にいると随分子どもっぽく見えた。もとより不思議ちゃんな性格だけれど、日本人らしい顔つき、とろんとした大きな目、よくいえばスレンダーな体型。大人っぽくてしかもスタイル抜群なミレイユの隣にいると尚更若く見えるのだった。
「ミレイユ!これ、この子に似合うんじゃないかしら?」
「これは……?」
店員さんが霧香にあてがったのは、ふかふかした厚手のコート。本人はぽやーっとしているが、そのあまりの可愛らしさにミレイユの心臓は厚着の下でとくとく加速し始めていた。普段ミレイユが着るような細身のものではなく、ポンチョのような広がるシルエットで、腰までの短い丈、極めつけはセーラー風の襟。落ち着いた色合いの服が多いこの店にしては珍しいくすんだミントブルーで、シックな店内では一際輝いていた。そして、どの服よりも霧香に良く似合う。
「いいじゃない、これ、買いましょうよ」
「さすがミレイユ、お目が高い!訳あって入荷した一点物よ」
これを着た霧香と街を歩いたら、私はさぞ幸せな女だろうな、とミレイユは思う。もうコートも自分の腕にかけてしまったけれど、未ださっきの霧香の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。コルシカを離れてからはああいう女の子らしい服装をやめてしまったしもう着ることも無いだろうけれど、それでもあの霧香にはときめいてしまう。ミレイユは可愛い霧香が好きだった。
ミレイユは値札を見ずに洋服を何枚も買っていく。ワインレッドのコーデュロイのスカート、薔薇の刺繍の施されたニット、綺麗なカーキのジャンパースカート。自分の分も含めて、手元には片腕で持ちきれないほどの山ができていた。暗殺の報酬というのはかなり高くつくもので、ミレイユともなれば相当な額だ。ミレイユは銃弾などの経費の他に、こういう消耗品にも贅沢にお金を使った。ちょっといい紅茶だとか、この年頃にしては高級なブランドの化粧品、それから洋服。霧香はお会計が済むのをじーっと見つめている。どうやらこの街でミレイユはお金持ちのお嬢様ということになっているらしく、今日だって偽造のカードで一括払いをしても何も言われなかった。ただ、お父さんの仕事は相変わらず上手くいっているみたいね、と店員さんが笑っただけ。ミレイユもにっこりほほ笑んで、ええ、お父様は頭がいいもの、と嬉しそうに言った。ああやっていいところの上品なお姉さんのように話すミレイユを見ると、自分の知らないミレイユが、きっと今までに沢山いたんだと霧香はなんだかしょんぼりしてしまう。
「さっきのコート、今から着て帰るのかしら?」
「いいの?」
「もちろん。タグを切るわ」
「じゃ、そうします。いいわね、霧香」
「うん」
いつもこういう外の人との決め事はミレイユがやってくれていたし、霧香もそれに頷いていた。店員さんは着てきたコートを丁寧に畳んでショッパーの中に入れてくれて、その間にミレイユが新品を着せてくれる。
「ほら、よく……似合ってるじゃない」
鏡に映る霧香はミントブルーと裾の広がったシルエットがびっくりするほど可愛らしい。霧香はいつもミレイユがやっているように、腕を上げたり背中を見たりしてみる。白いセーラー風の襟が冬空に浮かぶ雲のようで、案外これを着てミレイユと街を歩くのもいいかもしれないなと思った。
「ありがとうございました」
店員さんが扉を開けると冷たい風が吹き込んでくる。ミレイユがまた来ますと返したので、霧香も小さくありがとうございましたと呟いた。店員さんがもう一度小さくぺこりとお辞儀してくれた。
「いい買い物したわね」
今度は何も言わなくても霧香の前に右手の手袋が差し出された。
「うん」
もう既に手は冷たくなり始めていたけれど、霧香の心はぽかぽか温かい。霧香はミレイユのこういうところが好きだった。何事もないように車道側を歩いてくれるところ。地下鉄に乗るときは霧香を端っこに座らせてくれるところ。夜道では霧香の少し先を歩いてくれるところ。
「霧香!買い出しにはいかないわよ」
「あれ?」
曲がり角で霧香は強く手を引かれる。このまま食糧を買いに行くのかと思っていたのでつい曲がろうとしてしまった。
「このまま真っ直ぐ帰るのよ。あんた寒いの苦手でしょ?」
霧香が思うミレイユの好きなところ。それはいつも、霧香のことを大切にしてくれるところ。黙ってしまった霧香の手をきつく握り、ミレイユは少し心配そうに霧香を見つめた。街はますます冷え込み、小さな曲がり角には二人の他に誰もいない。霧香はそっとミレイユの手を引き返した。
「……私、もっとミレイユとお買い物したい」
きゅっと、ミレイユの手をきつく握りしめる。霧香は目をぱちぱちさせてから、その後小さくはにかんだ。
「あたしもそう思ってたところよ」
その返事に、霧香はたちまち笑顔になる。そして、静かにミレイユに抱きついた。寒空の下、だけど二人は温かい。ミレイユには霧香のふわふわしたしっぽがまた見えた。今度はちぎれそうな勢いで横に揺れている。背中を軽く叩くと霧香は顔を上げ、行こう、とまた手を握る。ミレイユはゆっくり頷いて、手を握り返した。
ここ数日で急に冷え込んだパリの街には、老夫婦と、露天商と、それからお熱いカップルだけ。ここにも一組、若い男女が手を繋いで道を歩いている。二人で少しづつ荷物を分かちあい、今日の夕飯について話していた。向かいからも一組歩いてきて、男は自然に女の手を引き端による。女のほうがすれ違いざま、小さく微笑んだ。どうしたのか優しく問う男に、女はなんでもないと返し、手をいっそう強く握る。女の瞳に映ったのは、沢山の荷物を抱え、そっと身を寄せて微笑む二人。おろしたてのミントグリーンがよく似合う黒髪の少女と、彼女を守るように車道側を歩く金髪の少女。その口許には寒さをものともしない幸福を湛え、男女とまた同じように夕飯の話をしながら、静かなパリの街を歩いていった。