もったいない話 叩かれた頬は熱かった。叩いた方の春菜ちゃん……母親の方がよほど、傷ついたような顔をしていた。
俺は「間違えたな」と、申し訳なくなった。
道徳の授業がズタボロだったことはない。それなりに先生が求めていそうな回答を、教科書の空欄に書いて赤丸をもらった。だから、人の心を全く推し測ることができない、というわけではなかった。
ただ、それは単純な疑問だった。
「俺がいない方が、楽っしょ」
人の眠るはずの夜に働いて、朝に帰り俺の飯を作って、洗濯をして寝る。シングルマザーの彼女の生活。ガキなりに少しは手伝っては来たけれど、毎月帳簿を付けて苦心するのを助けられることはない。
大黒柱がとうの昔になくなったこの家の日常。
春菜ちゃんは、子どもの贔屓目に見てもいい人、だと思う。明るくて、よく喋る。チャキチャキしているのは少し圧があるかもしれないが、相手を不安にさせないのは才能だ。少し痩せすぎているから、美人と言えるほどではないけど人柄でモテる。俺もたまに、春菜ちゃんのお客の男の人に面倒見てもらったりするし、そういう人を惹きつける魅力がある、と思う。
だからこそ思う。もったいないな、と。
この人は、モテるけど恋人は作らない。俺のために働いていて、それ以上の関係を作らないから。俺のことなんか構わなくていいのに、適当によろしくやるから。今にして思うと、小学四年生でその考えに至っていたのはませたガキだったろうと思う。可愛くねえな。
そんな勝手に感じていた惜しさや、背伸びした自立心や……いつも何処かで感じていた足場のないような感覚を、全て集約してぽろりと溢れたのがあの疑問だった。
春菜ちゃんは、俺を叩いた後に何も言わずすぐに寝た。俺が学校から帰ってきて、春菜ちゃんが仕事に出掛けていく頃にはいつもの明るいあの人に戻っていた。謝るのも何かまた、彼女を傷付けるような気がして、やめた。
あの人を本気で怒らせて、悲しませたのは初めてだった。
しかし、大きな誤解があると感じた。勿論、誰かが死ねば悲しいのはわかる。もう朧げだけど、俺だって親父の葬式は泣いたし、クラスで飼っていた金魚が死んだ時も泣きはしなかったけど寂しい気持ちにはなった。
そうではなくて、最初からいなければよかったんじゃないかと俺は考えた。今から死んで消える、じゃなくて元からいなかったら、そういうもしもの話。
だとしても、そんな空想の話すらも彼女を傷付けてしまったのはなんだか意外で、申し訳なかった。
以来、俺たち親子は何も変わらなかったけれど、ただその日を境に、捨てたはずのプリントを見たのか教えてもない授業参観に来ることも増えたし、運動会も合唱コンクールも、あの人は眠いだろう目の下に隈をこさえて来るようになった。
あれから、その時の話をしたことはない。
たまにあっては、ようやく構えた春菜ちゃんのお店で飲んで、春菜ちゃんじゃない人からもらったお金を置いていけるようになった。
よかった、と思う。この人は俺から解放されたんだなと、常連客たちと歓談する姿を見ては嬉しくなった。
それでも、再婚もしないし恋人ができたような素振りはない。だから、親父が生きていりゃあな、と。やはり勿体無いような気持ちになりながら、カウンターの無効に置かれた自分の名前のボトルを眺めていた。