恋文「きっとラブレターだよ」
同僚がそう囁いた。
彼女の視線の先には、先程切手を買い求めた男性の後ろ姿があった。
もうひとつの記憶がある彼女が、俳優の誰某に似ていると言っていたが、名前は忘れてしまった。
彼が印象に残っているのは、際立った容姿と、今時珍しい和服姿ゆえである。なにかそういった職に就いているのだろうか。背筋をピンと伸ばした姿勢も堂に入っている。
「あっちで恋人だった人と文通してるとか。ロマンチックじゃない? こっちの相手には別の恋人がいたりして」
客が居ないのをいいことに黄色い声を上げる彼女に、適当な相槌を打つ。
あの万博の春、世界は変化した。死んだはずの人が生きて戻ったり、別の世界の記憶を持ったり、存在しなかった人が現れたり。
暫くは混乱したものの、人間は慣れるものだ。ひととおりの手続きが済めば、すっかり日常という枠に収まってしまった。
かくいう私はもうひとつの記憶などというものはなく、何ひとつ変わらない日々だ。曰く『あちらの世界では生まれなかったのでは』とのことだ。それはそれで薄ら寒い話である。
「仕事に使うだけかもしれないよ」
「もー、ちょっとくらい夢見たっていいじゃない。今日もアンニュイで素敵だったなー」
「あんた彼氏居るんじゃなかった?」
「そういうのじゃないの! 彼氏と芸能人はまた別でしょ」
芸能人ではないだろう、という言葉は脇に置いておく。確かに恋愛ドラマが似合いそうな美形であるし、お近付きになるよりも遠巻きに眺めていたいような気持ちもわかるのだ。
━━と、そんな会話を思い出したのは、通勤中に偶然彼を見掛けたからだ。
初夏の生い茂る緑の中で、黒い着物のその人は際立って見えた。坂を下って来た彼は、郵便ポストの前で足を止め、懐から一通の封書を取り出した。
擦れ違いざま、思わず息を呑む。
彼は微笑んでいた。近くでなければ見逃した程の淡い笑みを唇に浮かべて、薄っすらと頬を染めて。
カタン、とポストの中に手紙が落ちる音で我に返る。
見てはいけないものを見てしまったような心地で、それでも思わず振り返ると、彼はもと来た道を引き返していくところだった。
なるほどラブレターというのはあながち的外れでないかもしれない。同僚の言うような哀しい恋をしているようには見えなかったけれど。
名前も知らない彼の恋が、幸せなものであれば良いと思った。