そばにいること6ジャケットで下半身を隠すように起き上がり、趙は手早く着替えを済ませ「じゃあおやすみ」と言って布団に潜り込もうとした。
「…おい」
もちろんそれで誤魔化せるとは思っていなかったが、案の定、春日から低い抗議の声が上がる。
「なぁに」
半分布団に潜り込んで問い返せば、春日が言葉に詰まった。
その顔には『お前は?』とありありと書いてあって、でもそれを口に出来ない葛藤も伝わってくるようだった。
『俺の前でそんな格好するんじゃねえよ』という、あの台詞を聞いた時、腹の底がかあっと熱くなるような怒りを覚えた。
人の気も知らないで。
一番最初に思い浮かんだのはそんな台詞で、じゃあどんな気持ちなんだと自身に問えば、まともな答えも出せなくて。
そんな自分に苛立ち半分、この期に及んで探るような、駆け引きめいた言葉を口にして自分を振り回す春日に対する怒り半分。
怒りの抑制など、総帥時代の自分が最も得意としてきたことだったのに、気づけば春日相手に自暴自棄な絡み方をしていた。
もういっそ、男の体を見てドン引きしてくれという気持ちで全裸で跨がった。春日は顔を真っ赤にして狼狽えたが、すぐにこちらの思惑など見通して、逆に腹を据えてしまった。
自分の捨て身の行動は完全に裏目に出て、裸の肩にジャケットを掛けられた時、もう負けだ、というよくわからない気持ちになった。
「なあ、趙…」
焦れたような春日が再び声を掛ける。
趙は少し考えて布団に転がり、枕の隣をぽんぽんと叩いた。
その意味を正しく理解した春日が、首元を赤く染めて、ほんの少し逡巡してから鼻先が触れるくらいの距離に横になる。
「ちょっと、近いよ」
照れ隠しに鼻を突ついても、春日はくすぐったそうに笑うだけで離れようとはしなかった。
こうして2人で転がっていると、浜子の店でのことを思い出す。
「春日くんさあ、浜子さんの店行った時、なんでキスしたの」
「まあよくわかってなかったけど、あん時にはもう好きだったんだろうな」
こいつ、開き直りやがって。
しみじみと、まるで他人事のようにいうのがまた腹立たしいと思っていると、あの日と同じように腕が伸びて髪を梳き、耳に触れて頬を撫でる。
「…お前はなんで、拒まなかった?」
「それ聞いちゃう?」
茶化すように質問で返せば、まっすぐな視線に射抜かれて趙は気まずく目を伏せる。
促すようにピアスを引っ張られて、背筋にぞくりとした痺れが這い上る。
「…好きだよ、好きに決まってる」
モジャモジャの髪に手を伸ばして白状した声は、吐息のように掠れてしまったが、春日はその言葉にどこか痛いような顔をした。
長い睫毛が頬をくすぐる距離で、安堵のような熱い息を吐いた春日の唇が頬に触れる。
そのまま口付けようとするのを、趙は指先で押し留めた。
不満を露わに春日の喉が低く唸りを上げるが、ここで流されてなし崩しになってしまってはいけない。
「…待って、春日くん。聞いてほしい」
肩を押し返すと、凛々しい眉が下がって、寄る辺ない子供のような顔になる。安心させるために頬を軽くなぞると、くすぐったそうに目を細めた。
「…俺ね、今までの人生で、こんな風に誰かを好きになったの、初めてだと思うんだ」
裏社会の、マフィアの総帥として生きてきた人生の経験やプライドを覚悟して放り投げて、情けない告白をする。
春日は灰色がかった不思議な色の目で、先を促すようにじっと趙を見つめる。
「本気で人を好きになったこと、なかったんだ。だから、なんていうか、自分が春日くんとどうなりたいのかよくわかんないし、君と同じ気持ちなのかもわからなくて」
「…趙」
「もらった花束、ダメになって初めて嬉しかったことに気付くくらいのダメっぷりだしね」
苦笑して言えば、緊張していた春日も頬を緩める。
「…それは俺も同じだ、趙。人から言われるまで、自分の気持ちもわかんなかったしよ」
大切な人もいた。失いたくない人もいた。裏切りや突然の別離に、多くの血も流されてきた。
お互いに人より多くの修羅場も潜り抜けて、色恋なんて霞むような人生を送ってきた。
だからこそ、欠けていたものが、今頃見つかるなんて。
こうして気持ちを伝えあっても、春日の全てを手に入れたとは思えない。
荒川親子にみせた、あの感情の沸点を、自分に同じように向けていると思えないし、未だに春日のことも自分のことも、わからないことだらけだ。
でも、自分達は生きているから。
幸運にも、こうしてそばにいて、新しい関係を始めようとすることが出来る。
春日の底知れない面は怖くもあるが、これから色々と知っていくことを、楽しめばいい。
「マフィアとヤクザが何してんだろうねえ…」
「『元』だろ。今はカタギだ」
「細かいとここだわるね」
笑いながら髪を梳くと、春日が堪え性もなく頬に唇を寄せる。
「…なあ、今日、ナンバ帰って来ねえって」
甘く低く、歪んだ声。
真っ直ぐで明るくてお人好し。普段そんな風に言われている男は、こんな声も出せるのだ。
しかし、言っていることは、高校生カップルが『今夜、家に親いないの』と誘いかける言葉と大差ない。
熱く火照った手が、趙の肩を抱いて体を寄せてくる。
頬に触れた唇が熱い息を漏らしながら、瞼に、こめかみに触れ、その跡を無骨な硬い指がなぞる。
思春期のガキのように戸惑いながら、触れ方は慣れた大人のそれで、そのアンバランスさにクラクラする。
瞳孔を開いて、鼻息を荒くして。
滲み出る欲を隠そうともせず、剥き出しにして。
こんな顔、きっとあの親子は、見たこともないだろう。
そう思うと、仄暗い優越感が背筋を電流のように這い上った。
「…まあ俺も大概だよなあ…」
思わず声に出して呟くと、春日が問うように目を覗き込む。
だいたいなんだ、この男は。
さっきまで、自分の気持ちもわからなかったと言っていたくせに、何をこんな性急に体を求めるような真似をして。
「春日くん、俺となにしたいの?」
「キスしてえ」
間髪入れずに答えた声に笑って、趙の方から頬にキスすると、すぐにも唇を重ねようとする。
それを押しとどめて、趙はさらに問う。
「で、そのあとは?」
「そのあと…?」
まるで考えてもいなかったというように、首をかしげる姿が可愛くて趙は声をあげて笑う。
「アッハッハ、やっぱりねえ。ナンバが帰って来ないからって、何するつもりだったのぉ?」
多分、考えるよりも先に体が動いていたのだろう。
「いや…その」
口籠もって今更ながらに顔を赤くする。
がっつくように体を求める触り方をしても、いわゆるプライベートゾーンには許可なく触れて来ないあたりは春日らしい。
今も、戸惑いながらも離れたくないのか、肩口を指の腹で何度もなぞっている。
もっと触れていいのに。
頭の中にそんな言葉が浮かんで、気がつけば趙は自分から口付けていた。
髭の触れ合う痛痒さ、乾いた唇の硬さ、煙草とウイスキーの匂い。
裏社会で生きてきて、こんな風貌の割には、色恋の経験値が低い自覚はある。常に足元を掬われないかと警戒していたのもあるが、基本的に色欲や肉欲への執着が薄かった。
体を重ねてきたのも女性だけで、それも数える程度。人肌恋しい時はプロのお姉さん達と遊んでもらっていただけだった。
「…法に触れるようなことはたくさんしてきたのに、好きな人とキスするのは初めてかもしれないなあ、俺…」
唇を離して、自嘲気味に呟いて目を伏せると、春日の喉が上下するのが見えた。
「お前、散々人のこと野暮だの言っときながら…!」
悔しそうに掠れた声でうめいた春日に強い力で肩を押されて、趙は抵抗せずに布団の上に仰向けになる。腰を跨いで馬乗りになった春日が、目の縁を赤く染めて頬を掴む。
「春日くん、顔がマジで怖いよ…」
「当たり前だろ、遊びでこんなことしねえよ」
間髪入れずに返されて、一拍遅れて喜びが込み上げる。頬に血が上るのを感じると同時に、自分が先程した重ねるだけの遊びみたいなキスとはまるで違うキスをされる。肉厚な唇をぐりぐりと押しつけられて、その圧から口を開けると長い舌が差し入れられる。
何か別の生き物のように、口腔内を動き回る体温の高い舌を必死で追いかける。
思えば、深いキスはあまり好きじゃなかった。
舌を噛まれたら終わり、という警戒心と、ぬめる感触とぬるい他人の体温が好きではなくて、そもそも本気で惚れた相手もいなかったから、必要も感じていなかった。
セックスは入れて出して終わりという生理現象に近いものがあるけれど、キスはしなければしないで、必要のない行為だと、思っていた。
「…んふ…えぅ…」
うまく呼吸が出来なくて、喉から甘えるような声が漏れる。
好きではなかったはずのキスに馬鹿みたいに興奮して、両腕を春日の背に回す余裕すらない。
歯列をなぞって、上顎を撫で擦って。戸惑う舌を、緩く歯を立てて吸われて。
目を開けたらきっと、お互い滑稽な顔をしているに決まっている。
それなのに、こんなに嬉しくて、気持ちよくて。
いいように翻弄されて、それが少し悔しくて、もじゃもじゃの髪を引っ張った。
春日はそれを気にもせずに、頬に添えていた手を肩から脇腹に滑らせて、腰のくぼみに辿りつく。
ぎくりとして思わず目を開けると、こちらをじっと見つめている春日の視線とかち合った。ずっと顔や反応を見られていたのかと羞恥と悔しさが込み上げて、絡みつく舌を振り解く。
「趙…」
情けなく眉を下げて、縋り付くような声で春日が名前を呼ぶ。
「春日くんさぁ…ほんと…」
その顔でなんでも許されると思ったら大間違いだと説教をくれてやろうと、長く蹂躙されてうまく回らない口を開いた途端、無機質な電子音が部屋に鳴り響いた。
2人で硬直している間も鳴り続けるその音が、春日の携帯電話の着信音だと先に気づいたのは趙だった。
「…電話だよ」
「いや出ねえよ、この状況で」
不満げに口を尖らせる春日の頬を掴んで、趙はその目を覗き込む。
「電話は、出ないとダメだよ」
今まで、幾度となく訪れた春日の人生の転機には、必ずと言っていいほど電話が鳴った。
趙の真摯な視線にそのことを思い出した春日は、離れがたいという素振りを見せながらも、放り出したジャケットのポケットを探ってスマホを取り出し、電話に出る。
「…もしもし」
地を這うような低い声に、趙は声を殺して笑う。
甘く濃密な空気はすっかり霧散して、趙は体を起こすと押入をあさって着替えを取り出し身につける。
春日は『なんで服着るんだよ』という表情をしながら、電話の応対を続けていた。
「いや、いい…。行かねえ…大丈夫だ…」
春日の様子から、緊急事態という訳では無いのはすぐにわかった。普段なら『いま忙しいんだよ!』とキレて電話を切りそうなのに、低い声で対応しているのが、より不機嫌を伝えるようでおかしかった。
相手も不穏な空気を感じ取ったのだろう、電話は早々に終わった。
「誰からだった?」
趙に背を向けた春日に声を掛けると小さな声で「足立さん」と答えた。その時点で内容は推測できて笑ってしまいそうだったが、堪えて重ねて問いかける。
「どうしたって?」
「キャバクラ行かねえかってお誘いだよ!」
ヤケになったような春日のふてくされた声に、趙はたまらず噴き出す。
「くっ…ははは!最高だねえ、あのオジサン!」
「笑ってんじゃねえよ!てかなんで服着るんだよ!」
「ええ〜?ふふふ…」
笑って誤魔化そうとしたが、腕を掴まれ顔を覗き込まれて、逃げ場がなくなってしまった。
「…うーん、今日はここまで」
そう告げると、春日が叱られた犬みたいな悲しい顔をする。
明らかに落胆するその様が可愛くて、宥めるように抱きつき、背中を撫でる。
「言ったでしょ?まだ、どうしたいかよくわかんないんだ」
「…嫌だったか…?」
さっきのキスのことを言っているのだとわかり、趙は首を横に振る。
「まさか。最高だったよ」
頬に軽くキスをすると、背中に回された春日の腕に力がこもる。
「ゆっくりがいいな」
身長はさほど変わらない、けれど自分よりずっと肉厚な肩口に唇を付けるように顔を埋めると、春日はまだ湿った髪にキスをする。
「…次があるってことでいいんだな?」
「もちろん」
「またキスしていいんだな?」
「いいよ」
背中に回された手が、春日の葛藤を表すように趙のシャツをぎゅうぎゅうと掴んで握り締める。
お気に入りだったんだけど伸びちゃうなあと頭の片隅で思いながら、趙は春日の腕の中でおとなしくしていた。
やがて、長く深いため息の後、春日がぱっと手を離す。
「…よし、わかった。次は覚悟しとけよ」
「あはは、ありがとう。俺も色々お勉強しておくよ」
「言ったな?よしじゃあ、下で飲み直すか。さすがにまだ寝るには早いしな」
そう言って春日はジャケットを手に取った。
「花束のお礼に俺が奢るよ」
切り替えが早いというか、葛藤しながらヤケにあっさり引き下がったなと自分勝手な寂しさも感じながら趙はドアに向かう春日に続く。
扉を開けて階段を降りる狭い踊り場で、春日が足を止めて振り返る。勢いぶつかりそうになった趙を、春日はギュッと強く抱きしめて、触れるだけのキスをした。
びっくりして目を丸くする趙に、春日はニヤリと笑ってみせる。
「していいって言ったよな?」
悪戯が成功した子供のようと言いたいが、それ以上に雄の色気をじわりと滲ませた春日がすいと頬を撫でて、照れくさそうに階段を降りて行く。
踊り場で硬直したままの趙は、今後ずっとこんな心臓に悪いことをされるのかと、今更ながらとんでもない男に惚れてしまったことを自覚した。