触れたらわかること1「ゆっくりがいいな」
甘えるように肩口に顔を埋めて、柔らかな声で趙が言ったあの日。
春日はこみあげる様々な感情や情動を必死に抑え込んで、硬いのに柔らかい、不思議で蠱惑的な体から手を離した。
階段を降り、2人揃ってサバイバーに顔を出すと、いつも冷静沈着なマスターがなんで降りてきたと愕然とした顔をしていて、俺だってそう思うよと、ひどく居た堪れなかった。
翌日の夕方近くに恐る恐る帰ってきたナンバには「なんだお前らやってねえのかよ」と一発で見抜かれた上に呆れられ、死ぬほど恥ずかしかった。
どちらの反応にも趙は何を思っているのかわからなかったが、嬉しそうに照れくさそうにヘラヘラと笑っていた。
ナンバが帰って来ないからって何するつもりだったの?と、まるで人が何もわかっていないかのような物言いをされたが、わかっていなかったのは趙の方だろう。
あの時既に、趙のことをそういう意味で好きだと自覚して、さらに言うなら、明確にこの男を抱きたいと思っていた。
そんな春日の気も知らず、好きな人とキスをするのは初めてかもしれないなどと呟いた趙の姿は自覚したばかりの情欲を煽るには充分すぎるほどだった。
生まれ育った特殊な環境もあり、幼い頃から、それこそ物心つく前から色欲に触れていたせいか、そういったものを特別視することはなかったし、生きてきたうちの半分くらいを刑務所で過ごしていた間も禁欲生活を特につらいと感じることもなかった。
それはもちろん、異人町に来て仲間を得て、一連の騒動が一応の解決をみるまでの間も変わらなかった。
それが今はどうだ。
趙のことで、頭がいっぱいになっている。
「男の体だ」と言って、やぶれかぶれで趙が全裸で跨ってきたあの時。確かに裸を見たはずなのに、動揺しすぎて、情けないことに余り覚えていない。
覚えているのはその肌の滑らかさと、表面の冷たさと、籠る内側の熱だけだ。
なのにサングラスを外した裸の瞳ばかりが焼きついていて、下腹部に覚えのある震えを感じてしまう。
もっと知りたい。
もっと触れたい。
中華マフィアの総帥として生きてきた男だ。腹の中を見せないし、見えないようにしてきたからか、仲間となった今でも時折、目に見えない壁を感じることもある。
それはお互いの気持ちを伝えあった今も変わらない。
馬渕と対峙した時に見せた、感情を剥き出しにしたあの顔を、出来るなら自分にも向けて欲しい。
もっと言えば、誰にも見せたことのない趙を、自分だけに晒して欲しい。
性欲とはまた別の、呆れる程の執着が溢れ出て、自分でも戸惑うくらいだ。
「あれ、なんだ今日も趙いねえのか」
悶々とする春日の思考を止めたのは、夕暮れ時にサバイバーの二階に戻ってきたナンバのガッカリした声だった。
サバイバーの二階を常宿にしていたのは春日とナンバ、趙の3人だったが、誰かがふらりと戻らない日もあったし、足立や紗栄子、時にはハン・ジュンギも泊まっていくことがあった。
一連の騒動が落ち着いた後、趙もどこかに行っていることが多くなり、夜に戻らない日もあった。
「ジャガイモもらったからカレー作ってもらおうと思ったんだけどなあ〜」
残念そうに言ってビニール袋を台所に置きながら、ナンバが洗面所に向かう。帰ってきたら手洗いうがいをきちんとするあたり、さすが元看護師だと思うが、趙もいつもそうしていた。
趙がこの部屋に転がり込んで、台所を本来の使い方で料理をする場所として使ってくれるようになってから、春日もナンバも台所で歯磨きをすることはなくなった。そのことが、なんだか暮らしの形が整った気がしてくすぐったかったのを思い出す。
「なんだよ、情けねえ顔して」
洗面所から戻ったナンバが、畳の上で背中を丸めて座る春日に容赦ない声を掛ける。
そうなのだ。
ナンバの言う通り、今日も趙が帰って来ない。
仲間達にカレーを振る舞ってくれたあの日以来、趙がここに戻って来ない日が増えた。
あの日、カレーを作る趙の後ろ姿がとにかく愛おしくて、縋りつきたくなってしまった。
ただ触れるだけに留めておけばよかったものを、趙があまりに子供のように扱うので、思わず自分の欲をぶつけてしまった。
引き締まった尻に意味深に押し付けた腰がぴたりとはまって、あの時暴走も暴発もしなかったのは、ひとえに歳を重ねたからだろう。
趙の首筋がそわりと震えて赤く染まる様を間近で見て、噛み付かなかった自分を褒めてやりたい。
趙のまんざらでもない反応と『お勉強する』という台詞に淡い期待を抱いていただけに、帰って来ないことにどうしても落胆するし、余計なことを考えてしまう。
「お前ら結局どうなったんだよ」
「どうって…」
発泡酒を片手に隣に腰を下ろしたナンバが春日の顔を覗き込む。
揶揄うでもないその目に、春日は言葉を濁すしか出来なかった。
正直、今の趙との関係をなんと言っていいのかわからない。
「ま、俺はどうでもいいけどな。だが趙が帰って来ないのがお前のせいなら問題だ」
「なんでだよ」
「趙の味噌汁飲めねえだろ」
間髪入れずに答えたナンバに、春日はため息を吐く。
炊飯器の使い方を趙に教えてもらって、米は炊けるようになった。
味噌汁だって、教えてもらえれば自分で作れるようになるだろう。
これまでにも何度か、作り方を教えてもらおうかと思ったこともあった。けれどそうしたら、もう作ってもらえないような気がして言い出すことが出来なかったのだ。
そんなことを思い出していると、胸も腹も切なくなって、春日は渋々立ち上がる。
「…探しに行ってくる」
「おう、頼んだぜ〜」
軽い調子で言って顔も上げずにひらひら手を振るナンバに苦笑して、春日はジャケットを羽織って外に出た。
趙がいそうな場所には、いくつか心当たりがある。しかしどの場所も、春日が気軽に足を踏み入れてはいけないと感じるところばかりだった。
異人三の三すくみが出来レースだったこと、その後の肉の壁の崩壊、コミジュル火災や星龍会の会長の死。張り詰めていた糸が切れて、全てが瓦解する様に一気に色を変えた世界で、そこでしか生きられない連中が、今必死で自分や仲間の居場所を確保しようと試行錯誤してもがいている。
趙が横浜流氓の総帥を降りると春日に告げた時、『大事なのは居場所があること』と言っていた。
だからこそソンヒに託して、コミジュルに背中を預けるしかないのだと。
近江連合という共通の敵がいた時はそれで良かったかもしれない。しかし、その後の目まぐるしく変わった状況の中で、昨日まで敵対していた者達が手のひらを返したように一枚岩で結託出来るわけもなく、徐々に綻びが広がっているようだ。そうなると流石にソンヒだけでは収集がつかず、総帥に戻ることはないにしても趙が手を貸す頻度が増えているようだった。
逡巡の末、ハン・ジュンギかソンヒに電話を掛けようとして、直接趙に電話を出来ない自分の意気地の無さに苦笑する。
帰って来ないのは、なにかと忙しいからだとわかっていても、あんな風に体を求めた自分を避けているのではないかと考えてしまうのは余りに卑屈だろうか。
考えごとをしながら歩いているうちに、春日は気づけば横浜流氓の縄張りまで来てしまっていた。
さすがに慶錦飯店に乗り込むのは気が引けるなどと考えながらそれでもノロノロ歩みを進めるうちに祐天飯店の前に辿り着く。客を迎え入れる気など更々ない質素な扉には、扉以上にそっけなく他を拒絶するような文字で書かれた「貸切」の札が下がっていた。
そういえばこの店は、趙と一緒の時にしか来たことがないことを思い出す。
趙と仲間になる前は閉まっていることがほとんどだったから、基本的に流氓相手に必要な時だけ開けているのかとも感じた。
見るともなしに貸切の札を見ていると、不意に扉が開いて、中から黒づくめの服をきたゴツい男が顔を出した。
店の前に立ち尽くす春日に気づいて一瞬だけ警戒を滲ませたが、上から下まで眺めてスッと店内に戻って行く。
扉が閉まる直前、「せんべい」「社長」という単語が断片的に聞こえたが、その声は砕けた調子で緊迫感を感じなかったので、春日はそのまま店の前に留まってしまった。
しばらくして扉が再び開き、中から現れたのは趙だった。
「あれ、ほんとだ。せんべい屋の社長じゃん」
びっくりしたという顔をして、後ろ手に扉を閉める。中には入れてくれないということかと、春日は胸がざわつくのを感じた。
「ご飯食べに来たの?」
にこりと笑って聞いては来たが、入れる気がないのは明らかで。
わかっている。
趙には趙の事情もあるし、街は絶えず変化していて、いつまでも同じではいられない。
趙の気持ちも。
『同じ気持ちかよくわからない』と言っていた。
そのうちわかってくれるだろうと思っていたが、同じ気持ちでは無かったという結論に辿り着くことを、どうして考えていなかったのか。
つくづくおめでたいんだ、俺は。
春日は自重気味に笑うと、趙が訝しげに眉を寄せる。
「春日くん…?」
「いや、浜北公園に素材集めに行こうと思ってよ、通りかかっただけだ」
思いの外するすると、それらしい嘘を吐く自分に驚く。
趙はそんな春日を黙ってじっと見つめていた。
「じゃあ、またな。たまにはサバイバーで飲もうぜ」
心のうちを探るような趙の眼差しが落ち着かなくて、春日はことさら明るく告げて歩き出す。
本当は。
サバイバーに戻ってきて欲しいと、味噌汁を作って欲しいと言いたかった。
何より久しぶりに顔を見て、すぐにでも抱きしめたかった。
趙の硬い表情と態度のわけは、きっとあの扉の奥にいたであろう流氓達の存在もあるだろう。
けれどもそれ以外の理由があればと思うと、おいそれと近づくことも出来なかった。
恋愛経験なんてほぼ無かったから、自分がこんなふうに臆病になることを初めて知った。
とりあえず趙に告げた通りに浜北公園に来てみたが、周りはカップルばかりで余計に落ち込み、ひとまず空いているベンチに腰を下ろす。
ぼんやりとしばらく海を眺めていると、ジャケットに入れていたスマホが震える。
画面を見るとメールの着信で、送り主は先ほど別れた趙だった。
『用事が終わったらここに来て。何時でも待ってる』
短い文章と共に添えられていたのは、異人町のどこかの住所。意味のわからない片仮名のあとに部屋番号が書かれているから、たぶんどこかのマンションかアパートだろう。
趙の意図がわからず、思わず眉間に皺が寄る。それでも、『何時でも待ってる』という一文に、期待してもいいのかと胸がざわつく。
浮き沈みの激しい気持ちを持て余しながら立ち上がり、春日は記載された住所へと足を向けた。
地図アプリを頼りに、指定された場所になんとかたどり着い頃には、すっかりと日が暮れていた。住宅街と繁華街の境目のような場所にあるその建物は、予想通り集合住宅だった。
真新しい建物に同じ形の扉が何枚も並んでいるが、室内に明かりのついた気配はなく、それどころか人の気配すらなくて、ひっそりと静まり返っている。
当然、趙に指定された部屋も真っ暗なままだ。
室内で待とうにも鍵もなく、時間を潰せそうな店もない。
時間を置いて出直そうかと春日が踵を返すと見計らったようにスマホの着信音が鳴った。
『なぜお前がそこにいる?』
電話の主はソンヒだった。
頭上から微かに聞こえた機械音の方に顔を向けると、防犯カメラが角度を変えて春日を捉えていた。
『そこがどこかわかっているのか?』
「…趙に呼び出されたんだよ」
カメラを見ながら答えると、電話の向こうでソンヒは沈黙した。
『…まあ、そこにずっといられても目立つ。入れ』
鍵がねえよ、と春日が言おうとする前に、扉の鍵がかちりと音を立てて自動解錠された。
鍵の開け閉めが遠隔操作で可能な部屋。そんな部屋を趙が使っているのだろうか。
『…安心しろ。そこはコミジュルが用意した趙の隠れ家だ』
硬直した春日が見えているのか、ソンヒがいくらか口調を和らげて告げる。
「コミジュルが?」
ソンヒの言葉にますます訳がわからなくなったが、春日はとりあえず扉を開けて中に入る。
主人のいない部屋に勝手に踏み込む気にもなれず、ごく普通の狭い玄関にひとまず座り込む。
『監視下にあった方がコミジュルを裏切るようなおかしな動きをしていないか、疑われなくて済むというあいつらしい理由で頼まれてな。こちらも最近何かと手を借りることが多いから、まあ都合がいいしな』
「なるほどな…」
確かに、コミジュルの知らない所で趙が隠れ家など持っていたら、今のこの状況ではコミジュルと横浜流氓の両方の下の連中がどう思うかは怪しいところだ。
『趙はあのバーでのお前とナンバとの暮らしが思いのほか大切らしい。だから不穏な気配がある時は、付けられていては厄介だからと、ここを利用して帰らないようにしているようだ』
「そうだったのか…」
趙が最近帰らない理由がそんなところにもあったのかと安堵する一方で、新たな不安が込み上げる。
サバイバーに戻らない日が増えるということは、頻繁に不穏な気配を感じるようになっているということでもあるだろう。
「…大丈夫なのか。やばいことにはなってないんだろうな」
『…お前は、アイツが誰だと思ってるんだ?』
「う…そりゃ、そうだけどよ…」
呆れたようなソンヒの声に、思わず口籠る。
趙の今までの立場や状況、そして仲間としては頼もしすぎるあの火力と頭脳があれば、自分などよりも何の心配もいらないのはわかっている。
『まあ、別の意味でやばいことにはなってるんだろうがな』
「は?」
『ちなみに部屋の中には盗聴器もカメラもないから安心しろ』
ソンヒは言いたいことを言うだけ言って、最後はなぜか機嫌よく電話を切った。