二度目の話夕刻と呼ぶにもまだ早いような中途半端な時間に、春日はその日の仕事を終えてサバイバーヘと戻る道を歩いていた。
一番ホールディングスの社長として異業種交流会に参加した後、たまには直帰することにして、帰宅時間の被った小学生に紛れてのんびり駅前を歩く。
夜の街が動き出すにはまだ早い、半端な時間のスナック街にはとろりとした眠気のようなものが漂っていて、春日はその空気が気に入っていた。
開店前の店をふらふら覗きながらサバイバーに辿り着き、勝手知ったる扉を開けてアジトとして使わせてもらっている二階に上がると、こんな時間には珍しく趙がいた。
「あれ、春日くんお帰り。早いねえ」
畳に転がったままくるりと頭だけを向けてそう言うと、趙は手元に視線を戻した。
どうやらスマホを見ているらしい。
「おう、ただいま。えりちゃんが帰っていいって言うから、たまにな」
歩きすがら外したネクタイとジャケットをまとめてハンガーに掛けて、熱心にスマホを見ている趙の横に腰を下ろす。
「ナンバは?」
「今日は弟さんのところに行くって。泊まってくるって言ってたよ」
「ふうん」
気のないようにそう答えながら、春日は腹の奥がそわっとくすぐったくなった。
趙と初めて体を重ねてから数日。
サバイバーに朝帰りをしたあの日、趙に「ここではしたくない」と言われて、春日はそれを忠実に守っていた。
とはいえ、基本的にこの部屋には趙の他にも誰かがいることが多いし、あくまで生活スペースでもある。思春期の子供でもあるまいし、いい歳をした大人だから四六時中盛ると言うようなことはないから、同じ空間にいて触れられないことをつらいと感じることはほとんど無かった。
しかし、誰もいないとなると。
ナンバが帰ってこないとなると。
意識をするなという方が無理だろうと春日は心の中で開き直る。
「なに見てんだ?」
趙が熱心に見ているスマホの画面を覗き込むように体を屈めると、ふわりと趙の匂いがする。
先日知ったばかりのその匂いに動揺しつつも、さりげなさを装って畳に転がる趙の肩に手を添えると、ちらりとだけ目線をよこしたが、拒絶はされなかった。
この程度のスキンシップはセーフらしいと、なんだかゲーム感覚の自分に内心苦笑する。
「犬の動画。野犬の子犬を保護して、人馴れさせて一緒に暮らしていくのを配信してしてるやつ。ほら、見て、モコモコしててさ、ちょっと春日くんに似てるんだよね」
「犬だろ?」
「犬だよ?春日くん、犬っぽいじゃない」
そう言ってゆるく笑う趙の背に覆いかぶさるようにして、春日も横になる。
これもセーフ。
スマホの画面の中で、半端に毛の長い茶色の犬が走り回るのに合わせて軽快なBGMが流れていたが、趙が「子犬の頃の方が似てるかな」と動画を探すために画面を切り替えると、ふと静寂が訪れた。
静まりかえった室内には、互いの呼吸音しか聞こえず、そのことに気づいた趙の体が、腕の中で僅かに緊張したのが伝わってくる。
意識していたのは自分だけではなかったかとホッとするやら嬉しいやらで、春日は目の前の滑らかな頬に唇を落とす。
驚いたのか硬直してしまった趙に気を良くして、頬や額に何度も唇を落としていると、さすがに腕の中の体が身じろぎする。
「ここじゃしないって言ったじゃん」
そう言いながらも拒まない趙に、春日は自分でもびっくりするくらい甘えた態度をとってしまう。
「…キスくらいいいだろ」
人生で一度も口にしたことのなかった言葉。
そんな言葉を、趙になら、いくらでも言いたいと思ってしまうようになってしまった。
「…俺、そんなこと言われたことなかったな」
心の中を読まれたかと思ったどきりとするが、照れ臭そうに呟く趙に胸がきゅうと締め付けられる。
頬に手を添えて、唇を重ねても趙は抵抗しなかった。それどころか腕の中で身じろぎをして背中を抱き返してくれる。
唇に指を添えて促す素振りを見せれば、何をしたいのかちゃんと理解してくれて、口角を上げたまま口を開けて赤い舌を見せつける。
躊躇いもなく吸い付くと、趙が喉の奥で笑う。その余裕を感じる様子に手玉に取られているような気もしたが、それでもよかった。
柔らかくて甘い、危うい脆さも感じる舌を好きなだけ吸って満足した春日が、わざとらしく音を立てて唇を離しても、悔しいことに趙は息ひとつ乱してはいなかった。
けれど、その目の縁が僅かに赤く染まっている。
「満足した?」
「全然足りねえ」
口を尖らせて春日が答えれば、趙は困ったように笑った。
「…じゃあ、そんな春日くんに、俺も言ったことないこと言おうかな?」
頬に触れながら趙が言うと、春日は幸せそうに目を細めて、ほんの少し首を傾げて先を促した。
その甘い甘い春日の表情にくすぐったそうに笑った趙が、耳元に唇を寄せる。
「…ホテル行こ」
甘く囁かれた言葉に、喜ぶでも照れるでもなく、真顔になった春日の瞳孔がぐっと開いて、趙はにわかに怖気付く。
「うわ、顔こわ。やっぱやめようか」
「ダメだ」
「え、どっち?行きたくない?」
「ちげえよ!やめるのがダメだ!」
「あはは、よかったぁ」
背中に回した腕もそのまま、春日を抱えるように身を起こして趙が笑う。余裕のようで、それでもどこか安心した様子にお互いまだ探り探りだなと春日は思う。
「俺さあ、やってみたいことあるんだよね」
ホテルに行って、やってみたいこと言われたら、期待するなと言う方が酷だろう。
春日がごくりと生唾を飲み込む前で、趙は照れくさそうにする。
「宅配ピザ食べてみたいんだ」
「…はあ?」
「デリバリーって、呼んだことないんだよ。だってまさか中華料理屋にピザ持ってきてもらうわけにもいかないし、隠れ家なんて論外だしさぁ。憧れだったんだよね〜」
「ピザが…?」
「うん。それでね、このホテルがデリバリー可っていうから」
趙がうきうきとそう言って、スマホの画面を見せると、春日は情けなく眉を下げた。
「…それが目的か…?」
「違うよぉ〜。春日くんとしたいのが一番に決まってんじゃん」
趙が少し慌てたように否定するが、その僅かな動揺を春日は見逃さなかった。
唐突なお誘いにびっくりしたが、ちっともそれっぽい素振りを見せなかった趙の言葉に、自分は浮かれ切ってしまったというのに。
「どーだかな」
すっかり拗ねた春日が、ふいと顔を背けて、拗ねたように告げる。
趙ならきっと、笑って甘やかしてくれるだろうと思っての態度だ。
しかし、趙は戸惑ったように瞳を揺らして、キュッと唇を引き結んだ。
「…じゃあやめる?」
「やめねえよ!」
逆ギレも甚だしく、春日が即答しても、趙は硬い顔をしたままだった。
「いいよ、別に。ピザもホテルも」
不貞腐れたというより、どこか傷ついたような顔をする趙に、春日は完全に対応を間違えたと気づく。
「違う、趙。悪かった、な?」
抱きしめたままだった体の背中を宥めるように撫でても、趙はその腕から逃れようと身を捩る。
「な、ほんとに、俺が悪かった!疑ったりしてねえから」
腕を解けば離れていってしまいそうで、春日はぎゅうぎゅうと抱きしめたまま、趙の肩口に頭を擦り付ける。
「ホテル行って、ピザ取ろうぜ。な?俺が奢るからよ。一番高えの頼もうぜ。な?な?」
大慌ての、機嫌を取るような猫撫で声。
背中を抱いて、頬に口付けて、伺うように顔を覗き込むと、ようやく趙がこくりと頷いた。
「ちょお〜」
春日が安堵から名前を呼ぶと、趙は真っ赤になった顔を手で覆って俯いてしまう。
「趙…?」
まだ機嫌を直してくれたわけではないのかと不安げに春日が呼ぶと、今度は趙の方から春日の胸に飛び込んで来た。
「慣れないよ!こういうのォ!」
悲痛にすら聞こえるその嘆きの意味がよくわかって、春日は笑う。
恋人同士のくだらないやりとりというか、駆け引きというか。側から見れば、きっとナンバや紗栄子に死んだような目で見られるだろうやりとり。
こんなことを、こんな年になって初めて経験するとは思ってもいなかった。
「…お前といると、初めてだらけだ」
嬉しくて、思わず漏れたその声はにやけきっていて、趙は春日にしがみついたままくすりと笑った。
そしてふうと息を吐くと、もう一度「ホテル行こ」と言ってくれたので、春日は「はい!」と大きく即答して、今度こそ趙は安心したように笑った。